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加藤雄一のブログ

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生きる気持ちが全く湧かない時の切り抜け方

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生きる気持ちが全く湧かない時の...
「生きる気持ちが湧かない」
 
 
ここしばらくそんなことを感じる時が何度もあった。
 
 
無理に前を向こうとするほどに、より深い疲労や孤独に包まれてしまうことがあった。
 
 
そんな時に必要なのは
 
「頑張らない切り抜け方」
 
という選択肢を、自分に許すことだと思う。
 
 
最低限やらなければいけないことは、やる。
 
これだけは放っておけないということは、やれる範囲でやる。
 
でも
 
それ以上はやらない。
 
「走る時期」もあれば「とどまる時期」も必要だ。
 
大切なのは
 
無理に生きる理由を探すことではなく、まずは「ただ、ここにいてもいい」ことをまず肯定することかもしれない。
 
 
それだけ頑張ってきた反動だと、言い聞かせてあげてもいいのかもしれない。
 
 
生きる気持ちが湧かないとき、そんな時でも、いくつか切り抜け方があったように思う。
 
 
 
未来のことも、周囲との関係も、何ひとつうまくいく気がしない
 
 
そんなとき、頭の中の思考にどんどん飲み込まれ、身体の感覚からどんどん離れていく感覚がある。
 
 
まず試したいのは、
 
「空を見上げる」
 
「美味いものを食べる」
 
「しっかり寝る」
 
ごく基本的なことかもしれない。
 

これは、生きる意欲を取り戻すというより、「生きている」という事実に自分を繋ぎ止めるための、最小限で最大の手段だった気がする。  
 

考えすぎるのではなく、感じること。
 
 
心の飽和状態を少しだけ和らげてあげたい。
 
 

生きる気持ちが湧かない状態は、決して「意志が弱い」からでも「甘え」でもない。
 
むしろ、これまで必死に頑張ってきた心が、限界を超えて静かにSOSを出している状態ともいえるかもしれない。
 
 
助けてくれる人がいるなら、お願いしたい
 
そんな気持ちだった。
 
 

そのとき
 
「もっと前向きに」
 
「ちゃんとしなきゃ」
 
と自分を責める言葉は、さらに心を追い詰める。
 
 
そうではなく
 
「今はエネルギーをためる時期」
 
「何もしないことが必要な時期」
 
と捉えてみる。  

これはあきらめるのではなく、自分が自分との信頼を壊さない選択でもあるような気がする。
 
何もできない自分を見捨てず、そっと隣にいてあげること。
 
その姿勢が、何より大切だったように思う。
 

すべてを語らなくてもいい。
 
べつに完了させなくてもいい。
 
 
たった一言
 
「今日はしんどい」
 
「何もしたくない」
 
だけでもいいと思う。
 
 
もっと具体的に
 
 
「〇〇はやりたくない」  
 
「□□はいや」
 
などなど。
 

そして
 
信頼できる相手にほんの少し気持ちをこぼせるときは、
 
「ひとりきりではない」
 
としっかり感じてみる。
 
 
もし周囲に話せる人がいないと感じたら、日記やスマホのメモ、あるいはAIとの対話でもいいと思う。
 
 
まずは言葉にすることで、感情を外に出すこと。
 
それは心の中で静かに沸騰していた何かの温度を下げ、呼吸をしやすくしてくれる行為でもあると思うから。
 
 
 
生きる気持ちが湧かない時、「回復すべき問題」ばかり見るのではなく、「今はそういう状態なんだ」と静かに隣にいるような気持ちを向けてあげる。
 
 
そして
 
無理をしないこと
 
小さな感覚に戻ること
 
誰かとつながる可能性を閉じないこと
 
そうした積み重ねが、やがて次の一歩に新しい風を送り込む力となってくれる気がする。
 
 
今日を生き抜いたこと、それ自体が尊い。
 
それだけで、もう十分に意味のあることと、自分に言ってあげたい。

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感情の言語化が人生を楽にする

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感情の言語化が人生を楽にする
感情をうまく言葉にできないと、曖昧なモヤモヤを抱える。
 
