記事検索

つれづれなるままに

https://jp.bloguru.com/hosanna

フリースペース

「五殉節の日になって」

スレッド
エルサレムのダマスコ門 エルサレムのダマスコ門

ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



「五旬節の日になって」



使徒の働き 2章1~13節



"五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。"



⑴聖霊様の傾注ー「時代」の転換点であった


①突然の出来事〜弟子や近所の人々の視点
「すると天から突然」
神ご自身の特別な顕現に伴う自然現象=シャカイナ・グローリー。
風、響、地震、炎などの出現。アブラハムが契約を締結した時、モーセのシナイ山で、またイエス様の昇天の時など

②必然の出来事〜主イエスの預言の成就であった(使徒1:8)
これは復活後40日後の遺言でありその後いつ成就するかは弟子たちには知らされていない。
10日間の熱心な祈り(1:14)
さらにイスラエルの祭りにはこの予言的な意味が隠されている。


⑵他国の言葉で話し出したーさらに古い「時代」からの回復を意味する


①その特異性
15の国言葉、ネイティブスピーカーとなった
学習し習得したものとは違う。異言とも異なる。

②その預言的意味
バベルの塔以来の言葉の混乱、連帯の崩壊からの回復の時代が到来した。
さらにそれは「教会時代」の始まりを意味している。民族を貫いたあらゆる隔ての壁を取り除いた組織体である


⑶ヨエル書預言の成就ーやがて到来する新しい「時代」を見据えて


1部分の成就であった(2:16-21)
旧約聖書のラビ的引用法の4つのうちの1つ。
数ある預言項目のうち1つが適用出来たらそれで成就とみなされる。ここでは聖霊が激しく傾注されたことであり、その他の天変地異はまだ起こっていない。

全体の成就は終末時代の最終段階に成就される
それが主の再臨前、世界帝国軍がイスラエルに侵入しユダヤの民を全滅させんとする戦争時に起こる。


(結論)


私たちが今生きている時代を正しく認識しよう。
どういった時代経て次にどういう時代が来るのか。私たちのするべき事は主の証人(1:8)として生きることである。


#メッセージ

ワオ!と言っているユーザー

イエローストーン国立公園にて

スレッド
錦の隣の紀伊長島と言うところで... 錦の隣の紀伊長島と言うところで朝祷会に参加しました。 イエローストーン国立公園にて


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第13回目は新たな職場としてイエローストーン国立公園に移ったことです。









イエローストーン国立公園にて



病院の菓子コックからホテルの菓子コックへ


町立病院にあっては多くの証する機会が与えられました。
職場の同僚たちは伝道集会にも喜んで私と一緒に参加してくれましたし、ある人々は心の問題も打ち明けてくれました。

かつて宣教師でもあった聖書学校の校長がよく言っていた言葉です。
「宣教師に召されているかどうかを判定するには、今あなたが置かれているところでそれを行っているかどうかで明確です」

町立病院で働くのは満足できるものでしたけれど、多分チャレンジできるものがなかったからでしょう。私は新たな働き場に転職したい思いに駆られ始めていました。

その思いに駆られるようにして私は有名なイエローストーン国立公園での職場に応募しました。
すべての病院職員は退職するにあたり、少なくても二週間前にはその要望書を提出せねばなりません。

要望書なしにクビにされる事はあり得ても、要望書を提出しないままで辞任することは許されなかったのです。私は早めに申請しました。その私の申請は思わぬ時間がかかったのです。時間はなくなり始めました。ついにある月曜日、辞任を告げるためにオフィスに行く日が来たのです。

日曜日は主と交わり、そして主から導きをいただく大切な日です。
私は王妃エステルに想いを重ねていました。

私は常日頃、王妃エステルとその勇気に感謝していました。
「私が死なねばならないなら死にます。生きねばならないなら生きます」

月曜日になってオフィスに行ってみると、私の上司が即、聞いてきました。
「もう次の仕事は見つけたのですか」
「いいえ、まだです」と私は正直に答えました。

ちょうど次の日になってイエローストーンに提出していた私の申請書が認められたのです。
私にあてがわれた部署は、レイクホテルのパーティスト料理の補助と言うものです。
そのホテルは700人ほどの人々を宿泊出来る巨大なものでした。

