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病を押して帰国を決意

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旧会堂での元旦礼拝 旧会堂での元旦礼拝 着物までこうして見事に似合って... 着物までこうして見事に似合ってしまうんですから、やはり日本への宣教師として生まれついたのでしょう






日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第26回目は、日本に帰ったならば55歳頃には車椅子生活になるとの宣告を受けながらも帰国を決意し、宣教師としての召しを全うしようとの決意に至った箇所です。まさに宣教師の鏡ですね。





不滅の働き


予定されていた私の12月の集会はキャンセルとなり、カルフォルニアに住む私の家族のもとに帰宅する準備をしました。

カリフォルニアまでの道すがら、私にはいくつか立ち寄るところがありました。
オクラホマにいる友人達とコロラドに住む親戚たちに日本での様子をお分かちしなくてはならないと考えました。

五年間の不在後、家族とともにクリスマスを過ごした今回は特別なものでした。
クリスマス休暇が終わってから、私はホロウェルさんのところへ訪ねに行きました。

彼女の信仰はしっかりしたものでして、最も困難と思える状況にあっても彼女は忠実な働きを何年間も続けていたのです。私は医師の診断を彼女に打ち明け 、それでも私が日本に帰国する決意は変わらないこと、またたといその期間は短くなったとしても最後の歳月は宣教地で過ごすことにしている事などを伝えました。

彼女はしっかりとした確信に満ちた姿勢で私に言ってくれました。
「主は病気の宣教師を必要とはなさいません。明日この件についてご一緒に主の御旨を訪ねてみることにしましょうよ」
そして忘れることのない月曜日の朝がやってきました。



「働きが終了するまでは私たちは不滅です」



朝日の光線が私の部屋に押し寄せてきたとき、この有名な言葉が私の心の中に入ってきました。

"ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。
神のさばきはなんと知り尽くしがたく、
神の道はなんと極めがたいことでしょう。"
(ローマ人への手紙 11章33節)


ホロウェルさんには熱心な祈りと神様の癒しに対する確信があり、ついには彼女は手を叩きながら、主への賛美と喜びを表してくれました。
私はその時、なんらセンセーショナルなものを感ることは無かったのでしたが、まもなく日に日に私の健康は回復していったのに気付くようになるのでした。



40年間の良い働き



私の不在の間、日本においては全てのことがかなり早く進んでいるように見えました。

石川県津幡には教会堂が建ち上りました。山形県酒田の四住居あるアパートメント建物は改築されてチャペルに、それだけではなく分級室そして牧師館にも生まれ変わり、その他にもいろいろな部屋がありました。

私が神様の私に対する御旨がどこにあるのかと考える機会の与えられる前に、すでに私の全ての荷物を酒田に送ろう、との話がなされていたのです。

ちょっと待ってください。
ただ部屋数が多いからと言うだけで、神様が私に備えた場所とは限らないでしょう。
確かに空気が綺麗な場所を、私の働き場として選ぶ必要はありました。

私は忙しくしていてほとんど休む間もなかったのですが、私の健康状態は回復しつつあり、驚い
たことに、ついにマーテンセン医師は私の体が完全であると宣言してくれたのでした。

これで日本に帰国後も、40年間は働くことが出来そうです。
完璧な健康診断書と神様への賛美に溢れながら、私にはたったひとつの願いがありました。

日本においては神様のためにだけ時間を過ごし、すべての時間を神様に使っていただきたい、との願いです。



日本に帰国して田舎伝道



しばしば苦い盃から甘い経験が出て来ること


小出先生は元気を失い、大江町での働きを続けられなくなりました。
代わって小野寺先生が、その働きを続けるために遣わされました。

この転任を私に知らせるお手紙をいただいてから、それにお答えする十分な時間はありませんでした。私は心の中では神様の御心が何であるかを確信しており、それはその地域で彼女と共に働くというものでした。

シェルホン先生は彼女のところまで行き、彼女のその気持ちを確かめられました。
彼女はこれに賛同してくれていると知った時、私の心は躍り上がるばかりでした。

その時、私はこの御言葉の意味を知ることが出来たのです。

"イエスは彼に答えられた。
「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」"
(ヨハネの福音書 13章7節)

日本に帰国する以前から、私の心の願いは、誰も顧みないような場所、そんな田舎で働きたいというものだったのです。

後に小出先生は脳卒中で倒れられて、彼の献身的な奥様と子供たちによるケアが常時必要な障害を負ってしまうのでした。

ずっと後日となって現在の大江町教会が新会堂を完成させた時、彼は特別仕様の障害者用バンに乗って大江町にまで再び来ることとなりました。

それは2000年11月11日、麗しく完成された新しい教会堂の献堂式の時であり、大江町教会の開拓者として喜びを分かち合ってくださいました。小出先生はお体に障害をもたれたかもしれませんが、そのスピリットおいてはそうではありません。燃える心を持って福音を語ることに情熱を燃やされているのは、当時も今も変わりはありません。

同時にその日は奇しくも、私の85歳の誕生日と重なりました。
大江町教会は私のために特大のバースデーケーキを用意され、ハッピー・バースデイを皆で合唱してくれたサプライズなりました。