そんな時
 
感情を言語化できる力があれば、自分の内面を整理し、相手との関係も滑らかにすることができると思う。
 
個人的にこれは
 
「心の技術」
 
とも言い換えられる気がして、ただそれは特別な才能ではなく、誰もが日常の中で少しずつ育てていけるものだとも思っている。
 
 
そしてこの力があると、人生の重たさがほんの少し軽くなる場面が増えていくのようにも思う。
 
 

ボクたちは
 
「イライラする」
 
「何か不安」
 
「ちょっとモヤモヤ」
 
といった感覚は持ちながらも、それを放置したまま日々を過ごしがちだと思う。
 
 
けれど
 
その感覚の正体を具体的な言葉にしようとすると
 
「あー、自分は寂しかったのか」
 
「期待していたんだな、だから傷ついたんだ」
 
と、それまで見えていなかった本音に出会える瞬間がある。
 
 
言葉にしようとするプロセスは、自分を一歩外から見て、他者として見つめ直すような作業にも思える。
 
そこは「自己理解の入り口」でもあり、感情に振り回されるのではなく、感情と丁寧につきあう自分がいるような気がする。
 
 

感情をうまく言葉にできないと、怒りや涙といった表現でしか伝えられず、誤解やすれ違いが生まれやすくなる。
 
それを
 
「自分はこう感じた」
 
「○○が心にひっかかった」
 
と伝えられることで、相手は非難ではなく「思い」としてそれを受け取ることができるようになる。
 
 
それは自分自身もそう。
 
 
たとえば
 
「忙しいのに、また頼まれ事か」
 
と怒るのではなく
 
「今はいっぱいいっぱいで、頼られるのが少し苦しいんです」
 
と表現できたなら、対話は全く違うものになる気がする。  
 
 
素直に受け止めてくれる場合もあれば、もしかしたら相手は気分を悪くするかもしれない。
 

ただ
 
感情の言語化は、相手との「関係の質」を静かに底上げしてくれる気もする。
 
(このように思っている)
 
それをしっかり伝えられるからこそ築くことのできる関係があるようにも思う。
 

感情にフタをしてばかりいると
 
「自分が本当は何を感じているのか」
 
がわからなくなり、自分の判断や直感すら信じられなくなることがある。
 
逆に
 
「私は今、こう感じている」
 
と明確にできると、心の中に一本の軸が通るような感覚が得られる。
 
 
(これこそがボクの真意なんだ)
 
 
それは、自分の感情に「ちゃんと気づいてるよ」と声をかけてあげるようなもの。
 
 
その積み重ねが、自己信頼を支える静かな土台になっていく。
 
 
だからこそ、不安定な状況の中でもぶれずに立ち続けることができるのかもしれない。
 
 
 
感情を言語化することは、ただの“表現”ではなく、自分を理解し、他者とつながり、人生に穏やかにするための尊い技術と言える気がしている。
 
 
「どうせ伝わらない」
 
とあきらめず
 
「まずは自分に伝えてみる」
 
 
 
たとえ完璧な言葉でなくても、その試み自体が人生を少しだけ優しく、そして生きやすくしてくれるのだと思う。

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過去の経験には未来を照らす種がある

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過去の経験には未来を照らす種が...
「これからどう生きる」
 
時々未来ばかりを見つめがちになる。
 
 
でも
 
 
未来を切り拓くうえで最も確かな手がかりは、すでに自分が体験した「過去の経験」の中に眠っていることが少なくない。
 
 
とくに
 
「なんとなく印象に残っている」
 
「なぜだか繰り返し思い出される」
 
そんな経験には、今の自分に何かを問いかけてくる力があるように思える。
 
 
過去の一場面を「振り返る」ことで、未来への「進み方」が見えてくることも少なくない。
 
 
 
過去を意味づけする、なんていうこともあるが、過去の出来事はその瞬間には理解できなかった意味を、あとから植え替えることができるような気もする。
 
 
たとえば
 
失敗と思っていた経験が、後の出会いや選択に影響を与えていた
 
そんなことは珍しくない。
 
 
 
