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「小さな侍」との出会い

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「小さな侍」ことSamel S... 「小さな侍」ことSamel Shelhorn サムエル君と一緒のシェルホン先... サムエル君と一緒のシェルホン先生 結婚当初のサムエルご夫妻 結婚当初のサムエルご夫妻 お孫さんと一緒(もしかしたら子... お孫さんと一緒(もしかしたら子供さん?) 「小さな侍」との出会い





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第22回目は「小さな侍」であるShelhorn先生のご子息、Samel Shelhornくんと仲良しになった甘美な日々についてです。







小さな侍と共に成長して



サムエル・シェルホン君は可愛らしい赤ちゃんですが、彼の誕生は両親だけでなく私の毎日も明るいものにしてくれました。みんな彼のことが好きになりましたが、彼もまた大きくなるにつれて愛することや、私たちの中の若きからお年寄りまで、全ての人と付き合うことを学んで行きました。

私もまたこの社会では初心者でしたので、私たちはともに成長したと言って良いと思います。
一緒に皿洗いをしたり、遊んだり、彼が大きくなるまでレスリングもしました。

彼は私が壊れたおもちゃを直せるはずだと信じて疑わなかったのです。ある時彼が壊れたおもちゃを持ってきて言いました。「ドロシーおばさん、これを直してくれる?」
彼は私がメカニックでないことを私の表情からたちまちにして悟り、それを直ぐに引っ込めたのです。

彼のお父さんが説教をし、お母さんが通訳をしているとき、私たちは共に座ったものです。ある時、私たちはささやきあってしまったのでしたが、その後、最前列のベンチに座るようにと言われてしまいました。そのささやきとは、とっても短い時間だったのです。

ただSamちゃんはおかしな顔を作って、「ドロシーおばさん、これできる?」と私に聞いただけの事なのでしたが。
「もちろんできませんよ。特に教会の中では」と私は答えていました。

葉山修養会での彼とのボール遊びでは、窓ガラスを割ってしまいました。私たちは修理代を分担し合ったのでした。

また、Samちゃんの哲学はたいしたものでした。
彼が出席していた幼稚園は横浜にありました。時々私はそこまで行って彼と会い、一緒に横浜の本町を通って帰ってきたものです。その本町にはホットドッグとアイスクリーム売店がありました。

夏になると彼はホットドッグを注文し、冬ではアイスクリームを注文していました。それはほんとに納得出来るものです。彼は長蛇の列には並びたくはなかったからです。

子供の国での一日は忘れられないものとなりました。そこでは「してはならない」ことから全く自由となれた日だったのです。乗り物は乗り放題、芝生の上を歩いても許され、プールでも遊び 、木にも登ったり、そして丘を駆けて登ったり降りたりもしました。
それはとても楽しい一日となったのです。自由に遊んだその日、すべてのエネルギーを出し切った彼は疲れ切っていました。

私たちが外食するのはめったにないことです。
私自身は公の場所で何か注目を浴びてしまうかのような取り柄のない人間です。

あるレストランでのことですが、私は自分の氷水の入ったグラスをこぼしてしまい、サムちゃんを大変喜ばせることとなったのです。
彼は「ドロシーおばさんが、氷水をこぼしたよ!」と、とってもはっきりと大きな声でアナウンスしてくれたものですから、ウェイターさんだけでなくそこにいた全てのお客さんの注意を引きつけてくれました。

そのウエイターは特に面白がって、「普通は小さな子供の方がこんなことするんだけどねぇ」なんて言ってくれたりしたものです。

Samちゃんは大きくなった時、家から離れることになりました。高校を卒業した後、彼にあるアメリカ人としての資質が彼をアメリカに行くようにと呼んだのでしょう。そこで彼は落ち着き、結婚して子供も与えられ、堅固なクリスチャン・ホームを築いて行きました。




繰り返されるクリスマス集会




クリスマスと新年期は、実に栄光に富んだ時期です。

私たちはクリスマス祝会を何度も多くこなしました。教会だけではなくて各日曜学校支部や家庭集会などです。

ホームシックにかかる暇なんてありません。もっとも聖書学院の神学生たちといった拡大された家族も与えられている私が、どうしてそんなことを感じるでしょうか。
そこには七面鳥とそれに付随する料理はありませんでしたが、私たちには溢れるばかりのご馳走と多くの楽しみとがありました。