このような小さな者が大江町教会の開拓時に関わらせていただいた事だけで光栄ですのに、そのことを教会の皆さんが覚えていて下さったとは、なんと喜ばしいことでしょう。

かつて私どもの関係者である一女性によって思い起こされた事ですが、私たち皆で小さなアパートに住んでいた時、小野寺先生が私と共に働くことの可能性について話されたことがありました。

それは多分、本気で考えてのことではなかったでしょうが、まさに実現を見たのですから予言的なものであったと言えます。

大江町左沢に引っ越して後に、小野寺先生と私が立て続けに刈り取った実は、神様が小出先生のためにと備えられたものであったはずなのだ、としばしば感じました。

彼が据えた働きの場所を全て維持することは、生優しいものではありませんでした。
宮宿、谷地、そして寒河江市での家庭集会など多岐に渡っていたのです。

困難な働きの現実を前に、何人かの牧師たちは、神様は山形を忘れられたのだ、なんて言う人もいましたが、決してそんな事があるはずはありません。



神に選ばれし山形県人



谷地からは幾人も、その生涯を神様に捧げる働き人らが起こされました。
メキシコ宣教師となられた阿部和子先生、酒田キリスト教会牧師の高橋富三先生です。
そして宮宿からは、横浜港南キリスト教会牧師夫人の石川紀和子先生、そして左沢から松阪キリスト教会を開拓し、牧師の渡辺貞雄先生などです。(牧師任命の教会名は2000年当時のものです)

1965年10月に私は左沢に引っ越して来ました。
一週間はいっぱいいっぱいのスケジュールで、ときには日曜日だけでも五回もの集会があったものです。

一日中人々は出入りしていました。さらに定期集会を宮宿、谷地、寒河江市に設けていました。生徒さんたちのグループは人数も成長していました。日曜学校が特に伸びていたのですが、そこには双子のグループが二組も三組もいたりしました。

小野寺先生のご性格は私とはまるで違うものでした。
それはまるで昼と夜の違いです。私は早起きが得意な一方で彼女は夜型です。

彼女はどこかに出かける直前まで準備もしないままダラダラしているのですが、私は全て準備を終えてからゆっくりとしたいタイプなのです。

都会にあっては、バスでも電車でも数分後に次の便がありますが、左沢線の終着駅の町ではそのようにはいきません。

しかしながら主の働きにあたっては、私たちの心はまるで一つにされていました。
私たち二人にとって、生きるための目的はたった一つのものだからです。
私たち互いの性格の違いが、その働きの妨げとなるようなことはなかったのです。

ときに私たちは忙しい余り霊的な調子を崩してしまって、お互いにギスギスとすることもありました。そんな時こそ主が私たちを互いに向き合わせて、互いの心を溶かし繋げて下さったのでした。

異動に伴う私の立場は変わったものの、いくつかの私の義務には変更はありません。
ミッショナリーチャレンジャーの原稿や宣教師レポート、また会計報告の仕事などのため私はかなりの時間を川崎で過ごさねばなりませんでした。

米国から来られたパイプさんと言う方は、優れた説教者で、チャーチオブゴッド教会の間ではよく知られた伝道者でした。そればかりでなく、彼は自ら建設会社を所有する成功したビジネスマンでもありました。

彼は大変広い心をお持ちの人です。
彼は私どもの働きを経済的に支援したり、自らの手を使って直接会堂建設に携わってくれたりもしました。

その建設仕事のために1966年一月に川崎に到着されてから六カ月間も滞在されたのです。
会堂のあちこちが新しくなり、こちらの牧師たちも、建築修繕作業についての多くを実践作業から学び取ることとなりました。

当所一階建てだった川崎教会が二階建ての会堂に変身を遂げたのも、彼によるものです。

#ドロシー師

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山本太郎氏とれいわ新選組

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山本太郎氏とれいわ新選組 山本太郎氏とれいわ新選組



日本ではちょっとした、れいわ新選組ブームが起こっているようにお見受けしますが、ある牧師が山本太郎さんとその政党を支持する旨の投稿をFacebookにしました。すると仲良くされていらっしゃる別の友人牧師が太郎氏自身の資質、れいわ新選組の経済政策が日本を破壊するとんでもないものであることを指摘された上に、牧師がある1つの政党を支持表明するのは敵を作ることにつながるのでどんなものか、との問題提起をされました。

既に新選組と太郎さんを支持発信している私にとっても無関係では無いので、お二人の論戦に飛び入り参戦した次第です。
論戦といっても二人は互いの考えをリスペクトしながら議論を続けられていて、見事と感心しました。

許可を得ておりませんのでお二人の論戦自体は控えざるをえませんが、私が参戦した文言をここに紹介します。

これを見て私が必ずしも太郎氏が掲げている全ての政策にぞっこんではなく、「現段階での支持」に過ぎないことを深くご理解いただければと思いました。





(いかが参戦した文章)


