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加藤雄一のブログ

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感情リテラシーは、自己理解と他者理解をつなぐ『心の言語力』

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感情リテラシーは、自己理解と他...
 ネットリテラシー
 
マネーリテラシー
 
ヘルスリテラシー
 
 世の中には様々な〇〇リテラシーがある。
 
リテラシーって何だ? 
 
調べてみると  
 
【リテラシーとは、もともと「読み書きの能力」を指す言葉であったが、現在では「特定の分野」における知識やその活用能力を意味する】 
 
とある。
 
興味があって調べてみると、あった。
 
『感情リテラシー』
 
 
。.ꕤ………………………………………..ꕤ.。
 
 
感情は、すべての人に備わっている自然な反応。  

喜び
 
怒り
 
悲しみ
 
不安
 
我々はこれまで、無数の感情を経験してきた。  
 

それらの感情に気づき、言葉にし、意味づけていく力
 
それが「感情リテラシー」。
 
感情リテラシーとは、単なる『感情のコントロール』ではない。
 
感情を認識し、表現し、理解するための「言語力」のようなもの。  

この力が育まれることで、私たちは自分自身と向き合いやすくなり、他者との関係性にも深さとしなやかさが生まれていく。
 
 
 
感情リテラシーが高まると、自分の感情に気づき、それを言葉で捉えられるようになる。
 
 
たとえば
 
「なんとなくモヤモヤしている」と感じたときに、
 

「これは不安かもしれない」
 
「期待していたからこそ、裏切られたように感じているのかもしれない」
 
と言語化できることで、感情が「ただの重さ」ではなく、『メッセージ』として扱えるようになる。
 
自分が納得できていないことには『重さ』がともなう。
 
だからか、頭も心も重いのは(笑)
 
このプロセスは、自己理解の土台になるだけでなく、自分との誠実な対話の入り口にもなる。
 
 
「どうしたら落ち着くか」
 
「どんな価値が傷ついたか」
 
を丁寧に探ることで、自分の輪郭が、少しずつ明確になっていく。
 
 
また
 
感情を適切に言葉にできる人は、他者にその感情を伝えることもできるようになる。
 
「あなたの言葉に少し傷ついた。責めたいわけじゃないけど、驚いた。」
 
というように、責めずに、でも誠実に感情を共有できることが関係性の質を高めていく。
 
多くの人はココを遠慮するから、感情に「重さ」が生まれ、そして重みが増していくんだろう。
 
また、相手の感情に気づく感度も高まり、  
「この人は今、怒っているように見えるけど、本当は不安なのかもしれない」などと『表面の感情』と『奥にある感情』を見分ける力が育っていく。
 
 
それは、対話において「共感」と「安全性」を生み出す力でもあるような気がする。
 
 
そして大事だなと思うのがココで
 
感情リテラシーがある人は、行動が「感情とつながったかたち」で選ばれていく傾向があるように思っている。  
 
それは怒りたい時に怒るとか、自由気ままなものではなくてね(笑)
 

「本当は断りたかったけど、申し訳なさで引き受けてしまった」
 
ではなく

「私は今、遠慮して引き受けようとしている。でも、それによって自分の疲れを犠牲にすることになる」
 
と気づけることで、自分にとって納得のいく選択が可能になる。
 
この一致性こそがとても重要で
 
自己の誠実さや行動の意味を高める土台となり、結果的に「無理のない関わり方」や「自分らしい生き方」へとつながっていくと思っている。
 
行動と感情の『一致性』が育む。
 
それを意識して過ごすことが、『心の言語力』を高めることにつながり、そして自分自身の人生の質を、きっと今よりも濃密なものにしてくれるんだと思う。

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自分のあり方を見つめ直す50音

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自分のあり方を見つめ直す50音
倫理観、道徳心、自己哲学、自己知…最近は目まぐるしくこんなワードと触れ合っている感覚の毎日。
 