重要なのは
 
「何が起きたか」
 
ではなく
 
「そのとき自分が何を感じ、何を学んだか」
 
という視点で記憶を読み直すこと。
 
 
過去を再読するというか、振り返ることで自分の価値観や行動原理の輪郭が、たしかに浮かび上がってくる。
 
過去は、解釈し直すことで「未来資源」になるんだろうな。
 
  
そして、記憶に残っている経験の中には「強い感情」をともなった場面がある。
 
悔しさ
 
感動
 
怒り
 
驚き
 
そうした感情は、自分が何を大切にしているのかを教えてくれている。
 
 
たとえば
 
「誰にも頼れずに頑張った」
 
という経験からは
 
「孤独を理解できる人でありたい」
 
という想いが湧き起こっているのかもしれないし
 
「誰かに救われた」体験には
 
「今度は自分が支えたい」
 
という使命感が宿っていることもあるように思う。
 
 
感情は、過去と未来を橋渡ししてくれている。
 
 
さらに、せっかく得た気づきも、言葉にとどめるだけでは変化は起こりにくい。
 
 
過去の経験に込められた意味を、しっかりと今の自分の選択に落とし込むこと。
 
 
過去の「聴いてもらえた安心」が印象に残っているなら、「人の話に耳を傾けることを仕事に活かす」などの形で具体化できることもたくさんありそう。 
 
また「当時の自分にかけてあげたかった言葉を、今の仲間に届ける」というアクションも、自分にとっても相手にとっても力になりそう。
 
自分の過去は、ただ懐かしむ対象ではなく、今の行動にエネルギーを注ぎ込む「記憶の資源」といえるかもしれない。
 

「将来につながる経験」は、どこか遠くにある特別な出来事ではなく、これまでの人生にすでに刻まれている経験の中に存在している。
 
 
それを思い出し、意味づけし、感情をすくい取り、行動に変えていくことで、未来はより自分らしい輪郭を帯びて立ち現れてくる気がする。  
 

未来に迷ったときこそ、立ち止まり、少し過去に目を向けること。
 
 
 
それは決して後ろ向きなことではない。
 
 
 
自分という存在の「軌跡」を礎にして、次の一歩を踏み出すためのしなやかな力となるものを、私たちはすでに持っているんだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

やりたいことが見つかった時に、まずやるべきこと

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やりたいことが見つかった時に、...
やりたいことが見つかった瞬間は、人生の中でも特にエネルギーに満ちた、何とも言い難い喜び感じる。
 
 
と同時に、その熱をどう扱うかによって、夢が実現に向かうか、遠のいていくかが分かれることもたびたび。
 
 
「やりたいことを見つけたら、まず何をするか」は、その後の行動の質を決める土台になっているようにも感じる。
 
 

見つけた“やりたいこと”に対し、まず最初に取り組むべきことは「動機の言語化」ではないかと。  
 

どうしてそれをやりたいと感じたのか?
 
どんな価値をそこに感じているのか?  
 

こんな問いを自分に投げかけて、感情や直感だけにとどまらず、自分なりの言葉で「動機」を整理することが大切。
 
それによって、やりたいことが単なる「願望」から「意思」へと変わり、他者に共有したり、自分の判断軸に組み込んだりできるようになる。
 
たとえば
 
私の経験を述べると、「人の話を聴く仕事がしたい」という想いが生まれたなら、それは「人の力になりたい」からなのか、「心のしくみに興味がある」からなのか――その動機の違いによって、そこからまた歩んでいく方向性も異なっていくような気がする。
 
 

そして動機が言語化できたら、次はできるだけ小さく、現実的な一歩を踏み出す準備を考える。
 
 
「その分野の本を一冊読む」
 
「関係者に話を聞いてみる」
 
「仮のスケジュールを立ててみる」
 
など、準備段階でできることを行動に落とし込むことで、行動のハードルを下げ、自然とエンジンがかかってくる。
 
大きな夢ほど「準備が整うまで待つ」姿勢を取りがちですが、実際には「とりあえずやってみる」ことでしか得られない発見や修正がある。
 
 
完璧な計画よりも、まずは頭だけでなく「手を動かす」ことこそが、やりたいことを「実体化」させる鍵なのかもしれない。
 

そして最後に、やりたいことを自分だけの内側にとどめていると、日常の中で埋もれてしまう。
 
そこで有効なのが、信頼できる人に話したり、SNSなどで少しだけ表明するといった「外への発信」が自分を後押しする。
 
 
というか、進まざるを得ない環境になる(笑)
 
 
人に話すことで、応援者や仲間が現れたり、偶然のきっかけが生まれたりすることが多々あった。
 
また、自分が口にした言葉が「約束」や「動機づけ」となり、行動の促進力になることもたくさんあった。
 
 
つまり、やりたいことは、環境との関係性の中で育っていくんだろう。
 
 
 
