もしもテトリスの一本棒が、いつまでも落ちてこないとしたら
6月
21日
少し上向きになると、なんとなく期待がふくらみ、そしてついつい期待をふくらませ過ぎて、落ち込む。
いくつになってもそんな自分がいる(笑)
もどかしさはいつしか無くなるけど、期待していた通りの楽しい時間を作りたいという欲望は、いつしかテトリスみたいに積み上がり、どこかで一本棒が落ちてくるような別の期待が湧いている。
そんな自分を面白がりながら、必死に悪あがきをしている自分にちょっとした失望もして、そしてそんな自分が幼子みたいにかわいく思ったりもして。
そんなに可愛いくはないんだけど(笑)
期待は
「こうあるべき」
「こうあった方がいい」
という結果への執着を含むけど
信頼は
「今の自分を認め、育てていく」
そんな姿勢のように思う。
たとえば、「うまく話さなければならない」ではなく、「今できる範囲で心を込めて話そう」と自分を信じることと励ましみたいな 、そんな感覚。
もしかしたら、「期待」は自分に対する「信頼」の裏返しのような気もしたりして。
期待しすぎず、今のベストを尽くすことがまた次への成長の鍵になる、なんて言われたりしても、ついつい焦る自分もいる。
そうやって自分に対する「無意識の重圧」を押し付けてしまっている自分がいることもまた、覚知しているんだけど。
「無意識の重圧」は目には見えないけれど、日々の判断や行動に静かに影響を与えている「心の空気」のようなもののような気がしていて、時に穏やかに時に荒ぶって、なかなか自分にはコントロールが難しい。
そこには
「常に役に立たなければいけない」という思い込みや、「失敗してはいけない」という自分が身を置く環境の文化的プレッシャーを、勝手に自分が作り上げている決めつけなんかがあるんだろうね。
たぶんだけど。
特にケアや教育の現場では、自分が誰かの役に立っていないと存在価値がないように感じてしまうことがある。
思うままに動いてみたり顔色をうかがったりするから、それが過度な自己犠牲や疲弊につながったりして。
表には出さなくても、「ミス=能力不足」という価値観が心の内にあって、失敗を極端に恐れてしまう。
それこそが失敗を招いたり。
結果として、挑戦を避けたり、自分を責めたりしてしまう傾向があるのかな。
あとは
「期待されている自分像」に応えようとする無意識の緊張だったり、「まだ足りない」と感じ続けるから、自己基準のハードルがどんどん上がったり。
たとえば
「あの人に頼めば何とかなる」
とか
「頼れる存在だよね」と言われ続けていると、それを裏切ってはいけないように感じになって、感情を抑え込むことがあったり。
それがさらに「もっとできるはず」と内面で自分に対するハードルを上げたりしているんだろうさ。
こうした無意識の重圧に気づくことが、「自分に期待しすぎない」ための第一歩なんだと思うけど、期待しないのもまた、いつも頑張っている自分に失礼なような気もして。
それはたぶんこれからもなかなか手放すことはできなくて、手放すというよりも、「そのプレッシャーは、どこから来ているのか?」と問い直すとか、いろんな方法を試みながら、「期待」から優しく距離を置く感覚で付き合っていくんだと思う。
いつかテトリスの一本棒みたいなものが落ちてきますように。
そんな感覚は、たぶんこれからも無くなることは無いかもしれないけど(笑)
自分への「期待」との付き合い方。
優しくしてるんだか、辛くしてるんだか、ちょっとよくわからないけどね(笑)