 
自分のあり方を考える時間が長くなると苦しくなるので、どっかで適当に切り上げないと。
 
再掲になるけど、時々ふと見返す『より良い関係を築く50音』

大好きな人とはより仲良く、そうでない人とはちょうどいい距離で。
 
そんなことを考える日でした𓈒𓂂𓏸
 
 
。.ꕤ………………………………………..ꕤ.。
 
「あ」焦って話しをしない。
「い」言い訳を許す。
「う」うまく話そうとしない。
「え」偉そうな振る舞いをしない。
「お」怒った口調で話しをしない。
 
「か」カッコつけて話しをしない。
「き」決めつけた話し方をしない。
「く」屈折した思い込みを持たない。
「け」敬意のない態度で話しをしない。
「こ」腰を折って自分の話しをしない。
 
「さ」さっさと終わらせようとしない。
「し」正直に話す。
「す」全て聴き出そうとしない。
「せ」専門的な言葉ばかり使わない。
「そ」損得で話しをしない。
 
「た」淡々とした態度で話しをしない。
「ち」知識をひけらかした話しをしない。
「つ」つまらなそうに話しを聞かない。
「て」適当な態度をとらない。
「と」棘のある言葉で話さない。
 
「な」内緒話ばかり話さない。
「に」逃げ道を作ってあげる。
「ぬ」温もりのある話し方をする。
「ね」ネガティブな話題ばかり聞かせない。
「の」能力を貶める話しをしない。
 
「は」早口で話さない。
「ひ」否定した言葉遣いをしない。
「ふ」不機嫌な態度で話さない。
「へ」返事をする。
「ほ」本音で話す。
 
「ま」惑わせる情報を伝えない。
「み」身振りも交えて伝える。
「む」無理に言わせようとしない。
「め」目を合わせる。
「も」物差しが違うことを心掛ける。
 
「や」安らぎを与える。
「ゆ」譲り合う。
「よ」要求だけしない。
 
「ら」乱暴な態度を見せない。
「り」理屈を通さない。
「る」ルールを守る。
「れ」連帯感を大切にする。
「ろ」論破しない。
 
「わ」笑いを共有する。
 
「ん」ん?どうした?と相手に興味を寄せる
 
。.ꕤ………………………………………..ꕤ.。
 
実践できていないことも多いので、自分自身心に掛けていこう!

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諦めの手前に、まだ残っているもの

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諦めの手前に、まだ残っているも...
(もう、すべてやり尽くした)
 
そう感じる瞬間が訪れることがある。
 
努力しても報われない。
 
工夫しても届かない。
 
何をしても変わらない。
 
 
そんなとき、「もう無理だ」と心を閉じたくなる。  
 

けれども、その『諦めの手前』には、まだ思い出せることがある。  
 
 
なぜなら
 
実はそんな経験を乗り越えてきて今があるから。
 

それは、過去の自分の姿かもしれないし、誰かの言葉かもしれないし、ほんの小さな希望のかけらかもしれない。
 
 
「すべてやり尽くした」と感じるその瞬間こそ、『まだ残っているもの』に目を向けるための静かな問い直しのときなのかもしれない。
 
 
(やり尽くした)の中に、まだ見えていない自分がいる気がする。
 
「やり尽くした」と感じるときに、人は「できること」をすべて出し切ったように思うことがある。  

けれども、その「できること」の定義が、無意識に狭くなっていることもあるように思う。
 
 
たとえば
 
「頑張る」
 
「考える」
 
「動く」といった『能動的な努力』ばかりを重ねてきたとき、「委ねる」とか「待つ」とか「誰かに頼る」といった選択肢が見えなくなっていることがある。
 
「やり尽くした」と思ったときこそ、『自分の中にまだ使っていない力』があるかもしれないと問い直すこと。  
 

それは、「何をするか」ではなく、「どう在るか」を見つめ直す時間でもあるんだろう。
 
 
諦めたくなるほどに頑張ったということは、それだけ真剣に向き合ってきた証。  
 

「もう無理だ」と思えるほどに、あなたはすでに多くのことを試し、考え、動いてきた。  
 

その事実を、まずは誰よりも自分自身が認めてあげることが大切。
 
「まだ頑張れるでしょ」
 
と自分を叱咤するのではなく、  
「ここまでよくやってきたね」と自分の歩みを労うことが、次の一歩を生む『静かな回復』につながる。
 
 
諦めの手前で必要なのは、努力の継続ではなく、努力の承認かもしれない。
 
 
 
