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加藤雄一のブログ

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予定通りではないけど大丈夫

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予定通りではないけど大丈夫
『予定』は、人の行動を整えるために必要な道具なんじゃないかなと思っているんです。  
 
それこそ、「まずは」って始まるあたり、そこが整っていないと始まるものも始まらないわけで。
 

ただ
 
人生は予定通りにいかないことの連続でもありますよね(笑)
 
  
それでも

予定がズレても、変更されても、止まってしまっても、その時間が「無意味」になるわけではないわけです。
 
「予定が変わった」というだけで。
 
 
むしろ
 
予定外の時間のなかにこそ、自分の本音や、誰かとの関係性、思いがけない学びが宿ることがあるような気もするんです。
 
 
そして「予定通りではないけど大丈夫」という言葉は、結果ではなく、まずはプロセスそのものに意味を見出す選択なんだと思っています。
 
 
 
予定を立てるとき、私たちはゴールに向かうための合理性や効率、そして目標達成を軸に計画を整えます。  

けれども
 
予定通りにいかなくなるときというのは 、外部の事情だけではなく、自分の内側が、予定に違和感を示しているというサインであることもあります。
 
たとえば

・気が進まなかった予定に、なんとなく遅れてしまった 

・本来やるべきだったことが、手につかなかった  
 
・別のことに心が惹かれて動いてしまった
 
こうした『予定のズレ』は、結局は自分の感情や欲求、本音の声がにじみ出ていることなんだと思います。
 
なので

予定通りでないことを焦ったり責めるのではなく、「今の自分が何を求めていたか」に目を向けることで、今の感情との対話が、いよいよ始まります。  

それは
 
「意志なきズレ」ではなく、「意志を探るためのズレ」として、捉え直すためのきっかけのようにも思います。
 
 
また、仕事や支援の現場でも、予定通りに進めることは重要です。  
 
ふとした変更や遅延、思いがけない会話の流れから、予定外のあたたかさや深い気づきが生まれることもあるからです。
 
・本題に入る前の雑談が、思いもよらない共感につながった  

・プログラムの変更により、参加者の声が自然に引き出された  
 
・ 脱線した話から、根本的な問いが立ち上がった!
 
予定通りではない時間は、管理された場ではなく、流れに身を委ねる場として作用します。  

そしてそのとき、人は自分らしい声を出しやすくなり、関係性の質が静かに深まっていくような気がしています。  
 
そう考えると
 
「予定の逸脱」は、「関係性の回復」にとっても必要な『ゆらぎ』なのかもしれません。
 
 
さらに
 
予定が崩れると、「自分が計画的に動けていない」「ちゃんとしていない」と感じてしまうこともあります。  

とはいえ
 
予定はあくまで手段であり、自己の価値や軸そのものを測るものではないのです。
 
・相手の都合で延期になっても、自分の準備が嘘になるわけではない
 
・体調不良で休んでも、これまでの積み重ねが消えるわけではない  

・プロジェクトの進行が遅れても、関わる姿勢が崩れるわけではない
 
心当たりありませんか?
 
こうした視点から見ると、予定通りに進むことではなく、どんな変化にも実直に向き合う姿勢こそが、自分の品質なのだと気づくことがあります。
 
予定通りでなくても大丈夫
 
それは、「自分の軸は、外的な変化によって損なわれない」と思い出す言葉でもあるんだと思います。
 
 
「予定通りではないけど大丈夫」という言葉は、うまくいかなくて自分を責めがちな場面で、「今の営みに価値がある」と信じようとする、優しさと生真面目さの入り混じった言葉です。  
 

それは、うまくいかない時間にも光を当て、計画からこぼれた体験にも意味を見出すという、プロセスに宿る価値全てを受け止めようとする姿勢なのかもしれません。
 
構造だけでなく、流れにも耳を澄ます力を信じ、より深く自分とつながっていきたいなと思うこの頃でした。

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進みながら待つ ~「進む」と「待つ」は両立できる~その姿勢が変化を育てる

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進みながら待つ ~「進む」と「...
何かを変えたい
 
動かしたい
 
実現したい
 
と願うとき、  つい「進む」ことばかりに意識が向き、「待つ」ことを停滞と感じてしまいがちになる。
 
 
けれども
 
本当の変化とは「進む」ことと「待つ」ことの両方が共存している時間の中で、じわじわと育まれるもの。  
「進みながら待つ」とは、状況を動かす力に抗わず、自分の呼吸に耳を澄ましながら、できることを重ねていく誠実な姿勢のような気がしている。
 
 
 
「進む」とは、必ずしも大きな決断や劇的な行動だけをを指すわけではない。
 
むしろ、「今の自分にできること」を少しずつ選び重ねていく、日々の静かな実践を指す場合もある。
 
・次の一歩が分からなくても、小さな記録を残しておく  
・相手からの反応がなくても、丁寧なメッセージを差し出す  
・何が動くか分からなくても、場を整えて待つ
 
これらは、受け身ではなく、「能動的な準備」の一部分。  

つまり、進むとは「自分を整える力を使うこと」でもあり、それがやがて流れを動かす準備になるように思う。
 
 
誰かとの関係において、「もっとわかってほしい」「早く動いてほしい」と願うことがある。  

ただ
 
相手の準備が整っていないときに、焦って変化を求めると、関係性はすれ違いや摩擦が生まれる。  

だからこそ、「待つ力」が必要になる。
 
「待つ」とは、何もしないことではなく、相手の変化に必要な時間を尊重するという実践。  
 

その実践には、信頼、寛容、忍耐、余白へのまなざし、そうした力が宿っているんだと思う。
 
 
 
特に支援や対話の場では、「今、踏み込むべきか」「今は待つべきか」という判断が、関係性の質を左右することがある。
 
 
そのとき
 
「進みながら待つ」姿勢を持っていたなら、自分ができることは実直に行いながら、相手の反応や場の変化に耳を澄ませることができる。
 
つまり、「待つことに甘えず」「進むことに傲らず」、『タイミングを育てる実践者』として場を整えていける。
 
 
「進みながら待つ」という言葉は、  

焦らず、止まらず
 
その絶妙なリズムの中で、自分と誰か、そして場との関係性を育てていこうとする意志の表れなんだ。
 
それは、力技で動かすのではなく、『整えることで動きを呼び込む』という、静かな実践。  

そしてその実践こそが、変化を納得できるかたちで迎え入れる土壌になるのだと思う。
 
今日も、進み続けながら待とう。

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