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三重県大紀町錦に教会開拓が着手

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錦小学校校庭 錦小学校校庭 三重県大紀町錦に教会開拓が着手 川の向こうに現教会堂が見えます... 川の向こうに現教会堂が見えます。
開拓の際の旧教会堂はこの奥川の最上流位置に建てられていました。


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第29回目では、いよいよ三重県の大紀町錦で開拓伝道が着手されました。そこに至るには多くの困難があり、特に教団の理解を取り付けるのは難しかったようです。茨の出来事が続いたようですが、その中に美しい花が咲いていたと思い出すあたり、やはりドロシー先生は詩人であり、ロマンチストでした。













神様は成功を要求しておられないーただ従うことだけ



時に、まだコンウエイさんとはお話しする機会のないままでしたが、ベイデン教会の宣教主事の方に、私はこのように答えていました。

「成功するか失敗するかは問題では無いはずです」
たった一つの問うべきことは、「それは果たして、神様の御心かどうか」というものであるはずです。

聖書のどこにも、神様が私たちに成功を求めているところはありません。
神様はただ私たちに従うことを求めておられます。
コンウエイさんがその手紙の中で同じようなことをおっしゃっている事を知ったのは、ずっと後日になってからのことでした。

確かに、一つにまとめあげて下さるお方は、主なるお方のみです。
主は今も全てを統制しておられます。

私のファローは、新しい働き場に思いを巡らすことで喜びにあふれたものとなって行きました。すでに大江町に残されている私の荷物は、すべて荷造りが終わって新しい住所を待つのみとなっています。私は最後となる交友と歓送会のために、数日間大江町に戻りました。

今や足場が外される時です。それは外されてから捨て去られるのではなく、他の場所で再び組み立てられるのに用いられるのです。時々主は、私どもに二重の確信を与えてくだることがあります。

私は次の聖句を見つけて心が高鳴るようでした。
この箇所は、まさにその新しい任地を描き表しています。

"しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。
そこは、あなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目をとどめておられる地である。"
(申命記 11章11~12節)

生活や働きの場所となるべき家は、錦の町の中に既に確保されていました。
家具や大きめの荷物は、電車での郵送にて後日届けられる手はずです。

形が不揃いの物等は、シェルホン先生の運転するパプリカ・バンに載せられ、私らと共に錦入りしました。

その車を降りた時、魅了される新しい生活の始まりです。
働きの内容など、その後の計画は全て主の御手の中にあります。

99曲がりもある険しい錦峠を降り立ったとき、シェルホン先生の言われた言葉を決して忘れることができません。

「もしこのことが神様の御心でなかったとしたら、貴女の人生の中で最大の過ちを犯していることになりますね」

最初の日曜日は、17名の日曜学校の子供さんたち、そして八名の礼拝での出発となりました。
錦の子供たちさん方に日曜学校のことをが伝えられると、それはまるで会場は押し寄せる洪水で水浸しになったかのようでした。

私はまるっきし、「多くの子供さん達の脱いだ靴の中で生活している、どうしたら良いのか何も分からないおばちゃん」のようなものでした。

そこでやむなく私たちは日曜学校を二つに分け、二つの時間帯で持つことにしました。
その後、大人の礼拝式、そして午後には若い方々がそのまま一日中教会に滞在されたのです。




マジックショーやビデオなどは必要なく




日曜日となると、朝食をとっている間も無くなりました。

子供たちは早朝からやって来ると、彼らのカバンを座席に置いて指定席を作り、それから日曜学校の始まる時間まで、外で遊び出すのです。

休日は子供たちのもので私のものではありません。
その休日に、どんな活動をしたかですかって?
マジックショーやビデオなんてものは、からっきし必要ではなかったのです。

日曜学校では、「子供のためのキリスト」と言う小さな本をテキストに使いました。
暗唱聖句のためには、私たちは小さな紙製の魚を作りました。
子供さん方は片面に色を塗りつけ、他の面に聖句を書きます。

あんなにバラエティに富んだ色の魚を、それまで私は見た事がありません。
しかしそんな魚が実際にいるか、いないかなんて問題ではないのでした。
彼らはそれをとっても気に入ってしまいました。

最初の年のクリスマスは、大したものとなりました。
天候には恵まれていましたので、私どもは野外のベランダをステージに使いました。
室内では85人の子供さん達であふれて、まさに寿司詰め状態となっていたものですから。

その準備は10月から始まっていました。
錦中学校の女生徒たちが良いアイデアを出し合ってくれました。

手作りの学芸会は見事なものでした。
女生徒に一人、芸術センスの富んだ子がいたのに感謝しています。

子供たちの合唱隊のためには額に結んだバンドを作り、ラクダと星を演じました。
人形劇は長い箸を使って作られました。
各色のセロファンでフラッシュカードを作り、あらかじめ録音されたクリスマス物語が語られて劇は進められて行きました。

おやつにはホームメイドのクッキーです。
こうして当初から自給での働きが進められて行きました。



改築された養鶏ハウス



一年も経ずに、私たちは借家を手放さねばならなくなりました。
時に、大きめの養鶏ハウスが隣の敷地に空いていました。

教団理事会からは、そのハウス内の枠組みに住まいとなるスペースの建築は許可するが、当分の間はチャペルなしで働きを続ける様にとのお達しがありました。

しかし、建築業者はその様には決断しなかったのです。
彼は地元の長野県からすべての建築材を運び入れて、錆びついた古い鉄骨の骨組みを全て取り去った上で、残されたセメント基礎の上に新しく建物を立ち上げたのです。

しかもその工法の方が資金も、時間も予定より少なくて済んだのでした。
しかしこのことが、川崎では嵐を巻き起こすことになってしまったようです。

特に理事の一人が強く反対しているとの事です。
シェルホン先生から電話が入り、この問題のために錦まで運転して来ると伝えて来られました。
私は、その最も反対している理事も一緒に連れてきてください、とお願いすると、彼はその計画であると言います。

私はその時、裏切られた気持ちになったのです。
その猛反対している若い青年とは、彼の神学校教育のために私がサポートしたことのある人物だったからです。
ほとんど一晩中、彼は私を叱りつけるようにして説教してくれました。

