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加藤雄一のブログ

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あなたの魅力や強みを輝かせるお手伝いをしています

14億円のバーキンを見て、昔大事にしていたおもちゃを思い出した

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14億円のバーキンを見て、昔大...
( 最初はピカピカだった。
 
棚の上に並べられ、誰かの手に取られる日を待っていた。
 
けれど
 
あの子が僕を選んだ瞬間から、僕の世界は変わった。
 
抱きしめられ、振り回され、時には泥まみれになって、それでも僕はその腕の中が一番好きだった。
 
体の一部がちぎれても、塗装が剥げても、僕の価値は変わらなかった。
 
夜寂しくなったときにはそっと寄り添い、泣きやむまで一緒にいた。
 
言葉なんていらなかった。
 
ただ、あの子の「安心」の一部になれていた。
 
やがて棚の奥へ押し込まれ、他のおもちゃと並べられるようになった。
 
でもね、僕は悲しくない。
 
だって、僕のボロボロは、愛された証なんだ。あの子の成長のそばにいた時間が、僕を満たしている。
 
もしもう一度手に取られることがあるなら、僕はまた全力で寄り添うだろう。その瞬間を、ずっと待っている。)
 
もうどこに行ったかわからないけど、あの頃ボクのそばにいてくれたあのおもちゃは、きっとそんな気持ちでいてくれたんじゃないかなー、と思ったお話。
 
ありがとうね

ワオ!と言っているユーザー

仕事を通して一緒に豊かになろう

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仕事を通して一緒に豊かになろう
「仕事は私を豊かにする」
 
この言葉には、働くことが自分の成長や関係性の充実につながっているという実感がにじみ出ている気がする。  

仕事とは、本来「お金を稼ぐための手段」だけではなく、自分の力を誰かのために使うこと、自分の価値観を形にすること、そして他者との交わりを通じて新たな自分を発見する場でもあると思っている。
 
 
つまり、仕事は「こなすべきこと」ではなく、常に「育つ場」。
 
いや
 
「育たなくてはいけない場」なのではないか。
 
 
そしてその場に誠実に向き合ったとき、人は自分自身が何たるかを理解し、人生を豊かにしていくことができるのだと思う。
 
 
 
仕事を通じて、私たちは自分が持っている知識や経験、態度や感性が、誰かのためになっていることに気づく瞬間がある。
 
 
自分の言葉が相手を励ました
 
自分の役目が誰かの安心につながった  
 
自分の提案が場を動かした
 
 
こうした経験は、自分という存在が社会に何かしらの力を届けているという実感を育ててくれている気がしている。  
 

それは、自己価値を確認するだけでなく、「誰かの役に立てる自分」としての誇りや手応えにもつながっていくんだろう。
 
 
 
仕事は、必ず誰かとの関係性の中で成り立っている。
 
 
その関係性の質が深まっていくことで、自分の見えている世界の輪郭も変わっていく。
 
 
業務を超えた雑談の中で相手の価値観に触れたり、丁寧な対話によって誤解がほどけたり……

そうしたやり取りを通じて、自分の見つめていた世界観がより寛容に、そしてより深くなっていくことに気づく。
 
つまり、仕事は単なるタスク処理ではなく、他者との「心の往復」によって、自分を耕す場でもあるんだろう。  
 

関係性を大切にする姿勢が、「自分がどうありたいか」という在り方を静かに整えてくれる。
 
 
 
