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「わたしに来る者を」

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「わたしに来る者を」



ホサナ・キリスト教会日曜礼拝のメッセージ・アウトラインです。



「わたしに来る者を」



ヨハネの福音書 6章34~44節



"そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。"



⑴「来る」-その困難さ


①主がチャレンジされている中心点、キリスト教信仰の全てであると言っていい。
主のもとに来ることについて何度も語られている(35、37、44、45、65)。

②信仰の世界でこれほど難しいこともない。
群衆は小舟で湖を渡りイエスを探し出したが。
物理的な距離を縮めたとしてもそれは来たことにはならない。
24-26節。教会堂に来ても、牧師に相談できても、洗礼を受けたとしても、、、、



⑵「来る」-それは「信じる」「食べる」と同義語



①「信じる」ヘブル的並列表記法(35)
食糧経済問題解決のためのメシアを探していた人々にとって「しるし」を見ても見ていない(26)

②「食べる」ヘブル的物理比喩的表記法(50、53、56、57、58)
主の言葉は霊でありいのちである(63)。この言葉に信頼を置くのもには命を支える食物となる。


⑶「来る」-そのカラクリ

父なる神がイエスに与えられたものである
父が引き寄せ(44)、父から聞いて学んだもの(45)、父によらない限り誰もイエスのところには来れない(65)。


②来るものを決して捨てないとのイエスによる永久保存(39)
「ひとりも失うことなく」と強調され、蘇りの日までの保護が保証されている。



(結論)
「来る」とは、簡単でありながら最も難しい信仰の行為である。対面や格式にこだわる者には不可能である。自分自身に確信を置かない者だけ許される特権であり、謙遜な行為である。
#メッセージ

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消費税を10%に増税したらアカン

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消費税を10%に増税したらアカ... 消費税を10%に増税したらアカ...

現行消費税8%の税収は約20兆円です。令和新選組は今回の選挙で8%全額を廃止する公約としていますが、一般国民にはあまりにも強力なカンフル剤となるかもしれません。私は5%減税でも大きな前進であると考えています。
減収の20兆円分をどうやって補填するかは、他からの税収を計るか新規国債発行となります。
この2つの方法はそれぞれ十分な財源となり得る方策であるとの十分な根拠があります。
他のあてにできる税収とは、所得税と法人税です。
現行の所得税法では金融資産からの収入と給与等からの一般収入とを分離して課税していますが、これを一つの所得に統合した総合課税方式にすれば良いのです。これにより高額の金融資産保持者・高所得者に対しての課税を強化することができます。株の配当等の金融資産からの収益に対する税率は、どれだけ儲けても一律の20%です。これを一般収入並みの最高税率45%、地方税率含めたら55%までの課税とすれば良いではないですか。
法人税については零細企業から大企業までの税率が現在はフラットです。これも税率一律の消費税と並んで金持ち優遇の不公平税制ではないですか!ここに累進性を導入するべきです。利益を大きく上げている企業にはそれだけ多くの負担をしていただく。当然のことです。それだけではありません。大企業に対してのみ適用される80を超える税の優遇措置(割引システム)があって大きな課税逃れとなっている現状も是正するべきでしょう。
これらの法人税と所得税を見直すだけで29兆円の税収を見込むことができると試算されています。
日本は20年間デフレが続き実質賃金が下がり続けている唯一の先進国です。このまま消費税を増税したならばもはや先進国とは言えなくなるほどの貧困化が進むのです。今や貧困ラインを超えている人が子供の7人に1人、高齢者の5人に1人、そして20歳から64歳までの女性の3人に1人の割合です。
これらの社会の底辺に住む人からではなく高額所得者からより多くの負担をしていただくのが公平な税制です。
2017年の統計ですが企業がため込んでいる内部留保は446兆円です。金融保険業を加えたベースとなると507兆円を超えて、それは日本の1年分のGDPに匹敵しています。6年間連続で前年度を超える内部留保となり、この年だけで10%の増額、すなわち約50兆円の儲けを企業が貯め込んでいるのです。50兆円とは日本の全税収の金額にも匹敵しています。20兆円の消費税分の代わりに、この50兆円を利用したら良いと言うことです。