N先生T先生、横から入り込んで失礼します。
お二人の対談はそれぞれが筋が通ってる上に冷静さを保ち、SNS上で議論をする際の模範となるものだといえます。

T先生がれいわ新選組をご懸念されている点は私も全く同様です。日本の地方によっては倍以上にもなる急激な最低賃金の引き上げが雇用流出につながり韓国のようにさらに経済の混乱をもたらすと思います。経済政策ばかりでなく私は外交・防衛政策にも大きな疑問を感じています。と言うより中国寄りのその姿勢は選択肢としてありえず、もし彼が政権を取ったならば大反対するでしょう。
私個人がれいわ新選組の提示した政策に賛同できるのは消費税廃止と大学奨学金の大幅な見直し、社会的な「とんでも法案」の改正くらいです。それではどうして賛同表明しているかと言うと、未だ政権担当能力がないからに他なりません。たとい候補者全員の10人が当選したとしても、まだ野党の一部弱小勢力にしか過ぎないので安心しているのです。
れいわの躍進を通じて、現政権の消費税増税に強烈なNOを国民の意思として突きつけることができます。
この点、N先生も同様のお考えで賛同されているものとお見受けしました。

(以下引用)

「安倍政権は経済をコントロールしようとして、国民生活を破綻させるような勢いで失敗してしまいました。それでも、選挙後も、彼らは国会の中に多数派で居続けるでしょう。
だから、山本太郎は、実際に政権を取るまでは政策を実現出来ません。けれども国のかたちと国民生活を壊し続ける現政権の歯止めとしては十分なインパクトがあります。」

(引用終わり)

20年間のデフレを脱却できずにさらに国民生活を貧困化させる消費税増税を反対するための緊急避難措置として私はれいわを応援しています。政治はそしてその勢力は常に流動化しています。現在の段階ではれいわを支持出来ても、次の段階ではもちろん異なると言うことです。
なおT先生が懸念されていた、牧師が1つの政党を支持表明することにより、本来は敵でなかった人を敵としてしまう恐れを心配されている点についてです。
そのような方には、政治と宗教とを自らの感情に引き寄せてごちゃまぜにするところから成長してしていただかなくてはならないと申し上げたい。N先生が書いておられる通りに、いかなる政治的異論を持ったとしても、主にあって1つであるとの信仰理解に至りたいものです。全て同じ考えの人たちだけで教会が形成されていたとしたら、そこにはカルトの匂いが漂います。

長文失礼しました。
この文章、勝手ながら自らのFacebookにも投稿します。
牧師の政治的意見を聞いてつまずく人に成長・成熟を促すためです。
#社会

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川崎での宣教活動に戻って

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 山形の田園に落ちる夕日 山形の田園に落ちる夕日







日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第24回目は、田舎での1時的な伝道活動を終えて川崎に戻り、学生への英語クラスを始め、本格的な宣教活動に従事するようになります。








本田川崎クルセード


その直後に 、川崎での本田クルセードの多忙な準備期間が待っていました。

私の家族が日本に滞在したことでもし私が働きから幾分かでも逃れてしまうことがあったとしたなら、私はその分を埋め合わせるだけの機会を確かに得たと言っていいと思っています。

私は奏楽者として、また食事係のマルタ役として、二人分のお仕事を仰せつかったのです。
ときにはこの二つの仕事が同時に来る事もあり、私は文字通り双子である必要がありました。

本田クルセードのためには、電車の中でも数千枚のトラクトが配られて行きました。
ある朝、バス停にいた時のことです。バス停から降りたある方が、その手にいっぱいのトラクトを私に渡してくれました。彼は後の日に与えられるであろう報酬を自ら放棄している事に気づいていないのでしょうか。

全市に広がったこの労務の結果は神様だけがご存知です。
神様がやがて与えて下さる報酬には正しいものしかありません。



ミッションフォーム



1962年の秋、主は私たちに祈っていたミッションホームを与えてくださいました。
主が経済的な必要を満たしてくださいましたが、私たちはその内装を自分たちでやり遂げました。

主は私たちが掃除をし、ペイントをし、修繕するエネルギーを与えてくださり、11月には開所式ができる所にまでこぎつけたのです。

私がそれまで住んでいた古くて小さなアパートメントが、ミッションホームに移った今、まるでニューヨークのグランド・セントラルステーションになったかのようで、常に若い方々で溢れるようになりました。同時に、彼らは続けてやって来てくれるだろうか、と訝しんだものです。けれども彼らは確かに継続して来会し、さらに多くの人たちが来られるようにもなりました。



川崎南部キリスト教会の誕生



ミッションホームは川崎南部キリスト教会の誕生につながり、限界のない可能性へと開かれて行きました。11月第一日曜となった開所式兼最初の礼拝は、私たちの期待以上に素晴らしいものとなりました。

その辺一帯にトラクトがまんべんなく配られ、私のアコーディオンも含んだマーチングバンドが行進して、スピーカーから大きな声でのアナウンスがなされました。多くの方々が心を砕いて証しをされ、また働きました。その教会は多くの人たちで満たされたのです。

人生とは挑戦の連続です。
私はその頃、放課後の時間帯を多摩高等学校や川崎高等学校での英語クラス担当をしたり、ミッションホームでの英語バイブルクラスもあり、さらには中学生のための英語クラスもしていました。

これらに加えて南部教会のすべての集会にも参加するよう求められていたのです。
その上、家庭集会や川崎教会での婦人会、ヤング婦人会、ベタニア女子会、さらにはひっきりなしに出入りして来る英語クラスの生徒さん達。