「自分が何を大切にしたいか」は、言葉にすれば簡単ですが、それを具体的な行動として示すのは容易ではない。
 
 
その点でいえば
 
仕事は「思い」を「かたち」にする場
 
つまり、価値観を実装するフィールドでもあるのだと思うんだ。
 
 
たとえば
 
誰かに優しく接すること  

丁寧な言葉遣いや傾聴  

小さな改善を続けること
 
そうした行動が、自分の信じていることを実際に届ける手段になる。
 
仕事を通じて、自分が『どう生きたいか』に近づいていくことは、人生の深みをつくる最も身近な時間のように思う。
 
 
「仕事は私を豊かにする」と言えることは、成果だけでなく、働くことで自分の価値や感性が誰かに伝わっていると感じられること。  
 

それは
 
他者との関係性を通じて自分の世界観を広げ、そして価値観を行動に落とし込むことで人生を形づくるという、静かで力強い実践なんだ。
 
そしてその実践があるからこそ、仕事は「こなすもの」ではなく、いつまでも「育つ場」として息づいていく。
 
仕事を通じて、自分という存在の輪郭を深め続けていくことを、もっと真剣に、そしてもっと楽しんでもいいような気がした、日曜日の夕暮れどき。

ワオ!と言っているユーザー

つまずいても大丈夫

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つまずいても大丈夫
『レジリエンス』という言葉を学んだ。
 
回復力、復元力といった自然的治癒力。
 
逆境や困難を乗り越える力。
 
そして
 
誰もが備えている力。
 
「折れない強さ」というニュアンスで訳されていることが多いイメージだが、「折れても大丈夫」というところまで含められているような気もしている。

また
 
レジリエンスは「回復力」や「しなやかさ」と訳されることがあるが、それは決して『無傷でいるための強さ』ではない、と思っている。
 

むしろ
 
傷つきながらも、少しずつ自分の力で立ち上がろうとする力
 
それが『レジリエンス』なんだと思う。  
 
 

悲しみ
 
失敗
 
不安
 
喪失
 
 
 
人生の揺らぎの中で、私たちは何度も立ち止まり、迷い、傷ついてきた。
 
けれども
 
そのたびに、自分なりの方法で呼吸を整え、言葉を見つけ、また前を向いてきた。
 
 
「自分の中にある」レジリエンスとは、その過程すべてを肯定する『生きる力の記憶』といえるような気がする。
 
 
 
 
レジリエンスは、過去の困難を「うまく乗り越えた」ことからしか生まるというわけではないとも思う。  
 

むしろ
 
「あの時は苦しかった」
 
「できないことばかりだった」
 
と思える経験の中にも
 
自分なりに持ちこたえた瞬間
 
助けを求めた勇気
 
涙をこらえた時間
 
忘れられがちになるが、そうした中に『微細な力』が宿っているんだと思っている。
 
 
たとえば

・誰かに相談できた  
・休む選択ができた  
・感情を言葉にできた  
・ 小さなことに笑えた  
 
些細なことかもしれないが、これらはすべて、「自分が自分の味方でいられた瞬間」なんだ。
 
 
その記憶を丁寧にすくい上げることで、「自分の中にも、しっかりとしなやかな力がある」と気づくことができる。
 
 
 
自分の中にあるレジリエンスとはいえ、その力は他者との関係性の中で育まれることが少なくない。 
  

誰かに話を聴いてもらえたとき
 
自分の存在を肯定してもらえたとき
 
寄り添ってくれる人がいたとき
 
  
そうした経験があることで、私たちは「自分はひとりではない」「また立ち上がれるかもしれない」という『関係性による回復』が生まれ、そしてそんな瞬間が実は今までたくさんあったことに気づかされる。
 
 
だからこそ
 
自分のレジリエンスに気づくためには、「誰との関係が、自分を支えてくれたか」「どんな言葉が、自分を励ましてくれたか」を思い出すことが有効なんだ。  
 

それは、自分の中にある力と誰かとのつながりが共鳴して育ったレジリエンスといえるのかもしれない。
 
 
 
