このワンチャンの寝顔になんだか癒されるなぁ。
「そんなにあくせくするなよ。
慌ててどうする?
ゆっくりと構えていたらいいんだ」
いつもこのチェアーでくつろいでいると言うワンチャンがそのように語っているように感じた。
いつもの日本食レストランでくつろぎながら。
「汝らしづまりて我の神たるを知れ。
我は諸々の国のうちに崇められ全地に崇めらるべし」
(詩篇46:10)
キャンプやピクニックで焚き火を作っている際の米国で定番となっているおやつ。
マシュマロをこんがり焼いたらイタチョコを挟んで食べるのが「スモア」。
日本から来ている留学生は、ここに来るまでこの妙味を知らないんだろうなぁ、なんて思いながら説明を始めた。
すると誰もが知っていて、ほとんどがホストファミリーに作ってもらい食べたことがあると言う。
中には日本のボーイスカウトで既にこれが流行っているとか、
横浜の幼稚園で経験済みであるとか、、、、
すごい伝播力。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第35回目は、米国のご家族が来日され日本の各地を観光して廻ったことなどです。
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喜ばしい旅行
もし宣教師が休暇を取って観光やリクレーションをする時間を持たないと考えているなら、その誤りを私はここでお伝えしなくてはなりません。
外国から親族や特別なゲストがおいでになった時、私たちは共に旅行に出かけました。
その彼らが私たちのレクレーションの喜びを他者にお分かちするなら、さらに大きな恵みとなって伝えられて行きます。
私の弟とその妻が約一ヵ月間、私と共に滞在する機会が与えられたのは、主からの特別なギフトとなりました。弟とは同じ屋根の下で育てられたのは間違いありませんが、彼は信仰の告白を明確にはしていません。錦教会は彼らのために真摯に祈り、彼らを愛し、そして大切にしてくださいました。その影響には計り知れないものがありました。
彼らは、私にとって日本が世界中で最もふさわしいところであると納得し、満足してくれました。私一人が米国の家族からどれだけ離れて暮らしていようとも、私のために心配することはないことでしょう。
彼らが滞在している間、私たちは大抵の日本人が見るよりもはるかに多くの各地の日本を見物したに違いありません。私たちは、北は北海道から南は宮島と姫路まで旅をし、またその間にある多くの場所を訪れました。そこには京都、奈良、神戸、それに日光がなどがあり、その日光では年に一度か二度しかないとされる百物揃千人武者行列とか言われているサムライ行列を見物しました。三重県にある観光名所もまたそのリストに含めねばなりません。
その期間、一つの日曜日を川崎教会で、別の日曜日には大江町教会で礼拝を守ることができました。その滞在期間の終わる頃になって、私たちが紀伊長島道路をドライブしていたら、弟は突然こんなことを言い出しました。
「紀伊長島から錦までのこの道路にこんなにも美しい景色が続いているなら、どうして私たちは日本中を旅して来なければならなかったのだろうね」
私も同じような感想を持ちました。この辺の美しさには、決して飽きることはありません。
ミルドレッドおばさん
シェルホン先生の叔母にあたるミルドレッドおばさんが日本を訪れた時、私たちと共に滞在してくださった事は大きな喜びでした。川崎には多くのイベントや集会があるにもかかわらず、彼らは数日間を私たちとの滞在に割いてくれたのです。
美智子先生の案内で近場の観光名所を巡った後、私たちは私の未だ知らないさらに遠くにある観光名所に出かけて行きました。ミルドレッドおばさんが一緒なら、たとい長距離ドライブでも誰も退屈しないのです。
米国の有名なシーワールドでありませんが、鯨や海の巨獣を飼いならしてショウまでしている所は大変興味深かったです。博物館にあった巨大な再現された鯨と、その体内にあったボートの展示物には特別にスッカリと惹きつけられてしまいました。
その鯨が、あのボードを飲み込んだのでないことは承知しています。
その海の巨獣の計り知れない巨大さを表すためにボートが置かれていたのです。
それは、逃げ出した説教者であるヨナが滞在するには充分な広さでした。