それには呼び水が必要です。
国が新規国債を発行して教育や社会保障など、あらゆる伸びしろのある分野に積極的な財政投資を行うのです。それによってデフレが改善したならば企業はこの巨大な内部留保を設備投資や人材確保・開発に投資ようになるでしょう。
#社会

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神様にとって不治の病はない

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1992年、夏季実習伝道として... 1992年、夏季実習伝道として伊東献仁神学生がおいでになられました。松井宅での家庭集会です。 神様にとって不治の病はない



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第25回目は、川崎での多忙な伝道生活がドロシー先生の健康問題を引き起こしたことについてです。米国に帰国中、肺気腫との診断を受けたのです。当時の川崎の空は、酷い公害スモッグで覆われていました。









健康問題に直面して
〜暗い疑いと疑問〜




1963年頃までに私の健康はひどくなって行きました。
高熱と咳が続き、ときには呼吸さえ困難となったのです。

そして遂に働きをそれ以上続けることが困難となったのでした。
医者に診ていただいたのですが、それはただ私をがっかりさせるものとしかならなかったのです。レントゲン写真を撮った後で彼は、「どんな種類のタバコを吸っているのですか」と聞いてきたのです。

横浜の病院へ行った時には、喘息であるとの診断を受けました。そして三週間の安静治療を受けたなら肺は綺麗になると言われましたが、何の効き目もありませんでした。私の症状はさらに悪化していったのでした。

やがて私は、しばらく長期休暇を取るようにとの要請を受け入れざるを得ないところまで来ました。その知らせは米国へも送られたのですが、それが先方に届く前にベイデン教会からファローのために一時帰国するようにとの連絡が届けられました。そこでこれが神様の御旨であると確信したのです。

それでも私の内には多くの疑問が残っていました。

どうして? どうして? どうして?


私は当時三つの高等学校で英語を教えており、そこからの生徒さん達が川崎南部キリスト教会のバイブルクラスに出席してくれていました。ときにはそのクラスが20名以上にもなる時がありました。

そこにはインドやアメリカからもゲストが来られては、ともに楽しんでいたのです。ターバンを頭にかぶったインド人がクラスに来たときには、生徒さんたちは大変喜んでいました。働きが進められ成長しているのを見て、私の心は喜びで溢れていたのです。

どうして私は撤退しなくてはならないのですか?
主は私にその理由を示されませんでしたが、聖書のお言葉をくださいました。

「私のしていることはあなたには今は分からないが、後にはわかるようになる」

お別れとは、大変辛いものです。
しかし三回あったお別れ会の中で、主はそれぞれ異なった三人の人物を通して、この主ご自身のお言葉を私に与えて確信を下さいました。

ヤコブが最も暗黒の中にいた時に、主は彼にお語りになられました。

"「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」"(創世記 28章15節)

9月4日に出国する予約が取られました。もはや後悔したり心配したりする時間は残されていません。ミッショナリー・チャレンジャーの原稿をもう一本書かねばならないし、ファローのためのペーパーも準備しなくてはなりませんし、不在となる英語クラスのための備えもまた必要でした。

会計や荷造りもせねばなりませんでしたので、残された限られた時間の中でしなくてはならないことが無尽蔵にあるように感じました。

その夏の修養会は、一年間の帰国報告の仕事のためには心を備える特別な時間となりました。
多くの妨げが起こったし、まさに現在は逆風の吹く状態でしたが、神様の御心は誤りなく鮮明です。

五年間不在の後に家族と再会できたことは、言葉にならないほどの真の喜びとなりました。
子供たちの成長のなんと早いことでしょう。

日本へと旅立ったとき、彼らはまだよちよち歩きだったのです。その彼らが一度に私に話しかけて来るのです。私の父のトレーラーハウスに教会や親族たちが集まって盛大な宴会となりました。それはまさに親密な”コミューニオン(聖餐式)”となったのです。


カルチャーショック


突然、私は自国の米国にいながらカルチャーショックに直面しました。

銀行口座の開設方法がわからない。駅改札口での自動販売切符の取り扱いがわからないのです。
運転免許証を得るときには大変な緊張を強いられました。

そんな中で親切にも手助けをしてくれるたくさんの人々に接しました。毎回助けをいただく度に、私が言ったことの定型句はこんなものです。
「五年間も日本にいて最近戻ってきたばかりなんです。アメリカでのあらゆるノーハウについてはすっかり抜け落ちてしまった者ですから」