私が不従順行為の故に断罪される恐れがある、と再度告げられました。
それはまるで軍隊の中の世界のように私には聞こえるのです。

私は教団機関紙の「良き道」に今回の会堂建設の事について説明することは認められていましたが、どんな経済的支援も求めませんでした。

ある方々は、「経済的支援を求めないでどこから資金がやってくると言うのですか」と心配してくれました。しかし匿名で献金してくださった何人もの方々がいらっしゃいました。
今日まで私はそれが誰であるのかを知りませんので、その方々に感謝を申し上げようもありません。

私たちの主に対する支援要請には、実に効果がありました。
山形から一人の方が手伝いに来てくださったのです。

何もかも慌ただしく、準備する時間はほとんどありませんでした。
その年の一月の下旬になってから、急遽私たちは四月前までには今住んでいる場所を明け渡さねばならないことを告げられました。

建築業者は建設のための見積書を見せてくれています。
その建築業者が到着するまでに、全費用の半額が備えられるように、と私たちは祈りました。
私たちは真剣に、そのことが実現するようにと熱心に祈り続けました。

「どうして全額与えられるようにと祈らなかったんですか」なんてお尋ねにならないでください。その時は、ただ私たちは互いにそのように祈ったのであり、そしてその半額はついに満たされる事となったのです。

ある年老いたご婦人は、ご自分の毎月の貧弱な年金の中からサポートを送り続けてくださいました。そして錦に会堂が建てられるまでは、ご自身の命を支えてください、と熱心に主にお祈りされていたのです。

トゲの中には、美しいバラの花が咲いているのを私たちは喜ぶべきではないでしょうか。





#ドロシー師

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神の導きを求めて

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紀伊半島の伊勢湾側を南下して錦... 紀伊半島の伊勢湾側を南下して錦へと向かいます 紀伊長島と伊勢湾 紀伊長島と伊勢湾 錦町 錦町




日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第28回目は、山形からファロー(帰国報告)を区切りとして新しい任地へ導かれて行く第三部へと入ります。




第三部


山形県からファロー(帰国宣教報告)へ


いよいよ転任するための準備の時がやって来ました。

山形を去るにあたり、私の全ての義務を果たすためにあらゆる集会に参加し、ふさわしい証しを立て、約束を果たし、あらゆる委ねられた仕事はおろそかにはしませんでした。

そして福沢牧師ご夫妻には、私が米国ファローから帰って来て直後には転任することをお話ししました。 まだどこに行くか、はっきりとはわからなかったのですが、すべての持ち物を荷造りして引越しの準備を終えたのです。


“Missionary Barrel”の誕生


すべての混乱した最中にありながら、私はファローで使うための自伝を書くようにと要求されました。
「Missionary Barrel (宣教師の樽)」は、11年間ほどの日本宣教経験からの賜物です。

大著というものからは程遠いものではありましたが、それでもこれを完成するには多大な時間とエネルギー、感情と涙、それに笑いが伴ったものです。
セントルイスでこれを校正し出版するのにも、また努力と資金とを必要としました。



力強い宣教師のヘルパー 〜智子さん



ファローのために作戦を練ったり計画を立てているときに、宮宿の一人の女性を思い出しました。智子さんです。彼女は、「次に米国に帰るときには、私を連れてってください」と言っていました。私はその時、よく考えもしないまま同意していました。

それは厳密に約束と言えるほどのものではなかったのですが、そのことを思い出したものでしたから、彼女に話して見ました。彼女は大変喜んでくれました。

主は細かいところにまで働いてくださり、とにかく私たちは共に機内へと搭乗することができたのでした。ファローの6カ月間は実に忙しかったですが、喜びに溢れた期間でした。
彼女の創価学会からクリスチャンへと改心した証しは、私が話しをしたり、何かをしたりするどんなことにも勝って会衆には意味あるものと見えました。

短い家族等との滞在を終えてから、私たちはセントルイスへと向かいました。
そこからイリノイ州クインシーでの青年キャンプにも出かけました。

若い青年らは彼女のことが気に入り、彼女は英語が流暢と言うわけではなかったのですが、徐々にコミニケーションを取れるようになると、間もなく多くの友人を作るようになりました。

私は日本宣教の様子をお話して、若い方々にアピールしました。
彼女は日本文化について話をし、折り紙なども教えたりしたのです。

私たちはそのような教会での活動の間を縫うようにしてですが、地元の中学校へ招かれて算盤を教えたりもしました。

彼女にはまた、ベビーシッターとしての賜物もあったようです。
私の姪と最初の赤子であるCarolはアイオワ州住んでいました。
姪の夫は海軍にいて、その時は海外赴任中でした。

智子さんには霊的な養いが必要なようにも見えましたので、数日間のキャンプにもお連れしました。そんな時、智子さんは小さなCarolと一緒にいるのがお得意です。
彼女の話す日本語は、なんだかその赤子にはよく理解できているようなのです。彼ら二人はとても仲の良いコンビとなりました。

智子さんは図書の販売をしたり、またスライドやカバン等の荷物を良く管理してくれました。
彼女はどんな仕事にも間に合う女性です。

またお話も上手で、常に旅行の同伴者を楽しませてくれます。
日本へ帰った後、彼女は米国での経験を日本語の機関紙「よき道」にシリーズで執筆したりもしました。



明白な導き



ミシシッピー州でのキャンプミーティングの間、私は将来の働きについて明白な導きをいただいたように思いました。

"このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。
こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」"
(ローマ人への手紙 15章20~21節)

"しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、"
(ローマ人への手紙 15章23節)

もちろんこれらの聖句の中には「錦」の言葉は見当たりませんが、私には明白でした。
私の心にある願いと、この聖句とを、教団の指導部にお知らせする事にしました。
そして祈りながら彼らからの返答を待ったのです。



「扉」は開かれているようでした。
私は繰り返して招かれました。それを一年間の祈りを経て主が与えて下さった「ゴー」サインと受け取ったのです。しかし、すべての指導部の方々には同じようには感じていない事も明らかとなりました。

