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加藤雄一のブログ

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自分が生きたい世界観

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自分が生きたい世界観
「自分が生きたい世界観で生きる」
 
たぶん、自分を含め多くの人は無意識にその方向に向かっているんだと思う。
 
社会の常識や他人の期待に流されず、自分の信じる価値観を軸に人生を築いていきたい。
 
 
そう思っているんじゃないかな。
 
 
それは単なる理想の追求ではなく、自分の中にある「こうありたい」という想いに、忠実に生きたいという表れなような気もする。
 
 
突き詰めて言えば、主体的に人生をデザインしていくためには、この「世界観の明確化」は「日々の選択との接続」と密接に関係しているんだろうと思う。
 
 
 
 
世界観とは、外側ではなく内側から始まっているものだと思う。
 

生きるうえでの、ものの見方や感じ方。
 
 
たとえば
 
「人の可能性を信じたい」
 
「優しさの循環をつくりたい」
 
「不条理に対して声を上げる勇気を持ちたい」
 
それらは決して「正解」ではなく、「自分にとっての真実」であり、「願い」なんだろう。
 
 
世界観は、社会に合わせることで磨かれるものではなく、自分の内側に問いを立て続けることで、研ぎ澄まされて、育まれていくものなのかもしれない。
 

いくら素敵な世界観を言語化できても、それが「日常の行動」に結びついていなければ、ただの空想にとどまってしまう。
 
 
「対話を大切にしたい」
 
という世界観を持っているなら、意見が対立したときに相手を否定せずにまず聴く、「分かりあえないこと」も含めて関係を続ける覚悟を持つ、そうした行動に落とし込むことこそが重要になる。  
 

これはもしかしたら「言語化」よりも「翻訳力」の方が近い表現な気がして、世界観と現実世界との橋渡しをしているようにも思う。
 

周りを見ると、自分の言葉と行動が一致している人は、周囲からも信頼されている。
 
それはたぶん外から見て、世界観がブレていないからだと思う。
 
そして、この信頼は人間関係だけでなく、自分自身への「自己信頼」にもつながっているんだろうと。
 
 
小さな選択を丁寧に積み重ねているからこそが、自分の世界観を現実にできているんだろう、一貫できている人を羨ましく思う。
 

長く福祉の現場にいると様々な人と出会いがあるが、その中でも「人の尊厳を守る関わりを大事にしたい」という世界観を持っている方がいる。
 
 
その方は仕事の現場で、業務的に扱われがちな瞬間にも、できる限り人としての礼儀を大切に接することを欠かさない。
 
 
その姿勢は派手ではないが、本人にとっては「世界観を生きている」確かな実感であり、その誠実さが周囲にも優しい空気を届けているように感じる。
 

「自分が生きたい世界観で生きる」ことは、派手な自己主張や夢の実現とは異なる気がする。
 
 
 
それはむしろ、日々の何気ない選択の中で、自分の大切にしたい価値観に一歩ずつ忠実であろうとする、静かで力強い生き方なのかもしれない。
 
そう在りたいと思うが、それがとても難しいんだなー(笑)
 
 
自分の思いが周囲の音にかき消されないように、まずは自分自身が自分の味方であり続けること、その積み重ねが、やがて周囲の世界と自分の世界に優しく波紋を広げていくのだと思う。
 
 
世界観を生きることは、「静かで力強い選択の積み重ね」なんだろうな。

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もしもテトリスの一本棒が、いつまでも落ちてこないとしたら

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もしもテトリスの一本棒が、いつ...
少し上向きになると、なんとなく期待がふくらみ、そしてついつい期待をふくらませ過ぎて、落ち込む。
 
 
いくつになってもそんな自分がいる(笑)
 
 
もどかしさはいつしか無くなるけど、期待していた通りの楽しい時間を作りたいという欲望は、いつしかテトリスみたいに積み上がり、どこかで一本棒が落ちてくるような別の期待が湧いている。
 