新しい仕事場に到着した時、拒絶に面食らうことになります。
パストリー料理のトップはドイツ人でしたが、彼は女性とは共に仕事をしないとシェフに告げていました。そこで私はサラダとサンドイッチの部署に廻されたのです。

やがてそのドイツ人パストリー料理長はシェフと揉め事を起こし、まもなく解雇されました。
次のパストリー料理長はロサンゼルスのオフィスから送られて来ましたが、どうもドヤ街出身のような方でした。

彼は最初の給料でとんだ所へ行ってしまい、そして仕事場には現れませんでした。
そのため私は休日にも関わらず朝方に呼び出されて、彼の代わりを務めねばなりませんでした。

私はシェフに言いました。
「自分に四人ほどの真面目な学生さんをヘルパーとして与えてくれたら仕事は完璧にやり遂げます」。そこで私はパストリー料理長に任命されたのです。

私には数人の男子学生があてがわれました。
私はボスになれるタイプではないと、学生たちに伝えておきました。

私たちは皆でパンやケーキやロールを一緒になって作り、また一緒になって皿洗いや掃除をしたのです。とっても良い夏を過ごすことができました。実に充実した時となったのです。


日曜日が私の休日として与えられたのは奇跡のようなものです。
礼拝のための場所は、神様が備えられた偉大な野外です。

そこにはクッション付きのベンチはなく、ただ粗末に斬られた丸太が転がっているだけでした。
それでも私にはイエス様がかつて野外で説教された時の状況と重なるように感じました。

私のルームメイトはミネソタから来られた素敵な女性でした。私たちは生涯の友となりました。彼女はやがてカルフォルニアにいる私をわざわざ訪ねてくれたし、彼女とは長い間文通を重ねました。彼女がやがて天に召されると、その娘さんと毎年クリスマスカードを交換しあっています。



人生に楽はなし



ホテル従業員にはあらゆるタイプの人々がいました。

私には全世界が提供できるすべてのタイプの人々と会えたように思えました。
私はその人たちをこんなふうに区分けしたのです。「とても良い人達」、「普通の人達」、「あまり良くない人達」そして残りが「それ以外の人達」という具合です。


クリスチャンホームと教会の守りから離れて、私はキリストとともに誘惑に直面することを学びました。このキリストこそ既に罪と地獄、そして死からも勝利されたお方です。

高給とまた気前良いボーナス故に、その頃の私は1年のうち3ヶ月だけ働けば十分に生活できるほどでした。そういう現実ではありますが、スキルを維持するためにはこの業種で少なくともパートタイムで働いた方が良いでしょう。

イエローストーン国立公園から兄の家族のいるワシントン州に行きました。
そこでは私に見合う仕事が見つからなかったので、南カルフォルニアの弟の家庭にその後移ったのです。そこでは少なくもメイドの仕事を見つけることができました。

#ドロシー師

ワオ!と言っているユーザー

光の中に生きるもの

スレッド
Sacramentoのベスト日... Sacramentoのベスト日本レストラン、MIKUNIレストランのダウンタウン店 すでに20年近く通っているがラ... すでに20年近く通っているがランチ弁当ボックスがあるのをこの日初めて発見してオーダー。もちろんグッドでした。


ヨハネの手紙 第一 2章9~11節



"光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。
自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。"



私は一人っ子だから兄弟を憎むことも愛することができない、と勘違いしないでください。
ここで言う「兄弟」とは、信仰者お互いのことを指しています。

キリスト教会の中での分裂、クリスチャン夫婦の崩壊や離婚、宣教チームの仲違い等、不幸にして兄弟間の一致が保たれない場合があります。

新約聖書時代の最大の宣教師であったパウロとバルナバですら意見が異なることから議論したが互いに譲らず「激しく反目となり」、宣教チームは瓦解して互いに別行動をする事になりました。
使徒15:36-39

考え方の合わない兄弟に対してもし「憎しみ」と言う感情が沸き出てきたならばここのみ言葉からサーチライトに心照らされてみると良いかもしれません。憎しみは人殺しであり、それは永遠の命を持つ者のことではない、とヨハネは非常にシビアにクリアカットです(ヨハネ3:15)。