休んでいる時間はありませんでした。9月19日までのファロー(宣教報告)のスケジュールがきっちりと組まれていて、アメリカ中の西や東へ行ったり来たりすることになっているのです。

家族であるベイデン教会の方々は、セントルイスの駅でまだ眠気まなこだった私を迎えてくれました。そのユニオン・ステイションは今やセントルイスの観光名所となっていて、あらゆるお店やエンターテイメントの集積地となっています。それでも当時電車が通っていた事を忍ばせる面掛けは残されていますが。

ナザレン教団をリタイヤされたコンウエイ牧師とその奥様は、私を彼らの家に迎え入れてくださいました。その家は私の米国滞在期間、第二の実家となりました。
彼はまたキャシューナッツとブラックウオナッツアイスクリームの販売にも長けている才能の持ち主です。彼がどこに行くにしても販売を成功させてしまうのです。

コンウエイ夫人とおしゃべりした地下室に至る階段での時間を決して忘れることはないでしょう。
その対話は何回にも及び、そしてめったなことで邪魔が入らなかったのです。どうして地下室での階段ですかって?

彼女が洗濯の度に階段を降りてくると、私は何か理由を見つけては会いに行き、話に誘い込んだからです。

長い結婚生活の後になってからこの二人は深い相思相愛の仲となったようです。
セントルイス市内を運転するときにも彼らは手をつないでいるのです。言うまでもなくそれは危険な行為のはずですが、主はそれを認めて彼らをお守りくださいました。

チャーチオブゴッド教団はサイズとしては小さくなりつつあり、メンバーも少なくなっているようでしたが、暖かい雰囲気とスイートな交友は私がどこに行っても保たれていました。
激しい嵐に見舞われ去って行かれた方々の中には、私と親しくしていた幾人かもおられます。それにも関わらず残された彼らは忍耐を保持して教会を守り続けています。



神様にとって癒されない病はない



熱心なクリスチャンの友人らは、私が家にいても海外にいてもこの12月までに私が癒されるようにと熱心に祈り続けてくれたのですが、どうも私の体はこれ以上働きを続けられそうにはなかったのです。

セントルイスにあるバーネス病院での専門医との面接では、私がとても深刻な状態にあることが伝えられました。公害の煙や灰、その化学物質を吸い込んだことからくる肺のダメージが深く、おそらくそれが恒久的に残るとのことです。

もし日本に戻るとすると、長生きできたとしても55歳になる頃には車椅子生活を余儀なくされるとまで告げられました。私は当時、不治の病であった肺気腫であると診断されたのです。

当時はまだその病のためのどんな治療方法も薬もありませんでした。
その専門医は私に再び日本へは戻らないようにとアドバイスをしてくれた上で、肺に積もっているゴミを除去するための薬や、ひどい症状を和らげるためにと睡眠剤を処方してくれました。

やがてその全ての薬を完済した後、再びそれが投薬される事はありませんでした。
「なぜそんなものに頼っているのか」と私は考えたのです。

創世記28章15節の神のお約束がなかったならば、私は暗い失意の中に沈み込んでいたことでしょう。翌朝早く私は起き出して、その件について主に祈りを捧げました。

しかし神様にとって、思い出さねばならない事はないと示されたのです。
神様は私を忘れてしまっているわけではありません。

そのお約束のお言葉は私に働いて、今一度、私は自分自身を神に捧げ、たとい人生が短くなったとしても日本で仕える決心に至ったのでした。

"見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」"
(創世記 28章15節)
#ドロシー師

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消費税を撤廃し法人税を上げるべき日本

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消費税を撤廃し法人税を上げるべ... 消費税を撤廃し法人税を上げるべ... 消費税を撤廃し法人税を上げるべ...