レジリエンスという言葉に、「完全に立ち直ること」「常に前向きでいること」などのイメージを重ねてしまうことがあった。  

でも
 
本当のレジリエンスは、常に揺らぎながらも、自分なりに選び直す力のことを指すような気もする。  


 
「今日は休む」
 
「涙が出るままに泣いてみる」
 
「無理せず話せる人を探す」
 
そうした選択のひとつひとつが、自分だけの回復力の表現であり、自分に対して誠実な実践方法なんだと思う。
 
そう考えると
 
レジリエンスとは完成された回復ではなく、その過程にいる『自分を否定せずにいられる力』もレジリエンスなのかもしれない。
 
 
「自分の中にあるレジリエンス」に気づくことは、傷ついた過去を否定するのではなく、そこに力が宿っていたことを丁寧に見つめ直すことなんだろう。
 
 
その力は、完璧さでも、強がりでもなく、揺らぎながらも選び続けてきた「自分だけの営み」。  

そしてそれは、自分を整える力であると同時に、誰かに寄り添うときの足場にもなる。
 
ただの回復力ではなく、  

「自分の弱さを扱う力」
 
「困難の中でも選べる力」
 
「再びつながり直す力」
 
回復するまでの過程そのものがレジリエンスで、それは全ての方が備えていて、そしてこれまでの経験の中に確かに息づいているように感じる。
 

ワオ!と言っているユーザー

感情リテラシーは、自己理解と他者理解をつなぐ『心の言語力』

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感情リテラシーは、自己理解と他...
 ネットリテラシー
 
マネーリテラシー
 
ヘルスリテラシー
 
 世の中には様々な〇〇リテラシーがある。
 
リテラシーって何だ? 
 
調べてみると  
 
【リテラシーとは、もともと「読み書きの能力」を指す言葉であったが、現在では「特定の分野」における知識やその活用能力を意味する】 
 
とある。
 
興味があって調べてみると、あった。
 
『感情リテラシー』
 
 
。.ꕤ………………………………………..ꕤ.。
 
 
感情は、すべての人に備わっている自然な反応。  

喜び
 
怒り
 
悲しみ
 
不安
 
我々はこれまで、無数の感情を経験してきた。  
 

それらの感情に気づき、言葉にし、意味づけていく力
 
それが「感情リテラシー」。
 
感情リテラシーとは、単なる『感情のコントロール』ではない。
 
感情を認識し、表現し、理解するための「言語力」のようなもの。  

この力が育まれることで、私たちは自分自身と向き合いやすくなり、他者との関係性にも深さとしなやかさが生まれていく。
 
 
 
感情リテラシーが高まると、自分の感情に気づき、それを言葉で捉えられるようになる。
 
 
たとえば
 
「なんとなくモヤモヤしている」と感じたときに、
 

「これは不安かもしれない」
 
「期待していたからこそ、裏切られたように感じているのかもしれない」
 
と言語化できることで、感情が「ただの重さ」ではなく、『メッセージ』として扱えるようになる。
 
自分が納得できていないことには『重さ』がともなう。
 
だからか、頭も心も重いのは(笑)
 
このプロセスは、自己理解の土台になるだけでなく、自分との誠実な対話の入り口にもなる。
 
 
「どうしたら落ち着くか」
 
「どんな価値が傷ついたか」
 
を丁寧に探ることで、自分の輪郭が、少しずつ明確になっていく。
 
 
また
 
感情を適切に言葉にできる人は、他者にその感情を伝えることもできるようになる。
 
「あなたの言葉に少し傷ついた。責めたいわけじゃないけど、驚いた。」
 
というように、責めずに、でも誠実に感情を共有できることが関係性の質を高めていく。
 
多くの人はココを遠慮するから、感情に「重さ」が生まれ、そして重みが増していくんだろう。
 
また、相手の感情に気づく感度も高まり、  
「この人は今、怒っているように見えるけど、本当は不安なのかもしれない」などと『表面の感情』と『奥にある感情』を見分ける力が育っていく。
 
 
それは、対話において「共感」と「安全性」を生み出す力でもあるような気がする。
 
 
そして大事だなと思うのがココで
 
感情リテラシーがある人は、行動が「感情とつながったかたち」で選ばれていく傾向があるように思っている。  
 
それは怒りたい時に怒るとか、自由気ままなものではなくてね(笑)
 