「やり尽くした」と感じるとき、私たちは往々にして“自分一人で”なんとかしようとしてきたのかもしれない。
 
けれども、人は誰かとつながることで、思いもよらない力を取り戻すことがある。  
 

誰かに話を聴いてもらうことで、自分の考えが整理されたり、  
何気ない一言に救われたり、  
「あなたがいるだけで助かっている」と言われて、自分の存在の意味を思い出したり。
 
諦めの手前で思い出したいのは、「自分がすべてを背負わなくてもいい」ということ。  

そして、「誰かと共にあることが、もう一度歩き出す力になる」ということなんだろう。
 
 
 
「すべてやり尽くした」と感じる瞬間は、決して弱さではない。
 
 
それは、真剣に生きてきた人だけがたどり着ける、ひとつの節目。
 
 
けれどもその節目の手前には、まだ思い出せることがある。  
 

まだ見えていない自分、すでに積み重ねてきた歩み、そして誰かとのつながり。
 
 
それらを丁寧に見つめ直すことで、(もう一度、自分を信じてみよう)と思える小さな灯りがともるんじゃないかな。
 
諦める前に、ほんの少しだけ立ち止まって、  
「本当に、すべてやり尽くしたのだろうか?」と、  
自分に問いかけてみたい。
 
その問いの中に、まだ終わっていない物語の続きを生きる力が、きっと眠っているはずなんだ。
 
思い起こそう!

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専門家でいる時間と休む時間

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専門家でいる時間と休む時間
学び続けていると、やがて専門家になる。
 
専門家であることは、知識や経験を積み重ね、ある領域において信頼される存在になること。  
 

けれども
 
「専門家になり過ぎる」ことが、時に他者との対話や自分自身の柔軟性を損なうこともある。
 
ボク自身はだいぶ拗らせてきた(笑)
 

専門性とは、最近は閉じた『知識の塔』ではなく、他者とつながるための『橋』みたいなものであるべきだと思うようになった。  
 

だからこそ
 
専門家であろうとするほどに
 
「専門家になり過ぎない」姿勢、つまり、問い続ける余白や、わからなさを抱える勇気を持つ必要を自覚することが大事になる気がしている。
 
 
 
 
専門家であることは
 
知っていること、できることが多い
 
ということ。  
 

ただ
 
「知っているからこそ、わからないふりができない」状態に陥ると、対話はどんどん閉じていく。
 
ボクは知識を振りかざしていたんだ。
 
 
たとえば
 
相手の問いに対してすぐに答えを出してしまったり、正解を提示することが「支援」だと錯覚してしまったり。
 
つまり
 
アドバイスしたい自分はスゴイ
 
そんな感覚。
 
 
そうした瞬間に
 
相手の内側にある「まだ言葉になっていないもの」を、ボクは置き去りにしてしまっていたんだ。
 
 
 
「専門家になり過ぎない」とは
 
「わからない」
 
を一緒に抱える姿勢を持ち続けること。  
 

それは、知識を手放すことではなく、知識の上に「共に考える余白」を残すことのような気がしている。
 
 
 
専門性が高まるほど、「正しさ」や「効率性」を重視しがちになる。  
 
うまくできる
 
早くできる
 
そんな自分がスゴイ
 
そんな感覚。
 

けれども、人と人との関係性においては、正しさが必ずしも相手の心に届くとは限らない。
 
むしろ、相手に受け取ってもらえないことが増えていた。  
 

ときに、正しいアドバイスよりも
 
「一緒に悩んでくれた」
 
「自分の話を最後まで聴いてくれた」
 
という経験の方が、相手にとって深い意味を持つことがあることも、たくさんの方から教えていただいた。
 
 
「専門家になり過ぎない」とは、「正しさを届ける人」ではなく、「関係性を育てる人」であろうとすること。  
 

それは
 
知識や技術を「上から与える」のではなく、「関係の中で育て合う」という姿勢を大切に選ぶことでもあると思っている。
 
 
 
専門家でありたいということは、ある意味で「完成された存在」と見られたいという気持ちもあるんだと思う。  

そのうえで
 
「専門家になり過ぎない」姿勢を持つことで、自分自身も常に「学びの途中」であることを忘れずにいられる。  
 
異なる分野の人との対話
 
初心者の視点
 
子どもの問い
 
そうした「自分の外側」にあるものに触れることで、専門性は深まるだけでなく、ひらかれていくんだろう。
 
 
専門家であることに安住せず、「まだ知らないことがある」「まだ変われる自分がいる」と思い続けること。
 
簡単なようで、難しい。 
 
 
 