やりたいことを見つけた瞬間は、心が開き、未来への可能性が広がる貴重な時間だったりする。
 
そしてその想いをかたちにするには
 
「なぜやりたいか」
 
を言葉にし
 
「できること」
 
から動き始め、環境とつながっていくというステップがとても重要。
 
やりたいことは、静かに温めておくだけでは叶わない。
 
そして温めておくだけだと、もったいない。
 
 
だから、自分の意思と具体的な行動で「秘めた願い」をまずは「生きた願い」にしていく必要がある。
 
 
まずは、未来を分ける最初の一歩を踏み出してみよう。

ワオ!と言っているユーザー

問い続けながら育てる本当の自分

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問い続けながら育てる本当の自分
「本当の自分」がわかる心理学
 
という本が置かれていたのを見て、本当の自分を考えざるを得なくなった(笑)
 
 
本当の自分とはなんだ
 
本当の自分とは誰だ
 
 
「本当の自分」とは、生まれながらに決まっている「何か」ではなく、環境や経験、選択を通じて少しずつ形づくられていく、実にか弱い存在のように思っている。
 
 
そして、他者や社会との関わりの中で、よく見失う。
 
 
が、そのたびに自分の「核」に立ち戻ることがあるので、内にある一貫性や納得感を少しずつ得て、今の自分があるように思う。
 
 
つまり、本当の自分とは、変化の中でもぶれない指針を持っていて、同時にそれを育てていくプロセスそのものなのかもしれない。
 
 

私たちは日々、他者の期待や役割のなかで生きている。
 
「いい人でいなければ」
 
「成果を出さなければ」
 
といった社会的な仮面を身につけるうちに、自分自身が何を感じ何を望んでいるのか、見えなくなることが多い。
 
 
本当の自分を知る第一歩は
 
「こう思われたい」
 
ではなく
 
「自分は本当はどう感じているか」
 
を問い直すことのような気がする。
 
 
たとえば、何かに対してイライラした時、「自分はこの価値観に違和感を覚えているんだ」と丁寧に内省することで、自分の大切にしたいものが浮かび上がってくることが、今までたくさんあったような。
 
ありきたりな感じかもしれないが、他者の眼ではなく、自分の「内なる声」に耳を澄ますことが、やはり大事なんだと思う。
 
 

そして、人は孤立した存在ではなく、他者との関係性の中で自分自身が照らし出されるような気がする。
 
ある人といるときの安心感、ある場で見せる素直さ...そうした「自然に自分らしくいられる関係や場所」こそが、本当の自分を教えてくれる鏡になるとも思う。
 
 
また、信頼できる他者との対話によって、言語化されていなかった自分の想いに気づかされることも少なくない。
 
 
だからこそ、自分を表現できる安全な場づくりも、本当の自分を育むために欠かせない要素なのだと。
 
 
本当の自分は「関係性の中」で浮かび上がってくるんだろうね。  
 
 

そしてもう一つ
 
自分らしさは、何か特別な瞬間に突然あらわれるものではない。
 
 
むしろ、日々の小さな選択の中に
 
たとえば
 
どう挨拶をするか
 
誰と時間を過ごすか
 
どの言葉を口にするか
 
その中にこそ、本当の自分が映し出されているような気がする。
 
 
自分の内側と一致した選択ができた時には、静かな満足感が残っている自分に気づく。
 
その感覚を手がかりに、選択と行動を一致させていくことで、自己信頼を育んでいったらいいようにも思う。
 
本当の自分は「日常の選択」の中に、いつも現れているだろうね。
  
 

本当の自分は、固定された「正解」があるのではなく、人生のプロセスの中で少しずつ言葉になり、かたちになっていく存在なんだろう。
 
 
内なる声に耳を傾け、信頼できる人と関わり、自分らしい選択を積み重ねる。
 
そうした日々の営みこそが、「自分自身とつながりつづける」ことを可能にしていってくれるんだろうね。  
 

そして何より大切なのは
 
 
本当の自分を「探す」だけでなく、まずは「ありのままを尊重する」視点を自分の中に持つこと。
 
 
その姿勢こそが、外側に振り回されない穏やかな軸を育ててくれるように思う。
 
そうやって、問い続けながら自分を育てていこう。

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陰口は自分の心に静かに傷を刻む

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陰口は自分の心に静かに傷を刻む
私が一番嫌いな場所が、誰かのことを攻撃的に責める場所。
 