そんな自分を面白がりながら、必死に悪あがきをしている自分にちょっとした失望もして、そしてそんな自分が幼子みたいにかわいく思ったりもして。
 
そんなに可愛いくはないんだけど(笑)
 
 

期待は
 
「こうあるべき」
 
「こうあった方がいい」
 
という結果への執着を含むけど
 
 
信頼は
 
「今の自分を認め、育てていく」
 
そんな姿勢のように思う。
 
たとえば、「うまく話さなければならない」ではなく、「今できる範囲で心を込めて話そう」と自分を信じることと励ましみたいな 、そんな感覚。
 
もしかしたら、「期待」は自分に対する「信頼」の裏返しのような気もしたりして。
 
 
 
期待しすぎず、今のベストを尽くすことがまた次への成長の鍵になる、なんて言われたりしても、ついつい焦る自分もいる。
 
 
そうやって自分に対する「無意識の重圧」を押し付けてしまっている自分がいることもまた、覚知しているんだけど。
 
 
「無意識の重圧」は目には見えないけれど、日々の判断や行動に静かに影響を与えている「心の空気」のようなもののような気がしていて、時に穏やかに時に荒ぶって、なかなか自分にはコントロールが難しい。
 
そこには
 
「常に役に立たなければいけない」という思い込みや、「失敗してはいけない」という自分が身を置く環境の文化的プレッシャーを、勝手に自分が作り上げている決めつけなんかがあるんだろうね。
 
 
たぶんだけど。
 
 
特にケアや教育の現場では、自分が誰かの役に立っていないと存在価値がないように感じてしまうことがある。
 
 
思うままに動いてみたり顔色をうかがったりするから、それが過度な自己犠牲や疲弊につながったりして。
 

表には出さなくても、「ミス=能力不足」という価値観が心の内にあって、失敗を極端に恐れてしまう。
 
それこそが失敗を招いたり。
 
結果として、挑戦を避けたり、自分を責めたりしてしまう傾向があるのかな。
 
 
 
あとは
 
 
 
 「期待されている自分像」に応えようとする無意識の緊張だったり、「まだ足りない」と感じ続けるから、自己基準のハードルがどんどん上がったり。
 
 
たとえば
 
「あの人に頼めば何とかなる」
 
とか
 
「頼れる存在だよね」と言われ続けていると、それを裏切ってはいけないように感じになって、感情を抑え込むことがあったり。
 
それがさらに「もっとできるはず」と内面で自分に対するハードルを上げたりしているんだろうさ。
 
 
こうした無意識の重圧に気づくことが、「自分に期待しすぎない」ための第一歩なんだと思うけど、期待しないのもまた、いつも頑張っている自分に失礼なような気もして。
 
 
それはたぶんこれからもなかなか手放すことはできなくて、手放すというよりも、「そのプレッシャーは、どこから来ているのか?」と問い直すとか、いろんな方法を試みながら、「期待」から優しく距離を置く感覚で付き合っていくんだと思う。
 
 
いつかテトリスの一本棒みたいなものが落ちてきますように。
 
そんな感覚は、たぶんこれからも無くなることは無いかもしれないけど(笑)
 
 
自分への「期待」との付き合い方。
 
 
優しくしてるんだか、辛くしてるんだか、ちょっとよくわからないけどね(笑)

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「あなたのことが嫌い」と言われたことはありますか

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「あなたのことが嫌い」と言われ...
「ごめん、正直に言うと……あなたのこと嫌い」  
 
 
 
不意に投げ込まれたその言葉に、時間が止まった気がした。  
 

何かを間違えたのか。
 
何かを傷つけたのか。  
 

頭の中は真っ白で、言い返すこともできなかった。  
 
 
 
ただ、ただ、何かが崩れるような音がした。
 
 