「本当は断りたかったけど、申し訳なさで引き受けてしまった」
 
ではなく

「私は今、遠慮して引き受けようとしている。でも、それによって自分の疲れを犠牲にすることになる」
 
と気づけることで、自分にとって納得のいく選択が可能になる。
 
この一致性こそがとても重要で
 
自己の誠実さや行動の意味を高める土台となり、結果的に「無理のない関わり方」や「自分らしい生き方」へとつながっていくと思っている。
 
行動と感情の『一致性』が育む。
 
それを意識して過ごすことが、『心の言語力』を高めることにつながり、そして自分自身の人生の質を、きっと今よりも濃密なものにしてくれるんだと思う。

ワオ!と言っているユーザー

自分のあり方を見つめ直す50音

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自分のあり方を見つめ直す50音
倫理観、道徳心、自己哲学、自己知…最近は目まぐるしくこんなワードと触れ合っている感覚の毎日。
 
 
自分のあり方を考える時間が長くなると苦しくなるので、どっかで適当に切り上げないと。
 
再掲になるけど、時々ふと見返す『より良い関係を築く50音』

大好きな人とはより仲良く、そうでない人とはちょうどいい距離で。
 
そんなことを考える日でした𓈒𓂂𓏸
 
 
。.ꕤ………………………………………..ꕤ.。
 
「あ」焦って話しをしない。
「い」言い訳を許す。
「う」うまく話そうとしない。
「え」偉そうな振る舞いをしない。
「お」怒った口調で話しをしない。
 
「か」カッコつけて話しをしない。
「き」決めつけた話し方をしない。
「く」屈折した思い込みを持たない。
「け」敬意のない態度で話しをしない。
「こ」腰を折って自分の話しをしない。
 
「さ」さっさと終わらせようとしない。
「し」正直に話す。
「す」全て聴き出そうとしない。
「せ」専門的な言葉ばかり使わない。
「そ」損得で話しをしない。
 
「た」淡々とした態度で話しをしない。
「ち」知識をひけらかした話しをしない。
「つ」つまらなそうに話しを聞かない。
「て」適当な態度をとらない。
「と」棘のある言葉で話さない。
 
「な」内緒話ばかり話さない。
「に」逃げ道を作ってあげる。
「ぬ」温もりのある話し方をする。
「ね」ネガティブな話題ばかり聞かせない。
「の」能力を貶める話しをしない。
 
「は」早口で話さない。
「ひ」否定した言葉遣いをしない。
「ふ」不機嫌な態度で話さない。
「へ」返事をする。
「ほ」本音で話す。
 
「ま」惑わせる情報を伝えない。
「み」身振りも交えて伝える。
「む」無理に言わせようとしない。
「め」目を合わせる。
「も」物差しが違うことを心掛ける。
 
「や」安らぎを与える。
「ゆ」譲り合う。
「よ」要求だけしない。
 
「ら」乱暴な態度を見せない。
「り」理屈を通さない。
「る」ルールを守る。
「れ」連帯感を大切にする。
「ろ」論破しない。
 
「わ」笑いを共有する。
 
「ん」ん?どうした?と相手に興味を寄せる
 
。.ꕤ………………………………………..ꕤ.。
 
実践できていないことも多いので、自分自身心に掛けていこう!

ワオ!と言っているユーザー

諦めの手前に、まだ残っているもの

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諦めの手前に、まだ残っているも...
(もう、すべてやり尽くした)
 