たとえ私たちが引越したとしても、彼らは必ずや私たちと行動を共にしてくれる人たちでした。



「ミッショナリー・チャレンジャー」の誕生



1963年の二月、私たちは日本で「ミッショナリー・チャレンジャー」を刊行するようにと求められました。それは私の日本での宣教活動を米国の教会のサポーターたちに紹介すると言う目的を持ったニュースレターです。

ところが、ニュース記事をタイプするというのは私にとって全くの新しい経験でした。
チャレンジャー自身にとり、大きなチャレンジとなったのでした。

そんな多忙な私たちにも、時には外出の時間が与えられたのは不思議なことです。
コンサート、美術館訪問、山へのハイキング、大学の文化祭や雪国での楽しさなどです。
これらは、私たちは大人が子供時代に帰ることが出来た大変貴重な機会でした。



コーラおばさん



多種多様な機会は、人生のスパイスであると言われています。
主は大変特別なことを、サプライズしてくださいました。

コーラおばさんのことです。
彼女は、主が日本に宣教師として召していると感じていました。そのことをすでに私には何度も伝えてくれていたのです。

しかし深夜に到着したときには、彼女を空港に迎えてくれる人は誰もいませんでした。
親切なタクシー・ドライバーが川崎の日本人牧師と連絡を取ってくれて、彼女をその教会まで送ってくれました。

その牧師はもっともな理由もあって、彼女を留め置くことができなかったものですから、ある日曜の早朝、彼女は私どものところにやって来てそのまま新しい家族の一人となりました。

この年配の黒人淑女は数ヶ月間、私たち皆と楽しく生活を共にしました。英語クラスにも参加してくれて新しい息吹を与えてくれたのです。
コーラおばさんは特別集会のためのポスター貼りやトラクト配布など、彼女にできることなら何でもお手伝いしてくれました。

彼女は日本語をお話しすることはできませんでしたが、彼女の笑顔はどんなハンデをも補って余りあるものでした。

時にいくつかの特別集会では私たちが期待したほどの結果は得られなかったのですが、コーラおばさんはいつもと変わらずに、明るい楽しさを分かち合ってくれました。

夏の修養会で彼女と同室できたことは私の喜びです。
静かで落ち着いた時が与えられました。

説教の間中は、私が話のポイントを彼女のために書いて差し上げました。
それによって彼女もまたいくらかの祝福を得ることができた様です。
また彼女は大したコックさんでもあり、そのレモン・パイは決して忘れることができません。


#ドロシー師

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日本一公園での祈り

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文中にある早朝の祈り会に行った... 文中にある早朝の祈り会に行った町全体を見下ろす公園からの眺めです。「日本一公園」と呼ばれています。 日本一公園での祈り 日本一公園での祈り 日本一公園での祈り 日本一公園での祈り



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第23回目は長野県や山形県へ伝道旅行を繰り返され、やがて田舎伝道が生涯の中心に据える働きとして確信するように至った経緯です。











繰り返されるクリスマス集会



クリスマスと新年期は、実に栄光に富んだ時期です。

私たちはクリスマス祝会を何度も多くこなしました。教会だけではなくて各日曜学校支部や家庭集会などです。

ホームシックにかかる暇なんてありません。もっとも聖書学院の神学生たちといった拡大家族も与えられている私が、どうしてそんなことを感じる余裕があるしょうか。
そこには七面鳥とそれに付随する米国流定番料理こそありませんでしたが、私たちには溢れるばかりのご馳走と多くの喜びとがありました。

お正月のご馳走には、一つを除いて何も問題はありません。
その一つとは、お餅のことです。私はその餅つきの現場にお招きいただいたことがあります。

ツキタテの熱くて柔らかいお餅は、醤油やきなこをまぶして食べると大変良く合います。
私は五つもお餅をいただいたのですが、一つの切り餅サイズがお茶碗いっぱい分のご飯量に相当するだなんてその時なまだ知らなかったのです。

お餅は体全体を温めてくれるし、その後は何食も要らないと感じるほど腹持ちが良いものです。


私は多くの男子生徒を多摩高等学校で教えました。
そして長い期間を経て、ついに英語を熱心に学ぼうとしているとても将来が楽しみな幾人かの女子学生にも会うことになりました。彼女らには英語を聖書から、そして音楽を賛美歌から教えました。

私はその頃、私と共に働いてくれる助手となるような女子生徒を探していました。でもそれは叶えられない高望みだったようです。それでも、私がこれらの若い生徒さん方と過ごした多くの時間は決して無駄とはならないことでしょう。

日本に来るずっと前から、私は田舎で働くことを望んでいました。
私の最初の“宣教旅行”は、ただ私が無能であることを思い知らされただけだったことは、先にお話しした通りです。
やがて将来のいつの日かに、主のために働くため再び長野県に帰ることは私には許されるのでしょうか?