従うことの方がよっぽどマシであるとヨナに悟らせるには、三日間の時間で十分であったことでしょう。
その鯨は、おそらく一口で飲み込んだ後に、消化しきれない食べ物に飽きてしまったがために、乾いた陸地に彼を吐き出したのです。博物館にある再現された鯨に使われている骨が、いつどこで発見されたのかは知りません。しかし主がヨナのために備えられた鯨は、充分に巨大なものであったことをそれで理解出来ました。
ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「ともにおられる神」
マタイの福音書 28章18~20節
"イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」"
⑴信者に啓示されて来た神
①天地創造された方
仏教の輪廻転生世界観とは異なり、人はそれぞれが個体であり、死後は創造主なる神の前に生前の全ての言動が問われる。
②イスラエルの歴史において顕現された方
アブラハムとの契約、モーセの律法、そして預言者によるメシア的王国の預言など、、
⑵信者とともに歩まれた神
①OTにおいても人とともに歩まれた神。
エノク、ノア、ヨセフらとともに。
② 主イエスが人となってイスラエルの地を歩まれた。そこには自然災害、旅のための食物や住居の必要、人々の妬みと憎しみ、忖度する民衆の移ろいやすい感情など、ありとあらゆる人間模様の只中を歩まれた
⑶信者の味方・援助者・同情者としての神
「そこにある助け」(詩篇46:1)
OTの内容と意義がさらに圧倒的な現実として(カラー3D版)実現したのが聖霊降臨以後の経綸
「助け主」(パラクレートス)として私たちに寄り添ってくださる聖霊。"そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。"(ヨハネの福音書 14章16節)
(結論)
神が共におられるとは、聖霊様が私たちのうちに住まわれることと同義。
信仰者に今、実現していること。ヨハネ14:16では未来形時制であるが、使徒2章で成就。
「いつまでも」(ヨハネ14:16)=「世の終わりまでも」(マタイ28:20)
神が同行されるとは、理論的理解だけでなく経験的に捉えられてその事実に憩う事ができるように。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第34回目は、新会堂が完成したものの19年間の思い出の詰まった旧会堂からなかなか心までは引っ越しできなかった様子です。
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開拓期の小さな教会堂の思い出は常に
「神にとっては不可能なことは、一つもありません」
新しい教会堂への引っ越しは、私自身に関して言えば、すぐにしっくりとはいかなかったのです。
私のすべての持ち物や、私自身は新しい会堂への引っ越しを終えました。
しかし私の心は簡単には引っ越せなかったのです。すでに電源が切られてはいたのですが、しばしば私は聖書を持って古い教会堂へ出かけて行き、そこで何時間も過ごしたのでした。
がらんとした建物の中には何も残っているものはありませんでしたが、私にはそうでは無いのです。誰も私から取り去ることのできない喜びの記憶が、そこには満ちていたのでした。
古い教会堂がついに重機で撤去せられる前日、私たちはそこに集まって感謝の礼拝を捧げました。19年間、主が私たちにしてくださった事柄の一つひとつを思い出しながら。
新しい会堂を皆様にホームと感じてもらうために、私たちは少々アメリカの習慣を取り入れて「ハウス・ウオーミング」を開きました。
二階の牧師館に約30名ほどのゲストが集まってくださり、それは楽しい時間となりました。
その場所は今後長い期間に渡り、その楽しい思い出で温められたのです。
さて、ついに大きなスペースと宿泊のできる部屋が備わった私たちには、特別なイベントも増えて行ったのです。先ずは、チャーチオブゴッド婦人教役者会を二泊三日で開催しました。
その交わりは実に麗しいもので、時間はあっという間に飛び去って行ったのです。
「ファミリー・ナイト」と銘打って全ての教会員の方にお泊まりいただいて、ホーリネスについてじっくりと学んだ機会は、これまでの集会の中でも最も有益なものでした。