お正月のご馳走には一つを除いて何も問題はありませんでした。
その一つとは、お餅のことです。私はその餅つきの現場にお招きいただいたことがありました。

ツキタテの熱くて柔らかいお餅は、醤油やきなこをまぶして食べるのが大変良く合います。
私は五つもお餅をいただいたのですが、一つの切り餅サイズがお茶碗いっぱい分のご飯の量に相当するだなんてその時知らなかったのです。
お餅は体全体を温めてくれるし、その後は何食も要らないぐらいに感じるほど腹持ちが良いものです。

私は多くの男子生徒を多摩高等学校で教えました。
そして長い期間を経てついに、英語を熱心に学ぼうとしているとても将来が楽しみな幾人かの女子学生が与えられました。彼女らには英語を聖書から、そして音楽を賛美歌から教えました。

私はそれまでに私と共に働いてくれる助手となる女子生徒を探していました。でもそれは叶えられない高望みだったようです。それにもかかわらず、私がこれらの若い生徒さん方と過ごした多くの時間は決して無駄とはならないでしょう。

日本に来るずっと前から、私は田舎で働くことを望んでいました。
私の最初の“宣教旅行”は、ただ私が無能であることを思い知らされたものとなったことは、先にお話しした通りです。
やがて将来のいつか、主のために働くため再び長野県に帰ることが私には許されるのでしょうか?


#ドロシー師

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盛んであった日曜学校の働き

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川崎での任命式。 錦教会へドロ... 川崎での任命式。
錦教会へドロシー先生と共に任命を頂いた瞬間でした。



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第21回目は川崎から近隣へ広がっていった日曜学校の働きの様子です。





「人の歩みは主によって確かにものとされる」


八ヶ月の集中した語学学習の後、私の忠実な教師であり友人でもあるその方は、彼自身の夢を果たすために米国での勉学へと旅立っていきました。おそらく私が彼に負うところは大きすぎたようです。彼が残した大きな穴は、私のスケジュールに空いた空白だけでなかった事は確かです。

しかし主は、私の時間と私の生活に他の多くの若い方々を満たしてくださいました。
私は多摩高等学校の英会話クラブで教えてくれないか、とのお招きをいただきました。生徒達が私から学ぶようになると、彼らは私のアパートにも来るようになりました。

最初の土曜日には10人の学生がやってきました。私は今後の可能性に喜びと、将来どこまで発展していくかとの高い希望にあふれたものです。古津波伴也(ともや)さんと最初にお会いしたのもそのところでした。

その後、伴也さんとは私たちだけでしばしば会うこととなりました。
東三輪での新しい日曜学校が始められたのもその頃のことでした。

最初の日曜日には80名ほどの子供さん達がやってこられました。二回目の日曜日には100名を超えたのです。その後人数は少しずつ減っていったようですが、私はどこであったとしても、またどんな方法であったとしてもお手伝いできることが光栄でなりませんでした。

私たちの働きは無駄にはなりません。その働きから人生のすべてをフルタイムで主に捧げる女性が与えられました。やがて彼女は私と共に日本において共に働くこととなったのです。

確かに神様の道は、私たちのそれよりも高いものです。




コーマンさんの献身の詩



“刈り取り機が一斉に進んで行くかのような大収穫を私に期待しないでください。
そこには刈り取られた黄金の麦の太い束が転がっていることでしょう。
しかし私ができることは、私の最も愛する主の損なわれたお顔を見ながら、
収穫の主の側にあって付き従うことです。
私の歩くその所には熟れた実が用意され、私はただそれを喜びつつ、かがんで集めるのです。
私には主がその実をどこに用意されていらっしゃるのか、知ることは出来ません。
ただ主は、私に両手いっぱいの実を残していて下さっています”
(Harvest Secrets<収穫の秘密>. by Mrs. C.E. Cowman



貧しい者は幸いです。


貧しい者は金庫に鍵をかけて保管しておく良いものを持ってはいません。
市場のインフレによって影響される株式や債券もなければ、身代金のために誘拐されるような危険にさらされる現金も持ち合わせてはいません。

貧しい者は幸いです。
特に神様に信頼を置いて、宝を天に投資しているものは幸いです。

私は自分の日本語の上達に少しも満足できませんでしたし、主を証しして来た努力にも満足していませんし、さらに私が召されている働きの結果についても決して満足は出来ませんでした。
私はとても忙しくしていたのですが、私の達成したどんなものにも満足することはありません。