日本の消費税と法人税

消費税が1989年に導入されて以来、法人税は下がり続けています。

89年に法人税収入は19兆円でしたが、現在では10兆円ほどで、9兆円もダウンしています。
現在の法人税税率は23.2%ですが、これは名目に過ぎず実質はその半分ほどに抑えられています。なぜなら抜け道があるからです。
その抜け道は大企業ほどに有利で、なんと数%しか負担していない大企業もあるのです。例えば研究開発費とか、子会社への支払いとか言う項目があると税負担に圧倒的に有利となります。
このためトヨタでは2008年から5年間、法人税負担がゼロでした。

年ごとに実質の法人税率が下がっています。

13年の実質法人税率 14.4%
15年の実質法人税率 13.3%
17年の実質法人税率 12.5%

このように大企業に甘い税制となっているため、バブル期以上の空前の大儲けをしています。でもそれが人件費や設備投資に回らずに内部留保に勤しみ、今や年間50兆円の「どうしたら良いか分からずにとりあえずため込んでおく」金額。
消費税収入分の20兆円分はここからひねり出せるでしょう。

累進性のない一律税率の消費税は、お金持ちに優しく一般大衆には厳しいものです。お金持ちは買い物する際、3%だろうが10%だろうが消費税分は気になりません。我々一般庶民には大打撃です。
ある試算によると、消費税が10%となった場合、一般家庭の家計のまるまる1ヵ月分の収入がその消費税分として差し引かれることになるのです。

消費税を撤廃して日本を再生させよう。
#社会

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それでも走った

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それでも走った それでも走った それでも走った


今回はオークランド空港で「走れメロス」を演じてしまった。

保安検査場を通りぬけて電子掲示板を見るとシアトル行きのフライトが遅延。14番搭乗口とある。

余裕で夕食を済ませて搭乗を待っていると、やはりいつもと様子が違う。

そもそもこれまで14番搭乗口と言う低番号へは行ったことがない。
しかもサウスウェストの特徴である30番ごとに列を作る搭乗用モニターがない。そこにはアラスカエアラインのサインがドーンとある。

きっと共同運行なのだろう、なんて考えていた。
遅延ゆえに乗り場もフライトも特別か?

念の為近くを通りかかったパイロットに聞いてみると
「ここはアラスカの乗り場」だと言い張る。

この時からパニックとなり、電子掲示板を覗き込んでみると、同じ7時台に二つのシアトル行きフライトがあったのだった!

サウスウエストは30番搭乗口。

搭乗開始が7時0分、離陸が7時30分。時に7時18分となっていた。
そこから猛ダッシュ。

「もしかすると間に合うかもしれない」

“間に合わなければ近所のホテルに一泊し、朝イチのフライトで帰ったとして午前中の礼拝時間に間に合うのか?”

“明日はシアトルのある日本人教会に呼ばれている。
もしフライトが間に合わないなら、ウーバーでこれからシアトルまで帰るか?料金は千ドルを超えるか?”

“レンタカーで帰れば安上がりだけど、13時間の走行時間以外に睡眠時間は数時間しか採れず、体調管理に自信が持てない。
こんなことで説教をキャンセルするわけには行かないしー”

こんなことが頭に通いながらとにかく走り続けた。

14番から30番への搭乗口は、ターミナルの最奥地から反対側の最奥地まで。ゆうに1キロはあったと思う。途中、息が切れてきた。

それでも走り続けた。数秒差で搭乗口ゲートが閉まってしまうこともある。

日頃ののジョギングやウォーキングはこの時のための準備だったんだ!
30番ゲートに着いてみると、まだ先頭の行列が待機していて搭乗が始まっていない。ここでも遅延となっていた。

助かった!
#旅行

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「小さな侍」との出会い

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「小さな侍」ことSamel S... 「小さな侍」ことSamel Shelhorn サムエル君と一緒のシェルホン先... サムエル君と一緒のシェルホン先生 結婚当初のサムエルご夫妻 結婚当初のサムエルご夫妻 お孫さんと一緒(もしかしたら子... お孫さんと一緒(もしかしたら子供さん?) 「小さな侍」との出会い





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第22回目は「小さな侍」であるShelhorn先生のご子息、Samel Shelhornくんと仲良しになった甘美な日々についてです。







小さな侍と共に成長して



サムエル・シェルホン君は可愛らしい赤ちゃんですが、彼の誕生は両親だけでなく私の毎日も明るいものにしてくれました。みんな彼のことが好きになりましたが、彼もまた大きくなるにつれて愛することや、私たちの中の若きからお年寄りまで、全ての人と付き合うことを学んで行きました。