それまで「うまくやっている」と思っていた。  
 

空気も読んでいたし、相手に嫌な思いをさせないように気を配っていた。  
 

なのに~♪
 
な~ぜ~♪
 
 
そんなメロディーがぐるぐると頭を巡って、 自分の存在価値まで揺らぐような気がしていた。  
 
 
「ボクの何がいけなかったの?」  
 

その問いが、しばらく心に根を張っていた。
 

数日経っても、モヤモヤは消えなかった。  
 

でも、ふと思った。  
 
 
「誰かが自分をどう感じるかは、100%自分の責任とはいえないよな」 
 
 
もしかしたらその人の「苦手」は私の全否定ではなく、「その人のレンズ」を通して見た結果だけだったのかもしれない。  
 
 
そう思ったら、少しだけ呼吸が楽になった。
 
 
「嫌われた自分を直す」ことも大事かもしれないが、自分をそのままに理解してみることも大切なんじゃないかなとも思った。
 

それから私は、自分に問い直してみた。
 
それはもう何度も何度も(笑)
 
いやってほどに。
 
 
 

私はどんなときに自然体でいられる?  
 

どんな人といるとき、安心できる?  
 

「好かれるための努力」ではなく、  
「本来の自分を大切にすること」
 
に意識を向けてみることにした。  
 
 
 
すると、少しずつ変化があった。
 
 
同じように繊細なところを持った人とつながるようになり、「なんだか安心するー(笑)」みたいなことを言われる機会が増えた。  
 
 
 
たしかに、あの一言は痛かった。
 
でも、それは「本音と本音で付き合える関係を選ぶ」きっかけになったんだと思う。
 
 
 
 
嫌われることは、すべてが終わることではない。

誰かに「嫌い」と言われることは、たしかに苦しい。  
 

でもそれは、「自分の全てが否定された」わけではない。  
 
 
 
むしろその一言をきっかけに
 
 
自分にとって大切な人や、自分らしい在り方がくっきりと見えてきたと、今なら思える。  
 
 
 
嫌われたことを痛みで終わらせず、気づきに変えていけたとしたら、たぶん人は、さらに一段、やさしく強くなれるのだと思う。

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「自己肯定感」に振り回されない

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「自己肯定感」に振り回されない
自己肯定感が高いか低いかに一喜一憂する。
 
 
自分には価値がない。
 
どうせ自分なんか。
 
 
そんなことを考える必要ってあります?
 
 
「自己肯定感」って言葉に振り回され過ぎじゃないですか??
 
 
そんなことを思い続けるよりも、まずは目の前の小さな行動を積み重ねることのほうが、自分とも相手とも、もっと信頼を築く土台を作ることに時間を割いたらいいんじゃないかと、私は思っています。
 
 
「自己肯定」という概念自体
 
「感じるもの」とか
 
「持つべきもの」とか
 
 
そんな感じで扱われがちなような気がしてならないのですが、それを手に入れようと意識し過ぎることで、かえって自分を見失ってしまう危険があるんじゃなかろうかと。
 
 
 
特に、なんだか現代社会は
 
「ありのままの自分を肯定しよう」とか
 
「自信を持とう」とか
 
そんなメッセージに溢れている気がします。
 
いつも
 
「煽るんじゃねー」って思ってます(笑)
 
 
それが逆に
 
「今の自分では不十分だよね」みたいな焦りを呼び起こしているんじゃないかと。
 
 
そんなときにボディーブローのように効いてくるのが、「今できることを、丁寧に積み重ねる」という姿勢を貫いている方々の姿。
 
 
 
多くの皆さんがそうであると思いますが、ある時期の私は、自分に自信が持てず、「このままでいいのか」と悩みながらいつも仕事に向かっていました。
 
 
自己啓発本を読んだり、ポジティブ思考を心がけても、その場しのぎのような感覚ばかり。
 
 
そんななかでいつも自分を見つめ直すきっかけをくれたのが、淡々と仕事をこなし、目の前の人の話にしっかりと耳を傾けている方々でした。
 
 
 
決して華やかでもなく、効率的でもないようにも思えていましたが、相手の方の表情が全てを物語っているような気がして、「自分とも相手ともしっかり向き合っている」という感覚が、じわじわと湧いてきてきました。
 
