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隠し切る事は出来ない事

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隠し切る事は出来ない事 隠し切る事は出来ない事 隠し切る事は出来ない事





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第九回目は、サイクロンで破壊された家を再建する過程。ついに彼らのドリームハウスが完成するのです。






ドリームハウス




その手紙を母が書いたのは1932年6月20日の事でしたが、それまでに彼女が庭園に植えていた多くの野菜はひどく被害を受けました。

多くの地元の大工さんや職人さん達はボランティアで働いてくれたのです。
そんなこともあってまもなくすると、家を再建しようとの気力も出て来ました。

皆はとても協力的でした。いや、ほとんどの人達は、と言っておくべきでしょう。
あるご近所の方は、その空き家を私どもに借家として貸し出そうとしたのです。

母は憤慨していました。彼女にとって借家のためにお金を捨てるような事はあり得ません。
そのかわりにすでに夏となっていましたから、外でキャンプ生活をするにはもってこいですよね。

その借家の家は数ヶ月間も住む人なく空き家のままでした。

黙示録の大患難時代の到来を固く信じている母にとって、この時は感動的な期間でもあったのです。母はその手紙を閉じるにあたり、こんな映えある言葉を選んだのです。

「すべての雲には銀の裏地がある」
(キリストの再臨時には栄光の銀色に光る雲に包まれてキリストが地上に来られることからの表現)

秋までには私どもの頭上になんとか屋根のある家屋に移りたかったのです。
家自体はまだ完成していなかったのですが、とにかく私どもは荷物を多く抱えてました。

母のドリームハウスは石作りか、または漆喰作りとなるはずです。

建築業者は屋根板を使うようにとアドバイスしてくれました。それが町には沢山在庫としてあったのです。

それらは断熱に優れた上に、あの嵐からわずかの被害しか受けてなくて再使用するのになんら問題はありませんでした。母はその提案を受けることにしました。

仮の宿程度でしたが、何とか住める体裁は整ったようです。
それから幾年かの後、私どもはリモデルを行いました。

バイクピーク山とその周囲の山々の山容が見事に見えた大きな窓は取り去られて、小さなエコノミーサイズのものに取って変えられたのでした。

"私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。"
(詩篇 121篇1~2節)

その家は漆喰作りのものとなりました。
こうして母のドリームハウスはついに現実となって行ったのでした。




本からは学び得ないレッスン





母の最も好きな歌の歌詞には次ようなものがありました。

「あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。
あなたがどんなに一生懸命に努力しようとも。
すべてを隠し切る事は出来ない。
神様はすべての事をご覧になっておられる。
あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。」

母は自分自身の直感に対しては、二倍の分け前(特別な能力の意味)を引き継いだように思える人でした。
教会付属の高校生だった兄はある時、友人と一緒に学校を抜け出しては映画館へ行ったのでした。

学校からの電話によって兄の欠席が伝えられました。
すると母は地元の映画館のチケット窓口まで行って館内に入る許可を求めたのです。

彼女は息子がそこにいるような気がしたので、ただチェックしたかったのです。
たちまち彼女は兄のいるところを見つけ出すと、彼のすぐそばまでやってきました。

が、掴み出す事はしなかったようです。どのようにして彼女がその場を解決へと至らせたのかは覚えていません。ただ私は自分では兄のようなことを決してしまい、と決意しました。

母を相手に隠れることは出来ないと思い知らされた事件でした。
#ドロシー師

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「主は与え、主は取られる」

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 88年のクリスマス特別賛美集会... 88年のクリスマス特別賛美集会の音楽ゲストに山形県から大内秀子先生をお招きしました。 日曜礼拝後のポトラック愛餐会に... 日曜礼拝後のポトラック愛餐会にて。 敬愛する教会の方々 敬愛する教会の方々 「主は与え、主は取られる」 「主は与え、主は取られる」




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第八回目は、サイクロンでドロシー先生のご家族の住む家が破壊された悲劇についてです。










サイクロンによって破壊された夢


広めの角の土地に建てられた小さいけれども私たちの白い家、父の奇跡的完全な健康の回復、大恐慌で最悪となった失業者数の時代にあって、私たち三人は教会付属学校で有意義な教育を受けることが出来たのです。