 
そう言いながらも、自分も会社の上役についてついつい喋ったりしてるけど(笑)
 
 
そういった役職レベルでのぶつかり合いとは別に、人として相手のいないところでその人の人格を否定的に語る場所からは、1秒でも早くいなくなりたい。
 
 
決して自分は品行方正な人間でもありませんがね(笑)
 
 
陰口は一見、他人への批判に見えても、実はその言葉は自分自身への信頼や心の安定を少しずつ蝕んでいくように思っているんですね。
 
 
陰口を言うことは、一時的な発散や共感の獲得につながるように思えても、その代償は予想以上に大きいものだと。
 
 
そして、そういう場に出くわしたとしたら、それはもう間違いなく自分のことも言われていることと(笑)
 
 
 
 
陰口を言うことで、自分に与えるダメージも小さくはないですよね
 
 

陰口を聞いた相手は「この人は、いない人の悪口を言うのだから、自分のこともどこかで言っているのでは?」と感じていることと。
 
たとえ内容が事実であったとしても、陰口そのものが信頼を損なう言動となり、自分自身の信用を落としてしまう。
 
そしてその印象は、思っている以上に長く残るから、結果的に自分が傷つくことになるような気も。
 
 

また陰口が習慣化している人をみていると、思考が「評価する・裁く」方向に偏ってしまっている気もする。
 
「○○さんはまたこうだった」
 
「あの人はだめだ」
 
というフィルターをかけて人や出来事を見るようになると、本来感じられたはずの感謝や学びが見えづらくなる。
 
せっかく素晴らしい人間性があった人でも、視野や感性が狭まり、相手を見下すようになっていく様を、見たくないけどもたくさん見てきた。
 
 
これは他人を否定する言葉で自分の内面に曇りをかけているようなものなのかもしれない。
 
できることなら、本当はどうしたいのか、どうなっていきたいのか、そのためにどうしたらよさそうか、提案してみたり、考えを聞いてみたり。
 
成功事例を持ち寄って話をしてみるとか、できることは実はたくさんあるのですが、そういったことに意味はないとバッサリ切ってしまうのもまた、考えものですよね。
 
お互いの考えを聞き合いたいなと。
 

そして、皮肉なことに陰口を言った後には、一時的な高揚感のあとに自責や虚しさが残ることもあるよね。
 
 
「どうして自分はこんなことを言ってしまったのか」
 
「言ったところで何が変わるんだろう」
 
と、自分を小さく感じてしまう……
 
それは、陰口が本来、自分の理想や誇りと食い違う行為だからなんじゃないかと。

つまり、陰口は他人へのダメージ以上に、自分の心を静かに削っていく行為なんだろう。
 
 
ただ、それを感じられているうちはまだマトモな状態で、それすら感じられなくなってしまっている人も、悲しいかな、たくさんいるような気も。
 
 

陰口を言わないことは、他人のためというより自分の尊厳と信頼を守ることに他ならないと思う。
 
もしモヤモヤした気持ちがあるなら
 
「建設的に対話する」
 
「信頼できる人に相談する」
 
「感情を紙に書き出す」
 
など、別の方法で扱うことができる。
 
 
陰口を選ばない生き方は、結果として自分の心の透明さや対人関係の質を保つことにつながる。
 
 
 
「言いたいヤツには言わせておけばいい」
 
 
と思いながらも、そうやっておさめられない時もあると思うから、身近に建設的に対話ができて信頼できる人がいたとしたら、そんな人にお話聞いてもらうのが、いいかもね^^

ワオ!と言っているユーザー

自分が生きたい世界観

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自分が生きたい世界観
「自分が生きたい世界観で生きる」
 
たぶん、自分を含め多くの人は無意識にその方向に向かっているんだと思う。
 
社会の常識や他人の期待に流されず、自分の信じる価値観を軸に人生を築いていきたい。
 
 
そう思っているんじゃないかな。
 
 
それは単なる理想の追求ではなく、自分の中にある「こうありたい」という想いに、忠実に生きたいという表れなような気もする。
 
 
突き詰めて言えば、主体的に人生をデザインしていくためには、この「世界観の明確化」は「日々の選択との接続」と密接に関係しているんだろうと思う。
 
 
 