京太先生はホーリネスについてそれぞれ一時間のセッションを二回、神学的な側面から教えられました。私も同様にそれぞれ一時間ずつ、ホーリネスの実際的な側面を、生活にどう適用するのかという点からお話ししました。
その準備の段階から、私の心は探られて行きました。
私たちの教会は実に家族同様でして、よって私たちの心は照らされ、正直に告白がなされ、そして祈りの心で溢れた時となりました。
それは実に貴重な時間でした。
ある方は、「こんなに良い集会が出来るなら、どうしてもっと早くしなかったんだろう」と言われ、別の方は「このような集会を、年に二回は待つべきだ」と言ってくれました。
私も全く同意見です。
まことの霊的なハウス・クリーニングが完備された私たち今、将来に向けての正し方向性を見出すことができたのでした。
米国からのクリスチャン大工たち
錦教会は米国から大工さん達が来られるようになって、本当に爆発的な成長を経験することになります。
彼らは四名の独身男性とご夫妻からなるチームでした。
奥様は彼ら全員の料理や家事の世話をする役割を担います。
大阪のあるキリスト教会が、錦峠の向こう側にキングスガーデンと言う特別養護老人ホームを建設する計画とともに進出して来られました。その養護老人ホームは、地元の建設業者によって建てられました。その地での教会堂建設のためにはアメリカからクリスチャン大工さん達が来られたのです。観光ビザで許されている滞在三カ月間以内に建て上げるのが目標でした。
その大工さんたちは毎週日曜、峠を越えて錦教会まで来られて礼拝を共にされました。
彼らとの交わりはとても素晴らしいものでした。その期間はバイリンガルでメッセージと礼拝を行いました。日本人伝道師が説教するときには私がそれを通訳し、私が英語で説教するときには逆に彼が日本語通訳したのでした。私たちは毎週土曜日にそのための祈りと準備の時間を持ちました。彼は上手な通訳者となってくれました。時に彼は私の話した後ではなく、その前に通訳をしてしまうこともあったりしましたが。
香港での“休暇”を終えると大工さん達には、新たな三カ月間のビザが与えられました。
今度は管理スタッフ達の住まいとなる集合住宅を建てるための働きが始まります。
節税のために、彼らへの賃金は米国の銀行に直接振り込まれることとなり、彼らにはお小遣い程度のものが支給されるというシステムのようです。
彼らのうちの幾人かはその変則的な方法を知らなかったのです。そしてある人は、それに気づくと早めに帰国されて行きました。
彼らのすべての働きが終わり、お別れとなったとき、日本に再び来るようにとお招きしました。
「ぜひ再び日本に来てみたいです。でもこのような方法では決して来ません」とある人は答えていました。
彼らが建築した教会堂、グレイスチャペルが完成しました。
実を言えば気が進まなかったのですが、この地域の牧師として、私はその献堂式でのスピーチを依頼されたとき、その招きを断るわけにはいかなかったのです。
主は私のすぐ側にお立ち下さり、私がミキサーの例え話をするのに力付けて下さいました。
「大きなメロンと小さなストロベリーを一緒に入れてブレンドします。すると出てくるものはメロンでもストロベリーでもないのです。もし私たちが聖霊様によって共にブレンドされるなら、私たちはこの地域の渇いた魂にとって必要な栄養ドリンクとなることができるでしょう」
そのグループのリーダーは、ご自分のプロジェクト完成のために地域教会に属するタレントや経済的なサポートを食ってしまうかのようなビジネスシステムをお持ちのようです。
そのようなアプローチが何度か私たちにも及んで、ついにある住民の方が私に、「あそこは福祉事業団体なのですか、それとも宗教団体なんですか」と聞いてきた程でした。
その最後の、そして大きなアプローチというのが、私どもの新しい教会堂の献堂式にやってきました。
ちょうど同じ頃、本部の大阪の教会からかなり大きなコワイヤ・グループが来られていてグレイスチャペルでコンサートをしていたのです。私どもの特別な式典にもそのコワイヤ・グループが喜んで歌う、とのお知らせが寄せられて来ました。これにどう対応するかは、何も難しいことではありませんでした。
すでに私たちには、プログラムいっぱいの計画があって、準備が進められていました。
私どもの町長さんからの祝辞や、私どもの教会クワイアとハンドベル演奏、さらにはシェルホン先生による式辞があります。