 
褒められることがなくても、評価されなくても、積み重ねた時間が「自分は信じられる存在になれる」ということを、教えていただいたよう気がしました。
 
 
振り返れば、それこそが最も安定した形の「自己肯定」なんじゃないかと。
 
 
 
このように考えると、「粛々とやること」は、表面的な自信や承認欲求とは異なる、もっと深くて静かな自己受容に繋がっていくもののような気がしています。
 
 
それは
 
「自己肯定を得る手段」
 
としてではなく
 
「人生の姿勢として選ぶ価値のある道」なんじゃないかと。
 
 
そう考えると
 
「自己肯定がぐらつくときほど、目の前のことを粛々とやり続ける」
 
ことが、自分を肯定することにもつながっていくと思うのです。
 
 
 
「粛々とやる」ことは、ただの作業では終わらないのだと思います。
 
 
そこに自分なりの意図や背景の意味づけを加えられることで、行動そのものが自分との対話になっていくのでしょう。
 
 
自分ではちっぽけなこととしか思えないことでもいいと思うんです。
 
 
そして自分にとって大切なことのような気がしているので、続けられていることがあるんだと思います。
 
 
誰かに笑われているような気がしても、気になさらないでください。
 
 
粛々と積むことのなかに、「今の私はこれでいい」という確かな肯定が芽吹いていて、積まれた経験がしっかりと力強く自分の財産になっているんだと、私はそんな気がしています。

ワオ!と言っているユーザー

世界が変わる言葉「ありがとう」

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世界が変わる言葉「ありがとう」
「すみません」
 
気づけば、そればかり言っていた。  
 
 
何かを手渡されたとき

ドアを開けてもらったとき
 
道を譲ってもらったとき
 
名前を呼ばれたとき。
 

何かしてもらうたびに、反射的に
 
「すみません」
 
と口に出していた。  
 
 
それが礼儀だと思っていた。
 
相手に迷惑をかけていないことを示すためでもあったのかもしれない。  
 
誰に謝ってんの?
 
 
何か悪いことでもしたん?
 

「謝ることで、せっかくいただいた好意を蔑ろにしてたのでは?」  
 
 
そんな風に思うようになった。
 
 

「すみません」は、謙虚な言葉だと思う。
 
 
でも、知らず知らずに使い続けているうちに、徐々にどこか遠慮の空気をふくらませてしまっていたような感じもする。  
 
 
 
相手の好意に対して、何となくの申し訳なさを伝えていたんだね。  
 
 
 
 
もっと感謝の気持ちをまっすぐに届けたほうが、相手との関係も変わるのでは?  
 
そんな思いが心の中にないわけではなかった。  
 
 
 
いつもなら「すみません」と言う場面で、口から出たのが「ありがとう」だった。  
 
「ありがとう!」  
 
すると、相手の表情が明るくなった。  

「どういたしまして!」と返ってきたその声は、予想以上に柔らかく、温かかった。  
 
  
「謝るより、感謝を伝えたほうが、人とのつながりが深まるんだ」  
 
そんな感じがした。
 
 

それからは、「すみません」の代わりに「ありがとう」を意識して使うようになった。  

✅ 相手の好意には、遠慮ではなくまっすぐな感謝で返す。
出かかった「すみません」を即座に「ありがとう」に変換する。

✅ 小さな場面でも「ありがとう」を伝えることで、関係に温度が生まれる。
まずは「ありがとう」を伝える意識を持つ。 

✅ 感謝の言葉を受け取った相手も、気持ちが明るくなる。
相手からの「ありがとう」を素直に受け取る。  
 
 
すると、いつもは少し緊張感が生まれる相手との、日常の何気ない会話が少し変わっていった。
 
 
 
「ありがとう」と言うだけで、場の空気がほどけ、対話の流れが変わるんだ。  
 
それだけで、関係がより深く、心地よいものになっていくのを実感した。  
 
 
 