 
世界観とは、外側ではなく内側から始まっているものだと思う。
 

生きるうえでの、ものの見方や感じ方。
 
 
たとえば
 
「人の可能性を信じたい」
 
「優しさの循環をつくりたい」
 
「不条理に対して声を上げる勇気を持ちたい」
 
それらは決して「正解」ではなく、「自分にとっての真実」であり、「願い」なんだろう。
 
 
世界観は、社会に合わせることで磨かれるものではなく、自分の内側に問いを立て続けることで、研ぎ澄まされて、育まれていくものなのかもしれない。
 

いくら素敵な世界観を言語化できても、それが「日常の行動」に結びついていなければ、ただの空想にとどまってしまう。
 
 
「対話を大切にしたい」
 
という世界観を持っているなら、意見が対立したときに相手を否定せずにまず聴く、「分かりあえないこと」も含めて関係を続ける覚悟を持つ、そうした行動に落とし込むことこそが重要になる。  
 

これはもしかしたら「言語化」よりも「翻訳力」の方が近い表現な気がして、世界観と現実世界との橋渡しをしているようにも思う。
 

周りを見ると、自分の言葉と行動が一致している人は、周囲からも信頼されている。
 
それはたぶん外から見て、世界観がブレていないからだと思う。
 
そして、この信頼は人間関係だけでなく、自分自身への「自己信頼」にもつながっているんだろうと。
 
 
小さな選択を丁寧に積み重ねているからこそが、自分の世界観を現実にできているんだろう、一貫できている人を羨ましく思う。
 

長く福祉の現場にいると様々な人と出会いがあるが、その中でも「人の尊厳を守る関わりを大事にしたい」という世界観を持っている方がいる。
 
 
その方は仕事の現場で、業務的に扱われがちな瞬間にも、できる限り人としての礼儀を大切に接することを欠かさない。
 
 
その姿勢は派手ではないが、本人にとっては「世界観を生きている」確かな実感であり、その誠実さが周囲にも優しい空気を届けているように感じる。
 

「自分が生きたい世界観で生きる」ことは、派手な自己主張や夢の実現とは異なる気がする。
 
 
 
それはむしろ、日々の何気ない選択の中で、自分の大切にしたい価値観に一歩ずつ忠実であろうとする、静かで力強い生き方なのかもしれない。
 
そう在りたいと思うが、それがとても難しいんだなー(笑)
 
 
自分の思いが周囲の音にかき消されないように、まずは自分自身が自分の味方であり続けること、その積み重ねが、やがて周囲の世界と自分の世界に優しく波紋を広げていくのだと思う。
 
 
世界観を生きることは、「静かで力強い選択の積み重ね」なんだろうな。

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もしもテトリスの一本棒が、いつまでも落ちてこないとしたら

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もしもテトリスの一本棒が、いつ...
少し上向きになると、なんとなく期待がふくらみ、そしてついつい期待をふくらませ過ぎて、落ち込む。
 
 
いくつになってもそんな自分がいる(笑)
 
 
もどかしさはいつしか無くなるけど、期待していた通りの楽しい時間を作りたいという欲望は、いつしかテトリスみたいに積み上がり、どこかで一本棒が落ちてくるような別の期待が湧いている。
 
そんな自分を面白がりながら、必死に悪あがきをしている自分にちょっとした失望もして、そしてそんな自分が幼子みたいにかわいく思ったりもして。
 
そんなに可愛いくはないんだけど(笑)
 
 

期待は
 
「こうあるべき」
 
「こうあった方がいい」
 
という結果への執着を含むけど
 
 
信頼は
 
「今の自分を認め、育てていく」
 
そんな姿勢のように思う。
 
たとえば、「うまく話さなければならない」ではなく、「今できる範囲で心を込めて話そう」と自分を信じることと励ましみたいな 、そんな感覚。
 
もしかしたら、「期待」は自分に対する「信頼」の裏返しのような気もしたりして。
 
 
 