確かに錦町は小さい漁師の町で、周りを山々に囲まれています。
交通機関は乏しく、高校はなく、野心ある若い方々のための働き場所もありません。

自給教会を育てるにはチャンスの乏しい条件が揃っています。
それでも私が手紙を発送した後、今や肯定的な返事が来るとばかり、勝手な期待をしていました。

ところが、現実はそうでないのでした。
シェルホン先生のご家族をオハイオ州に訪問している間、錦転任に関する指導部の率直なご意見が私に届けられて来きたのです。


#ドロシー師

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大江町で会堂建設が始まりました

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山形県大江町の街並みです 「日... 山形県大江町の街並みです
「日本一公園」と名付けられている見晴台から
大江町で会堂建設が始まりました 大江町で会堂建設が始まりました



日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第28回目は、長く借家住まいだった大江町での働きのために会堂建設が始まったことについてです。




会堂建設


ついに大いなる日がやって来ました。
それは1968年9月23日、定礎式において会堂の礎が据えられたのです。
その後は、建設工事が勢いよく始まりました。

クリスチャン会社である高田建設さんが、その家族と甥っ子さんまで動員して早朝から遅くまで働いてくれました。時に牧師夫人は妊娠されていらっしゃいましたので、ほとんどの家事や食事準備が私の責任となりました。

10人の家族と時にはそれ以上、一日に三回の食事をほとんど三カ月間、作りました。
それは忘れられない経験です。

会堂建設とは資金以上のものが要求されることも、新たに知りました。
私に出来ることがあれば、どんなことでもお手伝いしよう、と決意しました。
私があてがわれた仕事は、防腐剤のクレオソート油を床下の骨組みに塗布することでした。
そのきつい匂いは、私の皮膚や衣服にも染み込んできます。他には配管の対冬対策として、凍結から守るために断熱材をそれに巻きつけるという仕事もありました。

私はいつも不思議に思うのですが、どうして多くの大工さん達は気まぐれで起こりっぽいのでしょうか。私たちは誰もがプロではないわけなのに、一日に一回ほど作業手順の説明を頂くだけなのです。

大工さんの奥様は優しく忍耐深い方でして、傷ついた私の心を癒してくれました。
食事時間は 、外人のために用意された“仕事”セッションと成り果てます。
それはつまり、私の仕事ぶりを酷評してくださる時なのです。

彼らはこの国に希望と救いのメッセージを届けたのが外国人であることをすっかり忘れてしまったようです。私は偏見を持たれたまま、たいそう叩かれたり馬鹿にされましたので、もはやバイブルスタディや祈祷会を指導することは出来ないと思ったほどです。もう二度とできない!としばしば思いました。

会堂の献堂式は12月15日でした。私たちは新しい会堂でクリスマスを迎えたのです。
多くの喜びがあり、私たちは痛みを忘れました。
神様の道は私たちのそれよりも高く、神様のお考えとご計画は私たちのそれらよりも優れたものです。

私が山形に引っ越して来た時、死が訪れて来るまでここでいつまでも働いて生活したいと思いました。しかし神様は異なる計画をお持ちのようなのです。

シェルホン先生はこの頃、帰国報告を計画され準備されていらっしゃる時でもありました。
彼らが不在の間、私は毎月川崎へ行って宣教師の会計報告作業をし、また理事会にも出席することになりました。それは大変忙しい週末となります。

金曜の夜、夜行列車で夜を徹しながら川崎まで出かけます。
土曜日には松矢兄とともに会計報告書を作成します。
日曜の朝には川崎キリスト教会の礼拝に出席し、その午後は理事会に出席。
そしてその日曜夜には南部キリスト教会の伝道集会で寝落ちしないようにと激しく戦うのでした。

ある生徒さんが英語漬けの特別コースを求めてきたのですが、こんな時期にそれは相応しくないように感じました。彼から求められた時、今はできないことを説明しました。

しかし私の心には静まらない内なる声が聞こえて来るのです。
ついに彼の申し出を受けることにしました。



内なる声と開かれたドア



ある寒い朝、中世古さんとその息子さんが左沢にやってくるまで、私は彼ら家族についても三重県についても何も知りませんでした。神様が新しい働きの場を開いていて下さっているとは気がつかなかったのです。

息子の中世古陽四郎さんは、英語を熱心に勉強されるだけでなく、教会の様々な集会にも出席されました。彼の心にはすでに主からの語りかけがあり、三重県に帰る最後の日曜日となった晩、彼はその心を主に明け渡したのです。

彼は自分の郷里の町にも教会が建てられるのを望み、それが実現するようにと熱心に祈り始めました。その間、彼は松阪にあるバプテスト教会に出席していました。

「マケドニアに渡ってきて、私たちを助けてください」(使徒16章9節)との呼びかけと招きとが、私にも届けられていると感じ始めていました。

でもその段階では、私にはまだ神様が承諾してくださったと言う確信が必要でした。
約二年間ほど、私たちは祈り続けたのです。

日本に来る前、私はすでに年老いた父親と私の家族とを神様の御手にお委ねしてきました。
私よりも神様ご自身の方が、父のことをより良くケアしてくださる事は間違いありません。
物事が順調に進む時なら、そのように考えても、



愛のテスト



時に私の父の健康状態は保たれていました。
彼は左沢訪問を計画していましたので、私は本当に喜び、彼が来てくれるのを心待ちにしていたのです。

私どもの世界が崩れたのは突然の事でした。
土曜日の夜、遅くなった祈祷会にて、私の讃美歌集の上に一枚のメモが乗せられました。
それは電話局からの電報文でして、父が現在危篤状態で入院しているとの知らせだったのです。

イエス・キリストはかつてペテロにしたように、私にも語りかけられました。
「あなたはこの人たち以上に私を愛しますか」

父親以上に?
家族以上に?