「専門家になり過ぎない」という姿勢は、知識や経験を否定するものではないと思っている。
 
 
むしろ、専門性を「他者とつながるための力」として活かすために必要な、もうひとつの成熟のかたちなんじゃないかな。
 
 
わからなさを抱え、正しさを手放し、相手や自分との関係性に耳を澄ませる。  
 

その姿勢が、専門性を「閉じた塔」ではなく、「ひらかれた橋」へと変えていくように思う。
 
そして何より、「専門家になり過ぎない」人は、自分自身の変化を許し続けることができる人のような気がする。  
 

その柔らかさこそが、自分だけでなく、誰かの変化をも支える力になるんだろう。

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人は促進力と抑止力のあいだで生きている

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人は促進力と抑止力のあいだで生...
普段何気なく過ごす私たちの行動の中には
 
 
「進もうとする力(促進力)」と
 
「踏みとどまろうとする力(抑止力)」
 
 
のせめぎ合いがあります。
 
 
 
前に進むことだけが成長ではなく、立ち止まること、踏みとどまることにも意味があるように思っています。
 
 
促進力と抑止力は、どちらかが正しくてどちらかが悪いのではなく、どちらも私たちの意思決定を支える『内なる力』です。  
 

どちらか片方だけでなく
 
この二つの力を丁寧に見つめ、使い分けることができたとき、私たちはより自分らしく、よりしなやかに生きることができるような気がしています。
 
 
 
促進力とは
 
「やってみたい」
 
「変わりたい」
 
「届けたい」
 
といった内なる願いから生まれる力です。  
 

一方で
 
抑止力は
 
「失敗したくない」
 
「傷つきたくない」
 
「迷惑をかけたくない」
 
といった内なる恐れや慎重さから生まれます。
 
 
どちらも人間らしい感情ですよね。
 
そして
 
どちらも私たちを守ろうとする力です。  
 
 
 
新しい挑戦を前にしたときには、「やってみたい」という促進力と、「失敗したらどうしよう」という抑止力が同時に働くことがあります。  
 

このとき、どちらかを否定するのではなく、両方の声に耳を傾けることが、自分にとって最も納得のいく選択を導く鍵になってきたように感じています。
 
 
 
抑止力はしばしば「行動を妨げるもの」としてネガティブに捉えられがちですが、実はそれは暴走を防ぐための『バランサー』でもあるような気がしています。  
 

勢いだけで突き進もうとしたときに、「ちょっと待って、本当にそれでいいの?」と問いかけてくれるのが抑止力で、きっと数え切れないくらい助けられてきたように思います。
 
この力があるからこそ、私たちは衝動ではなく、意志をもって行動を選ぶことができるんでしょうね。  
 
 
 
大切なのは、促進力と抑止力のどちらかを強めることではなく、両者のあいだに『対話』を生み出すことなんじゃないかと。  

「やってみたいけど怖い」
 
という状態は、まさにその対話の入り口。  

このとき
 
「なぜやりたいのか」
 
「何が怖いのか」
 
「どうすれば安心して一歩踏み出せるか」
 
といった問いを重ねることで、行動はより自分らしいかたちで整っていくように思います。
 
 
そういう観点でいえば、促進力は『動機づけのエネルギー』であり、抑止力は『ストレス反応の兆し』とも捉えられるように思え、それはしっかりと感じとっておくべき感覚のような気もします。  

両者を観察し、言語化し、必要に応じて調整することが、自分の行動スタイルを最適化する鍵になっていくんでしょうね。
 
 
 
 
促進力と抑止力は、どちらも私たちの内側にある『生きる力』です。  

前に進もうとする願いと、立ち止まろうとする慎重さ。  

その両方を否定せずに受け入れ、対話させることができたとき、私たちはより深く、より納得のいく行動を選ぶことができるんだと思います。
 
促進力だけでは空回りし、抑止力だけでは閉じこもってしまう。  

だからこそ、両者のバランスを見つめることが、自分らしい実践を育てる土壌になり、それが整ってこそより良い選択ができていくような気がしています。

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そうすることに何の意味があるの?