母とフォード車は再び忙しくミニストリーのために走り回るようになりました。
これ以上、私たちは何を望み得るでしょうか。

卒業間近となった時です。兄は卒業式用の真新しいスーツを素晴らしく仕上げてもらい、とても華やいで見えました。私どもは皆、期末試験のために忙しくしながらも目前となった夏休みを楽しみとしていたのです。

そんな時でした。突然の嵐が私どもの生活を一変させることとなったのです。

通常の西風にしてはだいぶ様子が違うようには感じました。
午後となって、私どもの小さな白い家が嵐によって完璧に破壊されたとの電話連絡を受けました。サイクロンよるものです。

私の母は無事でした。
私は学校からその壊滅的な現場に戻るまで、何が起こっているのかを全く把握できないままでした。

かつて私どもの家が立っていたその場所を見て、まるで悪夢を見ているのかと疑ったのです。

そして母は新聞記者たちやご近所さん、また多くの知り合いや見たこともない人々の中に囲まれて立っていました。彼女の目には涙が浮かんでいましたが、その声はハリのある勝利者のものであったと言って良いでしょう。

彼女は私の肩に腕をかけると言いました。
「シス(これは私のニックネーム)、今やこれが私たちの状態ですよ」

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
(ヨブ1章21節)

すでにその時、彼女は新聞記者たちにこの聖書のお言葉を語っていました。
その彼女の証言は、翌日の新聞のヘッドラインを飾ったのでした。

彼女が後日、その嵐と被害について書き送った家族への手紙の中ではこのようにも言っていました。

「さらにひどい被害にあったかもしれないことを考えると、私には主を賛美するたくさんの理由があるように思えてなりません」

その嵐の時、父は職場にいました。私ども三人の子供たちは学校にいて、母は嵐が襲う15分前に主の働きのためにフォード車で出発していたのです。

私ども家族と車は助かったのです。

完璧に破壊されたのは私どもの家だけでした。
しかし母の手紙の中の言葉によると、他の人々の家は私どもよりかなり大きくて良いものなので、失ったものも同様により大きなものとなったはずなのです。

#ドロシー師

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蛇の中身を洗濯機で絞り出すだなんて、ヒエッ〜

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 開拓当初の旧会堂。川の対岸から... 開拓当初の旧会堂。川の対岸から。




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第七回目は、かなりのおてんばだったドロシー先生の子供時代と新しい学校への入学の様子です。







救世軍の路傍伝道とアイススケート

毎週土曜夜は街へ繰り出して救世軍の路傍伝道に参加しました。彼らのユニホームやその帽子等はなかったのですが。

母は主のために公の場で証をするのを愛していました。
彼女はその路傍伝道を大変楽しんでいたし、私もまた同様に楽しみに待ち望んでいたのです。

ただ私にとり勇気を振り絞ってその務めを果たすのには大変長い時間がかかったし、その後は大変疲れもしました。タンバリンのあるブラスバンドは大変良いものとなりました。

冬になると兄弟たちと一緒に私は氷の上で良く遊びました。
シティーパークは広大なスケートリンクになったのです。

私を除いて兄弟たち二人は、とても達者なスケーターでした。

私はフィギアスケートはおろか後ろ向きに滑るなんてことはできなかったし、そんな私を見ていた兄弟たちは最終的に私を教えるの諦めたほどです。

前に進むことだって兄弟が私の手を取って一緒に滑ってくれなかったらおぼつかないものだったのですから。

それから幾日かが経ち、私が大学進学のために働いていたりして忙しかった時の事です。
弟が私を午後のスケートに誘ったのです。

それはお互いにとってまるで災難となりました。彼はそれ以後、二度と私を誘うことはありません。

翌日私は働くことがほとんどできなくなったのです。スケートからではなくて、氷の上にただ倒れ続けたことからくる筋肉痛によって。


完成しなかったプロジェクト


めったには無いことでしたが、短期間の母の留守の間は私たちにとり実験の機会となりました。
弟と私はいつもチームを組んだのですが、兄は関わろうとはしません。

ある時私たちは蛇の死骸を見つけたのです。ワニの革製のカバンや靴はあります。
では、蛇の皮のベルトってどうでしょう!