聖書理解が異なったり意見が異なっていたとしても、憎しみから守られることは出来ます。
そして愛することも出来るのです。
なぜなら私たちは光の中に、つまりイエスキリストとの交わりの中に生きているものだからです。

もし兄弟を憎んでいるとしたらその人は闇の中にいる、と聖書は明快です。その闇は彼の目を盲目としどこに行くのかを知らない、つまり自分自身とその言動を理解できていないと指摘しています。

#メッセージ

ワオ!と言っているユーザー

麻疹が流行ってるようです

スレッド
サンフランシスコダウンタウンに... サンフランシスコダウンタウンにて





人体の持っている不思議さ。

州外遠出から帰ってきて先週末を共に過ごした息子に麻疹の疑い。

倦怠感と高熱のためベッドに伏してことが多かったけど咳など風邪の症状は無い。日曜になってから胸と首周りに赤い湿疹ができた。
その夜、家人が病院に連れて行き、医師は彼から摂取したサンプルをオリンピアに送って現在も診断待機中。麻疹の疑いのある彼は学校にも登校出来ない。そのサンプルが間違った医療機関に送られたとことでもう1日無駄に学校に行けない日が伸びた。

その間、医療機関が私の携帯に電話をして色々と聞いてくる。
現在オレゴン州で麻疹が流行しているとのことで、数週間前に私がポートランドに行ったときの日時やその行動状況。
先週末に息子をどのような場所に連れ出し、どのような活動をしたか。さらに私自身が幼少期に日本でいつ麻疹ワクチンを受けたかなど。これについては数年前母から譲り受けた母子手帳があったのでその正確な50年前の日時を提示できた。
と言うわけで現在も診断が降らない彼は学校にも行けず1人でお留守番。現在サンフランシスコにいる私は何もしてあげること出来ず。

それにしても50年前に接種した父親の麻疹ワクチンが、現在の息子の人体にどんな影響があると言うのだろうか?
#健康

ワオ!と言っているユーザー

ベテルでの発見

スレッド
エルサレムにて エルサレムにて





ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。





「ベテル(神の家)で発見した3点」



創世記 28章10~22節




"ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、
石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」"





⑴地に向けられて立つハシゴの発見


①天地の交渉人(ニゴシエイター)の発見
母の愛と守り(27:42-43)と父の約束履行と配慮(28:4)は経験してが、それ以上のものの存在との邂逅

②イエスと弟子との間のコミニケーション成立の上それは父母から離れて1人になった時。天なる存在者は孤独のヤコブに近づかれた。はしごを上り下りする天使たち。天と地とはつながっていた。



⑵「決してあなたを捨てない」との絶対者の発見


①家庭内での不安定な愛と関係
父の偏愛受けたヤコブ、そして兄からは殺意。

②アブラハム契約がヤコブに継承されると主ご自身からの語りかけ
ヤコブへの約束は母から聞いていた(25:23)、そして父を騙して遺言(28:4)を得ていたが、主自ら直接聞いたのはこの時が初めて


⑶主がこのところにおられたとの発見


①「私はあなたと共にあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り」
「神の家」とは後に神殿を指す代名詞となるが、その特別な不動産がヤコブ自身に伴い、世界中どこまでも随伴するとの約束であった。


②ヤコブの自律的応答〜「すべてあなたが私に賜るものの10分の1を私は必ずあなたに捧げます」
ここでヤコブは律法を遵守しているのではなく神の愛と守りに対する自主的な応答をしている。ここのヤコブの決意を持って「十一献金の教えである」と抽出してはならない。新約聖書的な教えは常に各人による自主的な恵みへの応答である。


(結論)


クリスチャンとは神を見出した者、いや神に見出されたことを発見した者のことである。
ヤコブに置いてそうであった事実は私たち各人にも当てはまる。神には私たち各人へ約束したことがあり、それを成し遂げてくださるのは神ご自身であるという。それが成し遂げられるまであなたは守られ、あなたの行くべき地に連れ戻される。


#メッセージ

ワオ!と言っているユーザー

「すべての少女にチャンスは一度巡ってくる」

スレッド
「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 「すべての少女にチャンスは一度...