そう感じる瞬間が訪れることがある。
 
努力しても報われない。
 
工夫しても届かない。
 
何をしても変わらない。
 
 
そんなとき、「もう無理だ」と心を閉じたくなる。  
 

けれども、その『諦めの手前』には、まだ思い出せることがある。  
 
 
なぜなら
 
実はそんな経験を乗り越えてきて今があるから。
 

それは、過去の自分の姿かもしれないし、誰かの言葉かもしれないし、ほんの小さな希望のかけらかもしれない。
 
 
「すべてやり尽くした」と感じるその瞬間こそ、『まだ残っているもの』に目を向けるための静かな問い直しのときなのかもしれない。
 
 
(やり尽くした)の中に、まだ見えていない自分がいる気がする。
 
「やり尽くした」と感じるときに、人は「できること」をすべて出し切ったように思うことがある。  

けれども、その「できること」の定義が、無意識に狭くなっていることもあるように思う。
 
 
たとえば
 
「頑張る」
 
「考える」
 
「動く」といった『能動的な努力』ばかりを重ねてきたとき、「委ねる」とか「待つ」とか「誰かに頼る」といった選択肢が見えなくなっていることがある。
 
「やり尽くした」と思ったときこそ、『自分の中にまだ使っていない力』があるかもしれないと問い直すこと。  
 

それは、「何をするか」ではなく、「どう在るか」を見つめ直す時間でもあるんだろう。
 
 
諦めたくなるほどに頑張ったということは、それだけ真剣に向き合ってきた証。  
 

「もう無理だ」と思えるほどに、あなたはすでに多くのことを試し、考え、動いてきた。  
 

その事実を、まずは誰よりも自分自身が認めてあげることが大切。
 
「まだ頑張れるでしょ」
 
と自分を叱咤するのではなく、  
「ここまでよくやってきたね」と自分の歩みを労うことが、次の一歩を生む『静かな回復』につながる。
 
 
諦めの手前で必要なのは、努力の継続ではなく、努力の承認かもしれない。
 
 
 
「やり尽くした」と感じるとき、私たちは往々にして“自分一人で”なんとかしようとしてきたのかもしれない。
 
けれども、人は誰かとつながることで、思いもよらない力を取り戻すことがある。  
 

誰かに話を聴いてもらうことで、自分の考えが整理されたり、  
何気ない一言に救われたり、  
「あなたがいるだけで助かっている」と言われて、自分の存在の意味を思い出したり。
 
諦めの手前で思い出したいのは、「自分がすべてを背負わなくてもいい」ということ。  

そして、「誰かと共にあることが、もう一度歩き出す力になる」ということなんだろう。
 
 
 
「すべてやり尽くした」と感じる瞬間は、決して弱さではない。
 
 
それは、真剣に生きてきた人だけがたどり着ける、ひとつの節目。
 
 
けれどもその節目の手前には、まだ思い出せることがある。  
 

まだ見えていない自分、すでに積み重ねてきた歩み、そして誰かとのつながり。
 
 
それらを丁寧に見つめ直すことで、(もう一度、自分を信じてみよう)と思える小さな灯りがともるんじゃないかな。
 
諦める前に、ほんの少しだけ立ち止まって、  
「本当に、すべてやり尽くしたのだろうか?」と、  
自分に問いかけてみたい。
 
その問いの中に、まだ終わっていない物語の続きを生きる力が、きっと眠っているはずなんだ。
 
思い起こそう!

ワオ!と言っているユーザー

専門家でいる時間と休む時間

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専門家でいる時間と休む時間
学び続けていると、やがて専門家になる。
 
専門家であることは、知識や経験を積み重ね、ある領域において信頼される存在になること。  
 

けれども
 
「専門家になり過ぎる」ことが、時に他者との対話や自分自身の柔軟性を損なうこともある。
 
ボク自身はだいぶ拗らせてきた(笑)
 

専門性とは、最近は閉じた『知識の塔』ではなく、他者とつながるための『橋』みたいなものであるべきだと思うようになった。  
 

だからこそ
 
専門家であろうとするほどに
 
「専門家になり過ぎない」姿勢、つまり、問い続ける余白や、わからなさを抱える勇気を持つ必要を自覚することが大事になる気がしている。
 
 
 
 
専門家であることは
 
知っていること、できることが多い
 
ということ。  
 

ただ
 
「知っているからこそ、わからないふりができない」状態に陥ると、対話はどんどん閉じていく。
 
ボクは知識を振りかざしていたんだ。
 
 
たとえば
 
相手の問いに対してすぐに答えを出してしまったり、正解を提示することが「支援」だと錯覚してしまったり。
 
つまり
 
アドバイスしたい自分はスゴイ
 
そんな感覚。
 
 
そうした瞬間に
 
相手の内側にある「まだ言葉になっていないもの」を、ボクは置き去りにしてしまっていたんだ。
 
 
 
「専門家になり過ぎない」とは
 
「わからない」
 
を一緒に抱える姿勢を持ち続けること。  
 

それは、知識を手放すことではなく、知識の上に「共に考える余白」を残すことのような気がしている。
 
 
 