その作業工程は単純なものでした。
母の洗濯機についている手動式ハンドル絞り器にその蛇を通して中身を絞り出し、それから真っ二つに切り割いて皮の両面に塩を塗り込み、天日干しにするために切り裂いた側を表にして鋲で留めたのです。

それからどうなったのか?
実は、私は思い出せないのです。

私どものプロジェクトは完成しないままだったと、かすかに記憶していますが。

母のこれらの困った子供たちに対する対処方法は、時の問題が様々であるように様々に異なったものとなっていました。

その当時、児童心理学による硬直したルールなんていうものはなかったですしね。



無駄ではなかった聖書学校



母はやがて子供たちに充実した教育をしなければならないと感じるようになりました。

パイクス山の麓にある聖書学校では、小学校から高校までの教育を提供していると聞きつけたのです。

再び私たち皆は、それぞれのカバンをTモデルのフォード車に詰め込んで学校へ通うようになりました。しかし今回はそれまでの走行距離が大したものとなっていたので、だいぶくたびれたポンコツ車になっていたのですが。

そう言う訳で上り坂の途中では、降りて皆で押さねばならないことだってあったんです。

フォード車の最後の運命は、私たちを新しい天地であるコロラド・スプリングスに連れて行く事で終わったのです。

父は母が定住後、だいぶ落ち着いてから引っ越してきました。
母がほとんどのことを取り仕切ってくれました。

一体彼女はどうやってやりくりしたのか、からっきし覚えがないのですが、土地と小さな白い家を買うだけの蓄えをしていたのです。

その後の彼女の計画は次のようなものです。

新しく夢の家を建てることができた時に、それまで住んでいたその小さな白い家を二台収容可能のガレージに改造するというもの。

そのために借金することを彼女は考えなかったようです。

「借りるものは貸すもののしもべとなる」と信じ、
また借家住まいとは、お金を捨てるようなものだと考えていました。


彼女はテントのような家を設計し建て上げると、
私たちは小さな家が立ち上がるまでそこが仮住まいとなりました。

私どものその新しい家は街のはずれにあったにも関わらず、ご近所さんたちには恵まれました。

でもヤギは諦めねばなりませんでした。
現実のところ既にヤギは必要とはしなかったのです。

私たちの主は父に健康を与えてくださり、彼はリタイヤするまで食品販売の店で働くことができました。

#ドロシー師

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新天皇陛下御就任を祝う記帳室にて

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記帳台に立て掛けであった写真は... 記帳台に立て掛けであった写真は確かこれだったような気がします 新天皇陛下御就任を祝う記帳室に... 新天皇陛下御就任を祝う記帳室に... 新天皇陛下御就任を祝う記帳室に...



先日はシアトルにダウンタウンにある日本国総領事館へ書類作成のために行ったことを書きました。

その際に気づいたこととして次の3点を挙げました。

❶やっぱり日本スゴイ!
❷なるほど日本らしい!
❸こうしたらどうなの日本?

先回は❶を書きまして、今回は❷❸を記します。


とても清楚でありながら可憐に整えられている記帳台がありました。新しい天皇ご夫妻のお写真と日章旗を写真に収めようとしたのですが、領事館員に断られてしまったのです。

「どうしてだめなのですか」と伺いましたところ、

女性の職員の方が突然吹き出すように顔を崩して笑顔を作り、腰を折り曲げながら「すみませーん、ダメなんですー」と優しく言われるのです。

「いやいや、お詫びされなくて良いのです。そのような決まりでしたら無理にとは言っていません。ただその理由を伺っているのです」

するとその女性は真顔になったかと思うと、その場にいる他の男性職員と顔を見合わせました。

5-6秒程待った様に思います。
お二人は顔を見合わせているままで絶句のままです。

こちらの方がしびれを切らしてしまって、「理由は無いけれども、ダメなんですね」と言って記帳を始めようとすると、

その女性は再び笑顔を作って、「すみませーん」

ですから、私はお詫びをしてもらいたいからでもなく追い込んでるつもりは毛頭なく、ただ理由を知りたいのです。

この2人の職員の応答に、私は日本らしさを感じるのです。

曖昧な日本。
(ある日本人ノーベル賞受賞者のスピーチ題名でした)

