伝えようと力むより、対話しようと思った方が心も関係も楽になる
7月
19日
「ちゃんと伝えなきゃ」
「わかってもらわなきゃ」
その気持ちは、とても自然で、そして力強い。
それだけに
伝えることばかりに意識が向くと、言葉が一方通行になり、関係性に緊張や孤独が生まれてしまうことがある。
そう思った時こそ、一呼吸おいて
「伝えよう伝えよう」ではなく、「対話しよう」と思うことが、心をほどく鍵になる。
対話とは、言葉を届けるだけでなく、相手と一緒に言葉のかたちを探す営み。
その姿勢に切り替えるだけで、伝えることへの焦りがやわらぎ、関係性に『安心』が生まれる。
それは、自分の気持ちにも、相手の余白にも、やさしくなれる在り方のような気がする。
対話には「力を使いすぎないで済む構造」がある。
伝えようとするとき、人は自分の内側にある思いを、言葉にして、整えて、相手に届くように調整するという、かなり多くのエネルギーを使う。
そのプロセスは、時に過剰な力みや不安につながってしまうこともあって
「誤解されたらどうしよう」
「ちゃんと論理的に伝えなきゃ」
「うまく言えなかったら、意味がないかも」
こんな思いに支配されて、それは誠実であるがゆえに生まれるんだと思うけど、どこかで関係性の質を力技でコントロールしようとする感覚があるのかもしれない。
一方で
対話は構造的にも、その力みをほどいてくれる。
対話は、「正確に伝えること」よりも、「一緒に意味を育てること」がひとつの目的になると思うので
・言葉が曖昧でも、そのまま差し出してみる
・相手の反応から、自分の思いを深掘りしていく
・同時に、自分が相手に対して開かれる
この構造では、自分も相手も
(完全でなくていい)
という安心が場に生まれる。
それは、「伝えきること」ではなく、「わかろうとする姿勢」に価値が宿るという転換。
だから、心が楽になるんだと思う。
そして
伝えようとする場と、対話しようとする場には違いがある。
例え話になるけど
ある支援者が、クライアントとの初回面談で「想いをしっかり伝えよう」と準備を重ねて臨んだ。
用意したフレーズ、論点、伝えたい方向性など、それらは確かに誠実なものだった。
けれども
実際の面談では、相手の反応が硬く、言葉が届いたという実感がなかった。
その後、支援者はスタンスを変えてみた。
「伝える」よりも、「一緒に話してみよう」
そう考えた。
結果、次回の面談では、
・用意した言葉を脇に置き、即興的に問いを立てる
・相手の沈黙も「その人の言葉」として尊重する
・「この言葉、届いている気がしますか?」と開いた問いを重ねる
そんな実践をした。
このとき、関係性には温度が生まれ、言葉が少しずつ『共有されたもの』になっていったのだと思う。
支援者は後にこう語っていた。
「伝えることに必死だったとき、自分が『わかってほしい人』になっていた。
対話しようと思ったら、『わかろうとする人』になれた気がした。」
この言葉には、伝達と対話の本質的な違いが見事に表れているように感じがした。
「伝える」ことは、誠実な営み。
けれども、その誠実さが「完璧に言葉にしなければ」「ちゃんと届かなければ」といったプレッシャーになると、 対話の余白が失われてしまう。
だからこそ
「伝えよう伝えよう」と焦るのではなく、 「対話しよう」「一緒に考えよう」とスタンスを変えることで、 言葉の力みがほどけ、関係性に安心が生まれ 、誤解も違いも、共に扱える場が立ち上がる。
それは、伝達の場ではなく、『共創の場』への移行なんだと思う。
そして何より
「誰かに届けるために頑張る」より、「誰かと一緒に育てる」ことのほうが、 ずっと楽で、ずっと自分らしくいられるような気がした。
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