「すみません」ではなく「ありがとう」。  

それだけで、世界の見え方が変わる。  
 
もし今、謝ることが癖になっている人がいるなら、試しにひと言「ありがとう」に変えてみてほしい。  

そのたったひと言が、誰かとの関係をほんの少し、優しくしてくれるはず。
 
「ありがとう」を言える自分に優しくなれる。
 
そして「ありがとう」を伝えてくれる相手にも優しくなれる。
 
「すみません」を「ありがとう」に変えて、自分の世界を変えてみよう^^
 

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人と比べず自分の人生をめちゃくちゃ楽しむ•*¨*•.¸¸♬︎

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人と比べず自分の人生をめちゃく...
人と比べず自分の人生を「めちゃくちゃ」楽しむ。
 
 
 
楽しむ?
 
楽しめてる?
 
それも「めちゃくちゃ」?
 
いやームリムリムリムリ(笑)
 
 
 
この年代の人に比べたら
 
あの人と比べたら
 
って
 
いつから他人と比べるようになった?
 
誰と比べるようになった?
 
 
 
人生「めちゃくちゃ」楽しんでる自分ってどんなん?
 
 
 
思い出せんくなったなー、オレ。
 
 
 
でも 
 
「めちゃくちゃ」楽しむって、どんなことなんだろう?
 
 
今は楽しくないのかぃ?オレ
 
 
いやいや、だいぶ楽シーサー(笑)
 
 
みんなと一緒に、いろんなことが形になってきているしね。
 
 
たぶんソレは
 
 
ひとりじゃないから、なんだと思う。
 
 
 
支えてくれる人がいるから、誰かを支えたいと思う自分がいる。
 
 
誰かの力になれる自分がいたとしたら、それは自分の人生が「めちゃくちゃ」楽しいものになるような気がする。
 
 
誰かに喜んでもらえたら、自分の人生は「めちゃくちゃ」楽しいんだと思う。
 
 
だから、ひとりだけじゃモノ足りないんだと思う。
 
 
こうやってblogを続けているのも、誰かと触れ合っているような感じがするから、楽しんで続けられているんだと思う。
 
 
「めちゃくちゃ」派手じゃなくても、「めちゃくちゃ」贅沢じゃなくても、それでも「めちゃくちゃ」楽しい気持ちになれる時間があるのは、やっぱりひとりじゃないからなんだと思う。
 
 
ついつい誰かと比べたくなる時ばかりかもしれない。
 
 
比べて落ち込むのはしょうがない。
 
 
比べたっていいじゃんか。
 
 
 
そしてトコトン落ち込んで落ち込んで落ち込んで、そして次に誰かが一緒にいてくれる時間は絶対に粗末にせずに、「めちゃくちゃ」楽しもうと無理やりにでも楽しもう。
 
 
それすらもわかってくれる誰かが、間違いなくそばにいるはず^^
 
そしてボクも応援してる!(笑)

ワオ!と言っているユーザー

うまくいっていないことを言葉で伝える勇気を持つ

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うまくいっていないことを言葉で...
「全然だめ……」
 
 
物事がうまくいっていないと感じたとき、それを言葉にして伝えるのは決して簡単なことではありませんよね。
 
たぶん周りも同じような気持ちだと感じていたとしても、それを言葉にしてしまうことで、もっと状況が悪化してしまいそう……そう躊躇しまったことが、今まで何度あったことか。
 
 
しかし、率直に伝えることで、問題を整理し、周囲の理解を得ることができる場合もありますよね。
 
きっとそんな経験も少なからずお持ちではないでしょうか^^
 
 
言葉にする勇気こそが、状況を好転させる第一歩となるのかもしれませんね。  
 

言葉にしてみることで、状況が共有され解決の糸口が見えることもあります。
 
  
 自分の中だけで抱え込んでいると、問題がますます重くのしかかります。
 
しかし、言葉にして伝えることで、他者の視点や助けを得ることができ、解決策が生まれやすくなることも頭ではわかっているんですけどね。
 
 
そんなウツウツとした時間もまた、 自己認識を深め冷静に対処できる方法を考えてきた時間と言えなくもありません。
 

 「うまくいっていない」と認め、それを言葉にすることで、自分の気持ちを整理できます。
 
曖昧な不安が具体的な問題点に変わり、どう対処するべきかを冷静に考えられるようなったりもしませんか?  
 