言動の規範原理を理詰めで構築するのではなく、その場の雰囲気や流れや勢いといったあやふやさで対処しようとする傾向。

一方米国社会にあっては自らの下した判断を言語として説明できないと言うのは致命的です。責任者においては無能とみなされます。

商取引やクレーム対応において会社として決定された文面には、「ご意見やお考えがあるならば自分にお尋ね下さい」との一文を添える事が常識となっています。

説明を求める顧客に対して無視したならば、それは社会的な責任を果たしてないのと糾弾されるでしょう。

責任とは英語でレスポンシビリティーですが、本来日本には存在しなかった概念だと思います。

Responsibility(責任)とは、 response(応答)する ability (能力)の事で、物事を決する側が持たなくてはならない必須事項と考えられています。

その能力のないものが責任ある立場にあってはならないのです。
と言うより、その立場にあるとしたら言葉の矛盾を抱え込んでいるのです。

150年ほど前、明治維新とともに入ってきた西洋文明のこの概念はどこまで日本の社会に浸透してるでしょうか。

英語を流暢に操り、立派に米国社会に溶け込んでいるいらっしゃるはずの領事館職員ですらこの現実。

白洲に引き出された嫌疑者が抗弁しても虚しく、お上の裁断にただ恐れ入って平伏すしかなかった江戸時代の名残でしょうかねぇ?

あらら、だいぶ長くつらつらと書き連ねてしまいましたが、これが

❷なるほど日本らしい!
と感じた点です。


❸こうしたらどうなの日本?

については次回に譲ります。


#社会

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「令和」の元号で

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申請用紙にすでに「令和」が。 ... 申請用紙にすでに「令和」が。
ただ明治の前に大正があるのが理解できない。
総領事館内にある日本文化広報室... 総領事館内にある日本文化広報室。 広報室には観光案内資料が充実し... 広報室には観光案内資料が充実している。

つい先日、シアトルダウンタウンにある日本国総領事館まで行ってきました。

ある公文書を作成するためだったのですが、その申請用紙にある申請者の生年月日の選択欄に「令和」があるのを見て驚きました。

その元号が始まってまだ2日目だと言うのに。
しかもどう転んでも生まれたばかりの赤ちゃんがここまで歩いて申請者となる事はありえない。

それなのに5月1日に合わせて既に新しい書式の申請用紙が完成している。

律儀ですねー
正確ですねー
真面目ですねー

さすが日本❗️

そこを退出しようとしたときにいつも閉まっているもう一つのドアが開いていてその隙間から日章旗が見えるのに気が付きました。

「ここは何するところだろう?」と勇気を持って入ってみると2人の領事館員がいて素敵な机の上に新しい天皇ご夫妻の写真と記帳ノートが載せられていました。

宮内庁に届ける、新しい天皇誕生を祝う記帳の受付場所だったのです。

すでに2日目となっていますが100人ほどの方が記帳を済ませていらっしゃるとのことです。
私もフルネームをそこに書かせていただきました。

あまりにも涼やかなご夫妻のお写真と清楚な日章旗の佇まいが嬉しくなって、
「写真を撮らせていただいてもいいでしょうか」とそこにおいでの職員にお尋ねしました。

すると答えはノーだったのです。

その顛末は後日にお知らせします。


#社会

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泳げ、鯉の子らよ

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泳げ、鯉の子らよ 泳げ、鯉の子らよ 泳げ、鯉の子らよ


明日こどもの日を迎えます。

数日ぶりに晴れてくれたさつきの空に、
鯉を泳がせました。

今は可愛い鯉である子らも、やがて龍と成り駆け登って行くのでしょうか。
#家庭

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学芸会で汗したこと

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 1988年、中部教区聖会。 講... 1988年、中部教区聖会。
講師は当時Immanuel名古屋教会牧師の竿代信和先生。