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そうすることに何の意味があるの...
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
一日に35,000回は決断の機会があるといわれるが、その中でもこんなつぶやきが伴う決断が一日に何回かはあるんじゃないだろうか。
 
「それって何の意味あるの?」
 
時に冷たく、時に鋭く響く。
 

けれどもこの問いは、行動の価値を否定するためのものではなく、その行動に『自分なりの意味』を見出すための入り口なんじゃないかなと思っている。
 
 
意味を問うことは、ただの正当化のようにも思えたりするが、自分の選択に納得と方向性を与えるための静かな対話の機会のような気がする。  
そしてその問いを丁寧に扱うことが、日々の営みを『ただの作業』から自分の人生に対する『生きた実践』へと変えていくようにも思う。
 
 
ボクたちは日々、無数の選択と行動を繰り返している。  

けれども、その一つひとつに「なぜそれをするのか?」という意味を感じない時、その行動は「義務」や「惰性」に変わっているのではないか。  
 

「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いを立てることは、自分の行動に対して『納得できる理由』を作るためのプロセスにも思える。
 
 
毎朝の掃除
 
誰かへの声かけ
 
地道な記録作業
 
単純な日課程度のこんな時間も、それらが「意味がある」と感じられるとき、行動は『自分の意志』として力強さを表してくる。  
 

意味を問うことは、行動に魂を通わせることなんだ。  

それは、他人に説明するためではなく、自分自身がその行動に誇りを持てるようにするための問いにも思える。
 
 
 
意味を問うことは、必ずしも「やる理由」を探すことだけではない。
 
 
ときには
 
「それをやらないことに意味がある」と気づくこともたくさんある。  

無理に人に合わせない
 
あえて沈黙を選ぶ
 
何もしない時間をつくる
 
そうした選択にも、自分なりの意味があれば、それは立派な実践なんだ。
 
この問いは、「やるべきかどうか」ではなく、「それをすることが、自分にとってどんな意味を持つのか?」という価値の問い直しともいえる。  
 

意味を問うことで、『やらないこと』にも納得と優しさを与えることができる。
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
 
という問いは、他者との関係性においても、対話の深みを変える力を持っていると思う。  
 
誰かの行動に対して「なぜそれをするの?」と尋ねるとき、それが責めではなく、「その人の大切にしているものを知りたい」という姿勢から発せられた問いであれば、関係性は深まるはず。
 
また、自分自身が意味を問う習慣を持っていると、他者の行動にも「その人なりの意味があるのだろう」と想像することができるようになる。  
 

それは、相手の行動を評価するのではなく、理解しようとする姿勢なんだ。  
 

意味を問うことは、自分との対話であると同時に、他者との対話の質を高める営みでもある。
 
 
 
「そうすることに何の意味があるのか?」
 
という問いは、時に迷いを生むこともある。
 
 
けれどもその迷いの中にこそ、自分が何を大切にしているのか、どんなふうに生きたいのかという本質を浮かび上がらせる。  
 

意味を問うことは、行動を正当化するためではなく、自分の人生に納得と方向性を与えるための静かな実践。
 
 
そしてその問いを繰り返すことで、私たちは「選ばされる人生」ではなく、主体的に『選び取る人生』を歩んでいけるのだと、実感している。
 

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人間くさくていい

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人間くさくていい
「人間くさい」
 
AIが浸透してきたのを実感するこの頃。
この言葉が妙に心に刺さる。
 
「自分らしさ」
 
によく似た、そんな印象。
 
同じようで違うような、そんな感覚。
 
 
「人間くさい」
 
そこには感情があり、矛盾があり、揺らぎながらも誰かと関わろうとする『生きた存在』を表す言葉のようにも思う。  
 
 

毎日の中で、ついつい正しさや効率、スマートさを求められ、自分の『人間くささ』を隠そうとすることがある。
 
けれども、人間くさくいることは、自分の弱さや未完成さを否定せずに、そのまま抱えて生きるという、静かな勇気の表現にも思える。
 
 
 
 
人間くさくいるとは、感情を持っている自分を否定しないことなんだろう。
 
 

誰かに嫉妬してしまう
 
落ち込む
 
焦る
 
泣きたくなる
 
 
 