期待しすぎず、今のベストを尽くすことがまた次への成長の鍵になる、なんて言われたりしても、ついつい焦る自分もいる。
 
 
そうやって自分に対する「無意識の重圧」を押し付けてしまっている自分がいることもまた、覚知しているんだけど。
 
 
「無意識の重圧」は目には見えないけれど、日々の判断や行動に静かに影響を与えている「心の空気」のようなもののような気がしていて、時に穏やかに時に荒ぶって、なかなか自分にはコントロールが難しい。
 
そこには
 
「常に役に立たなければいけない」という思い込みや、「失敗してはいけない」という自分が身を置く環境の文化的プレッシャーを、勝手に自分が作り上げている決めつけなんかがあるんだろうね。
 
 
たぶんだけど。
 
 
特にケアや教育の現場では、自分が誰かの役に立っていないと存在価値がないように感じてしまうことがある。
 
 
思うままに動いてみたり顔色をうかがったりするから、それが過度な自己犠牲や疲弊につながったりして。
 

表には出さなくても、「ミス=能力不足」という価値観が心の内にあって、失敗を極端に恐れてしまう。
 
それこそが失敗を招いたり。
 
結果として、挑戦を避けたり、自分を責めたりしてしまう傾向があるのかな。
 
 
 
あとは
 
 
 
 「期待されている自分像」に応えようとする無意識の緊張だったり、「まだ足りない」と感じ続けるから、自己基準のハードルがどんどん上がったり。
 
 
たとえば
 
「あの人に頼めば何とかなる」
 
とか
 
「頼れる存在だよね」と言われ続けていると、それを裏切ってはいけないように感じになって、感情を抑え込むことがあったり。
 
それがさらに「もっとできるはず」と内面で自分に対するハードルを上げたりしているんだろうさ。
 
 
こうした無意識の重圧に気づくことが、「自分に期待しすぎない」ための第一歩なんだと思うけど、期待しないのもまた、いつも頑張っている自分に失礼なような気もして。
 
 
それはたぶんこれからもなかなか手放すことはできなくて、手放すというよりも、「そのプレッシャーは、どこから来ているのか?」と問い直すとか、いろんな方法を試みながら、「期待」から優しく距離を置く感覚で付き合っていくんだと思う。
 
 
いつかテトリスの一本棒みたいなものが落ちてきますように。
 
そんな感覚は、たぶんこれからも無くなることは無いかもしれないけど(笑)
 
 
自分への「期待」との付き合い方。
 
 
優しくしてるんだか、辛くしてるんだか、ちょっとよくわからないけどね(笑)

ワオ!と言っているユーザー

「あなたのことが嫌い」と言われたことはありますか

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「あなたのことが嫌い」と言われ...
「ごめん、正直に言うと……あなたのこと嫌い」  
 
 
 
不意に投げ込まれたその言葉に、時間が止まった気がした。  
 

何かを間違えたのか。
 
何かを傷つけたのか。  
 

頭の中は真っ白で、言い返すこともできなかった。  
 
 
 
ただ、ただ、何かが崩れるような音がした。
 
 

それまで「うまくやっている」と思っていた。  
 

空気も読んでいたし、相手に嫌な思いをさせないように気を配っていた。  
 

なのに~♪
 
な~ぜ~♪
 
 
そんなメロディーがぐるぐると頭を巡って、 自分の存在価値まで揺らぐような気がしていた。  
 
 
「ボクの何がいけなかったの?」  
 

その問いが、しばらく心に根を張っていた。
 

数日経っても、モヤモヤは消えなかった。  
 

でも、ふと思った。  
 
 
「誰かが自分をどう感じるかは、100%自分の責任とはいえないよな」 
 
 
もしかしたらその人の「苦手」は私の全否定ではなく、「その人のレンズ」を通して見た結果だけだったのかもしれない。  
 
 
そう思ったら、少しだけ呼吸が楽になった。
 
 
「嫌われた自分を直す」ことも大事かもしれないが、自分をそのままに理解してみることも大切なんじゃないかなとも思った。
 

それから私は、自分に問い直してみた。
 
それはもう何度も何度も(笑)
 
いやってほどに。
 
 
 

私はどんなときに自然体でいられる?  
 

どんな人といるとき、安心できる?  
 