日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第六回目は、ドロシー先生のお母様がいかに伝道熱心であられたか、その当時の社会と学校生活の様子です。




母の伝道活動


母はフォード車でかなり広い地域にまで働き場を進めて行きました。
何人乗りの車であったのか覚えてないですが、彼女は多くの人々を教会に連れて来たのです。

多忙ながらも母は病人を助け、家庭訪問し、貧困者のための奉仕など多くの活動をしましたので牧師は彼女を伝道所の主事として任命したほどです。

しばらくしてその牧師は由々しい間違いを犯してしまったと言えるでしょう。
それは、彼女から働きの結果としての教勢報告を求めてしまった事でした。

「私は教会としての記録を高めるためにこれらの働きをしているのではありません」と母は応えていました。
彼女は、何よりも主ご自身に仕えているのですと、明白に語ったのです。

牧師はそれ以降彼女からレポートを求める事はありませんでした。
神様ご自身がレポートをお持ちです。

彼女とフォード車は協力しながら働きを進めていきました。

私は早い時期から固い床の上に寝る事を身に付けました。
と言うのは、母は私たちよりも貧しい人々を見つけてはよく家に招いたからです。

私たちの家はフォースター・ホームとなりました。
あるときはやせ細ったおじさんと彼の4人か5人ほどのこれまたやせ細ったお孫さん達が私どもの家族に加わりました。

彼らは誰もが皆、身なりを清潔にしてまた栄養も与えられる必要があったのです。
彼らは数週間の滞在で見違えるように変わりました。

あの時は家中が遊園地のような遊び場となって賑かとなったものです。

母のモットーは、「もし心の中に部屋があるなら、家の中にも部屋があるはず」と言うものです。

彼女が信じていたことは、制約されたチャリティー予算の中にあっても、神様が愛の方であると知るには充分であること、そして神様は人々が心と体とをきれいに保つ事を、向上心を持ち生産的であることを、自分たち自身の足で立つことを望んでおられる事などです。

彼女は、まさに人々が自立するのを助けたのです。

彼女にとって怠けるとは、実に犯罪のようなものです。
「怠け心は悪魔の作業所である」と彼女なら言ったことでしょう。

このモットーを幼い時から叩き込まれた私たち三人の子供らは、家事も分担させられました。
私は当時、じゃがいもの皮むきから決して卒業する時は来ないと悲観したものです。

母の教えは忘れることができません。

ポテトを剥くにも方法があると言うのです。
ポテトの中で最も栄養価の高い部分は皮のすぐ裏側にあります。

リンゴも皮をむいてはなりません。
神様が美しい赤色に仕上げてくださった部分だからです。

二人の兄弟は料理の腕をあげました。
特に弟はビスケット作りがとても上手で、学校ではAプラスの成績を取って来ました。

彼とその友人は勇敢にも高等学校時には料理教室に加入しました。
女生徒の中でのたった二人の男子生徒です。

ビスケット作りで弟が最優秀賞をとったときには、女生徒らは皆で彼を仲間外れにしたものです。兄もまた彼自身の子供たちにチョコレートワッフルを作って驚かせたりもしていました。

彼の奥さんが入院していた時が、彼の料理の腕前が最も発揮された唯一の時となりました。


田舎の小学校


たった二つの教室に八学年が詰め込まれた田舎の小さな小学校で、私たちは学んだり習ったりしたのです。

母は私たちの成績表をだいぶ長い期間、私たちが大人になってからも保管していました。

成績の程ですか?
私たちはそれによって平均よりは大して上ではなくときにはその下であったのを証拠付きで思い出せました。

その頃は人間は空を飛ぶことをようやく始めたばかりの時代です。
飛行機の音が聞こえると私たち生徒ばかりでなく先生たちさえも窓際に走りより、人間の科学発明に驚いたものです。