専門性が高まるほど、「正しさ」や「効率性」を重視しがちになる。  
 
うまくできる
 
早くできる
 
そんな自分がスゴイ
 
そんな感覚。
 

けれども、人と人との関係性においては、正しさが必ずしも相手の心に届くとは限らない。
 
むしろ、相手に受け取ってもらえないことが増えていた。  
 

ときに、正しいアドバイスよりも
 
「一緒に悩んでくれた」
 
「自分の話を最後まで聴いてくれた」
 
という経験の方が、相手にとって深い意味を持つことがあることも、たくさんの方から教えていただいた。
 
 
「専門家になり過ぎない」とは、「正しさを届ける人」ではなく、「関係性を育てる人」であろうとすること。  
 

それは
 
知識や技術を「上から与える」のではなく、「関係の中で育て合う」という姿勢を大切に選ぶことでもあると思っている。
 
 
 
専門家でありたいということは、ある意味で「完成された存在」と見られたいという気持ちもあるんだと思う。  

そのうえで
 
「専門家になり過ぎない」姿勢を持つことで、自分自身も常に「学びの途中」であることを忘れずにいられる。  
 
異なる分野の人との対話
 
初心者の視点
 
子どもの問い
 
そうした「自分の外側」にあるものに触れることで、専門性は深まるだけでなく、ひらかれていくんだろう。
 
 
専門家であることに安住せず、「まだ知らないことがある」「まだ変われる自分がいる」と思い続けること。
 
簡単なようで、難しい。 
 
 
 
「専門家になり過ぎない」という姿勢は、知識や経験を否定するものではないと思っている。
 
 
むしろ、専門性を「他者とつながるための力」として活かすために必要な、もうひとつの成熟のかたちなんじゃないかな。
 
 
わからなさを抱え、正しさを手放し、相手や自分との関係性に耳を澄ませる。  
 

その姿勢が、専門性を「閉じた塔」ではなく、「ひらかれた橋」へと変えていくように思う。
 
そして何より、「専門家になり過ぎない」人は、自分自身の変化を許し続けることができる人のような気がする。  
 

その柔らかさこそが、自分だけでなく、誰かの変化をも支える力になるんだろう。

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人は促進力と抑止力のあいだで生きている

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人は促進力と抑止力のあいだで生...
普段何気なく過ごす私たちの行動の中には
 
 
「進もうとする力(促進力)」と
 
「踏みとどまろうとする力(抑止力)」
 
 
のせめぎ合いがあります。
 
 
 
前に進むことだけが成長ではなく、立ち止まること、踏みとどまることにも意味があるように思っています。
 
 
促進力と抑止力は、どちらかが正しくてどちらかが悪いのではなく、どちらも私たちの意思決定を支える『内なる力』です。  
 

どちらか片方だけでなく
 
この二つの力を丁寧に見つめ、使い分けることができたとき、私たちはより自分らしく、よりしなやかに生きることができるような気がしています。
 
 
 
促進力とは
 
「やってみたい」
 
「変わりたい」
 
「届けたい」
 
といった内なる願いから生まれる力です。  
 

一方で
 
抑止力は
 
「失敗したくない」
 
「傷つきたくない」
 
「迷惑をかけたくない」
 
といった内なる恐れや慎重さから生まれます。
 
 
どちらも人間らしい感情ですよね。
 
そして
 
どちらも私たちを守ろうとする力です。  
 
 
 
新しい挑戦を前にしたときには、「やってみたい」という促進力と、「失敗したらどうしよう」という抑止力が同時に働くことがあります。  
 

このとき、どちらかを否定するのではなく、両方の声に耳を傾けることが、自分にとって最も納得のいく選択を導く鍵になってきたように感じています。
 
 
 
抑止力はしばしば「行動を妨げるもの」としてネガティブに捉えられがちですが、実はそれは暴走を防ぐための『バランサー』でもあるような気がしています。  
 

勢いだけで突き進もうとしたときに、「ちょっと待って、本当にそれでいいの?」と問いかけてくれるのが抑止力で、きっと数え切れないくらい助けられてきたように思います。
 
この力があるからこそ、私たちは衝動ではなく、意志をもって行動を選ぶことができるんでしょうね。  
 
 
 