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第12回目はドロシー先生の甘い青春時代、男性との出会いについてです。




黒人の赤ちゃん、そして満足できない心



実入りの良い仕事でしたし楽しい仕事場ではあったのですが、私の心は真の満足からは離れていました。宣教プロジェクトのためにどれだけ捧げたとしても、私の内なる声を静めることはできませんでした。

私はエリトリアからの赤子を養子に迎えました。
孤児院から私に何枚かの写真が送られて来ましたが、私の黒人の小さな赤ちゃんは短い縮れ毛をしていてまるで本当の天使のように可愛かったのです。

彼女が成長した暁には私の代わりに宣教師として活躍してくれるのではないだろうか、なんていう期待もしました。ですが、そうは実現しなかったのです。

彼女は生まれた時から栄養失調気味でした。やがて結核に犯されるようになると州立病院に入院を余儀なくされ、そこで亡くなったのでした。

まるで私がこれまでにしようとして来たことの全てが失敗に終わったかのように思えたのです。

働きすぎて教育を最後まで終えることができなかったこと、黒人の赤ちゃんを亡くしたこと、そんなことで将来に対する希望は消え去ったかの様でした。

召しに応えようとする全ての努力や願いは災難に終わりました。
その時私は失望に打ちのめされていたのです。



失われたチャンス



「すべての少女には少なくても一度のチャンスは巡って来る」
これは私どもの聖書学校の一人の教師が、なぜ自分たちは結婚できないのだろうかと悩む女子生徒らに与えていた答えです。

私のにとって一つのチャンスとなったのは、聖書学校の校長でした。
彼は脳みそはあったものの、機転と勇気とに欠けていたようです。

彼の最初の私へのアプローチは手紙となったのですが、なんとそれを彼のいとこに託したのです。私にして見れば、大切な出会いを親戚に任せるだなんて事は考えられません。

もう一つのチャンスが滑ってしまったのは、応えを単に遅らせてしまったことに寄ります。
彼は物静かで誠実な若い男性でした。将来、宣教師となるための準備をしながらも自らの学費を稼ぎ、さらにやもめとなった実の母をサポートするためにパートタイムで働いていた人でした。

私の家族は皆彼のことが好きで、親戚の人たちも彼こそ立派な人だと考えていました。
でも私がお応えすることが遅くなったため、彼は私よりもきれいな女性を見つけたのです。

彼らは結婚して家庭を作りました。
彼は成功した農夫となりましたが、決して宣教師にはなりませんでした。

もし男性側に宣教師としての突然の召しの声がかけられ時、その働きを共有せねばならない夫人としては問題の全てもまた同様に抱え込む事になるでしょう。

ある時、コンウエイご夫妻を通して私の住所さえ知らないはずのある方から手紙をいただきました。私よりもその方の方がこの件についてのエピソードを楽しく話すことができるでしょう。

さらに、教職を引退されたある方は私に山ほどの手紙を送って来ましたが、私はそれに何も答えませんでした。

どうも巡ってきたチャンスの全てを私は取り逃してしまったようです。


#ドロシー

ワオ!と言っているユーザー

濡れ衣を着せられて

スレッド
ドロシー先生ご自慢のお二人によ... ドロシー先生ご自慢のお二人によるデュエット 秋の特別伝道集会 秋の特別伝道集会 特別講師は有賀喜一先生 特別講師は有賀喜一先生





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第11回目は、ドロシー先生の大学時代、その挫折と戦争が始まったことについてです。


.........................................................................................................................