出し物と言ったら、、、私たちは何もかもを自分たちで用意しました。

学芸会でのことです。私は舞台の上ですっかり上がってしまい、あぶら汗で指がすべてのピアノの鍵盤から滑り落ちてしまったのでした。

恥ずかしさいっぱいのままでお辞儀すると、たくさんの拍手を受けました。
全ての生徒は何かをしなくてはなりません。

私は朗読する際、そばかすでギラギラした友人らに顔を向けるよりは背中を向けて恥ずかしさを耐えていました。

もちろんその他にもバレンタインパーティーやハロウィンパーティー、またクリスマスパーティーなども楽しみました。

#ドロシー師

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初期のフォード車で引っ越し

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初期のフォード車で引っ越し 1988年隣の南島町での夏季子... 1988年隣の南島町での夏季子供集会






日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第五回目は、ドロシー先生ご家族が母親の運転するフォード車に乗ってキャンプ生活を繰り返しながらコロラド州まで引っ越して行かれた様子です。





母親の決してたゆまない信仰



祖父母からのなんら経済や精神的な支えはありませんでした。

「旅の途中、彼が死んだらどうするのよ」とある祖母から言われた時は、母はその夜、人知れずに泣いたに違いありませんが、そのような落ち込みや不安を私たちには一切見せなかったのです。

それは馬と馬車の日々といったものでした。

当時はガレージセールなんてものはありませんでしたので、私たちはオークションを開いたのです。農具や家畜また家具など(ミシンと母の婚礼家具であったタンスは例外ですが)、とにかくあらゆるものを処分せねばなりません。

農場もうまく売ることができて全ての借金の支払いを終えました。

その時はモデルTのフォード車を買うだけの現金を手にしたのです。
新車購入の日、私たちはともに行くことが許されませんでした。

母は興奮した三人の子供たちを連れ出す必要は無かったのです。セールスマンは基本的な車の扱い方を教えただけで、彼女は信仰によってそれを運転して帰って来ました。まさに決意の固い母が勝利の凱旋を果たしたわけです。

病気の夫と三人の子供と必要最小限のものだけを乗せたモデルTのフォード車に乗った私たちはコロラドへと出発しました。

父の具合はおもわしくなかったので長距離の移動はできません。でもそれはその年の輝かしい時と言えたでしょう。私たちは新しい根拠地となるコロラド州のグリーレイまでずっと自炊しキャンプ生活でやって来ました。

その土地のナザレ教会の牧師が私たちの落ち着く先を世話して下さいました。

母は縫い物をしたり看護師として働き、音楽も教えまた清掃の仕事をしました。
すべての仕事は尊いものです。

私たち三人の子供らは路頭に迷うこともなかったのです。
父は自宅療養し、私たちで彼を助けながら少しずつ良くなって行きました。

彼には彼専用の食器を使ってもらいます。それは煮沸して消毒せねばなりません。感染力の強いその病に私たちは一人もかからなかったのでした。

父の必要としていたものは、どんな肉や栄養価のあるものよりも安いヤギのミルクでした。そこで私たちはヤギを飼ったのです。子供たちにとってそれは楽しいものでした。

私たちには自分たち専用の動物園やサーカスまでありました。
こうして私たちは生きたおもちゃやたくさんの楽しみを経験しながら成長しました。

父親の回復はめざましく彼はやがて働けるようにもなり、そこで私たちは再び田舎生活をすることに決めました。都会生活はどうも私たちには向かないようです。

都会での恐ろしいことから守られたのは、ただ母の愛によるものでした。
その町の学校での最初の日の事です。

私たちの家はその学校からランチのために帰ってくることができるほど近くにありました。その学校に私が慣れて以降、覚えられる以上に多くの出入り口がありました。

その日、間違った出口を出てしまうと何もかもが見慣れないものばかりです。
絶望して泣きだす前に私は勇敢にも玄関先に立ち、ドアのベルを鳴らしたのです。

優しそうなおばさんが出てきたので、私は「家に帰る道を教えてください」と聞いていました。

「お嬢ちゃん、あなたのおうちの住所はどこ」と彼女は聞いてきます。
「それがわからないんです」と答えたちょうどその時でした。

母は何か問題を察知して私を探しに来ていたのでした。
私はこの時、奇跡と言うものを信じました。

私はどうやら落し物が並べられているその場所に連れて行かれることから守られたようです。



モデルTフォード


長年にわたってあのモデルTフォード車は私どもの生活の一部となりました。

母はどんなに忙しくても私たちをキャンプや遠足にその車に乗せて連れて行ってくれました。
いつでも子供たちのために時間を割いてくれました。

また彼女は私たちをそれに乗せてリバイバル集会にも連れて行きました。

若い時から私の心が罪を認めること、地獄に関する説教、審判そして主の再臨に関する教えにとられたのです。他の兄弟たちがどのような信仰状態であったのか思い出せないのは、私自身が罪深さを深く自覚していたためでしょう。

