「自己肯定感」に振り回されない
6月
19日
自己肯定感が高いか低いかに一喜一憂する。
自分には価値がない。
どうせ自分なんか。
そんなことを考える必要ってあります?
「自己肯定感」って言葉に振り回され過ぎじゃないですか??
そんなことを思い続けるよりも、まずは目の前の小さな行動を積み重ねることのほうが、自分とも相手とも、もっと信頼を築く土台を作ることに時間を割いたらいいんじゃないかと、私は思っています。
「自己肯定」という概念自体
「感じるもの」とか
「持つべきもの」とか
そんな感じで扱われがちなような気がしてならないのですが、それを手に入れようと意識し過ぎることで、かえって自分を見失ってしまう危険があるんじゃなかろうかと。
特に、なんだか現代社会は
「ありのままの自分を肯定しよう」とか
「自信を持とう」とか
そんなメッセージに溢れている気がします。
いつも
「煽るんじゃねー」って思ってます(笑)
それが逆に
「今の自分では不十分だよね」みたいな焦りを呼び起こしているんじゃないかと。
そんなときにボディーブローのように効いてくるのが、「今できることを、丁寧に積み重ねる」という姿勢を貫いている方々の姿。
多くの皆さんがそうであると思いますが、ある時期の私は、自分に自信が持てず、「このままでいいのか」と悩みながらいつも仕事に向かっていました。
自己啓発本を読んだり、ポジティブ思考を心がけても、その場しのぎのような感覚ばかり。
そんななかでいつも自分を見つめ直すきっかけをくれたのが、淡々と仕事をこなし、目の前の人の話にしっかりと耳を傾けている方々でした。
決して華やかでもなく、効率的でもないようにも思えていましたが、相手の方の表情が全てを物語っているような気がして、「自分とも相手ともしっかり向き合っている」という感覚が、じわじわと湧いてきてきました。
褒められることがなくても、評価されなくても、積み重ねた時間が「自分は信じられる存在になれる」ということを、教えていただいたよう気がしました。
振り返れば、それこそが最も安定した形の「自己肯定」なんじゃないかと。
このように考えると、「粛々とやること」は、表面的な自信や承認欲求とは異なる、もっと深くて静かな自己受容に繋がっていくもののような気がしています。
それは
「自己肯定を得る手段」
としてではなく
「人生の姿勢として選ぶ価値のある道」なんじゃないかと。
そう考えると
「自己肯定がぐらつくときほど、目の前のことを粛々とやり続ける」
ことが、自分を肯定することにもつながっていくと思うのです。
「粛々とやる」ことは、ただの作業では終わらないのだと思います。
そこに自分なりの意図や背景の意味づけを加えられることで、行動そのものが自分との対話になっていくのでしょう。
自分ではちっぽけなこととしか思えないことでもいいと思うんです。
そして自分にとって大切なことのような気がしているので、続けられていることがあるんだと思います。
誰かに笑われているような気がしても、気になさらないでください。
粛々と積むことのなかに、「今の私はこれでいい」という確かな肯定が芽吹いていて、積まれた経験がしっかりと力強く自分の財産になっているんだと、私はそんな気がしています。