#ドロシー師

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昨年の今日は日本出発

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昨年の夏は初めて中部セントラリ... 昨年の夏は初めて中部セントラリアへ降り立ち、その後三重県に移動。 かつて1人で縦断した日本3大渓... かつて1人で縦断した日本3大渓谷の1つに子供らを案内し、サバイバルゲームに挑む。 片道10時間の所要時間をかつて... 片道10時間の所要時間をかつて私は走りながら1日で往復。
今回は4分の1ほどの距離を5時間ほどで往復。
三重県の絶壁から太平洋を望んで... 三重県の絶壁から太平洋を望んで。


昨年の今日は日本に旅立った日であることをFacebookが知らせてきた。

長女は先週に高校を卒業し、もはや日本への“修学旅行”を世話する義務から私は放たれたと考え、今後は夏の行事であった家族大移動はない。

さきほど電話すると子供たち同士でも同様に昨年の夏の日本滞在を懐かしく話していたと言う。

今朝の6時前にシアトル空港へ行ってみると子供連れの家族で通常の2倍以上の混雑ぶり。

そうか夏休みが始まったんだなぁ、いつもならこの混雑の中から日本に旅立ったのに〜と、一人どうにもならない感慨にふける。

するとシアトルの友人から2人の息子さんを日本に子供だけで送る写真がポストされていた。さらに先程の夜になってから新たな展開を知らせるポスト。

日本行きの直行便ANAは機体メンテナンスのためにフライトがキャンセルされ、2人の子供さんは近所のホテルに宿泊し明日出航との変更になったとのこと。


1日でも予定が狂ったら、その後の集会や新幹線、ホテル宿泊等の全ての計画が狂ってしまうので大人なら大パニック。

子供ならこれも楽しく受け入れるんでしょうね。
世界中の子供のみなさん、夏休みを充分エンジョイしてください。
家にいても旅をしていても。


ちなみに我が息子に聞くと、昨年のクレイジーな過密スケジュールなら自宅でのんびりしてる夏休みの方を選ぶとのこと。
#家庭

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「平和を造るもの」

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三重県にいる教職たちと鳥羽水族... 三重県にいる教職たちと鳥羽水族館へ



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第20回目は川崎でのアパート生活で隣人との間にあった揉め事でした。






平和を造るもの




私はかなり早い段階で日本語でお詫びする方法を学びました。

川崎に住んでいる私のアパートメントの壁は大変薄いものでした。
隣に住む男性のいびきは大変大きなもので筒抜けです。彼とその奥さんはしばしば喧嘩をしていました。彼女が泣くとその赤ちゃんも泣くのです。その上彼らはかなり夜遅くまでテレビを見ているのです。

私の部屋からの音に彼らは悩まされているとの噂を聞いたときは驚いたものです。
ある若いご婦人は出勤前、私のアパートに来てオルガンを練習していました。

それで、美智子先生は私が何をすべきか、どのように言うべきかについてアドバイスをくださいました。私は手作りクッキーをその隣に住むご婦人に持っていって、私のできる最も丁寧な日本語を用いて音を立てていたことをお詫びしたのです。彼女は恥ずかしそうにそのクッキーを受け取ると、同様に謝って来られました。

「赤ん坊が泣くし、私たちは夜遅くまでテレビを見ていましたしね」
彼女は他にもあった彼らが立てている騒音には言及しなかったですが。




#ドロシー師

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「人はパンだけで生きるのか」

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「人はパンだけで生きるのか」


ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



「人はパンだけで生きるのか」


マタイ4章1-4節


"それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」"