もし普通の教会生活なら私もきっと静かな天使のような存在であったでしょう。
言うまでもなく私はそんなものでは無いのですが。

早い段階で兄弟たちと私とは教会の中でどう振る舞うべきかを学びました。
私たちの座席は前のほうにあり、両親たちの一つ前に座りました。

そのため両親たちはメッセージの全ての言葉を聞き漏らすこともなく、同時に彼らの目はいつも私たちを見張っていたのです。
#ドロシー師

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「私は乏しいことがない」

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「私は乏しいことがない」 「私は乏しいことがない」 「私は乏しいことがない」 「私は乏しいことがない」


詩篇 23篇1~6節


"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"


「私は乏しいことがない」

本篇の作者であるダビデは、王位を確立した後だから断言してるのではない。

少年時代の貧しい羊飼いとしての務め、
青年時代に王から逃れた破綻した人間関係、
王となってからも家庭内の反目や部下の裏切り。

逆境のただ中にあってこのような高い調べを歌いあげることができたならば勝利であろう。

私たちの人生の旅路にも試練はつきものであるがこれらの3点に留意したならばそれが恵みにと変わる。

❶私を義の道に導かれる
過去にしでかした罪や過ちを恥じてさいなやまされる時がある。
そんな私を「義の道」に、すなわち神ご自身と顔と顔とを合わせられる聖なる場に導いてくださる。
それは私にふさわしいものがあるからではなく「御名のゆえ」イエスの贖いのゆえである。

❷あなたが私とともにおられる
神の臨在の伴わない生涯はどんな犠牲的で困窮していても、どれほど高貴に豊かであっても虚しいものだ。イエスご自身が共に同伴者として旅路を歩いてくださっているとの納得があるならば、どんな問題をも乗り越えて行けるものである。

❸主の家に住まいます
聖書で主の家とは神殿を意味している。
そこは礼拝(賛美といけにえ)が捧げられる場所である。地上のどこにいても生活のあらゆる場面で神殿を住まいとするとは、どういうことだろうか。
新約の光に照らして敷衍するならば、それは御霊ご自身を、キリストご自身を心中に保つと言うことに他ならない。
私どもの住まいをどことしてるだろうか。

"あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。"
コリント人への手紙 第一 6章19節
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母の賢さと父の病

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 1988年夏の礼拝後 1988年夏の礼拝後 これも礼拝後 これも礼拝後

日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第四回目は、ドロシー先生が兄妹喧嘩をされた時のことと、重大なご家庭の決断についてです。







決して天使の子供ではなかったこと




二人の兄弟たちに挟まれたサンドイッチであった私は複雑に混ざり合ったようなもので、おとなしいよりはワイルド、かわいいよりはたちの悪かった方だと思います。

長男のように膨れっ面をしたかと思うと、次男のように感情を爆発させることもできました。

病気の時は、私たちの興味がプールされた時でした。

私たち三人は一緒に何かの病気になったものでして、
家の外にはお医者さんの診断を示すための赤、白、黄色の検疫サインが立てられたものでした。

その標識が立てられなかった時って幾ばくもなかったのではないかしらん。

私の中にある“タイガー”は、薬を服用しないことに表されたと言えます。
ほとんど薬を摂らないものですからその効果だってありはしません。

私たちの好奇心がプールされたそんな時には、母の興奮度も色づいて行きます。

私たちが皆麻疹にかかりベッドで寝込んでいた時もそうでした。

彼女が鶏に餌をやりに行き卵を集めそんな仕事をして戻ってみると、私たちが外で雪の中を走り回っているか、古いオルガンの周りに集まっては音楽祭をしているかを見つけたものです。