私もまたこの社会では初心者でしたので、私たちはともに成長したと言って良いと思います。
一緒に皿洗いをしたり、遊んだり、彼が大きくなるまでレスリングもしました。

彼は私が壊れたおもちゃを直せるはずだと信じて疑わなかったのです。ある時彼が壊れたおもちゃを持ってきて言いました。「ドロシーおばさん、これを直してくれる?」
彼は私がメカニックでないことを私の表情からたちまちにして悟り、それを直ぐに引っ込めたのです。

彼のお父さんが説教をし、お母さんが通訳をしているとき、私たちは共に座ったものです。ある時、私たちはささやきあってしまったのでしたが、その後、最前列のベンチに座るようにと言われてしまいました。そのささやきとは、とっても短い時間だったのです。

ただSamちゃんはおかしな顔を作って、「ドロシーおばさん、これできる?」と私に聞いただけの事なのでしたが。
「もちろんできませんよ。特に教会の中では」と私は答えていました。

葉山修養会での彼とのボール遊びでは、窓ガラスを割ってしまいました。私たちは修理代を分担し合ったのでした。

また、Samちゃんの哲学はたいしたものでした。
彼が出席していた幼稚園は横浜にありました。時々私はそこまで行って彼と会い、一緒に横浜の本町を通って帰ってきたものです。その本町にはホットドッグとアイスクリーム売店がありました。

夏になると彼はホットドッグを注文し、冬ではアイスクリームを注文していました。それはほんとに納得出来るものです。彼は長蛇の列には並びたくはなかったからです。

子供の国での一日は忘れられないものとなりました。そこでは「してはならない」ことから全く自由となれた日だったのです。乗り物は乗り放題、芝生の上を歩いても許され、プールでも遊び 、木にも登ったり、そして丘を駆けて登ったり降りたりもしました。
それはとても楽しい一日となったのです。自由に遊んだその日、すべてのエネルギーを出し切った彼は疲れ切っていました。

私たちが外食するのはめったにないことです。
私自身は公の場所で何か注目を浴びてしまうかのような取り柄のない人間です。

あるレストランでのことですが、私は自分の氷水の入ったグラスをこぼしてしまい、サムちゃんを大変喜ばせることとなったのです。
彼は「ドロシーおばさんが、氷水をこぼしたよ!」と、とってもはっきりと大きな声でアナウンスしてくれたものですから、ウェイターさんだけでなくそこにいた全てのお客さんの注意を引きつけてくれました。

そのウエイターは特に面白がって、「普通は小さな子供の方がこんなことするんだけどねぇ」なんて言ってくれたりしたものです。

Samちゃんは大きくなった時、家から離れることになりました。高校を卒業した後、彼にあるアメリカ人としての資質が彼をアメリカに行くようにと呼んだのでしょう。そこで彼は落ち着き、結婚して子供も与えられ、堅固なクリスチャン・ホームを築いて行きました。




繰り返されるクリスマス集会




クリスマスと新年期は、実に栄光に富んだ時期です。

私たちはクリスマス祝会を何度も多くこなしました。教会だけではなくて各日曜学校支部や家庭集会などです。

ホームシックにかかる暇なんてありません。もっとも聖書学院の神学生たちといった拡大された家族も与えられている私が、どうしてそんなことを感じるでしょうか。
そこには七面鳥とそれに付随する料理はありませんでしたが、私たちには溢れるばかりのご馳走と多くの楽しみとがありました。

お正月のご馳走には一つを除いて何も問題はありませんでした。
その一つとは、お餅のことです。私はその餅つきの現場にお招きいただいたことがありました。

ツキタテの熱くて柔らかいお餅は、醤油やきなこをまぶして食べるのが大変良く合います。
私は五つもお餅をいただいたのですが、一つの切り餅サイズがお茶碗いっぱい分のご飯の量に相当するだなんてその時知らなかったのです。
お餅は体全体を温めてくれるし、その後は何食も要らないぐらいに感じるほど腹持ちが良いものです。

私は多くの男子生徒を多摩高等学校で教えました。
そして長い期間を経てついに、英語を熱心に学ぼうとしているとても将来が楽しみな幾人かの女子学生が与えられました。彼女らには英語を聖書から、そして音楽を賛美歌から教えました。

