人間くさくていい
7月
3日
「人間くさい」
AIが浸透してきたのを実感するこの頃。
この言葉が妙に心に刺さる。
「自分らしさ」
によく似た、そんな印象。
同じようで違うような、そんな感覚。
「人間くさい」
そこには感情があり、矛盾があり、揺らぎながらも誰かと関わろうとする『生きた存在』を表す言葉のようにも思う。
毎日の中で、ついつい正しさや効率、スマートさを求められ、自分の『人間くささ』を隠そうとすることがある。
けれども、人間くさくいることは、自分の弱さや未完成さを否定せずに、そのまま抱えて生きるという、静かな勇気の表現にも思える。
人間くさくいるとは、感情を持っている自分を否定しないことなんだろう。
誰かに嫉妬してしまう
落ち込む
焦る
泣きたくなる
そうした感情を「未熟だから」と切り捨てるのではなく、「それも自分だ」と受け止めてみる。
それは、感情に振り回されることとは違う。
むしろ、感情を丁寧に言葉にし、扱えるようになることで、自分の内面との信頼関係が深まっているように思う。
人間くささを許すことは、自分の感情に居場所を与えること。
そしてそれは、他者の感情にも寛容になれる土台をつくってくれている気がする。
人間くさくいたいという願いには、「完璧じゃなくても、誰かと関わっていたい」という想いも込められているんだろう。
うまく言葉にできないまま誰かに頼ること
失敗を認めて謝ること
照れながらも感謝を伝えること
それらはすべて、不完全な自分をさらけ出す勇気があってこそ。
人間くささとは、「弱さを見せられる強さ」でもあるんだろう。
ただ、それがあるからこそ、関係性は深まり、信頼が育つ。
「ちゃんとしていない自分でも、ここにいていい」と思える場所をつくること。
それは、自分にも他者にも優しい世界をつくる第一歩になる。
人間くさくいることは、効率や成果だけでは測れない「生きることの味わい」を大切にすることでもある。
遠回りしてしまった経験
言い過ぎて後悔した夜
誰かの一言に救われた瞬間
そうした出来事の中にこそ、人間らしい温度や物語がある。
完璧さを求めるあまり、人生が『正解探し』になってしまうと、そこには余白がなくなってしまう。
でも、人間くさくいることを許すと、失敗も迷いも、すべてが『生きている証』として意味を持ち始めるの。
それは、人生を丁度よく「整える」ことではなく、「味わう」ことへの変換でもあるのような気もしている。
「人間くさく居たい」という願いは、自分の弱さや揺らぎを否定せずに、誰かと共に生きていこうとする姿勢だ。
それは、完璧さを手放し、感情を抱きしめ、不器用なままでも関係を築こうとする、静かな強さ。
そしてその在り方は、他者とのあいだに温度を生み、信頼を育て、人生に深みを創ってくれる。
人間くささを恥じるのではなく、それを『生きている証』として大切にしてみる。
そのまなざしが、言葉や行動に温かさと真実味を宿してくれるのだと思っている。
ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