そうした感情を「未熟だから」と切り捨てるのではなく、「それも自分だ」と受け止めてみる。  
 

それは、感情に振り回されることとは違う。
 
むしろ、感情を丁寧に言葉にし、扱えるようになることで、自分の内面との信頼関係が深まっているように思う。
 
人間くささを許すことは、自分の感情に居場所を与えること。
 
 
そしてそれは、他者の感情にも寛容になれる土台をつくってくれている気がする。
 
 
人間くさくいたいという願いには、「完璧じゃなくても、誰かと関わっていたい」という想いも込められているんだろう。
  
 
うまく言葉にできないまま誰かに頼ること
 
失敗を認めて謝ること
 
照れながらも感謝を伝えること
 
それらはすべて、不完全な自分をさらけ出す勇気があってこそ。
 
人間くささとは、「弱さを見せられる強さ」でもあるんだろう。
 
 
ただ、それがあるからこそ、関係性は深まり、信頼が育つ。  

「ちゃんとしていない自分でも、ここにいていい」と思える場所をつくること。
 
それは、自分にも他者にも優しい世界をつくる第一歩になる。
 
 
 
人間くさくいることは、効率や成果だけでは測れない「生きることの味わい」を大切にすることでもある。  
 

遠回りしてしまった経験
 
言い過ぎて後悔した夜
 
誰かの一言に救われた瞬間
 
 
そうした出来事の中にこそ、人間らしい温度や物語がある。
 
 
完璧さを求めるあまり、人生が『正解探し』になってしまうと、そこには余白がなくなってしまう。
 
 
でも、人間くさくいることを許すと、失敗も迷いも、すべてが『生きている証』として意味を持ち始めるの。
 
 
それは、人生を丁度よく「整える」ことではなく、「味わう」ことへの変換でもあるのような気もしている。
 
 
 
「人間くさく居たい」という願いは、自分の弱さや揺らぎを否定せずに、誰かと共に生きていこうとする姿勢だ。
 
 
それは、完璧さを手放し、感情を抱きしめ、不器用なままでも関係を築こうとする、静かな強さ。  
 

そしてその在り方は、他者とのあいだに温度を生み、信頼を育て、人生に深みを創ってくれる。
 
人間くささを恥じるのではなく、それを『生きている証』として大切にしてみる。
 
 
そのまなざしが、言葉や行動に温かさと真実味を宿してくれるのだと思っている。

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孤独は心の声と再会する静かな場所

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孤独は心の声と再会する静かな場...
孤独という言葉には、寂しさや切なさがつきまとう。  
 

けれども、孤独は必ずしも「悪いもの」ではなく、むしろ『自分自身と深く向き合うための時間』として、効能を秘めているようにも思う。
 
 
熱い湯なのか、ぬるい湯なのか、その辺は場合によるね(笑)  
 

誰ともつながっていないように感じるその瞬間こそ、他者の声ではなく、自分の声に耳を澄ませることができる貴重な空間。  

孤独を恐れるのではなく、丁寧に味わうことで、自分の輪郭を取り戻し、他者との関係性にも新たな深みをもたらしてくれるようにも思う。
 
 
 