福音を携えて九州へ



美智子先生のお母様を伴った九州への旅は、私にとって願ってもないことでした。
それは短い期間だったのですが、聖書物語を紹介したり、本やトラクトをお渡ししたりして、私は熱心に務めました。

そのような中でのある日曜日朝のことでした。子供さん方はなんと朝食前にやって来て、そしてお昼ごろまで帰らないのです。再び彼らは午後になって来ると、今度は夕方まで居座ります。

豆腐屋さんは、私が彼にたくさん渡したトラクトをその販売ルートで会うすべての人に配ってくれました。「ここには素晴らしいことが書いてあるよ」と、彼のお客さんたちに話して廻ったのです。

私はその場所に帰って、私の残りの人生をそこで過ごしたかった程でした。
しかしその願いが叶えられることはありませんでした。




福音を携えて山形へ


三人の若くて有能な献身した神学生たちが聖書学院を卒業して各地で働きを始めた時に、シェルホン先生の夢は実現したと言えましょう。

小出先生は、ご自身の故郷に帰ることが御旨であると示されました。そこが山形県左沢です。シェルホン先生はその可能性を探りに視察に行かれました。小出先生は開拓伝道に着手して、勇敢にも数々の困難に立ち向かっていったのです。

ある時の日曜学校では、多くの若い人々の出席を得て賑わいを見せました。何軒かの家々でも家庭集会が始まりました。彼はまた結核療養所にいる病の方々や、学校で問題を抱えている子供たちの為にも働く機会を得て行ったのでした。

そんな多忙の中にあっても、ある時の日曜礼拝にはだれも出席者がいない、と言う時もありました。
それでも勇敢な彼は、誰もいない座布団だけに向かって説教したのです。
働きは祝されて多くの実が結ばれるように見えましたが、やがてしばらくすると、誰もいない座布団状態に戻るのです。そんな時に彼ができた事は涙を流すことだけでした。

主は私たちの将来の働きのために、女性を備えて下さる時もありました。二名の献身した女性が聖書学院に入学して、その授業のない休日や長期休暇、また週末は私の助手として働いてくれました。

その一人であった小野寺美江(ヨシエ)先生と私は、大江町での初期の開拓伝道を担うこととなったのです。私たちはあらゆる準備を完了しました。

町にはポスターが至るところに貼られました。伝道伝道集会の直前には私どもは町中を練り歩きます。私がアコーディオンを弾いて、男性たちが集会のアナウンスをするのです。三つの小さな部屋しかなかったその家には、入り切れないほどの人たちで溢れました。

初日には82名の来会者です。日曜朝の早天祈祷会の時には、近くの山の頂まで行きました。そこからは広大な景色が開かれていて、美しい村の全体風景、実った稲が見渡されました。

美江先生と私は、このところで何年間かを共に過ごせないだろうか、と夢見たのです。この伝道旅行以前にも私たちは共に賛美し、神の言葉を分かち合い、共に祈り合う祝された時を持って来ました。私は続けてそのまま共に助け合いながら働くことを心から望むようになっていたのです。

次の夏も、私は大江町での夏季特別伝道集会をお手伝いすることが許されました。
今回の私の助け手は青木先生です。今回の旅を通じてもまた、私は田舎で働くことを強く願う結果となりました。

私の心は二つの願いで引き裂かれました。しばしば主のために二つの体が欲しいと思った程です。都会には大学受験を控え、熱心に勉強する高等学校の生徒さんたちがいます。

でも、感謝なことに私の道を選んでくださるのは、神様ご自身です。その結果についての責任も、その過去でも現在であっても、主がとってくださり私ではありません。

長い年月の葛藤や失望があり、遅いスタートの後でしたが(時に私は43歳)、私は神様の御心の真ん中にあることを確信できて、心満たされるのを真に体得出来たように思います。

私には故郷や家族を慕って失望するようなことはありませんでした。
同じ太陽がすべての私たちを照らしているわけですから、私はそんなにも遠いところにいるわけではないはずです。
#ドロシー師

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ケインズ経済学を日本は導入すべし

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ケインズ経済学を日本は導入すべ...

20年間のデフレが続いた国はどの国のどの歴史にも今だかつてなかったと言われていて、これは国会答弁で安倍首相も認めていることです。

ここで私の展開している財政政策はMMT理論を土台としているものでして(その全てを認めているわけではございませんが)、それは自由放任ではなく管理的な社会主義的経済政策です。

このような財政政策をとった例はいくつかあります。
代表的なのが1929年の世界大恐慌に対するルーズベルトのニューディール政策です。

それまでの主流派経済政策ではアダムスミスの著した「富国論」が正しいとなっておりまして、「神の見えざる手」が市場を動かしているのだから、その自由に任せ政府は介入しなくて良いと言う立場を取りました。

すると失業率はなんと25%、都心部では50%にも上ってしまった。このままでは国が壊滅してしまうとして、ルーズベルトが大規模公共事業を行い、大幅な財政出動、雇用確保に動き出して米国を持ち直したのです。


人種差別主義者であり日本に戦争をけしかけ、原爆投下の準備をした悪の大統領の行った唯一の良いところです。

彼はそれまでの方針からケインズの唱える統制経済へと舵を切ったのでした。その後、第二次世界大戦で膨大な需要が喚起され雇用は完全雇用、デフレは吹っ飛びました。戦争が終わった頃は空前の好景気です。


なおこの主流派経済学とケインズ経済学はあらゆる点で対極をなす考え方であり、常に論争をしているものです。時の国々やその時代によって変転しながら採用されてきたと言えると思います。
#社会

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「わたしに来る者を」

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「わたしに来る者を」



ホサナ・キリスト教会日曜礼拝のメッセージ・アウトラインです。



「わたしに来る者を」



ヨハネの福音書 6章34~44節



"そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。"