私は、「神様、私があなたのことを最初にし、そして最も愛することができるように助けて下さい」と祈る他できなかったのです。
それは詳しい病状の知らせが届けられる一週間前の事でしたが、私には確信があり、神様のお言葉が私を支え続けました。私の心は平安を保つことができたのです。


シェルホン先生ご夫妻が米国に帰国報告中の現在、すべての仕事を放棄して米国に急ぐ帰るだなんていうことは考えも寄らない事でした。父には優秀な外科医が付いていて、適切なケアの下にいるはずです。

しかし関係者の中には、この時に帰宅しないことがどんなに残酷で冷たい仕打ちであるかと考える方々もいて、彼らは私の知らない間に私の帰国を企画した上、その予定をセントルイスの教会に書き送ったりしていたのです。

セントルイスの教会の責任者からは私に厳しいお叱りの文書が届いて、こんな風に言ってきました。
「お望みならば帰国して来なさい。しかしその時は、その帰国が最後の旅となり、あなたの宣教師としての働きは終了してもらわねばなりません」



完全に献身するということの意味



この試練の期間、私は一つの東北の教会を訪問しました。
その教会の牧師は、私の父の病についてはなんら知らなかったのですが、彼のメッセージは私のためのものでした。それは完全な献身についての説教でした。

さて、父の回復はとても早く、まもなく、翌年には日本に私を訪ねる事を計画できるまでになりました。

その頃は新しく教会も生み出されて様々な行事も多くなり、また牧師家庭も増えて行きました。
特別な伝道集会の時や多くの訪問客がある期間、私は主にキッチンでの仕事を言いつけられました。

私はそのことに大変疲れを感じるようになっていたのです。
新年の特別集会を直前に控えていた時、大変重たい仕事を充てがわれた私は悪い夢を見たものです。

その夢の中で、私は逃げ出してしまいました。
どこに逃げたのかは分かりません。
しかし感謝なことに、現実の世界で私にはたくさんの仕事があってそのことに精一杯だったため、実際には逃げずに乗り越えることができました。

私はオルガンを教えるようにとお願いされ、小さな幼児のお子さん達数名がやってきました。
私は正直にそのお母様方に、音楽教師としてのライセンスは持っていないことをお話ししました。

でもそれは必要ないと言うのです。そのグループは楽しいものとなりました。
そのお母様方のためにミニコンサートも開いたりしました。

私は福音のために英語も教えました。再度記しますが、私は英語教師としてのライセンスもまた持っていません。
神様がせよ、と命じられる。それだけで充分です。








足場を外す時



主は私たちに幾人かの素晴らしい若い人たちを与えてくださって、彼らは休日にやって来られては山間部でのトラクト配布に参加してくれることもありました。

教会の働きの様々な面で成長があり、変化もありました。

ハドソンテイラーはかつて、宣教師は足場であると教えています。
建物を建て上げるためにのみ必要とされる、という意味です。

それらの足場が解体された後は、再びどこででも使ってもらうのです。
大江町での“足場”は、時とともに徐々に必要とされなくなって行きました。

1971年にベイデン教会は、私が翌年5月か6月にはファローのために帰国せねばならないこと、そのための準備を始めるようにと伝えて来ました。

「神様はご自身の足を海の上に置き、嵐の波の上を進まれる」

その年の7月と8月は、まさにそのような試練の嵐が吹き荒れた月々でした。
それはおそらく新しい働き場へと私を準備させるためのものとなったようです。

10月には私にとって大変喜ばしいサプライズがありました。
陽四郎さんが来て下さったのです。
試験と特別トレーニングとを終了した彼は、1972年2月に米国に行くことになっていました。
私たちが米国で共に同行できると言う事は、単なる偶然でないことと感じました。

このことは、私がこの大江町の地を去っても良いとの促しようにも思えたのです。

私は大江町左沢を愛しています。
私にはそこに多くの親愛なる友人たちがいたのです。
そこを去ると考えただけでも、痛みとなりました。







#ドロシー師

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雪に閉ざされる冬季の山形

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山形の田園風景 山形の田園風景 大江町の町並み 大江町の町並み


日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


その第27回目は、小野寺先生とともに、山形での宣教に悪戦苦闘しながらも喜びの日々を過ごされていた様子です。







ライトバンのゴスペルワゴン車




神様は恵み深くも、私たちに田舎伝道のためにとライトバンを備えてくださいました。
この車は私たちの時間やエネルギー、それと出費まで節約してくれました。

村々はそれぞれが遠く離れていて、田舎の家々はあちこちに広がっています。
五月から冬の季節の始まる前まで、私たちにとり大変良い移動手段となりました。

冬季には、より安全な移動手段を選ばねばなりません。
あれは忘れられないある夜のこと、大変な積雪がありました。

山間部での夕方の集会の間にかなりの積雪となったのです。
その宮宿からの帰り道にある長い上り坂は、小野寺先生の熱心な祈りをもってしても登りきることはできませんでした。

やむなく私たちはふもとまで戻って、チェーンをタイヤに履かせたこともあります。

バスを利用した方が安全なのでは、とお考えになるなら、それは間違いです。
左沢に戻るある早朝の事でした。私は周囲の全てが白銀となった世界の美しさに見とれていたのですが、突然バスが道路を外れたのです。

止まったときにはバスのタイヤは側溝に落ち、車の他の箇所は田んぼのぬかるみに完全にはまっていました。私は傾いた側に座っていましたので大変な恐怖だったのですが、バスは転覆からは何とか免れていた状態でした。



コンウエイ牧師の訪問


コンウエイ牧師とそのご婦人とが日本においでくださったのは1966年の八月と九月でした。
彼らは左沢にも来て下さり、私たち皆にとってその数日間は特別な時となりました。

彼は私どもの様々な集会でお話をしてくださり、私が通訳をしました。
それでも彼のメッセージを充分には伝えられていないのではないか、と感じたのです。

そこで日曜午前の礼拝メッセージは、もう少し易しいものにしてくれるようにとお願いしました。彼は会衆に肉を食べてもらいたいと望んでいたのですが、私にできることはミルク程度のものを与えるだけだったのです。

しかしながら、それは忘れられないメッセージとなりました。
主はご自身の子供たちに十分な備えがあることを彼を通して語り、彼を証人として用いられたのです。その日曜朝の集会は、涙と喜びとで溢れました。
彼らの滞在は短かいものでしたが、私たちにとって大きな祝福と励ましになりました。

ところで、私はただ奇跡によって生かされている人間です。
コンウエイさんたちが私たちとともに滞在している間、急に寒くなったため、私の部屋を使っている彼らのためにガスストーブを急いで設置したのです。

11月までにそのストーブは元の場所から動かされていたのですが、少しも気づかれることなくコネクションが緩んで外れてしまっていたのです。
私は普段、ぐっすりと眠れる方なのですが、その日だけは何故か眠れずに起きていました。