日常の中で、私たちは多くの「外の声」に囲まれている。  

SNSの情報
 
他者の期待
 
社会的な役割
 
それらに応えるうちに、自分の本当の気持ちがどこにあるのか、わからなくなってしまうことがある。
 
 
そんな時
 
孤独な時間は、それらのノイズが静まり、自分の内側にある『まだ言葉になっていない感情』と出会うための場になっている。
 
たとえば
 
「本当はあの選択に違和感があった」
 
「あの人の言葉に傷ついていた」
 
なんていった感覚が、ふと浮かび上がってくることがある。
 
 
それは、孤独という静けさの中でしか聞こえない『内なる声』
 
その声に耳を傾けることは、自分との信頼関係を築く第一歩でもある。
 
 
孤独を経験することで、「誰かといること」の意味がより鮮明になる気もしている。
 
 
常に誰かと一緒にいると、関係性が当たり前になり、感謝や違和感に気づきにくくなる。
 
しかし、孤独な時間を持つことで、
 
「あの人といると安心する」
 
「この関係は少し無理をしていたかもしれない」
 
といった関係性の質に対する感度が高まっていくのを感じる。
 
孤独は、他者を拒むことではなく、他者との関係をより丁寧に選び直すための『間』なんだと思う。
 
 
その『間』があるからこそ、つながりはより深く、より自由なものになっていく。
 
 
そして孤独な時間は、創造性の源泉でもある。  

誰にも見られていない、評価されていない時間だからこそ、人は自由に考え、感じ、表現する余白が生まれる。
 
こうやってブログを書く
 
絵を描く
 
歌ってみる
 
そうした営みは、孤独という余白の中でこそ、のびのびと息をし始める。
 
また、孤独は「何もしないこと」を許してくれる時間でもあると思う。
 
その『何もしなさ』の中で、心と身体は静かに整い、次に動き出すためのエネルギーが蓄えられていくこともある。
 
孤独は、止まっているようでいて、実は『内なる準備』が進んでいる時間なんだ。
 
 
 
孤独は、ただの寂しさではない。
 
 
それは、自分の声に耳を澄ませ、他者との関係を見直し、創造性を育むための静かな贈り物のようなもの。  
孤独を恐れるのではなく、丁寧に味わうことができたとき、私たちはより深く、より自由に生きることができるようになる。
 
そして何より、孤独を知っている人は、他者の孤独にも優しくなれる。  
その静かな創造性が、世界との関係を少しずつ、やわらかく変えていくのだと思います。

ワオ!と言っているユーザー

まぐれを笑わない

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まぐれを笑わない
「まぐれだっただけ」
 
と、自分の成果を謙遜や照れで片づけてしまうことは少なくない。
 
けれども
 
まぐれであっても、それは確かに起きた「結果」であり、『行動の証』。
 
 
実績とは、必ずしも意図通りに積み上げられたものだけを指すのではないはず。
 
むしろ
 
偶然に見える出来事の中にも、自分の選択や動きが確かに存在していたという事実こそが、実績の本質なんじゃないかと。  
 
 

「まぐれも実績でした」
 
 
 
と言える人は、結果を過小評価せず、偶然の中に自分の輪郭を見出すことができる人なのかもしれない。
 
その姿勢が、次の一歩をより確かなものにしていく気がする。
 
 
 
 偶然の裏には、必ず『動いた自分』がいる。
 
まぐれとは、何もしていない人には起こらない。
 
 
たまたま声をかけた相手との出会いが人生を変えた、そんな話しはよくある。
 
 
偶然応募した企画が通った
 
思いつきで話したアイデアが評価された
 

それらは確かに“偶然”かもしれないが、その偶然を引き寄せるだけの「行動」や「選択」があったからこそ起きたこと。
 
つまり、まぐれとは「運が良かった」ではなく、「動いたからこそ、運が巡ってきた」ということ。  
 

その一歩を踏み出した自分を見落とさずに、「あのとき、なぜ動けたのか」「どんな気持ちが背中を押したのか」とふり返ることで、偶然の中にある『自分の意志』を感じたい。
 
 
 
「たまたまうまくいった」と思っていた出来事も、よく観察してみると、そこには再現可能な要素が含まれていることだってある。  
 

プレゼンの機会なんかで「偶然うまく話せた」という裏には、「前日に誰かと話していたことが良かった」「緊張していたけど、偶然〇さんがいたから丁寧に話せた」といった背景があったりする。
 
このように
 
まぐれを「棚ぼた」で終わらせずに、「なぜ起きたのか」「どんな条件が重なっていたのか」を丁寧にふり返ることで、自分なりの成功パターンや行動の癖を知る貴重な機会になる。  
 

それは、次の実践の機会をより意図的に、より柔軟に設計するためのヒントになる。
 
 
 
「まぐれだった」と言うとき、そこには謙遜や照れが含まれていることもあるが、裏を返せば「自分の力ではなかった」と自分を否定している側面にもなり兼ねない。
 
 
しかし、まぐれもまた「自分が関わった結果」であることに変わりはない。
 
 
それを肯定的に受け止めることは、「自分には、意識しなくとも何かを生み出す力がある」と信じることができるということにつながる気もする。
 
まぐれを認めることは、傲慢になることではなく、自分の中にある“まだ言葉になっていない力”を信じるという、静かな自己信頼の表現なのかもしれない。 
 
そしてその信頼は、次の挑戦を支える『見えない足場』となってくれるはず。
 
 
 