⑴「来る」-その困難さ


①主がチャレンジされている中心点、キリスト教信仰の全てであると言っていい。
主のもとに来ることについて何度も語られている(35、37、44、45、65)。

②信仰の世界でこれほど難しいこともない。
群衆は小舟で湖を渡りイエスを探し出したが。
物理的な距離を縮めたとしてもそれは来たことにはならない。
24-26節。教会堂に来ても、牧師に相談できても、洗礼を受けたとしても、、、、



⑵「来る」-それは「信じる」「食べる」と同義語



①「信じる」ヘブル的並列表記法(35)
食糧経済問題解決のためのメシアを探していた人々にとって「しるし」を見ても見ていない(26)

②「食べる」ヘブル的物理比喩的表記法(50、53、56、57、58)
主の言葉は霊でありいのちである(63)。この言葉に信頼を置くのもには命を支える食物となる。


⑶「来る」-そのカラクリ

父なる神がイエスに与えられたものである
父が引き寄せ(44)、父から聞いて学んだもの(45)、父によらない限り誰もイエスのところには来れない(65)。


②来るものを決して捨てないとのイエスによる永久保存(39)
「ひとりも失うことなく」と強調され、蘇りの日までの保護が保証されている。



(結論)
「来る」とは、簡単でありながら最も難しい信仰の行為である。対面や格式にこだわる者には不可能である。自分自身に確信を置かない者だけ許される特権であり、謙遜な行為である。
#メッセージ

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消費税を10%に増税したらアカン

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消費税を10%に増税したらアカ... 消費税を10%に増税したらアカ...

現行消費税8%の税収は約20兆円です。令和新選組は今回の選挙で8%全額を廃止する公約としていますが、一般国民にはあまりにも強力なカンフル剤となるかもしれません。私は5%減税でも大きな前進であると考えています。
減収の20兆円分をどうやって補填するかは、他からの税収を計るか新規国債発行となります。
この2つの方法はそれぞれ十分な財源となり得る方策であるとの十分な根拠があります。
他のあてにできる税収とは、所得税と法人税です。
現行の所得税法では金融資産からの収入と給与等からの一般収入とを分離して課税していますが、これを一つの所得に統合した総合課税方式にすれば良いのです。これにより高額の金融資産保持者・高所得者に対しての課税を強化することができます。株の配当等の金融資産からの収益に対する税率は、どれだけ儲けても一律の20%です。これを一般収入並みの最高税率45%、地方税率含めたら55%までの課税とすれば良いではないですか。
法人税については零細企業から大企業までの税率が現在はフラットです。これも税率一律の消費税と並んで金持ち優遇の不公平税制ではないですか!ここに累進性を導入するべきです。利益を大きく上げている企業にはそれだけ多くの負担をしていただく。当然のことです。それだけではありません。大企業に対してのみ適用される80を超える税の優遇措置(割引システム)があって大きな課税逃れとなっている現状も是正するべきでしょう。
これらの法人税と所得税を見直すだけで29兆円の税収を見込むことができると試算されています。
日本は20年間デフレが続き実質賃金が下がり続けている唯一の先進国です。このまま消費税を増税したならばもはや先進国とは言えなくなるほどの貧困化が進むのです。今や貧困ラインを超えている人が子供の7人に1人、高齢者の5人に1人、そして20歳から64歳までの女性の3人に1人の割合です。
これらの社会の底辺に住む人からではなく高額所得者からより多くの負担をしていただくのが公平な税制です。
2017年の統計ですが企業がため込んでいる内部留保は446兆円です。金融保険業を加えたベースとなると507兆円を超えて、それは日本の1年分のGDPに匹敵しています。6年間連続で前年度を超える内部留保となり、この年だけで10%の増額、すなわち約50兆円の儲けを企業が貯め込んでいるのです。50兆円とは日本の全税収の金額にも匹敵しています。20兆円の消費税分の代わりに、この50兆円を利用したら良いと言うことです。

それには呼び水が必要です。
国が新規国債を発行して教育や社会保障など、あらゆる伸びしろのある分野に積極的な財政投資を行うのです。それによってデフレが改善したならば企業はこの巨大な内部留保を設備投資や人材確保・開発に投資ようになるでしょう。

#社会

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神様にとって不治の病はない

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1992年、夏季実習伝道として... 1992年、夏季実習伝道として伊東献仁神学生がおいでになられました。松井宅での家庭集会です。 神様にとって不治の病はない



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第25回目は、川崎での多忙な伝道生活がドロシー先生の健康問題を引き起こしたことについてです。米国に帰国中、肺気腫との診断を受けたのです。当時の川崎の空は、酷い公害スモッグで覆われていました。









健康問題に直面して
〜暗い疑いと疑問〜




1963年頃までに私の健康はひどくなって行きました。
高熱と咳が続き、ときには呼吸さえ困難となったのです。

そして遂に働きをそれ以上続けることが困難となったのでした。
医者に診ていただいたのですが、それはただ私をがっかりさせるものとしかならなかったのです。レントゲン写真を撮った後で彼は、「どんな種類のタバコを吸っているのですか」と聞いてきたのです。

横浜の病院へ行った時には、喘息であるとの診断を受けました。そして三週間の安静治療を受けたなら肺は綺麗になると言われましたが、何の効き目もありませんでした。私の症状はさらに悪化していったのでした。

やがて私は、しばらく長期休暇を取るようにとの要請を受け入れざるを得ないところまで来ました。その知らせは米国へも送られたのですが、それが先方に届く前にベイデン教会からファローのために一時帰国するようにとの連絡が届けられました。そこでこれが神様の御旨であると確信したのです。

それでも私の内には多くの疑問が残っていました。

どうして? どうして? どうして?