無理が重なった大学時代




雇用主は私のためにスケジュールを調整してくれたため、大学に通いながらもパートタイムで働き続けることができました。大学も二年目となり、期末試験のちょうど直前でした。

私はあまりの多くの働きに耐え切れずに疲れ果ててしまったのです。
それはまるで私の世界が終わってしまったかのように感じました。

学業を望むところまで続けることができなくて、適性な資格証明書がなければどこのミッション団体も私を宣教師として受け入れる事はないでしょう。


それは私の人生でも特に暗く、失望の期間でした。
それから突然、全ての世界は戦争一色となりました。

第二次世界大戦が始まったのでした。
それは私ばかりでなく、世界中の人々の人生に介入していったのです。
それは実に問題と苦悩とに溢れた激流の時代でした。

そんな中にあって、時間とともに私は健康を回復し再び働き場に戻っていきました。
一日の苦労はその日にて足れり、といった世界です。

あらゆる困難を一度に背負い込むことはできません。
その日に与えられた荷物だけを主と共に生きていけば良かったのです。



第二次世界大戦の影響



多くの若い人たちが戦争に関わる産業で働き始めました。
私はそのような機会には恵まれませんでした。

ある町立病院は、人手が全く足りていませんでした。そこで菓子料理のために働かないか、と尋ねられたのです。

その仕事が私で間に合うとはとても思えませんでした。けれども最終的に同意しました。
その初日にこと、私は病院にいる数百人の人々のためにケーキやフルーツデザートを作ったのですがさすがに疲れて果ててしまい、一体なぜこの仕事を同意してしまったのだろうか、と後悔するほどでした。

私は上司のところに行き、辞任することを申し出ました。
すると彼女は、「それはできません。あなたには一ヵ月間は働いていただきます。それから好きなようになさったら良いでしょう」と言ってくれました。

私はそこで結局二年間働くことになったのです。
また、シカゴ・ベーキングスクール校料理科へ入学したところ、町がそののための学費を支払ってくれることになりました。

卒業に至っては、パン屋を開業するための資格証明書をいただくことが出来ました。
私はその仕事が好きになり、また多くの異なる人々と共に作業していくことを学んだのでした。




冷たい心で赦したこと




私たちがどこの世界に行っても、そのままの貴方を受け入れてくれる人々もいるし、また一方で貴方を変えようとしてくる人々もいるものです。

私が赦しについての貴重なレッスンを受けた場所は、その後者の所でした。
私の働くシフトは早朝でした。夜勤明けの看護婦の監督官とは、いつも彼女が退出するときにおしゃべりしたものです。

ある朝、彼女は大変疲れたように見えた上に、心配事を抱えているようでした。
その時、多くの入院患者と幾人かの看護婦が下痢や嘔吐を伴うひどい病にかかっていたのです。

先ず最初に食物からの感染経路が疑われました。
彼女には大変厳しい夜勤仕事であったのです。

ある若いインターン生が間も無く私のところにやって来て、どれほど緊迫した状況となっているかを知らせてくれました。しかも彼は大変厚かましい態度でベイクショップを非難したのです。

今日となっても私がその日に調理したデザートを覚えています。
それはレモンソースを詰めたスポンジロールでした。

一度だけではなく、その日の内に何度も彼は私に対して不快な態度を見せました。
あのような非礼極まる態度を私はかつて見たことがありません。

街の衛生局の役人が食物サンプルを採っていきました。
言うまでもなく、その日は散々な日だったのです。

次の日、私は仕事を休みました。上司が心配して電話をかけて来ました。
状況が沈静化するまで、私は仕事には復帰する気がないことを伝えました。

再度彼女が電話をくれた時には、街の衛生局による検査報告を知らせてくれました。
病原菌は私のレモンロールからではなかったのです。

大学の寮に住んでいた何人かの学生もまた同様の症状に苦しんでいました。それは水道からのものだったのです。

彼女はまた私が職場に戻ったなら、あのインターン生が私にお詫びすると知らせてくれました。彼は本当にそのようにしました。私の心はまだスッカリと冷え切ったままでしたが、とにかく彼の謝罪を受け入れることにしました。

後日、私が怪我をして緊急治療室に行かねばならなくなった時、あのインターン生とバッタリと顔合わせとなったのです。今度は彼が私を痛く大切に、また暖かな配慮を持って扱ってくれました。

ついに私は心から彼を赦すことができて、感謝できるようになりました。

ただ、彼の非礼を認めると言うことでないのは言うまでもありません。
非礼自体は決して認められるものではありません。


#ドロシー

ワオ!と言っているユーザー

校長からの一撃

スレッド
錦教会では音楽の賜物の豊かな方... 錦教会では音楽の賜物の豊かな方が多く強力なコーラス隊が結成されました 毎年クリスマスコンサートには町... 毎年クリスマスコンサートには町内の大きな会場借りて開かれます