「まぐれも実績でした」と言えることは、偶然を誇ることではなく、偶然の中にもしっかりと自分の存在を見出していることに他ならない。
 
それは、自分の行動や選択を丁寧にふり返り、たとえ意図していなかった結果であっても、「そこに自分がいた」という事実を大切にする姿勢がある。
 
 
そしてその姿勢こそが、次の実践をより豊かに、より自分らしくしていく。
 
まぐれを笑わず、まぐれを恥じず、まぐれを見つめる。  
 

その一つひとつが、自分という存在の『まだ見ぬ力』を信じることにほかならないのだと思う。
 
 

ワオ!と言っているユーザー

自分の好きなところ、言葉にしてみませんか

スレッド
自分の好きなところ、言葉にして...
ボクたちは日常の中で、自分の欠点や足りない部分には敏感でも
 
「自分の好きなところ」
 
を意識的に言葉にする機会は、あまりというかほぼないような気がする。
 
 
それだけに
 
自分の好きなところを言葉にすることは、自己肯定感を高めるためのテクニックではなく、『自分という存在』を丁寧に見つめ、信頼関係を築いていくための静かな対話なんだと思う。  
 

それは、自分を甘やかすことでも、過剰に評価することでもなく、「私は私のこういうところが好きだ」と認めることで、自分の輪郭を優しく確かめていく行為のような気もする。
 
 
  
自己理解というと、多くの場合、短所や課題の分析に偏りがちだが、「自分の好きなところ」を言葉にすることで、自分の中にある『肯定的なリソース』に光を当てることができる。  
 

たとえば
 
「人の話を最後まで聴いてみようとするところが好き」
 
「小さなことに気づこうするところが好き」
 
といった言葉は、自分の価値観や行動の傾向を映し出す鏡になる。
 
 
 
ここで大事だと思うのは
 
できているから好き、ではなくて、『そのことに対してひたむくになっている自分』というだけで十分だと思っている。
 
完璧な自分だけを好きにならなくてもいい。
 
不完全で至らなくても、何とかしようとしている自分は、愛おしくさえ思えたりする。
 
何とかしようとしている自分でも、今はそれで💯なんだと思ってもいいのではないだろうか。
 
それは、自己分析ではなく、自己へのまなざしの質を変える作業。  
 

好きなところを言葉にすることで、「自分はこういう人間でありたい」という在り方が、より明確に、より温かく浮かび上がってくる。
 
それを感じてほしい。
 
  
人は誰しも、失敗したときや他人と比べたときに、自分を責めたり価値を見失ったりすることがある。
 
そんなとき
 
「でも、自分にはこういう好きなところがある」と思い出せる言葉があると、自己否定のスパイラルに巻き込まれにくくなる。
 
これは、ポジティブ思考とは異なると思う。
 
 
自分の中に『信じられる部分』を持っているという感覚。  
 

「うまく話せなかったけど、相手の目を見て誠実に向き合えた自分は好きだ」と言葉にしたとしたら、失敗の中にも自分を肯定できる視点を残してくれる。  

好きなところを言葉にしておくことは、心の中に『自分を守る静かな拠点』をつくることなんだ。
 

そして
 
自分の好きなところを言葉にできる人は、他者との関係においても、過剰に合わせたり、過度に遠慮したりすることが減る。
 
 
なぜなら、「自分にはこういう良さがある」と自覚していることで、他者の評価に依存せず、自分らしい関わり方を選べるようになるからだ。
 
 
「私は丁寧に考えるところが好きだから、すぐに答えを出さなくてもいい」と思えたとしたら、焦らずに自分のペースで対話ができるようになる。
 
 
これは、自己主張ではなく、自己尊重のように思う。  
 
 
 

「自分の好きなところを言葉にする」という行為は、自己肯定感を高めるための表面的なワークではない。
 
 
それは、自分という存在に対して敬意を払い、信頼を育てていくための静かな習慣なんだと思う。
 
 
その言葉は、困難なときの支えにもなり、他者との関係性の中で自分らしさを保つ軸にもなる。
 
そして何より、自分の好きなところを言葉にできる人は、他者の好きなところにも敏感になり、世界との関係性をより温かく、健やかで居られるのだと思う。
 
健やかであれ😊

ワオ!と言っているユーザー

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