⑴勝利から勝利への主イエスの生涯


①受洗とその際の天からの声
イザヤ書43:1に見るメシア預言の成就
メシアとしての公生涯デビューは父なる神によって是認された

②勝利の理由
「御霊に導かれて」〜荒野という試練にも従い、神様の御心にジャスト・ミートされた主イエス。



⑵悪魔からの試み



①その必然性〜第二のアダムとして最初のアダムが敗北した敗者復活戦を戦う必要があった

②肉体を備えた完全なる人間ゆえの試練
40日40夜の断食の後での激しい空腹
申命記8:2


⑶神の口から出る一つ一つの言葉

能力を示すことへの誘惑
誰にも迷惑をかけず自分にも都合が良いなら良いではないか? アダムはこの悪魔の言葉を優先した優先した。



②「〜と書いてある」(4、7、10)
律法の付与者であるメシアご自身はご自分の権威ではなく聖書の権威を用いて回答して誘惑に勝利された。


(結論)
私たちは日頃どれぐらい聖書の言葉に接しているだろうか。その言葉に力づけられ活かされて主の御心を知ることを学んでいこう。
#メッセージ

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苦い(Bitter)僕ではなく良い(Better)僕に

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新会堂の玄関先で。右端は私の赴... 新会堂の玄関先で。右端は私の赴任以前にドロシー先生と共に錦教会で労された水田真佐子牧師。 左端は錦教会開拓当初から一家を... 左端は錦教会開拓当初から一家を挙げて協力を惜しまれなかった中世古真佐子姉。




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第19回目はからは第3章に入りました。本国の母教会との関係で試練の中を通られたことです。





第3章 混乱の嵐





日本に来る前、私はカルフォルニアにあるチャーチオブゴッド・レドンドビーチ教会の牧師と信者さんらと共に働いていました。私は彼らからの100%の賛同を得て宣教の働きに献身し、祈りのサポートを戴いて、また神様が必要な全てを満たしてくださるとの信仰からの確信をいただいていました。具体的な給与を得る約束まではありませんぜしたが。

波止場に立つ家族や教会の友人たちらとの涙のお別れ会の中から、私は未だ知らない世界へと旅立ったのです。神様のお約束だけが私の盾でした。
「行きなさい。わたしは地の果てまでも、いつもあなた方と共にいます」

暗闇と遠距離のため私の母国の海岸線が見えなくなるまで、私は船のデッキに立ち続けたのでした。私は白髪となった父に再会できるのだろうか、と考えました。私には広い船の中に知り合いは誰一人としていなかったのですが、神様の御臨在だけは深く感じていました。これまでに神様を知っていたどんな時よりも身近に感じたのです。

レドンドビーチ教会の牧師が変わり、教会の方針や体制が変わった後の1959年12月に嵐が吹き始めました。
それまで私のサポート額は十分なものでしたが、しばらくの間、サポートを停止しようととの話しが持ち上がってきたのです。1960年2月までに問題はさらに具体化して来ました。

教会秘書から送られて来た手紙は私に警告を与えるもので、私としてはどう応えたら良いのかわずに困惑するばかりです。そして教団機関紙The Goodwayによって、私の母教会と言えるそのレドンドビーチ教会もはや私への宣教資金を世話する役割を担わないことを知らされました。私はまるで孤児になったかのように感じました。

わずか数ヶ月前、サンペドロハーバーで涙をいっぱい貯めながら私に祝福を告げて送り出してくれたあの暖かい友人たちは一体どこへ行ってしまったのでしょうか。彼らが情熱的にサポートをするとしたその責任から自ら逃れたいだなんてことがあり得るのでしょうか。

「台風の中心部は驚くばかりに静寂です。
私はその渦巻きを見て、ひどく落ち込むばかりです。
周囲を見渡すと全てが混乱しています。
しかしながら中心にいて上を見上げるならば、全てが輝いています」




何が起こっても、苦い(Bitter)僕ではなく良い(Better)僕であること




神様はこれらの暗い時間と眠れない夜の中にあって、私に語りかけ、私のために道を設け、私の側に立ってくださいました。私の道にどんなことが起ころうとも、私をより良いクリスチャンに、より良い僕に、そしてより良い宣教師にするためにそれが用いられねばならない、と決意したのです。苦いもの(Bitter)ではなくて、より良いもの(Better)となるために。

その年の四月までに問題は収束して行きました。私の教会籍はチャーチオブゴッド・レドンド教会からチャーチオブゴッド・ベイデン教会に移籍することになりました。そこは以前からシェルホン先生ご夫妻が籍を置いている教会です。この方法によって私の日本宣教の働きは継続されることとなりました。二カ月間途絶えた経済的サポートは、神様によって再び与えられる事となったのでした。

数年後に私が帰国報告した際、あの最初に手紙を書いてくれた教会秘書とお会いしました。
彼女は宣教会の時、涙を溜めて座っていらっしゃいましたが、その後すぐに赦しを求めて私のところにおいでくださったのです。彼女は牧師から言われるままにあの手紙を書かねばならなかったのですが、その後彼女は罪悪感を感じるようになり、またその要求を断るべきであったと気付いたことなどを話してくれました。