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。


その第10回目は、ドロシー先生の高校生時代の様子です。



Nutshell(凝縮された)説教

私にはある日、校長室にまで呼び出された鮮明な記憶があります。
南コロラドを訪問してきた一人のクラスメイトが、黒いマツのナッツを持ってきて私たちに食べさせてくれました。

私たち皆はホームルームの時間中、それをかじってはさやを床に落としたままにしておいたのです。私たちがなぜそんなことをしたのか覚えていません。

そんな楽しい妙技とも言えるような時間を過ごしていた時、校長先生が教室に入って来ました。教室のモニター係が彼に知らせたのではないかと私は考えているんですが。

彼はほんの短い時間見渡してから、これをしたの誰だ、と床に落ちているさやを指差して聞いて来ました。その場に居合わせた女生徒は私一人だけで、私がしたことを認めざるを得ませんでした。後でもう一人の女生徒も告白しました。

私は自分の誤った行為に加えてその過ちを否定すると言う罪まで犯したくなかったのです。
幾人かの男子生徒も正直に告白しました。そして彼らは散らかしたものを掃除するようにと言い付けられたのです。そして二人の女生徒に対しては放課後に校長室まで来るようにと言われました。

私としてはむしろ掃除する仕事の方を選びたかったのですが。
校長室に入って先生の最初の言葉は私たちの恐れを取り去るに十分過ぎるものでした。

「女子生徒で貴女方二人だけがあれをしたものでないことは分かっています。お二人の正直さに感謝しています」と言ってくださったのです。

ところが彼の第二言は矢のように私を貫きました。
「これは貴女方のお母様方にもお伝えしておきます」

この言葉はまるですべての説教を一粒のナッツに詰め込んだようなインパクトのあるものでした。
言わば、Nutshell(凝縮された)説教でした。
その後彼が何かを言っていたかもしれませんが、私はからっきし覚えていないのです。

さて私どもの家族についてです。

私ども家族は想定外の境遇によって二回も経済的にはゼロのところまで追いやられたのですが、働き者の父と優れた管理者である母によって助けられてきました。

子供たちを私立の教会附属学校に通わせるのは経済的負担が大きかったでしょうが、両親は私たちがクリスチャンの環境で教育されることを望んだのでした。

その後の大学進学や専門学校への進学は、子供らそれぞれ個人の決意に関わることです。
その時代は夢に溢れている若い子達のための働き場が多く残されていました。


宣教師の影響


学校を時に訪問してくる宣教師とその彼らの働きについては深い印象を受けました。
私どもの校長はかつて外国で宣教師として仕えたこともある人です。

私どもの学校は元々、主に仕えるために有益となる若い人達に訓練を施す目的で設立されたものでした。その召しに最高度に応えるために彼ら自身が献身する機会となる幾つものプロジェクトが生徒たちには与えられていました。

私の心はやがて開かれて、世界をめぐる広い必要に応えたいと言う気持ちでいっぱいと成って行きました。

「世界にはまだ一度も福音を聞いたことのない何百万人という人々がいる一方で、福音を二度も聞く権利は誰も持っていないはずです」
こんなスローガンが学内で何度か聞かれるようにもなりました。

母はまた私があまりに多くの宣教師の報告会や説教者の影響を強く受けただけなのだと思っていたようです。しかしそれでも彼女のこの考えが私の初心をくじけさせることはなかったのでした。

卒業後、私はメイドとしての働きを始めるとクリスチャンカレッジで学ぶための費用を蓄え始めたのです。

私のメイドとしての経験は有益なものとなりました。それは学び直すという体験を与えてくれたと言っていい価値高いものです。

私のやり方でもなく、母のやり方でもなく、雇用主が好むやり方に従わなくてはならないことを学んだのでした。

私の召しはアフリカにあると感じました。私の町には多くのアフリカ系アメリカ人が住んでいたのです。短く突っ立ったブライダルヘアーを色とりどりのリボンで結び合わせたとても可愛らしい子供たちを目にしました。

