今日もキャリアの中の大切な一日
7月
23日
忙しさに流された日
うまく進まなかった日
自信を失った日
そんな日々も、過去を振り返れば「全く無意味な時間」だったとは言い切れないはず。
むしろ
その一日こそが、自分らしいキャリアの質を育てる「原材料」になっているのでは。
「今日もキャリアの中の大切な一日」
そう自分に言い聞かせることで
・今の営みにまなざしが向き
・未来のために我慢するではなく、「今を通じて育つ」という納得が生まれ
・結果待ちではなく、「プロセスを生きる」という姿勢が整う
つまり
「今日を位置づける言葉」が、『生き方とキャリアの軸』を育てていくような気がする。
キャリアというと
「経験」
「資格」
「成果」
「肩書き」
などの外的要素として語られることが多い。
けれども
本質的には、キャリアとは「自分が何を大切にして、どう振る舞ってきたか」の連続的な記録なんじゃないかと。
つまり
・うまくいかない中でも、誠実に関わった一日があって
・課題が明確でない中でも、問い続けた一日があって
・誰かのために、自分の余白を差し出した一日があって
これらすべてがキャリアに含まれる。
それは、「成果として残るもの」ではなく、「態度として染み込むもの」として蓄積されているんだ。
だからこそ、日々の営みのなかに、
(これは自分のキャリアの一部だ)と感じられるまなざしを持つことが、働く意味と納得感を育てていくと思っている。
(これは自分のキャリアの一部だ)と感じられるまなざしを持つことが、働く意味と納得感を育てていくと思っている。
そう考えると
キャリアは「実績の集合体」だけではなく、『在り方の連続性』から作られていくものと言えるんじゃなかな。
「何をしたか」より、「どう過ごしたか」
それがキャリアに温度を与えてくれる。
キャリアは履歴書には書ききれない部分がほとんどのような気がする。
そこに宿るのは
・迷いながらも、誰かに誠実に関わった時間であったり
・決断の前に、問いと向き合った時間であったり
・無理に前へ進まず、整え直した時間であったり
そんな、言葉にならない数多くの営みの温度感。
だからこそ
「今日もうまくいかなかった」ではなく、「今日もキャリアの一部を生きた」と言い換えてみる。
それは
成果主義でも成長主義でもない、『納得主義』とも呼べるようなもののような気がして。
今日もそんな時間がたくさん存在していたのを、しっかりと自分に伝えてあげたいね。