彼女が私に求めるよりずっと以前に、すでに彼女は赦されています。
そのすぐ後で彼女は天に召されて行きました。天に帰られる前に私たちが互いに合うことが許され、彼女がきれいに精算を終えてからこの世を去ることができたとは、なんと幸いなことでしょうか。ところであの牧師のことですが、物事を繕う事については残念ながら決して理解が至っていないようでした。


#ドロシー師

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ついに日本語でのメッセージ

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川崎からお越し下さったシェルホ... 川崎からお越し下さったシェルホン先生らゲストを近所の渓谷にご案内 ドロシー先生はアウトドアが大好... ドロシー先生はアウトドアが大好きであったと言う意外な側面を発見した日でもありました






日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第18回目は、いよいよ習った日本語を使ってのメッセージと言うチャレンジに直面した時のことです。





集中した語学訓練




主は恵み深くも私に家庭教師を備えてくださいました。
斉藤孝志と言う東京聖書学院の神学生です。

彼の望みは米国へ行き、アズベリー神学校に留学することです。そこで私たちは語学トレーニングをして互いに助け合ったのです。この仕組みは私たち双方にとって有益なものとなりました。

八ヶ月間にも及ぶ集中した語学訓練は、私にまずまずのスタートをさせるに十分なものとなりました。満員電車に揺られての長時間通学や語学学校の費用の代わりに、若い神学生の夢を実現させるためのお役にも立てたのです。

その頃は日本中のキリスト教会が、毎日何かしかの集会をしているほど伝道が盛んでした。
そんな集会の合間をくぐり抜けて語学レッスンをしていたのですが、二ヶ月ほど経って後に、「さぁ、これからは一人で買い物に行ってください」と突然言われてしまいました。

実際いじめられたとも感じましたが、私は「今ぞ!」とばかりに固く決意しました。
私にはどうも頑固な性格が宿っているようですが、それが時に私とその周囲を困難に巻き込むこともあれば、同時に成長をもたらして来たと言えるのかもしれません。

さて、私を太らせないための仕事なら既に十分に与えられています。まもなくその上に、フルタイム・スケジュールが要求されるような厚みある仕事が次々に与えられて行きました。

英語生徒が与えられ、オルガン生徒も加わり、印刷のお手伝いや日曜学校のお手伝いなどです。私が持参してきたアコーディオンを持っての、路傍伝道のマーチングバンドの一員にもなりました。





水は別たれなかった



そしてついに青年たちの集いで話す時がやって来てしまいました。
「どうか日本語でお話し下さい」とお願いされてしまったのです。

ヨシュア記四章にあるエピソードを思い出すまで、私は実に恐れに満たされていました。
その聖書記事にあるように、私のすべき事はただ勇気を出してヨルダン川に足を踏み込んでみる事です。そしたらその川は二つに別たれるはずです。

私はそのエピソードによって大いに励まされました。おそらくこの時が私にとっての「舌が解かれた時」となる奇蹟のステージなのです。そこで私は一生懸命に祈り、準備し、暗記をしました。

ところが、、、、
水は別たれなかったのです。私は敗北感に打ちのめされてしまい、「主よ、どうしてですか」と嘆きながら尋ねました。

青年会はいつも礼拝の後に開かれます。
その日の私は礼拝を捧げる代わりに思い煩いでいっぱいとなり、私の頭の中ではメッセージを繰り返し練習していました。

そこまで念入りに準備したにもかかわらず、結果は全くひどいものなのです。注意深く準備し暗唱したはずのメッセージなのに、その書かれた原稿を棒読みする事すら満足に出来なかったのです。

説教者としての逃げ場はどこにもありません。この主の軍隊の任務から私が解かれる術はなかったのです。

さらにこんなこともありました。
私が他の牧師の説教の順番をかっさらってしまった事なのですが、その朝の事は決して忘れる事はないでしょう。私がスケジュール表を誤って読み取ったために起こった事件でした。

朝のその祈り会を終えると、その当番牧師が私のところに目に涙をいっぱいためてやって来て言われました。

「今朝は私の当務でしたが、神様は他のご計画をお持ちだったようです」

愛という言語が持つ雄弁さについては、すべての人に開かれている可能性であるし、またすべての人に理解され得ると言う事実は、しばしば私を慰めるものとなりました。





#ドロシー師

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まだまだなSiriの自動音声翻訳機能

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まだまだなSiriの自動音声翻...