その部屋はやがてガスが充満して行ったのです。
電灯をつけることなく、私はすべての窓を開け放ち、ガスの元栓を閉めました。

それでようやく眠りに落ちたのです。
起床してから、ホースがストーブから抜け落ちていたのを見つけました。

確かにその前の晩、私を起こしていたのは主ご自身だったのです。
主はまどろむことも眠ることもありません。
「私たちは自分たちの働きを終えるまで死ぬ事は無い」
と言う言葉の確かさを私に再度確信させてくれた事件でした。

詩編91篇の御言葉は、私にとってもはや現実です。
それは、主がご自身の御使いに命じて、私たちを守って下さっているという御言葉です。

小野寺先生は休暇を取って北海道にいるご家族を訪問しに行かれました。
彼女が帰って来ると、北国のあまりの美しい自然の様子を興奮しながらお話ししてくださるものですから、私たちは共にそこを見学しに行こうと決めました。これから二年後ぐらいになるでしょうねー、なんて話していました。

それから数年が過ぎて、私の弟とその奥さんが日本に来られた時、その私たちの北海道を観光する夢が、一緒になって実現しました。



クリスマス節季



"「主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、
主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」"
(サムエル記 第一 14章6節」

主はヨナタンと彼の盾持ちを通して偉大なる勝利をもたらされました。
主はクリスマス節季の特別集会を目前にしている私たちにどんなことをしてくださるでしょうか。

私たちは、人としての働きの全てを否定するべきでしょうか。
全てを主にお任せして?
神様だけにご栄光を独り占めさせるような、怠惰な人間の働きに主は反対されるに違いありません。

クリスマスの当日、目が覚めるとそこは「ホワイトクリスマス」となっていました。
神様は私たちをがっかりさせなさいませんでした。私たちの小さな家は、礼拝のための人々で溢れ、午後のフェローシップも人でいっぱいとなりました。

午後2時30分から午後9時30分ごろまで証しと賛美とが続いて、私たちの家は喜びの若い人々の声が響き続けたのです。
この日の事は決して忘れられません。

その年は素晴らしい年となりました。
淵深い水や熱い炉のような試練があったことは確かです。

しかしその水が深すぎたり、炉が熱すぎたりではなかったのです。
重荷は祝福へと変えられました。キリストを通して私たちは勝利者以上の勝利者とされました。

寒河江市の公民館では、私は一年間ほど毎週月曜日の朝7時から9時まで英語を教えて来ました。それは私たちの生活の必要を満たすために祈った答えでもあったのです。
また主を証する機会でもあり、そこから導かれて信仰に至った方々もおられます。



「主のために労した働きは、無駄とはならない」


確かに私たちの人生には、自分たちが説明できないような暗くて悲しい出来事が起こるものです。

私の生徒の中の一人に、将来を嘱望された賜物豊かな若い男性がいました。
ある時、彼はとても確固とした信仰の告白をしました。彼のその証しには真実の響きがありました。

大学卒業間近となったとき、私を左沢まで訪ねに来てくれました。
外資系の貿易会社で働く内定も、その時既に得ていたのです。

流暢な英語力ゆえに、外人の要人をもてなすこともしばしば任されていました。
しかしながら、以前バイブルクラスに出席していた生徒の一人が、彼と同じ会社勤めの内定を得たと知った時、だいぶがっかりしたようなのです。

彼が行方不明になったとの電報を受けたときは、大変なショックでした。
それから二週間以上も経って、彼は私たちが以前、共にハイキングをした山の中で死体となって発見されました。それは6月5日、側には彼の遺書と空の睡眠薬のビンとが、ともに置かれていました。


#ドロシー師

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「伝道者ピリポ」

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横浜みなとみらいの夜景 横浜みなとみらいの夜景
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「伝道者ピリポ」


使徒8章26-40節


"さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。
するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
彼が読んでいた聖書の箇所には、こうあった。「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない。
彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。彼の時代のことを、だれが語れるだろう。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。
道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」"

"そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。
それからピリポはアゾトに現れた。そして、すべての町を通って福音を宣べ伝え、カイサリアに行った。"


⑴聖霊との共同作業の出来る人


①耳を済まし心を覚まして小さな声を聴こう
「主の使いが、、、こう言った」(26)
「御霊、、、言われた」(29)

②サマリヤでの働きの最中
それは成功や喜びを放り出すこととなる
荒野のガザに下る道まで行って見なければ次の展開は開けてこない


⑵聖書に通暁した人


①「この聖句から始めて、、」(35)
どの聖句を取り上げても説明ができるだけの聖書全体の知識を持ち合わせていた

②「イエスのことを、、、」
旧約聖書を含めて聖書全巻は主イエスを中心とする理解と解釈とに至らなくてはならない。
主イエスが最後で最大の啓示者であるから(ヘブル1:1-2)


⑶謙遜な人


自らの役割を理解しそれに徹することができた人。
サマリアの町のリバイバルの導火線はピリポ自身の活躍に寄ったが、聖霊が降り教会が誕生するには使徒達がエルサレムから来るのを待たねばならなかった(16-17)。

任地や仕事形態に固執しなかった人。
サマリヤ、ガザ、アゾト、カイザリヤへと聖霊に導かれるままに、また自らの理性を用いて仕事を進めていった。


(結論)
神のために用いられる伝道者の資質は当時も今も変わりがない。聖書に通じ聖霊様の声に耳を傾ける人であり、その特徴として謙遜の実を結んでいる人である。
#メッセージ

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消費税は日本に必要ありません

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消費税は日本に必要ありません


「そんな菊池氏によれば、そもそも消費税による税収は私たち一般国民の生活のためになどほとんど使われてこなかったという」

高齢化社会を迎え社会保障費が嵩張っているんだから、消費増税はやむを得ないとか言うレトリックにごまかされてはなりません。
これまでの消費税収入分は法人税収入の減額で埋め合わせてきたのです。

社会保障費を充実させるためには消費税を撤廃して景気を回復し、歳入全体の底上げをすることです。

詳しくはこちらのリンクからどうぞ。
( Facebookアカウント保持者のみですが)

https://www.facebook.com/100002722005370/posts/1934275550006493?s=100002722005370&sfns=mo
#社会