コワイヤメンバーを始め、グレイスチャペルの皆さんの出席は大歓迎されて、私どものホームメイドのディナーを召し上がって頂きました。
あひるさん、あなたのお庭をお邪魔しちゃいましたね。
パドルボードを互いにひっくり返したり、ひっくり返されたりしてキャーキャー言ってた私たち。
あひるさんが水中に潜るのは、生きるための必須の事であるのを岸から見かけました。
今日はあなたのおうちの庭で学生らとともにゆっくりとくつろぎました。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大紀町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第33回目は、ようやく着工した新会堂建設が完成までに紆余曲折を経てようやく献堂式にまでたどり着いたところです。
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延期は敗北を意味しない
こうして新会堂建設事業が始まりましたが、実際の工事の進展具合は、当初計画とはまた別の話です。予定された期日よりもずっと遅くに、工事は着工されました。
工事の完成もまた約束よりもだいぶ遅れることになりました。
私たちは献堂式の時に合わせて、いくつかの特別な祝会を計画していたのです。
献堂記念にある著名な巡回伝道師をお招きして、数回に渡る特別伝道集会を計画していました。
やむを得ずに建設工事は続行中のまま、その特別伝道集会が行われました。
ただ献堂式だけは延期されました。
さすがに会堂が完成しないまま、献堂式を行うわけにはいきませんから。
講師のスケジュールや、すでにポスターや配布されたチラシのことを考えると、特別集会だけは延期できずに、槌や電動ノコギリの音が鳴り響いている中、特別集会を開きました。
講師が錦に到着された時は、大雨でした。
新会堂に玄関の扉はなく、そこのセメントやタイル工事も未完成のままでして、それでも大工さん達は一生懸命にできる限りの働きをしてくださっていました。
そこにあったものと言えば、わずか上下水道と電気位だったのです。
その伝道集会には大勢の方がお見えになられました。
その週末の数日間は、新会堂は人でいっぱいになるほどでした。
私たちの新しい会堂には賛美の歌声と勝利の証しとが、まるでこだましていたかのようです。
ただ、将来の完成が確かな日まで、献堂式自体は延期となりました。
これまでの教訓から、かなり余裕を持って延期の日時を確保したはずですが、その献堂式の当日の日においても、まだ大工さん達は仕上げのための工事をしていらっしゃいました。
献堂式のお客様方は、それを見て驚かれたのですが、いやこれこそ錦時間の方法だとして、むしろ楽しんでくださったようです。
これはこの国の中にあっても、錦だけに起こり得ることであり、お互いを疑いや文句なしに受け入れる寛容な文化なのだと、今更ながら私自身が学んだのでした。
すぐにと言うわけではなく、かなりの期間がかかったのは確かですが、母の信仰からの教訓が私を支え続けて、私たちは新会堂を借金なしで捧げることができたのです。
ダニエルさんの訪問と働き
待ちに待ったダニエルさんが米国から訪れてくださいました。
建設工事はまだ完成しておらず、雑多で混乱した片付け仕事などを助けていただくためには十分な
早い段階に来てくださいました。
彼女は常に陽気さと賛美のスピリットを持ちながら長い時間、裁縫仕事に励んでくださいました。ミシンを自由自在に扱いながら、カーテンやベンチのクッション、そしてコワイヤテーブルにかける真紅のフェルト製カバーなどを見事に作り上げてくださいました。
彼女のアイディアは上品でとても素晴らしいものでありながら、同時に無駄がなく予算を節約するものでした。
彼女の働きには、物心両面で実に助けられました。
献堂式のお祝いの食事には、全て手作りの料理が並べられました。
いわば私どもの心と手で用意された、真の愛が表された祝宴だと言うことができます。
婦人会の皆様方は、いくつかのチームに分かれて様々な仕事を分担しました。
あるチームはご飯ものとサラダ、他のチームは揚げ物のチキンやエビ、そして私の持ち場は赤いリボンで結ばれた可愛らしいサンドイッチとデザート、フルーツサラダを作ることでした。