今朝娘に向けて送ったテキストメッセージです。
ところでSiriさん、「焼きそば」を「Yucky(まずい) soba」と聞き間違えるのやめて下さいな。かわいい娘を苦しめようとなんてするわけがないでしょう。

“Good morning.
how are you ?
yucky soba is in the refrigerator. enjoy it.”
#家庭

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はじめての日本のお風呂

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はじめての日本のお風呂 はじめての日本のお風呂





日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

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その第17回目から本書の第二章に入ります。
川崎での住居を定めてから慣れない田舎伝道へと出かけられます。




第二章




日本到着から山形での働きと生活まで

"見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。"
出エジプト記 23章20節



田舎伝道



1959年9月23日、日本に無事に到着した日のことです。
既に賃貸の申請は終えていたのでしたがシェルホン先生ご夫妻が居住しているアパートメント建物にある一室は、まだ誰も入居できる状態ではありませんでした。

そこでシェルホンご夫妻は気前よくも彼らの小さなアパートメントに私を同居させてくれました。私は六畳の部屋に寝たのですが彼らは小さなキッチンに寝ました。あんな小さなスペースにどうやって二人が収まったのか、今日まで謎のままです。

神様は真実なお方で、ご自身の約束を確かに守られるお方です。
私は見えるところによらず、信仰によって歩むことを学びました。

日本に到着してから間もない頃、川崎キリスト教会のある若いご夫妻が私を彼らの田舎にある実家に招いてくれました。私は彼らの申し出を躊躇なく受け入れ、すっかり興奮に満たされました。

私の最初の伝道旅行が始まろうとしているのです。私は喜んで私のカバンに、読むこともできないまして説明することもできない日本語のトラクトを詰め込みました。

その頃にはシェルホンご夫妻のアパートメントの隣の部屋が使用可能となりました。
主が私のために場所を備えてくださったのですが、私はとても忙しくその田舎から帰ってくるまでは入居できませんでした。

私の旅は満員電車での夜行となりまして、そこには生の興行までありました(酔っ払いの騒がしい行状のことです)。そしてその旅の最終段階は山道をテクテクと歩くと言うものでした。



初めての”実際的”オリエンテーション



誰も私にどのような心構えで、どのように行動すれば良いかを教えてくれる人はいなかったのですから、私は最初から未経験のまま実際的なオリエンテーションに晒されたのでした。

時に収穫の季節でした。私はリンゴ摘みを手伝いました。私は水田の歩き方を知らなかったこともここに記録しておきます。私は泥の中に沈んでしまい、手を引いて助け出してもらわねばならなかったのです。このように私の助けとなってくださる方はその地に一人もいませんでした。

ただし、気前の良いホストファミリーによって私はまるで女王様のように扱われました。
お客様として私は一番風呂をいただいたのです。

私にはお風呂の入り方が分かりません。先ず石鹸をつけて体を洗い、そしてその石鹸を流し終えた後に熱いお湯の張ってある木製の風呂に首まで浸かるのが日本式です。私はこの二番目のステップを飛ばしてしまってお湯を台無しにしてしまいました。

おじいさんが火を焚いて全ての家族の方が使うはずのお風呂のお湯だったのですが、私一人で泡だらけとなったお湯はもはや誰も使うことはできませんでした。
私には持ってきた全てのトラクトを配るチャンスが与えられました。
それはその田舎の学校での運動会の時でした。

その地域の全ての人々はこの大行事に参加しているようでした。私はといえば、まるで空から突然降ってきたような存在でした。私はいきなり人々からの強烈な注目を集めました。多分町の多くの人々にとって最初に見る外国人だったのでしょう。

お昼になったとき、私のホストファミリーは食べ切れないほどの十分なお弁当を用意されたのですが、多くの人々は彼らの弁当を私に差し出しに来られました。後にも先にも見たことがないほどのとても巨大なおにぎりまでいただきました。

ですが伝道師として私ができた事は、ただトラクト配ることだけです。ある小さなご高齢のご婦人は話ができない私に、そのトラクトについて何やら聞いてきたのです。

川崎に帰る時、私は最低限日本語で証しができるぐらいまではしっかり日本語を学ばなくてはならないと固く決意しました。



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父の日おめでとうございます

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父の日おめでとうございます


Happy Father’s Day.
May our heavenly Father Bless all fathers.

父の日おめでとうございます。
天の父がすべての父親を祝福してくださいますように。
#家庭

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