弟は水ぼうそうを二回もやり、私も再びおたふく風邪となったのは当然のことです。
母はそんな時でも忍耐ぶかく、また愛と信仰の人でした。

こんな滑稽な私たちの子供時代は後年になってからは笑い話でしょうが。

弟は成長も早く、すぐに私に追いつきました。

しばらくの間、私たちは双子のような時がありました。
ある近所のお年寄りはそんな私たちをとても可愛がって色々とお世話をしてくれたり、
私たちを「俺の双子だ」なんて読んでくれたりしました。

私たちは家庭ごっこをしたり、子馬に乗っかったり喧嘩もしました。

大きな影を作る木の下の庭で遊んでいたときのことです。

その後長い間の記憶に残る日となったのですが、、どんな理由だったのか覚えてません。
だけど突然私は癇癪を爆発させたのでした。

私は金属製のおもちゃを弟に投げつけ、それが彼の額の真ん中あたりに当たってしまったのです。彼は泣き叫ぶとその傷口から血液がほとばしり出てきました。母は走って駆けつけてきます。

私は殺人者となってしまった気分です。
私はスパンクされなかったし、説教もされませんでした。ただ孤独のままに置かれたのです。

タンスの中に閉じ込められはしないし、たった一人でどこにでもふらつくことができたものの、再び「お姉さん」と呼ばれるに値しないものであることを感じました。

母は最近農場で人知れず生まれたばかりの毛もじゃの子猫をこの傷ついた弟に与えたのです。
彼の傷口はやがて癒されて行って、こんなおてんばの姉の私には無知の子猫に関する秘密の情報を持ってることを自慢気としていました。

そんな日が続いたときのことです。

午後になって私たちの日課である郵便箱まで歩く時となりました。
当時は農家一軒づつ配達するような時代ではなかったのです。
見栄え良い郵便箱の一列が、便利な交差点のところに標識のように立っていました。

私たちの家からは800メートルほど離れています。郵便物を回収するのは共同作業でしたから、その傷ついた弟と私は一緒に出掛けました。歩きながら私は自分の腕を彼の首に置き、お詫びすることはせずにその秘密を覗き込む形となったのです。弟はかがみ込んで精一杯の抵抗を示しました。言葉を交わさずともそんなやりとりから自然に遊びが生まれて行きました。

母親のこの賢い分別ある子供たちへの取り扱は今でも私を感動させてくれます。
そんなことを通じて金属を人に投げつけ怪我させてしまったことから私は癒されていったのでした。




父親が健康を失い夢が崩れ去ったこと




農場敷地代金を支払い終えるだけの健康でたわわに実った作物は与えられなかったのです。

まぁ作物の実り具合はまぁまぁといったところなのですが、私たちの父の健康がおかしくなりました。咳き込むことが多くなり痩せて行ったのでした。

それは肺炎と診断されました。その当時癒す方法のなかった時代にあって私はそのことでひどいパンチを食らったように感じました。彼のお姉さんもそれで亡くなっていて、今度は私の父の番と言うわけですか?

まだとても若いにもかかわらず、あと数ヶ月しか残されていない苦境に陥ったのです。それでも私の母は諦めませんでした。何か一つの可能性さえあれば彼女はそれを見つけ出すのです。

まるで夜空の星のように彼女の信仰は輝きました。やがて彼女は1つの決意に至るのです。
どんな反対も批判もそして否定的な親戚からの言葉も彼女のその決意を変える事はありませんでした。

私たちの持つ全ての財産を売り出して、あらゆる負債の支払いを終え、その後乾燥した土地であるコロラド州に引っ越そう!というものです。

もし母が何らかの恐れを持っていたとしても(もちろん彼女は恐れていたはずですが)、それを子供たちには決して悟らせませんであした。友人や親族を置いて、そしてすべての財産を売り払って引っ越すと言うことは、多くの点で心引き裂かれるような思いだったはずですでしょうが。

アブラハムはすべての持ち物を持って旅に出かけましたが、私たちは違います。
それでも私たちにとっては冒険であり、また父親もやがて時間をかけて回復していったのです。

私たちは新しい土地で新しい人生を歩み始めました。

#ドロシー師

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