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激流を克服して

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激流を克服して


ブラボー!
7年前の本日、東北にある渓流でのひとこま。
市に要請していたある検査が2度目の挑戦でパスしたと先ほど連絡を受けて、私は今こんな気分。
激流を乗り越えるスリルと達成したときの爽快感。

Bravo!
This photo was taken seven years ago today at a gorge in Tōhoku area Japan.
I’m feeling now exact same way with the thrilled and stress by an inspection of my local city, got heard now that was accepted after second trial. What a big relief.
#家庭

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病を押して帰国を決意

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旧会堂での元旦礼拝 旧会堂での元旦礼拝 着物までこうして見事に似合って... 着物までこうして見事に似合ってしまうんですから、やはり日本への宣教師として生まれついたのでしょう






日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第26回目は、日本に帰ったならば55歳頃には車椅子生活になるとの宣告を受けながらも帰国を決意し、宣教師としての召しを全うしようとの決意に至った箇所です。まさに宣教師の鏡ですね。





不滅の働き


予定されていた私の12月の集会はキャンセルとなり、カルフォルニアに住む私の家族のもとに帰宅する準備をしました。

カリフォルニアまでの道すがら、私にはいくつか立ち寄るところがありました。
オクラホマにいる友人達とコロラドに住む親戚たちに日本での様子をお分かちしなくてはならないと考えました。

五年間の不在後、家族とともにクリスマスを過ごした今回は特別なものでした。
クリスマス休暇が終わってから、私はホロウェルさんのところへ訪ねに行きました。

彼女の信仰はしっかりしたものでして、最も困難と思える状況にあっても彼女は忠実な働きを何年間も続けていたのです。私は医師の診断を彼女に打ち明け 、それでも私が日本に帰国する決意は変わらないこと、またたといその期間は短くなったとしても最後の歳月は宣教地で過ごすことにしている事などを伝えました。

彼女はしっかりとした確信に満ちた姿勢で私に言ってくれました。
「主は病気の宣教師を必要とはなさいません。明日この件についてご一緒に主の御旨を訪ねてみることにしましょうよ」
そして忘れることのない月曜日の朝がやってきました。



「働きが終了するまでは私たちは不滅です」



朝日の光線が私の部屋に押し寄せてきたとき、この有名な言葉が私の心の中に入ってきました。

"ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。
神のさばきはなんと知り尽くしがたく、
神の道はなんと極めがたいことでしょう。"
(ローマ人への手紙 11章33節)


ホロウェルさんには熱心な祈りと神様の癒しに対する確信があり、ついには彼女は手を叩きながら、主への賛美と喜びを表してくれました。
私はその時、なんらセンセーショナルなものを感ることは無かったのでしたが、まもなく日に日に私の健康は回復していったのに気付くようになるのでした。



40年間の良い働き



私の不在の間、日本においては全てのことがかなり早く進んでいるように見えました。

石川県津幡には教会堂が建ち上りました。山形県酒田の四住居あるアパートメント建物は改築されてチャペルに、それだけではなく分級室そして牧師館にも生まれ変わり、その他にもいろいろな部屋がありました。

私が神様の私に対する御旨がどこにあるのかと考える機会の与えられる前に、すでに私の全ての荷物を酒田に送ろう、との話がなされていたのです。

ちょっと待ってください。
ただ部屋数が多いからと言うだけで、神様が私に備えた場所とは限らないでしょう。
確かに空気が綺麗な場所を、私の働き場として選ぶ必要はありました。

私は忙しくしていてほとんど休む間もなかったのですが、私の健康状態は回復しつつあり、驚い
たことに、ついにマーテンセン医師は私の体が完全であると宣言してくれたのでした。

これで日本に帰国後も、40年間は働くことが出来そうです。
完璧な健康診断書と神様への賛美に溢れながら、私にはたったひとつの願いがありました。

日本においては神様のためにだけ時間を過ごし、すべての時間を神様に使っていただきたい、との願いです。



日本に帰国して田舎伝道



しばしば苦い盃から甘い経験が出て来ること


小出先生は元気を失い、大江町での働きを続けられなくなりました。
代わって小野寺先生が、その働きを続けるために遣わされました。

この転任を私に知らせるお手紙をいただいてから、それにお答えする十分な時間はありませんでした。私は心の中では神様の御心が何であるかを確信しており、それはその地域で彼女と共に働くというものでした。

シェルホン先生は彼女のところまで行き、彼女のその気持ちを確かめられました。
彼女はこれに賛同してくれていると知った時、私の心は躍り上がるばかりでした。

その時、私はこの御言葉の意味を知ることが出来たのです。

"イエスは彼に答えられた。
「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」"
(ヨハネの福音書 13章7節)

日本に帰国する以前から、私の心の願いは、誰も顧みないような場所、そんな田舎で働きたいというものだったのです。

後に小出先生は脳卒中で倒れられて、彼の献身的な奥様と子供たちによるケアが常時必要な障害を負ってしまうのでした。

ずっと後日となって現在の大江町教会が新会堂を完成させた時、彼は特別仕様の障害者用バンに乗って大江町にまで再び来ることとなりました。

それは2000年11月11日、麗しく完成された新しい教会堂の献堂式の時であり、大江町教会の開拓者として喜びを分かち合ってくださいました。小出先生はお体に障害をもたれたかもしれませんが、そのスピリットおいてはそうではありません。燃える心を持って福音を語ることに情熱を燃やされているのは、当時も今も変わりはありません。

同時にその日は奇しくも、私の85歳の誕生日と重なりました。
大江町教会は私のために特大のバースデーケーキを用意され、ハッピー・バースデイを皆で合唱してくれたサプライズなりました。

このような小さな者が大江町教会の開拓時に関わらせていただいた事だけで光栄ですのに、そのことを教会の皆さんが覚えていて下さったとは、なんと喜ばしいことでしょう。

かつて私どもの関係者である一女性によって思い起こされた事ですが、私たち皆で小さなアパートに住んでいた時、小野寺先生が私と共に働くことの可能性について話されたことがありました。

