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加藤雄一のブログ

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そうすることに何の意味があるの?

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そうすることに何の意味があるの...
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
一日に35,000回は決断の機会があるといわれるが、その中でもこんなつぶやきが伴う決断が一日に何回かはあるんじゃないだろうか。
 
「それって何の意味あるの?」
 
時に冷たく、時に鋭く響く。
 

けれどもこの問いは、行動の価値を否定するためのものではなく、その行動に『自分なりの意味』を見出すための入り口なんじゃないかなと思っている。
 
 
意味を問うことは、ただの正当化のようにも思えたりするが、自分の選択に納得と方向性を与えるための静かな対話の機会のような気がする。  
そしてその問いを丁寧に扱うことが、日々の営みを『ただの作業』から自分の人生に対する『生きた実践』へと変えていくようにも思う。
 
 
ボクたちは日々、無数の選択と行動を繰り返している。  

けれども、その一つひとつに「なぜそれをするのか?」という意味を感じない時、その行動は「義務」や「惰性」に変わっているのではないか。  
 

「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いを立てることは、自分の行動に対して『納得できる理由』を作るためのプロセスにも思える。
 
 
毎朝の掃除
 
誰かへの声かけ
 
地道な記録作業
 
単純な日課程度のこんな時間も、それらが「意味がある」と感じられるとき、行動は『自分の意志』として力強さを表してくる。  
 

意味を問うことは、行動に魂を通わせることなんだ。  

それは、他人に説明するためではなく、自分自身がその行動に誇りを持てるようにするための問いにも思える。
 
 
 
意味を問うことは、必ずしも「やる理由」を探すことだけではない。
 
 
ときには
 
「それをやらないことに意味がある」と気づくこともたくさんある。  

無理に人に合わせない
 
あえて沈黙を選ぶ
 
何もしない時間をつくる
 
そうした選択にも、自分なりの意味があれば、それは立派な実践なんだ。
 
この問いは、「やるべきかどうか」ではなく、「それをすることが、自分にとってどんな意味を持つのか?」という価値の問い直しともいえる。  
 

意味を問うことで、『やらないこと』にも納得と優しさを与えることができる。
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
 
という問いは、他者との関係性においても、対話の深みを変える力を持っていると思う。  
 
誰かの行動に対して「なぜそれをするの?」と尋ねるとき、それが責めではなく、「その人の大切にしているものを知りたい」という姿勢から発せられた問いであれば、関係性は深まるはず。
 
また、自分自身が意味を問う習慣を持っていると、他者の行動にも「その人なりの意味があるのだろう」と想像することができるようになる。  
 

それは、相手の行動を評価するのではなく、理解しようとする姿勢なんだ。  
 

意味を問うことは、自分との対話であると同時に、他者との対話の質を高める営みでもある。
 
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いは、時に迷いを生むこともある。
 
 
けれどもその迷いの中にこそ、自分が何を大切にしているのか、どんなふうに生きたいのかという本質を浮かび上がらせる。  
 

意味を問うことは、行動を正当化するためではなく、自分の人生に納得と方向性を与えるための静かな実践。
 
 
そしてその問いを繰り返すことで、私たちは「選ばされる人生」ではなく、主体的に『選び取る人生』を歩んでいけるのだと、実感している。
 

ワオ!と言っているユーザー

人間くさくていい

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人間くさくていい
「人間くさい」
 
AIが浸透してきたのを実感するこの頃。
この言葉が妙に心に刺さる。
 
「自分らしさ」
 
によく似た、そんな印象。
 
同じようで違うような、そんな感覚。
 
 
「人間くさい」
 
そこには感情があり、矛盾があり、揺らぎながらも誰かと関わろうとする『生きた存在』を表す言葉のようにも思う。  
 
 

毎日の中で、ついつい正しさや効率、スマートさを求められ、自分の『人間くささ』を隠そうとすることがある。
 
けれども、人間くさくいることは、自分の弱さや未完成さを否定せずに、そのまま抱えて生きるという、静かな勇気の表現にも思える。
 
 
 
 
人間くさくいるとは、感情を持っている自分を否定しないことなんだろう。
 
 

誰かに嫉妬してしまう
 
落ち込む
 
焦る
 
泣きたくなる
 
 
 
そうした感情を「未熟だから」と切り捨てるのではなく、「それも自分だ」と受け止めてみる。  
 

それは、感情に振り回されることとは違う。
 
むしろ、感情を丁寧に言葉にし、扱えるようになることで、自分の内面との信頼関係が深まっているように思う。
 
人間くささを許すことは、自分の感情に居場所を与えること。
 
 
そしてそれは、他者の感情にも寛容になれる土台をつくってくれている気がする。
 
 
人間くさくいたいという願いには、「完璧じゃなくても、誰かと関わっていたい」という想いも込められているんだろう。
  
 
うまく言葉にできないまま誰かに頼ること
 
失敗を認めて謝ること
 
照れながらも感謝を伝えること
 
それらはすべて、不完全な自分をさらけ出す勇気があってこそ。
 
人間くささとは、「弱さを見せられる強さ」でもあるんだろう。
 
 
ただ、それがあるからこそ、関係性は深まり、信頼が育つ。  

「ちゃんとしていない自分でも、ここにいていい」と思える場所をつくること。
 
それは、自分にも他者にも優しい世界をつくる第一歩になる。
 
 
 
人間くさくいることは、効率や成果だけでは測れない「生きることの味わい」を大切にすることでもある。  
 

遠回りしてしまった経験
 
言い過ぎて後悔した夜
 
誰かの一言に救われた瞬間
 
 
そうした出来事の中にこそ、人間らしい温度や物語がある。
 
 
完璧さを求めるあまり、人生が『正解探し』になってしまうと、そこには余白がなくなってしまう。
 
 
でも、人間くさくいることを許すと、失敗も迷いも、すべてが『生きている証』として意味を持ち始めるの。
 
 
それは、人生を丁度よく「整える」ことではなく、「味わう」ことへの変換でもあるのような気もしている。
 
 
 
「人間くさく居たい」という願いは、自分の弱さや揺らぎを否定せずに、誰かと共に生きていこうとする姿勢だ。
 
 
それは、完璧さを手放し、感情を抱きしめ、不器用なままでも関係を築こうとする、静かな強さ。  
 

そしてその在り方は、他者とのあいだに温度を生み、信頼を育て、人生に深みを創ってくれる。
 
人間くささを恥じるのではなく、それを『生きている証』として大切にしてみる。
 
 
そのまなざしが、言葉や行動に温かさと真実味を宿してくれるのだと思っている。

ワオ!と言っているユーザー

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