私は当時三つの高等学校で英語を教えており、そこからの生徒さん達が川崎南部キリスト教会のバイブルクラスに出席してくれていました。ときにはそのクラスが20名以上にもなる時がありました。

そこにはインドやアメリカからもゲストが来られては、ともに楽しんでいたのです。ターバンを頭にかぶったインド人がクラスに来たときには、生徒さんたちは大変喜んでいました。働きが進められ成長しているのを見て、私の心は喜びで溢れていたのです。

どうして私は撤退しなくてはならないのですか?
主は私にその理由を示されませんでしたが、聖書のお言葉をくださいました。

「私のしていることはあなたには今は分からないが、後にはわかるようになる」

お別れとは、大変辛いものです。
しかし三回あったお別れ会の中で、主はそれぞれ異なった三人の人物を通して、この主ご自身のお言葉を私に与えて確信を下さいました。

ヤコブが最も暗黒の中にいた時に、主は彼にお語りになられました。

"「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」"(創世記 28章15節)

9月4日に出国する予約が取られました。もはや後悔したり心配したりする時間は残されていません。ミッショナリー・チャレンジャーの原稿をもう一本書かねばならないし、ファローのためのペーパーも準備しなくてはなりませんし、不在となる英語クラスのための備えもまた必要でした。

会計や荷造りもせねばなりませんでしたので、残された限られた時間の中でしなくてはならないことが無尽蔵にあるように感じました。

その夏の修養会は、一年間の帰国報告の仕事のためには心を備える特別な時間となりました。
多くの妨げが起こったし、まさに現在は逆風の吹く状態でしたが、神様の御心は誤りなく鮮明です。

五年間不在の後に家族と再会できたことは、言葉にならないほどの真の喜びとなりました。
子供たちの成長のなんと早いことでしょう。

日本へと旅立ったとき、彼らはまだよちよち歩きだったのです。その彼らが一度に私に話しかけて来るのです。私の父のトレーラーハウスに教会や親族たちが集まって盛大な宴会となりました。それはまさに親密な”コミューニオン(聖餐式)”となったのです。


カルチャーショック


突然、私は自国の米国にいながらカルチャーショックに直面しました。

銀行口座の開設方法がわからない。駅改札口での自動販売切符の取り扱いがわからないのです。
運転免許証を得るときには大変な緊張を強いられました。

そんな中で親切にも手助けをしてくれるたくさんの人々に接しました。毎回助けをいただく度に、私が言ったことの定型句はこんなものです。
「五年間も日本にいて最近戻ってきたばかりなんです。アメリカでのあらゆるノーハウについてはすっかり抜け落ちてしまった者ですから」

休んでいる時間はありませんでした。9月19日までのファロー(宣教報告)のスケジュールがきっちりと組まれていて、アメリカ中の西や東へ行ったり来たりすることになっているのです。

家族であるベイデン教会の方々は、セントルイスの駅でまだ眠気まなこだった私を迎えてくれました。そのユニオン・ステイションは今やセントルイスの観光名所となっていて、あらゆるお店やエンターテイメントの集積地となっています。それでも当時電車が通っていた事を忍ばせる面掛けは残されていますが。

ナザレン教団をリタイヤされたコンウエイ牧師とその奥様は、私を彼らの家に迎え入れてくださいました。その家は私の米国滞在期間、第二の実家となりました。
彼はまたキャシューナッツとブラックウオナッツアイスクリームの販売にも長けている才能の持ち主です。彼がどこに行くにしても販売を成功させてしまうのです。

コンウエイ夫人とおしゃべりした地下室に至る階段での時間を決して忘れることはないでしょう。
その対話は何回にも及び、そしてめったなことで邪魔が入らなかったのです。どうして地下室での階段ですかって?

彼女が洗濯の度に階段を降りてくると、私は何か理由を見つけては会いに行き、話に誘い込んだからです。

長い結婚生活の後になってからこの二人は深い相思相愛の仲となったようです。
セントルイス市内を運転するときにも彼らは手をつないでいるのです。言うまでもなくそれは危険な行為のはずですが、主はそれを認めて彼らをお守りくださいました。

チャーチオブゴッド教団はサイズとしては小さくなりつつあり、メンバーも少なくなっているようでしたが、暖かい雰囲気とスイートな交友は私がどこに行っても保たれていました。
激しい嵐に見舞われ去って行かれた方々の中には、私と親しくしていた幾人かもおられます。それにも関わらず残された彼らは忍耐を保持して教会を守り続けています。



神様にとって癒されない病はない



熱心なクリスチャンの友人らは、私が家にいても海外にいてもこの12月までに私が癒されるようにと熱心に祈り続けてくれたのですが、どうも私の体はこれ以上働きを続けられそうにはなかったのです。