それは多分、本気で考えてのことではなかったでしょうが、まさに実現を見たのですから予言的なものであったと言えます。

大江町左沢に引っ越して後に、小野寺先生と私が立て続けに刈り取った実は、神様が小出先生のためにと備えられたものであったはずなのだ、としばしば感じました。

彼が据えた働きの場所を全て維持することは、生優しいものではありませんでした。
宮宿、谷地、そして寒河江市での家庭集会など多岐に渡っていたのです。

困難な働きの現実を前に、何人かの牧師たちは、神様は山形を忘れられたのだ、なんて言う人もいましたが、決してそんな事があるはずはありません。



神に選ばれし山形県人



谷地からは幾人も、その生涯を神様に捧げる働き人らが起こされました。
メキシコ宣教師となられた阿部和子先生、酒田キリスト教会牧師の高橋富三先生です。
そして宮宿からは、横浜港南キリスト教会牧師夫人の石川紀和子先生、そして左沢から松阪キリスト教会を開拓し、牧師の渡辺貞雄先生などです。(牧師任命の教会名は2000年当時のものです)

1965年10月に私は左沢に引っ越して来ました。
一週間はいっぱいいっぱいのスケジュールで、ときには日曜日だけでも五回もの集会があったものです。

一日中人々は出入りしていました。さらに定期集会を宮宿、谷地、寒河江市に設けていました。生徒さんたちのグループは人数も成長していました。日曜学校が特に伸びていたのですが、そこには双子のグループが二組も三組もいたりしました。

小野寺先生のご性格は私とはまるで違うものでした。
それはまるで昼と夜の違いです。私は早起きが得意な一方で彼女は夜型です。

彼女はどこかに出かける直前まで準備もしないままダラダラしているのですが、私は全て準備を終えてからゆっくりとしたいタイプなのです。

都会にあっては、バスでも電車でも数分後に次の便がありますが、左沢線の終着駅の町ではそのようにはいきません。

しかしながら主の働きにあたっては、私たちの心はまるで一つにされていました。
私たち二人にとって、生きるための目的はたった一つのものだからです。
私たち互いの性格の違いが、その働きの妨げとなるようなことはなかったのです。

ときに私たちは忙しい余り霊的な調子を崩してしまって、お互いにギスギスとすることもありました。そんな時こそ主が私たちを互いに向き合わせて、互いの心を溶かし繋げて下さったのでした。

異動に伴う私の立場は変わったものの、いくつかの私の義務には変更はありません。
ミッショナリーチャレンジャーの原稿や宣教師レポート、また会計報告の仕事などのため私はかなりの時間を川崎で過ごさねばなりませんでした。

米国から来られたパイプさんと言う方は、優れた説教者で、チャーチオブゴッド教会の間ではよく知られた伝道者でした。そればかりでなく、彼は自ら建設会社を所有する成功したビジネスマンでもありました。

彼は大変広い心をお持ちの人です。
彼は私どもの働きを経済的に支援したり、自らの手を使って直接会堂建設に携わってくれたりもしました。

その建設仕事のために1966年一月に川崎に到着されてから六カ月間も滞在されたのです。
会堂のあちこちが新しくなり、こちらの牧師たちも、建築修繕作業についての多くを実践作業から学び取ることとなりました。

当所一階建てだった川崎教会が二階建ての会堂に変身を遂げたのも、彼によるものです。
#ドロシー師

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山本太郎氏とれいわ新選組

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山本太郎氏とれいわ新選組 山本太郎氏とれいわ新選組



日本ではちょっとした、れいわ新選組ブームが起こっているようにお見受けしますが、ある牧師が山本太郎さんとその政党を支持する旨の投稿をFacebookにしました。すると仲良くされていらっしゃる別の友人牧師が太郎氏自身の資質、れいわ新選組の経済政策が日本を破壊するとんでもないものであることを指摘された上に、牧師がある1つの政党を支持表明するのは敵を作ることにつながるのでどんなものか、との問題提起をされました。

既に新選組と太郎さんを支持発信している私にとっても無関係では無いので、お二人の論戦に飛び入り参戦した次第です。
論戦といっても二人は互いの考えをリスペクトしながら議論を続けられていて、見事と感心しました。

許可を得ておりませんのでお二人の論戦自体は控えざるをえませんが、私が参戦した文言をここに紹介します。

これを見て私が必ずしも太郎氏が掲げている全ての政策にぞっこんではなく、「現段階での支持」に過ぎないことを深くご理解いただければと思いました。





(いかが参戦した文章)


N先生T先生、横から入り込んで失礼します。
お二人の対談はそれぞれが筋が通ってる上に冷静さを保ち、SNS上で議論をする際の模範となるものだといえます。

T先生がれいわ新選組をご懸念されている点は私も全く同様です。日本の地方によっては倍以上にもなる急激な最低賃金の引き上げが雇用流出につながり韓国のようにさらに経済の混乱をもたらすと思います。経済政策ばかりでなく私は外交・防衛政策にも大きな疑問を感じています。と言うより中国寄りのその姿勢は選択肢としてありえず、もし彼が政権を取ったならば大反対するでしょう。
私個人がれいわ新選組の提示した政策に賛同できるのは消費税廃止と大学奨学金の大幅な見直し、社会的な「とんでも法案」の改正くらいです。それではどうして賛同表明しているかと言うと、未だ政権担当能力がないからに他なりません。たとい候補者全員の10人が当選したとしても、まだ野党の一部弱小勢力にしか過ぎないので安心しているのです。
れいわの躍進を通じて、現政権の消費税増税に強烈なNOを国民の意思として突きつけることができます。
この点、N先生も同様のお考えで賛同されているものとお見受けしました。

(以下引用)

「安倍政権は経済をコントロールしようとして、国民生活を破綻させるような勢いで失敗してしまいました。それでも、選挙後も、彼らは国会の中に多数派で居続けるでしょう。
だから、山本太郎は、実際に政権を取るまでは政策を実現出来ません。けれども国のかたちと国民生活を壊し続ける現政権の歯止めとしては十分なインパクトがあります。」

(引用終わり)