また
 
言葉にしたからこそ信頼関係を築くきっかけができたこともあったのでは。
 
  
 弱さや課題を伝えることは、決して恥ずかしいことではなく、誠実なコミュニケーションの証です。
 
勇気を持って話すことで、周囲との信頼関係が深まり、今後の協力がしやすくなることも、本当はわかっているんですけどね。  
 
  
 
 
仕事で困難に直面しているとき、「うまく進められない」と正直に伝えることで、チームメンバーがサポートしてくれたら嬉しいですよね。
 
一人で悩むより、助けを求めた方がより良い結果につながることがあります!  
 
また、個人的な悩みについても、「今の状況がつらい」と言葉にすることで、家族や友人が励ましてくれたり、新たな解決策を考えてくれたりすることがあります。
 
伝えることで、孤独を感じることなく、心の負担を軽くすることができたとしたら、なんて素晴らしいことでしょう。  
 
 
  
うまくいっていないことを言葉で伝える勇気があると、状況を共有し、自己認識を深め、信頼関係を築くことができます。
 
言葉にすることは解決への第一歩であり、未来をより良い方向に導く力を持っています。
 
どんな小さなことでも、一歩踏み出して伝えてみて、新たな可能性を開きましょう^^  

ワオ!と言っているユーザー

好きなものを好きと言った瞬間、流れが変わる

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好きなものを好きと言った瞬間、...
「自分の好きなことを言うのが、少し怖い。」  
 
「好き」という言葉を使うことに抵抗があったのかもしれない。

そんな気持ちを抱えていた。  
 
 
 
周りが流行を追う中、自分の夢中になっているものは、いつもなんだか違っていた。
 
 
「これが好き」
 
と言ったら、  

「そんなの興味ないよ」
 
と流されるかもしれない。  
 

「好きだね~」と笑われるかもしれない。  
 
だから、いつの間にか、自分の好きなものを表に出さない習慣ができていたような気がしている。  
 
 
他の人に笑われるという勝手な思い込み。
 
自分の中の「思考のクセ」が影響していたようにも思う。
 
「好きなものを話しても、理解されるかわからない」  

「共感が得られなかったら、自分だけ浮いてしまうかもしれない」  

そんな思いが、知らず知らずのうちに「対話へのブレーキ」になっていたんだろう。  
 
でも、本当にそうなのか?  
 
好きなことを夢中になって話すことのできる人を、羨ましく思っていたようなところもある。

「自分が好きなものを発信することは、場にエネルギーを生むのでは?」
 
その思いも、心の奥にはあった。  
 
 

雑談していた時のこと。
 
「好きなことは何?」
 
と聞かれた。  
 

ためらいながらも、思い切って答えてみた。  
 
「実は、これがすごく好きなんだ。」  
 
すると、相手の表情が変わった。  
 
 

「そんなの知らなかった。でも、なんか面白そうだね!」  
 
 
 
なんだかエネルギーの循環が生まれた感覚だった。  

否定されるのではなく、興味を持たれた。  
 
 
なんだかとても嬉しかった。
 

それだけで、場の空気がほどけ、対話の流れが変わったのを感じた。  
 
「好きなものを言葉にすることで、場が動き始めるんだ」  
 
そんなことを思った。
 
 
  
それからは、好きなことを好きと言ってみることを意識した。
 
しかし本当はまだまだ恥ずかしい(笑)
 