セントルイスにあるバーネス病院での専門医との面接では、私がとても深刻な状態にあることが伝えられました。公害の煙や灰、その化学物質を吸い込んだことからくる肺のダメージが深く、おそらくそれが恒久的に残るとのことです。

もし日本に戻るとすると、長生きできたとしても55歳になる頃には車椅子生活を余儀なくされるとまで告げられました。私は当時、不治の病であった肺気腫であると診断されたのです。

当時はまだその病のためのどんな治療方法も薬もありませんでした。
その専門医は私に再び日本へは戻らないようにとアドバイスをしてくれた上で、肺に積もっているゴミを除去するための薬や、ひどい症状を和らげるためにと睡眠剤を処方してくれました。

やがてその全ての薬を完済した後、再びそれが投薬される事はありませんでした。
「なぜそんなものに頼っているのか」と私は考えたのです。

創世記28章15節の神のお約束がなかったならば、私は暗い失意の中に沈み込んでいたことでしょう。翌朝早く私は起き出して、その件について主に祈りを捧げました。

しかし神様にとって、思い出さねばならない事はないと示されたのです。
神様は私を忘れてしまっているわけではありません。

そのお約束のお言葉は私に働いて、今一度、私は自分自身を神に捧げ、たとい人生が短くなったとしても日本で仕える決心に至ったのでした。

"見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」"
(創世記 28章15節)

#ドロシー師

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消費税を撤廃し法人税を上げるべき日本

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消費税を撤廃し法人税を上げるべ... 消費税を撤廃し法人税を上げるべ... 消費税を撤廃し法人税を上げるべ...


日本の消費税と法人税

消費税が1989年に導入されて以来、法人税は下がり続けています。

89年に法人税収入は19兆円でしたが、現在では10兆円ほどで、9兆円もダウンしています。
現在の法人税税率は23.2%ですが、これは名目に過ぎず実質はその半分ほどに抑えられています。なぜなら抜け道があるからです。
その抜け道は大企業ほどに有利で、なんと数%しか負担していない大企業もあるのです。例えば研究開発費とか、子会社への支払いとか言う項目があると税負担に圧倒的に有利となります。
このためトヨタでは2008年から5年間、法人税負担がゼロでした。

年ごとに実質の法人税率が下がっています。

13年の実質法人税率 14.4%
15年の実質法人税率 13.3%
17年の実質法人税率 12.5%

このように大企業に甘い税制となっているため、バブル期以上の空前の大儲けをしています。でもそれが人件費や設備投資に回らずに内部留保に勤しみ、今や年間50兆円の「どうしたら良いか分からずにとりあえずため込んでおく」金額。
消費税収入分の20兆円分はここからひねり出せるでしょう。

累進性のない一律税率の消費税は、お金持ちに優しく一般大衆には厳しいものです。お金持ちは買い物する際、3%だろうが10%だろうが消費税分は気になりません。我々一般庶民には大打撃です。
ある試算によると、消費税が10%となった場合、一般家庭の家計のまるまる1ヵ月分の収入がその消費税分として差し引かれることになるのです。

消費税を撤廃して日本を再生させよう。
#社会

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それでも走った

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それでも走った それでも走った それでも走った


今回はオークランド空港で「走れメロス」を演じてしまった。

保安検査場を通りぬけて電子掲示板を見るとシアトル行きのフライトが遅延。14番搭乗口とある。

余裕で夕食を済ませて搭乗を待っていると、やはりいつもと様子が違う。

そもそもこれまで14番搭乗口と言う低番号へは行ったことがない。
しかもサウスウェストの特徴である30番ごとに列を作る搭乗用モニターがない。そこにはアラスカエアラインのサインがドーンとある。

きっと共同運行なのだろう、なんて考えていた。
遅延ゆえに乗り場もフライトも特別か?

念の為近くを通りかかったパイロットに聞いてみると
「ここはアラスカの乗り場」だと言い張る。

この時からパニックとなり、電子掲示板を覗き込んでみると、同じ7時台に二つのシアトル行きフライトがあったのだった!

サウスウエストは30番搭乗口。

搭乗開始が7時0分、離陸が7時30分。時に7時18分となっていた。
そこから猛ダッシュ。

「もしかすると間に合うかもしれない」

“間に合わなければ近所のホテルに一泊し、朝イチのフライトで帰ったとして午前中の礼拝時間に間に合うのか?”

“明日はシアトルのある日本人教会に呼ばれている。
もしフライトが間に合わないなら、ウーバーでこれからシアトルまで帰るか?料金は千ドルを超えるか?”

“レンタカーで帰れば安上がりだけど、13時間の走行時間以外に睡眠時間は数時間しか採れず、体調管理に自信が持てない。
こんなことで説教をキャンセルするわけには行かないしー”

こんなことが頭に通いながらとにかく走り続けた。

14番から30番への搭乗口は、ターミナルの最奥地から反対側の最奥地まで。ゆうに1キロはあったと思う。途中、息が切れてきた。

それでも走り続けた。数秒差で搭乗口ゲートが閉まってしまうこともある。

日頃ののジョギングやウォーキングはこの時のための準備だったんだ!
30番ゲートに着いてみると、まだ先頭の行列が待機していて搭乗が始まっていない。ここでも遅延となっていた。

助かった!

#旅行

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