私はそれまでに私と共に働いてくれる助手となる女子生徒を探していました。でもそれは叶えられない高望みだったようです。それにもかかわらず、私がこれらの若い生徒さん方と過ごした多くの時間は決して無駄とはならないでしょう。

日本に来るずっと前から、私は田舎で働くことを望んでいました。
私の最初の“宣教旅行”は、ただ私が無能であることを思い知らされたものとなったことは、先にお話しした通りです。
やがて将来のいつか、主のために働くため再び長野県に帰ることが私には許されるのでしょうか?

#ドロシー師

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盛んであった日曜学校の働き

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川崎での任命式。 錦教会へドロ... 川崎での任命式。
錦教会へドロシー先生と共に任命を頂いた瞬間でした。



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第21回目は川崎から近隣へ広がっていった日曜学校の働きの様子です。





「人の歩みは主によって確かにものとされる」


八ヶ月の集中した語学学習の後、私の忠実な教師であり友人でもあるその方は、彼自身の夢を果たすために米国での勉学へと旅立っていきました。おそらく私が彼に負うところは大きすぎたようです。彼が残した大きな穴は、私のスケジュールに空いた空白だけでなかった事は確かです。

しかし主は、私の時間と私の生活に他の多くの若い方々を満たしてくださいました。
私は多摩高等学校の英会話クラブで教えてくれないか、とのお招きをいただきました。生徒達が私から学ぶようになると、彼らは私のアパートにも来るようになりました。

最初の土曜日には10人の学生がやってきました。私は今後の可能性に喜びと、将来どこまで発展していくかとの高い希望にあふれたものです。古津波伴也(ともや)さんと最初にお会いしたのもそのところでした。

その後、伴也さんとは私たちだけでしばしば会うこととなりました。
東三輪での新しい日曜学校が始められたのもその頃のことでした。

最初の日曜日には80名ほどの子供さん達がやってこられました。二回目の日曜日には100名を超えたのです。その後人数は少しずつ減っていったようですが、私はどこであったとしても、またどんな方法であったとしてもお手伝いできることが光栄でなりませんでした。

私たちの働きは無駄にはなりません。その働きから人生のすべてをフルタイムで主に捧げる女性が与えられました。やがて彼女は私と共に日本において共に働くこととなったのです。

確かに神様の道は、私たちのそれよりも高いものです。




コーマンさんの献身の詩



“刈り取り機が一斉に進んで行くかのような大収穫を私に期待しないでください。
そこには刈り取られた黄金の麦の太い束が転がっていることでしょう。
しかし私ができることは、私の最も愛する主の損なわれたお顔を見ながら、
収穫の主の側にあって付き従うことです。
私の歩くその所には熟れた実が用意され、私はただそれを喜びつつ、かがんで集めるのです。
私には主がその実をどこに用意されていらっしゃるのか、知ることは出来ません。
ただ主は、私に両手いっぱいの実を残していて下さっています”
(Harvest Secrets. by Mrs. C.E. Cowman



貧しい者は幸いです。


貧しい者は金庫に鍵をかけて保管しておく良いものを持ってはいません。
市場のインフレによって影響される株式や債券もなければ、身代金のために誘拐されるような危険にさらされる現金も持ち合わせてはいません。

貧しい者は幸いです。
特に神様に信頼を置いて、宝を天に投資しているものは幸いです。

私は自分の日本語の上達に少しも満足できませんでしたし、主を証しして来た努力にも満足していませんし、さらに私が召されている働きの結果についても決して満足は出来ませんでした。
私はとても忙しくしていたのですが、私の達成したどんなものにも満足することはありません。





#ドロシー師

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昨年の今日は日本出発

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昨年の夏は初めて中部セントラリ... 昨年の夏は初めて中部セントラリアへ降り立ち、その後三重県に移動。 かつて1人で縦断した日本3大渓... かつて1人で縦断した日本3大渓谷の1つに子供らを案内し、サバイバルゲームに挑む。 片道10時間の所要時間をかつて... 片道10時間の所要時間をかつて私は走りながら1日で往復。
今回は4分の1ほどの距離を5時間ほどで往復。
三重県の絶壁から太平洋を望んで... 三重県の絶壁から太平洋を望んで。