✅ 流行や評価に関係なく、自分の感覚を信じる
 
✅ 「こんなの好きだと言っても…」ではなく、「好きだから伝えよう!」

✅ 好きなものを話すことで、共感や対話のきっかけをつくる
 
 
すると、不思議なことに、たくさんのご縁が。
 
 
好きなものを言葉にするほど、それに興味を持つ人が現れ、新しいつながりが生まれていった。  
 
相手とエネルギーが一致したような感覚。
 

「好き」と言っただけで、場の流れが変わるんだ。  

それが、自分の中で確かな変化だった。  
 
 
 
  
好きなものを好きと言うことは、ただの自己表現ではない。  

それは
 
「場にエネルギーを生む選択」
 
であり
 
「場のエネルギーを高める合言葉」  
 
のような気がしてならない。
 
 
 
もし今、好きなことを言葉にするのをためらっているなら、まずは小さくでもいい。
 
「これ、好きなんだ」と伝えてみてほしい。  
 

そこから、新しいご縁が生まれるはずだから^^  

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それは自分のフィルター?それとも自分の中の他人のフィルター?

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それは自分のフィルター?それと...
「なんだか最近、うまくいかない。」  
 
いや、なんだかずっとそんな感覚が続いていた。  
 
 
 
意見を交わしても、話がすれ違うことが増えた。  
良い案だと思っていても、どこか行き詰まる感じがあった。  
 

「自分は間違っていないはずなのに、なぜうまくいかないのだろう?」  
 

そんな思いが、心に重くのしかかる。  
 

いつの間にか「自分の視点だけで世界を見ていた」のかもしれない。
 
 
過去の経験、知識、価値観——それらがフィルターとなり
 
「こういうものだろう」
 
と決めつける癖がついていた。  
 
 
 
とはいえ
 
それだけだろうか。
 
 
これは本当に自分が見ている景色なのか。
 
自分にはない景色も、自分に取り込んではいないだろうか。
 
 
見える景色の色は?
 
それも自分のものなんだろうか。
 
 
 
いずれにしても、そのフィルターのせいで、新しい可能性を閉じていたんだろう。
 

そんな風に思った時、自分が見たい景色がどんなものか、わからなくなっていた。  
 
 
 
友人がふとした会話の中で言った。  

「それ、ちょっと視点変えたら面白いかもしれないよ。」  
 
 え?

「違う視点?でも、これはこういうものでは?」  
 
「なんじゃそりゃ」
 
そう思いながらも、試しに考え方を変えてみた。  
 

いつの間にか、知らず知らずのうちに、自分のフィルターなのか他人のフィルターなのか、それすらもわからず、考えもせずに存在していたようだ。  
 
「フィルターを外すことは難しいかもしれないけど、どんなフィルターで見ているのか、それを少し感じるだけでも、違う気がする」

その実感が、思考の転換点になった。  
 
 

それからは、意識的に自分のフィルターを外すことを試した。  

✅ 「これはこういうものだ」と決めつけず、一度『かもしれない』と柔軟に考える

✅ 違う意見が出たとき、まず否定するのではなく「その視点ではどう見えているのか?」と尋ねる
 
✅ 過去の経験だけで判断せず、「もし今ゼロから考えたら?」と問い直してみる 
 
それすらも、もしかしたら自分だけのフィルターではないのかもしれない。
 
自分の中にある他人のフィルターを通しているのかもしれない。
 
 
ただ
 
 
この習慣を続けるうちに、驚くほどアイデアの幅が広がり、何より、人との対話が楽しくなった。  
 

「こうかもしれない」
 
「ああいう見方もある」  

その余白があることで、会話にも新しい発見が生まれていった。  
 
 

世界を狭めているのは、環境ではなく、自分の思い込みかもしれない。  

だからこそ、一度フィルターを外してみるだけで、可能性が広がる。
 
 
フィルターを外しているようで、外れているかはわからない。
 
 
チャレンジしてみたようで、結局はいつも同じような服しか着ていない自分が、はたしてどこまでそれを実践できているかは、よくわからないが(笑)
それでもそれをやる価値は大きいと思う。 
 
 
 