私たちすべてはまるでミツバチのように忙しく働いて、そこではノロノロしていたら誰も生き延びれないと感じた程です。喜びの準備仕事には、おいで下さっているお客様まで巻き込んだのでした。
お客様は近くからも、遠くからも数多くお出でくださいました。
シェルホン先生は、川崎からバンにいっぱいのお客様を引き連れて来てくださいました。
ハレルヤコーラス
献堂式のプログラムは、私たちが期待できる最高のものをさらに凌ぐものとなりました。
コワイヤはヘンデルの「ハレルヤコーラス」と「聖なる都エルサレム」を満堂の会衆に歌い、ハンドベルでは、「ハレルヤ」を演奏しました。
多くの方々から祝辞のお言葉をいただきました。
お出でくださった町長さんは、キリスト教式に慣れてないためか戸惑ったご様子。
もちろん、シェルホン先生が式辞をしてくださいました。
私はこの建築事業を助けて下さった関係者諸氏に、お礼の品とお言葉とをお届けしました。
ダニエルさんと私はその献堂式翌日、教区の牧師会に出席し、それが終わるとチャーチオブゴッド婦人教役者会に出席のため川崎まで出かけました。80歳となる特別講師のダニエルさんは、錦教会に滞在されたその経験をお話しされました。何と言うチャレンジでしょうか。
主の軍隊から放免されると言う事はあり得ません。
「引退」ですって?!
一体それは何のことですか?
そんな時、川崎にいる私の元に京太先生からの突然の電話があり、建築業者からの最終的な請求書が届いた事を知らせてくれたのでした。原初の契約にはなかったいくつかの請求があると言うのです。
その最後の請求を満たすためには、まだ数百万円のキャッシュが必要であると言うものでした。
ワシントン湖の上空を曲芸飛行するブルーエンジェルス。
本格的に湖畔まで行って見たのは今回が初めて。
耳をつんざく爆音を残しながら戦闘機の一糸乱れないチームワークに息をのむ思い。
共に参加してくれた皆さん、どうもありがとう。
錦の隣には孫太郎と言うリゾート村があり、よくピクニックに出かけました
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第31回目は、降水量日本一と言われている尾鷲に近いだけに、川からの洪水と言う危険と隣り合わせであったこと。
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三重県錦は台風銀座
台風ーそれは想定することのできない生き物のようなものです。
衛星写真は真ん中に黒い穴のある、嵐の渦となっている雲の写真は提供してはくれます。
その穴は台風の目であり、そこには完璧な静けさがあります。しかしその台風の通過地点にあっては、どんなひどい災害が起こるかは誰も予測し得る事は出来ません。
高い巨木でさえなぎ倒すことがあります。ある大木は会堂の屋根に倒れ、そのまま会堂前の道を塞いだことや、他のときには会堂のタワーを直撃したこともありました。他のときには、主のいないままの空の犬小屋が吹き飛ばされて、教会の庭まで運ばれて来たこともあります。
それが日中にやって来た時なら、ただできる事と言えば、空中を飛ばされている多くの物体を見ながら安全を祈るほかないし、夜にやってくるときには、停電の中キャンドルを灯して自らを静め、コーヒーでもすすりながら風のうなり声やそこいら中の衝撃音を聞くことしか出来ないのです。
地元の消防団の方々は重大な責任感を持ちながら、昼でも夜でも嵐の間は、実によく働いてくださいます。しかしながら私たちはその消防団が本来の火災の時よりも洪水なったときの方がより偉大な活躍を私たちにしてくださったことを認めないわけにはいきません。
教会堂の前を通る路地の向こうは川となっていて、大雨の嵐の日に、ついに氾濫して路地に水が溢れて床上浸水直前となった時がありました。
会堂にあるオルガンや図書等全てをベンチの上に載せた後、私たちはいつでも裏山の崖を這いずり登って逃げる準備をしなくてはならなくなりました。時に深夜でしたが、消防団の方々がやって来られて小学校の体育館が緊急避難場所になっていること、避難の手伝いが必要なときにはいつでも連絡するようにとも知らせに来てくれました。
重大な事はコネクション
ある夜、私の部屋の窓から見える大きな倉庫が炎に包まれているのに気が付きました。