昨年の今日は日本に旅立った日であることをFacebookが知らせてきた。

長女は先週に高校を卒業し、もはや日本への“修学旅行”を世話する義務から私は放たれたと考え、今後は夏の行事であった家族大移動はない。

さきほど電話すると子供たち同士でも同様に昨年の夏の日本滞在を懐かしく話していたと言う。

今朝の6時前にシアトル空港へ行ってみると子供連れの家族で通常の2倍以上の混雑ぶり。

そうか夏休みが始まったんだなぁ、いつもならこの混雑の中から日本に旅立ったのに〜と、一人どうにもならない感慨にふける。

するとシアトルの友人から2人の息子さんを日本に子供だけで送る写真がポストされていた。さらに先程の夜になってから新たな展開を知らせるポスト。

日本行きの直行便ANAは機体メンテナンスのためにフライトがキャンセルされ、2人の子供さんは近所のホテルに宿泊し明日出航との変更になったとのこと。


1日でも予定が狂ったら、その後の集会や新幹線、ホテル宿泊等の全ての計画が狂ってしまうので大人なら大パニック。

子供ならこれも楽しく受け入れるんでしょうね。
世界中の子供のみなさん、夏休みを充分エンジョイしてください。
家にいても旅をしていても。


ちなみに我が息子に聞くと、昨年のクレイジーな過密スケジュールなら自宅でのんびりしてる夏休みの方を選ぶとのこと。
#家庭

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「平和を造るもの」

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三重県にいる教職たちと鳥羽水族... 三重県にいる教職たちと鳥羽水族館へ



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第20回目は川崎でのアパート生活で隣人との間にあった揉め事でした。






平和を造るもの




私はかなり早い段階で日本語でお詫びする方法を学びました。

川崎に住んでいる私のアパートメントの壁は大変薄いものでした。
隣に住む男性のいびきは大変大きなもので筒抜けです。彼とその奥さんはしばしば喧嘩をしていました。彼女が泣くとその赤ちゃんも泣くのです。その上彼らはかなり夜遅くまでテレビを見ているのです。

私の部屋からの音に彼らは悩まされているとの噂を聞いたときは驚いたものです。
ある若いご婦人は出勤前、私のアパートに来てオルガンを練習していました。

それで、美智子先生は私が何をすべきか、どのように言うべきかについてアドバイスをくださいました。私は手作りクッキーをその隣に住むご婦人に持っていって、私のできる最も丁寧な日本語を用いて音を立てていたことをお詫びしたのです。彼女は恥ずかしそうにそのクッキーを受け取ると、同様に謝って来られました。

「赤ん坊が泣くし、私たちは夜遅くまでテレビを見ていましたしね」
彼女は他にもあった彼らが立てている騒音には言及しなかったですが。



#ドロシー師

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「人はパンだけで生きるのか」

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「人はパンだけで生きるのか」


ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



「人はパンだけで生きるのか」


マタイ4章1-4節


"それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」"




⑴勝利から勝利への主イエスの生涯


①受洗とその際の天からの声
イザヤ書43:1に見るメシア預言の成就
メシアとしての公生涯デビューは父なる神によって是認された

②勝利の理由
「御霊に導かれて」〜荒野という試練にも従い、神様の御心にジャスト・ミートされた主イエス。



⑵悪魔からの試み



①その必然性〜第二のアダムとして最初のアダムが敗北した敗者復活戦を戦う必要があった

②肉体を備えた完全なる人間ゆえの試練
40日40夜の断食の後での激しい空腹
申命記8:2


⑶神の口から出る一つ一つの言葉

能力を示すことへの誘惑
誰にも迷惑をかけず自分にも都合が良いなら良いではないか? アダムはこの悪魔の言葉を優先した優先した。



②「〜と書いてある」(4、7、10)
律法の付与者であるメシアご自身はご自分の権威ではなく聖書の権威を用いて回答して誘惑に勝利された。


(結論)
私たちは日頃どれぐらい聖書の言葉に接しているだろうか。その言葉に力づけられ活かされて主の御心を知ることを学んでいこう。
#メッセージ

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