大切なのは、促進力と抑止力のどちらかを強めることではなく、両者のあいだに『対話』を生み出すことなんじゃないかと。  

「やってみたいけど怖い」
 
という状態は、まさにその対話の入り口。  

このとき
 
「なぜやりたいのか」
 
「何が怖いのか」
 
「どうすれば安心して一歩踏み出せるか」
 
といった問いを重ねることで、行動はより自分らしいかたちで整っていくように思います。
 
 
そういう観点でいえば、促進力は『動機づけのエネルギー』であり、抑止力は『ストレス反応の兆し』とも捉えられるように思え、それはしっかりと感じとっておくべき感覚のような気もします。  

両者を観察し、言語化し、必要に応じて調整することが、自分の行動スタイルを最適化する鍵になっていくんでしょうね。
 
 
 
 
促進力と抑止力は、どちらも私たちの内側にある『生きる力』です。  

前に進もうとする願いと、立ち止まろうとする慎重さ。  

その両方を否定せずに受け入れ、対話させることができたとき、私たちはより深く、より納得のいく行動を選ぶことができるんだと思います。
 
促進力だけでは空回りし、抑止力だけでは閉じこもってしまう。  

だからこそ、両者のバランスを見つめることが、自分らしい実践を育てる土壌になり、それが整ってこそより良い選択ができていくような気がしています。

ワオ!と言っているユーザー

そうすることに何の意味があるの?

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そうすることに何の意味があるの...
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
一日に35,000回は決断の機会があるといわれるが、その中でもこんなつぶやきが伴う決断が一日に何回かはあるんじゃないだろうか。
 
「それって何の意味あるの?」
 
時に冷たく、時に鋭く響く。
 

けれどもこの問いは、行動の価値を否定するためのものではなく、その行動に『自分なりの意味』を見出すための入り口なんじゃないかなと思っている。
 
 
意味を問うことは、ただの正当化のようにも思えたりするが、自分の選択に納得と方向性を与えるための静かな対話の機会のような気がする。  
そしてその問いを丁寧に扱うことが、日々の営みを『ただの作業』から自分の人生に対する『生きた実践』へと変えていくようにも思う。
 
 
ボクたちは日々、無数の選択と行動を繰り返している。  

けれども、その一つひとつに「なぜそれをするのか?」という意味を感じない時、その行動は「義務」や「惰性」に変わっているのではないか。  
 

「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いを立てることは、自分の行動に対して『納得できる理由』を作るためのプロセスにも思える。
 
 
毎朝の掃除
 
誰かへの声かけ
 
地道な記録作業
 
単純な日課程度のこんな時間も、それらが「意味がある」と感じられるとき、行動は『自分の意志』として力強さを表してくる。  
 

意味を問うことは、行動に魂を通わせることなんだ。  

それは、他人に説明するためではなく、自分自身がその行動に誇りを持てるようにするための問いにも思える。
 
 
 
意味を問うことは、必ずしも「やる理由」を探すことだけではない。
 
 
ときには
 
「それをやらないことに意味がある」と気づくこともたくさんある。  

無理に人に合わせない
 
あえて沈黙を選ぶ
 
何もしない時間をつくる
 
そうした選択にも、自分なりの意味があれば、それは立派な実践なんだ。
 
この問いは、「やるべきかどうか」ではなく、「それをすることが、自分にとってどんな意味を持つのか?」という価値の問い直しともいえる。  
 

意味を問うことで、『やらないこと』にも納得と優しさを与えることができる。
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
 
という問いは、他者との関係性においても、対話の深みを変える力を持っていると思う。  
 
誰かの行動に対して「なぜそれをするの?」と尋ねるとき、それが責めではなく、「その人の大切にしているものを知りたい」という姿勢から発せられた問いであれば、関係性は深まるはず。
 