20年間のデフレを脱却できずにさらに国民生活を貧困化させる消費税増税を反対するための緊急避難措置として私はれいわを応援しています。政治はそしてその勢力は常に流動化しています。現在の段階ではれいわを支持出来ても、次の段階ではもちろん異なると言うことです。
なおT先生が懸念されていた、牧師が1つの政党を支持表明することにより、本来は敵でなかった人を敵としてしまう恐れを心配されている点についてです。
そのような方には、政治と宗教とを自らの感情に引き寄せてごちゃまぜにするところから成長してしていただかなくてはならないと申し上げたい。N先生が書いておられる通りに、いかなる政治的異論を持ったとしても、主にあって1つであるとの信仰理解に至りたいものです。全て同じ考えの人たちだけで教会が形成されていたとしたら、そこにはカルトの匂いが漂います。

長文失礼しました。
この文章、勝手ながら自らのFacebookにも投稿します。
牧師の政治的意見を聞いてつまずく人に成長・成熟を促すためです。
#社会

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川崎での宣教活動に戻って

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「人生は80歳から始まる」 「人生は80歳から始まる」 山形の田園に落ちる夕日 山形の田園に落ちる夕日







日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。

私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。

卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。

そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。

教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。

本の題名は「人生は80歳から始まる」。

確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。

私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。

今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。

まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。

皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。


第24回目は、田舎での1時的な伝道活動を終えて川崎に戻り、学生への英語クラスを始め、本格的な宣教活動に従事するようになります。








本田川崎クルセード


その直後に 、川崎での本田クルセードの多忙な準備期間が待っていました。

私の家族が日本に滞在したことでもし私が働きから幾分かでも逃れてしまうことがあったとしたなら、私はその分を埋め合わせるだけの機会を確かに得たと言っていいと思っています。

私は奏楽者として、また食事係のマルタ役として、二人分のお仕事を仰せつかったのです。
ときにはこの二つの仕事が同時に来る事もあり、私は文字通り双子である必要がありました。

本田クルセードのためには、電車の中でも数千枚のトラクトが配られて行きました。
ある朝、バス停にいた時のことです。バス停から降りたある方が、その手にいっぱいのトラクトを私に渡してくれました。彼は後の日に与えられるであろう報酬を自ら放棄している事に気づいていないのでしょうか。

全市に広がったこの労務の結果は神様だけがご存知です。
神様がやがて与えて下さる報酬には正しいものしかありません。



ミッションフォーム



1962年の秋、主は私たちに祈っていたミッションホームを与えてくださいました。
主が経済的な必要を満たしてくださいましたが、私たちはその内装を自分たちでやり遂げました。

主は私たちが掃除をし、ペイントをし、修繕するエネルギーを与えてくださり、11月には開所式ができる所にまでこぎつけたのです。

私がそれまで住んでいた古くて小さなアパートメントが、ミッションホームに移った今、まるでニューヨークのグランド・セントラルステーションになったかのようで、常に若い方々で溢れるようになりました。同時に、彼らは続けてやって来てくれるだろうか、と訝しんだものです。けれども彼らは確かに継続して来会し、さらに多くの人たちが来られるようにもなりました。



川崎南部キリスト教会の誕生



ミッションホームは川崎南部キリスト教会の誕生につながり、限界のない可能性へと開かれて行きました。11月第一日曜となった開所式兼最初の礼拝は、私たちの期待以上に素晴らしいものとなりました。

その辺一帯にトラクトがまんべんなく配られ、私のアコーディオンも含んだマーチングバンドが行進して、スピーカーから大きな声でのアナウンスがなされました。多くの方々が心を砕いて証しをされ、また働きました。その教会は多くの人たちで満たされたのです。

人生とは挑戦の連続です。
私はその頃、放課後の時間帯を多摩高等学校や川崎高等学校での英語クラス担当をしたり、ミッションホームでの英語バイブルクラスもあり、さらには中学生のための英語クラスもしていました。

これらに加えて南部教会のすべての集会にも参加するよう求められていたのです。
その上、家庭集会や川崎教会での婦人会、ヤング婦人会、ベタニア女子会、さらにはひっきりなしに出入りして来る英語クラスの生徒さん達。

たとえ私たちが引越したとしても、彼らは必ずや私たちと行動を共にしてくれる人たちでした。



「ミッショナリー・チャレンジャー」の誕生



1963年の二月、私たちは日本で「ミッショナリー・チャレンジャー」を刊行するようにと求められました。それは私の日本での宣教活動を米国の教会のサポーターたちに紹介すると言う目的を持ったニュースレターです。

ところが、ニュース記事をタイプするというのは私にとって全くの新しい経験でした。
チャレンジャー自身にとり、大きなチャレンジとなったのでした。

そんな多忙な私たちにも、時には外出の時間が与えられたのは不思議なことです。
コンサート、美術館訪問、山へのハイキング、大学の文化祭や雪国での楽しさなどです。
これらは、私たちは大人が子供時代に帰ることが出来た大変貴重な機会でした。



コーラおばさん



多種多様な機会は、人生のスパイスであると言われています。
主は大変特別なことを、サプライズしてくださいました。

コーラおばさんのことです。
彼女は、主が日本に宣教師として召していると感じていました。そのことをすでに私には何度も伝えてくれていたのです。

しかし深夜に到着したときには、彼女を空港に迎えてくれる人は誰もいませんでした。
親切なタクシー・ドライバーが川崎の日本人牧師と連絡を取ってくれて、彼女をその教会まで送ってくれました。

その牧師はもっともな理由もあって、彼女を留め置くことができなかったものですから、ある日曜の早朝、彼女は私どものところにやって来てそのまま新しい家族の一人となりました。

この年配の黒人淑女は数ヶ月間、私たち皆と楽しく生活を共にしました。英語クラスにも参加してくれて新しい息吹を与えてくれたのです。
コーラおばさんは特別集会のためのポスター貼りやトラクト配布など、彼女にできることなら何でもお手伝いしてくれました。

彼女は日本語をお話しすることはできませんでしたが、彼女の笑顔はどんなハンデをも補って余りあるものでした。

時にいくつかの特別集会では私たちが期待したほどの結果は得られなかったのですが、コーラおばさんはいつもと変わらずに、明るい楽しさを分かち合ってくれました。

夏の修養会で彼女と同室できたことは私の喜びです。
静かで落ち着いた時が与えられました。

説教の間中は、私が話のポイントを彼女のために書いて差し上げました。
それによって彼女もまたいくらかの祝福を得ることができた様です。
また彼女は大したコックさんでもあり、そのレモン・パイは決して忘れることができません。

#ドロシー師

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