私はその人たちが集う小さな教会に足しげく出席しました。
彼らの賛美スタイルが大変気に入ったのです。

私どもの大きな街にあるメソジスト教会もまたアフリカ系の方々がお集いになっています。 そこには偉大なコワイヤーがありまして、彼らはまるで燃え立つかのような力ある賛美をするのです。



#ドロシー師

ワオ!と言っているユーザー

「ガリラヤの漁師に」

スレッド
カペナウム... カペナウム イエス時代のカペナウム会堂の土... イエス時代のカペナウム会堂の土台
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージ・ノートです。



「ガリラヤの漁師に」


マタイの福音書 4章12~22節


"イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。"




⑴召命の漸進さ


①突然に思える召命の背後にも漸進性がある
初期ユダヤ伝道 ヨハネ1:40-42
初期ガリラヤ伝道 ヨハネ2:1-12
カペナウム伝道 ルカ4:31-39

②イエスと弟子との間のコミニケーション成立の上での転機となった出来事
その当日の大漁の奇蹟 ルカ5:1-11


⑵預言の確かさ


①イザヤ9:1-2の成就
700年以上も前に預言された「暗闇」「死と陰の地に座っていた」ガリラヤの民
「異邦人」〜アッシリア侵入

②「光が照った」
光とはイエスの宣教であり、イエスご自身
未来預言形の動詞時制に注目


⑶摂理の不思議さ


①「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
それは千年王国であり、結果としてカペナウムそしてユダヤ全体からは取り去られることになる。
イザヤ時代に「光」が到来しなかったことと同様

②その「ヨミにまで投げ落とされる」カペナウム(マタイ11:23)町からペテロやアンデレが弟子として召された。
「わたしについてきなさい。あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」
聖書学者や祭司などの特権階級ではなく一介の平民の漁師に白羽の矢が立てられている。


(結論)


摂理の生涯があり主の声を聞いた故に私たちはここにいる。そのことを自覚した上で主の招きの声を今一度聞いてみよう。
#ドロシー師

ワオ!と言っているユーザー

競争がないお役所仕事

スレッド
日本国総領事館が入居しているタ... 日本国総領事館が入居しているタワービルディング 競争がないお役所仕事




先日は日本国総領事館に行ってきました。
先週に引き続いて2回目の訪問です。

申請していた書類を受け取らねばならないからです。
最初の訪問は5月2日でして令和の世になってから2日目、新しい天皇皇后両陛下が即位されたお祝いの記帳もさせていただきました。

その時に気づいたことを何点か書いて来ました。

❶やっぱり日本スゴイ!
❷なるほど日本らしい!
❸こうしたらどうなの日本?

今回は❸を記します。

記帳室には2名の職員が起立姿勢のまま待機しています。

申請受付窓口は2つあるのですがその日空いていたのは1カ所だけ。

何もすることなく記帳を見守るだけの役割ならその狭い部屋に1名いれば充分でしょう。もう1人は窓口対応すれば良いのになぁと思いました。

申請時に私の前に2組の方々がいまして、約15分間の待ち時間。
私が申請を終えた時、6組〜8組ほどの方々がその1つの窓口で待っていました。

申請後書類は1時間ほどで完成するから取りに来て欲しいとの事なのですが、閉館時間まで1時間半しかありません。
1時間半の間に私の番が回ってるかどうかもわからないのです。

書類受け取り時に15ドルをお支払いするだけのことですので、所要時間は5分とかからないでしょう。

そのために受け付けてもらえるかどうかも分からない1時間30分を無駄にすることができません。

やむを得ずその日の受け取りをあきらめ、翌週の2回目の訪問での受け取りとなったのです。

記帳室のドアから2メートルと離れていないところにセキュリティーの大柄な黒人男性が椅子に座ってらっしゃいます。

どれだけ安全面を考えても2人がその部屋に一緒にいる必要はあるようには見えません。

必要のない所には丁寧。
邦人のためにサービス向上しようと言うその必要性はあまり考えていないようにお見受けしました。
#社会

ワオ!と言っているユーザー

  • ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
    ログイン
  • まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
    新規ユーザー登録へ
ハッピー
悲しい
びっくり