「好かれるための努力」ではなく、  
「本来の自分を大切にすること」
 
に意識を向けてみることにした。  
 
 
 
すると、少しずつ変化があった。
 
 
同じように繊細なところを持った人とつながるようになり、「なんだか安心するー(笑)」みたいなことを言われる機会が増えた。  
 
 
 
たしかに、あの一言は痛かった。
 
でも、それは「本音と本音で付き合える関係を選ぶ」きっかけになったんだと思う。
 
 
 
 
嫌われることは、すべてが終わることではない。

誰かに「嫌い」と言われることは、たしかに苦しい。  
 

でもそれは、「自分の全てが否定された」わけではない。  
 
 
 
むしろその一言をきっかけに
 
 
自分にとって大切な人や、自分らしい在り方がくっきりと見えてきたと、今なら思える。  
 
 
 
嫌われたことを痛みで終わらせず、気づきに変えていけたとしたら、たぶん人は、さらに一段、やさしく強くなれるのだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

「自己肯定感」に振り回されない

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「自己肯定感」に振り回されない
自己肯定感が高いか低いかに一喜一憂する。
 
 
自分には価値がない。
 
どうせ自分なんか。
 
 
そんなことを考える必要ってあります?
 
 
「自己肯定感」って言葉に振り回され過ぎじゃないですか??
 
 
そんなことを思い続けるよりも、まずは目の前の小さな行動を積み重ねることのほうが、自分とも相手とも、もっと信頼を築く土台を作ることに時間を割いたらいいんじゃないかと、私は思っています。
 
 
「自己肯定」という概念自体
 
「感じるもの」とか
 
「持つべきもの」とか
 
 
そんな感じで扱われがちなような気がしてならないのですが、それを手に入れようと意識し過ぎることで、かえって自分を見失ってしまう危険があるんじゃなかろうかと。
 
 
 
特に、なんだか現代社会は
 
「ありのままの自分を肯定しよう」とか
 
「自信を持とう」とか
 
そんなメッセージに溢れている気がします。
 
いつも
 
「煽るんじゃねー」って思ってます(笑)
 
 
それが逆に
 
「今の自分では不十分だよね」みたいな焦りを呼び起こしているんじゃないかと。
 
 
そんなときにボディーブローのように効いてくるのが、「今できることを、丁寧に積み重ねる」という姿勢を貫いている方々の姿。
 
 
 
多くの皆さんがそうであると思いますが、ある時期の私は、自分に自信が持てず、「このままでいいのか」と悩みながらいつも仕事に向かっていました。
 
 
自己啓発本を読んだり、ポジティブ思考を心がけても、その場しのぎのような感覚ばかり。
 
 
そんななかでいつも自分を見つめ直すきっかけをくれたのが、淡々と仕事をこなし、目の前の人の話にしっかりと耳を傾けている方々でした。
 
 
 
決して華やかでもなく、効率的でもないようにも思えていましたが、相手の方の表情が全てを物語っているような気がして、「自分とも相手ともしっかり向き合っている」という感覚が、じわじわと湧いてきてきました。
 
 
褒められることがなくても、評価されなくても、積み重ねた時間が「自分は信じられる存在になれる」ということを、教えていただいたよう気がしました。
 
 
振り返れば、それこそが最も安定した形の「自己肯定」なんじゃないかと。
 
 
 
このように考えると、「粛々とやること」は、表面的な自信や承認欲求とは異なる、もっと深くて静かな自己受容に繋がっていくもののような気がしています。
 
 
それは
 
「自己肯定を得る手段」
 
としてではなく
 
「人生の姿勢として選ぶ価値のある道」なんじゃないかと。
 
 
そう考えると
 
「自己肯定がぐらつくときほど、目の前のことを粛々とやり続ける」
 
ことが、自分を肯定することにもつながっていくと思うのです。
 
 
 
「粛々とやる」ことは、ただの作業では終わらないのだと思います。
 
 
そこに自分なりの意図や背景の意味づけを加えられることで、行動そのものが自分との対話になっていくのでしょう。
 
 
自分ではちっぽけなこととしか思えないことでもいいと思うんです。
 
 
そして自分にとって大切なことのような気がしているので、続けられていることがあるんだと思います。
 
 
誰かに笑われているような気がしても、気になさらないでください。
 
 
粛々と積むことのなかに、「今の私はこれでいい」という確かな肯定が芽吹いていて、積まれた経験がしっかりと力強く自分の財産になっているんだと、私はそんな気がしています。

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