消防団の方々は忙しく立ち回っているのですが、炎の勢いは一向に収まりません。
消防士の抱えているホースからは、水が出て来ないのも見て取れます。それはただホースが消火栓に繋がれていなかったのが原因でした。彼らの働きは台風の時の方がずっと優れています。なぜなら火事よりも台風の件数の方がずっと多いからです。それにしても、コネクションが最も大切な事柄であるのには間違いありません。
錦町の消防団
それは日曜日の事でした。
山形からの友人が訪ねて来てくださっていた時のことです。
そして私はいつも訪問してくださる方にお手伝いを依頼しています。
その日も朝早くから激しく雨が降り続いていて、シーツがそのまま空から垂れ下がっているかのように雨で外が一面白く見えました。
隣からは若い青年が裸足のまま教会まで歩いてやって来ていました。
それで四名となりましたので、いつもの日曜礼拝を始めたのです。
激しい雨のためどこにも出かけることができず、ランチを終えてから私たちは日曜学校の教材作りに励むことにしました。その間、絶えず私たちは教会堂の前を流れている川に警戒の目を向けていたのです。
やがて数名の消防団の方々の突然の訪問に、私たちは驚かされました。
「皆さんは今すぐここから脱出しなくてはなりません。川の水は既に縁まで上がって来ています。裏山へ逃げること以外に避難する道はありません」と言われました。
私どもは急いで本棚の半分下にある本を空にしたり、オルガンをテーブルの上に載せたり、貴重品を床から高いところに乗せた後、主がこの教会堂を守ってくださるようにと祈りました。
裏手の山を両手を使いながらよじ登って行かなくてはならないですから、身軽でなくてはなりません。聖書と現金を持ち、そしてレインコートだけをかぶっての避難開始です。
川の水はすでに土手を乗り越え始めています。それで私たちがまさに避難を始めたとき、目の前で奇跡のようなことが起こりました。川の水位が少しずつ下がり始めていったのでした。
さらには、こんなエクサイトメントな出来事もありました。
その日は夏季子どもキャンプの初日のことでした。
お母様方たちが子供さん達とその荷物を教会に送り届けていた頃には、雨はもう既に降り出していました。午前中のプログラムは聖書の話、ゲーム、そして工作等でして、順調に進んで行きました。ランチとその片付けがちょうど終わった頃の事でした。
消防団の方々がお見えになられて、そこから脱出せねばならない、と言われるのです。教会前の川を見ると、すでに川岸から水が溢れて、大きな湖を作っていました。
消防団の方々は見えなくなっている川岸にロープで非常線を張り、目印としました。
彼らが小さな子供さんを抱えて、また大きな子供さんたちはお互いに手をつなぎ、先生や大人スタッフたちともとも手をつないだまま、私たちは小学校近くまで歩いて退避したのです。
そこには消防車や救急車、トラックや非常用の車両が用意されていて、私たちは分散して町役場まで送られることとなりました。そして多くのスピーカーから町内放送がなされて、すべての子供たちは無事に町役場に退避している、とアナウンスされたのです。
やがてお母様方がやってこられて、大きな毛布に包まれながらも濡れてびしょびしょになっている子供たちをそれぞれ引き取って行かれました。私たち教師やスタッフメンバーは何度もお詫びを繰り返したのでしたが、その横で子供さん達はとっても楽しんでいる様子。
彼らにとって消防自動車や救急車に乗るのは初めてのことだったのです。
紀伊長島から来られた子供さん達は、引き続き私たちとともに留まりました。その頃は紀伊長島道路の土砂崩れのため、緊急車両以外は通行止めとなっていたからです。
ようやく全ての子供さん達が親に引き取られ帰って行った後、私たちもそれぞれ自宅に帰りました。その夜、私は寝付くことができませんでした。
子供たちの完成していないままの工作品が、テーブルの上にそのまま乗せられているし、彼らの荷物は教会堂のあちこちに散らかったままです。私はすすり泣きながらつぶやいていました。
「主よ、どうしてですか」
次の朝早く、電話が鳴りました。
「私たち、もう一度キャンプ出来ますか?」
「もちろんですとも!」
私は叫ぶように答えたのでした。
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