また、自分自身が意味を問う習慣を持っていると、他者の行動にも「その人なりの意味があるのだろう」と想像することができるようになる。  
 

それは、相手の行動を評価するのではなく、理解しようとする姿勢なんだ。  
 

意味を問うことは、自分との対話であると同時に、他者との対話の質を高める営みでもある。
 
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いは、時に迷いを生むこともある。
 
 
けれどもその迷いの中にこそ、自分が何を大切にしているのか、どんなふうに生きたいのかという本質を浮かび上がらせる。  
 

意味を問うことは、行動を正当化するためではなく、自分の人生に納得と方向性を与えるための静かな実践。
 
 
そしてその問いを繰り返すことで、私たちは「選ばされる人生」ではなく、主体的に『選び取る人生』を歩んでいけるのだと、実感している。
 

ワオ!と言っているユーザー

人間くさくていい

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人間くさくていい
「人間くさい」
 
AIが浸透してきたのを実感するこの頃。
この言葉が妙に心に刺さる。
 
「自分らしさ」
 
によく似た、そんな印象。
 
同じようで違うような、そんな感覚。
 
 
「人間くさい」
 
そこには感情があり、矛盾があり、揺らぎながらも誰かと関わろうとする『生きた存在』を表す言葉のようにも思う。  
 
 

毎日の中で、ついつい正しさや効率、スマートさを求められ、自分の『人間くささ』を隠そうとすることがある。
 
けれども、人間くさくいることは、自分の弱さや未完成さを否定せずに、そのまま抱えて生きるという、静かな勇気の表現にも思える。
 
 
 
 
人間くさくいるとは、感情を持っている自分を否定しないことなんだろう。
 
 

誰かに嫉妬してしまう
 
落ち込む
 
焦る
 
泣きたくなる
 
 
 
そうした感情を「未熟だから」と切り捨てるのではなく、「それも自分だ」と受け止めてみる。  
 

それは、感情に振り回されることとは違う。
 
むしろ、感情を丁寧に言葉にし、扱えるようになることで、自分の内面との信頼関係が深まっているように思う。
 
人間くささを許すことは、自分の感情に居場所を与えること。
 
 
そしてそれは、他者の感情にも寛容になれる土台をつくってくれている気がする。
 
 
人間くさくいたいという願いには、「完璧じゃなくても、誰かと関わっていたい」という想いも込められているんだろう。
  
 
うまく言葉にできないまま誰かに頼ること
 
失敗を認めて謝ること
 
照れながらも感謝を伝えること
 
それらはすべて、不完全な自分をさらけ出す勇気があってこそ。
 
人間くささとは、「弱さを見せられる強さ」でもあるんだろう。
 
 
ただ、それがあるからこそ、関係性は深まり、信頼が育つ。  

「ちゃんとしていない自分でも、ここにいていい」と思える場所をつくること。
 
それは、自分にも他者にも優しい世界をつくる第一歩になる。
 
 
 
人間くさくいることは、効率や成果だけでは測れない「生きることの味わい」を大切にすることでもある。  
 

遠回りしてしまった経験
 
言い過ぎて後悔した夜
 
誰かの一言に救われた瞬間
 
 
そうした出来事の中にこそ、人間らしい温度や物語がある。
 
 
完璧さを求めるあまり、人生が『正解探し』になってしまうと、そこには余白がなくなってしまう。
 
 
でも、人間くさくいることを許すと、失敗も迷いも、すべてが『生きている証』として意味を持ち始めるの。
 
 
それは、人生を丁度よく「整える」ことではなく、「味わう」ことへの変換でもあるのような気もしている。
 
 
 
「人間くさく居たい」という願いは、自分の弱さや揺らぎを否定せずに、誰かと共に生きていこうとする姿勢だ。
 
 
それは、完璧さを手放し、感情を抱きしめ、不器用なままでも関係を築こうとする、静かな強さ。  
 

そしてその在り方は、他者とのあいだに温度を生み、信頼を育て、人生に深みを創ってくれる。
 
人間くささを恥じるのではなく、それを『生きている証』として大切にしてみる。
 
 
そのまなざしが、言葉や行動に温かさと真実味を宿してくれるのだと思っている。

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