もし今、考えが行き詰まっているなら
  
まずは「これは本当にそうなのか?」と問い直してみてほしい。  
 
「これは本当のボクの思いなのか」
 
「これは〇〇さんの思いに寄っているような気がする」
 
そして感じてほしい。
 
「ボクの思いのようだ」
 
「〇〇さんのフィルターがはいってるな(笑)」
 
 
そんな風に気軽でいいと思う。
 

そこから、また今と違う新しい世界が見えてくるはずだ^^ 

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撒いた種は、たまには無理にでも花を咲かせにいこう~頑張りは自分で回収しにいこう~

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撒いた種は、たまには無理にでも...
「自分には何の取り柄もない」
 

「いつも叱られてばかりで価値のない自分」
 
 
 
 
 

何かに取り組んでも、うまく進まない。  
 
挑戦しても反応がない。
 

努力したつもりが全て空回り。
 

 
 
「自分のやっていることに意味はあるのか?」  
 
そう思う瞬間が増え、焦りばかりが募っていく。
 
 
 
 
 

 
 

周りを見ると、順調に成果を上げる人ばかりが目にはいる。
 

誰かの活躍ばかりが耳に届く。
 
 
その姿を見ては、自分の歩みがあまりにも遅く、もう進むことができなくなるんじゃないかと、そんなことを感じてしまうことばかりだった。  
 
 
 

  
「このまま続けても、本当に何か変わるのだろうか?」  
 
 
 
 
 
積み上げても、それが実を結ぶ保証なんてない。  
 
途中で投げ出したくなることもあった。  
 

たぶん
 

結果を早く求めるあまり「育てる時間」を信じることができていなかったんだと思う。
 
 
 
その焦りが、自分自身を追い詰めていたんだろうさ。  
 
 
毎年メモ帳を更新していたこともあって、昔のメモ帳を見返した。  
 
そこには面白いくらい、かつて苦しんだ日々の記録があり
 
 
 
「どうしたらよいものか」
 
 
 

そんな言葉がたくさん書かれていた。  
 
 
 

ただ、そのノートを眺めるうちに気づいたことがあった。  
 
 
 
「あのときの努力が、今の自分を支えている」
 
 
 

その小さな継続もまた、自分の「実力」
 

派手でなくてもいい。  
 

大きくなくても、強い影響なんてなくてもいい。
 
 
 

すぐには報われなくても、積み重ねたものは確かに形になっている。
 
 
「自分の頑張りが回収できる日」
 

は、その瞬間に訪れるのではなく、静かに育ち続けていたんだと、今はそう思う。
 

  
それからは、焦らず育てることを意識した。  
 
✅ 「結果をすぐに求める」ではなく、「育てる時間を信じる」
 
✅ 「今の努力が何になるかわからない」ではなく、「何かの形になるまで待つ」
 
✅ 「急ぐ」のではなく、「積み重ねることを楽しむ」
 
 
 
 

簡単なことではないが、そうやっているうちにたくさんの仲間ができ、ひとりでは経験できないことが、たくさんやってきた。
 

嫌々やっていたことが、不思議と気持ちが軽くなり、徐々に目の前のことに集中できるようになった。
 
 
 
急がず、焦らず、ただ続ける。  
 
 
 
その時間が、未来にちゃんとつながることを確信したのかもしれない。  
 
 
 

よくわかっているようでわかっていないのが
 

努力は、すぐに結果を出すものではない。  
 
 
 
 
 
それは、
 

「静かに積み重ね、やがて育つもの」
 

なんだろう。
 
 
 

今、すぐに報われなくても、その時間は確かに未来へとつながっている。  
 
 
 
だからこそ、焦らず、急がず、ただ信じて積み上げていってほしい。  
 

いつか回収できる日が必ず来る。  
 
 
 
その日を迎えるために、今の歩みを大切にしていこう。
 
 
 
ひとりじゃないよ。
 

一緒に歩もう^^
 

ワオ!と言っているユーザー

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