山形の田園風景
大江町の町並み
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
その第27回目は、小野寺先生とともに、山形での宣教に悪戦苦闘しながらも喜びの日々を過ごされていた様子です。
ライトバンのゴスペルワゴン車
神様は恵み深くも、私たちに田舎伝道のためにとライトバンを備えてくださいました。
この車は私たちの時間やエネルギー、それと出費まで節約してくれました。
村々はそれぞれが遠く離れていて、田舎の家々はあちこちに広がっています。
五月から冬の季節の始まる前まで、私たちにとり大変良い移動手段となりました。
冬季には、より安全な移動手段を選ばねばなりません。
あれは忘れられないある夜のこと、大変な積雪がありました。
山間部での夕方の集会の間にかなりの積雪となったのです。
その宮宿からの帰り道にある長い上り坂は、小野寺先生の熱心な祈りをもってしても登りきることはできませんでした。
やむなく私たちはふもとまで戻って、チェーンをタイヤに履かせたこともあります。
バスを利用した方が安全なのでは、とお考えになるなら、それは間違いです。
左沢に戻るある早朝の事でした。私は周囲の全てが白銀となった世界の美しさに見とれていたのですが、突然バスが道路を外れたのです。
止まったときにはバスのタイヤは側溝に落ち、車の他の箇所は田んぼのぬかるみに完全にはまっていました。私は傾いた側に座っていましたので大変な恐怖だったのですが、バスは転覆からは何とか免れていた状態でした。
コンウエイ牧師の訪問
コンウエイ牧師とそのご婦人とが日本においでくださったのは1966年の八月と九月でした。
彼らは左沢にも来て下さり、私たち皆にとってその数日間は特別な時となりました。
彼は私どもの様々な集会でお話をしてくださり、私が通訳をしました。
それでも彼のメッセージを充分には伝えられていないのではないか、と感じたのです。
そこで日曜午前の礼拝メッセージは、もう少し易しいものにしてくれるようにとお願いしました。彼は会衆に肉を食べてもらいたいと望んでいたのですが、私にできることはミルク程度のものを与えるだけだったのです。
しかしながら、それは忘れられないメッセージとなりました。
主はご自身の子供たちに十分な備えがあることを彼を通して語り、彼を証人として用いられたのです。その日曜朝の集会は、涙と喜びとで溢れました。
彼らの滞在は短かいものでしたが、私たちにとって大きな祝福と励ましになりました。
ところで、私はただ奇跡によって生かされている人間です。
コンウエイさんたちが私たちとともに滞在している間、急に寒くなったため、私の部屋を使っている彼らのためにガスストーブを急いで設置したのです。
11月までにそのストーブは元の場所から動かされていたのですが、少しも気づかれることなくコネクションが緩んで外れてしまっていたのです。
私は普段、ぐっすりと眠れる方なのですが、その日だけは何故か眠れずに起きていました。
その部屋はやがてガスが充満して行ったのです。
電灯をつけることなく、私はすべての窓を開け放ち、ガスの元栓を閉めました。
それでようやく眠りに落ちたのです。
起床してから、ホースがストーブから抜け落ちていたのを見つけました。
確かにその前の晩、私を起こしていたのは主ご自身だったのです。
主はまどろむことも眠ることもありません。
「私たちは自分たちの働きを終えるまで死ぬ事は無い」
と言う言葉の確かさを私に再度確信させてくれた事件でした。
詩編91篇の御言葉は、私にとってもはや現実です。
それは、主がご自身の御使いに命じて、私たちを守って下さっているという御言葉です。
小野寺先生は休暇を取って北海道にいるご家族を訪問しに行かれました。
彼女が帰って来ると、北国のあまりの美しい自然の様子を興奮しながらお話ししてくださるものですから、私たちは共にそこを見学しに行こうと決めました。これから二年後ぐらいになるでしょうねー、なんて話していました。
それから数年が過ぎて、私の弟とその奥さんが日本に来られた時、その私たちの北海道を観光する夢が、一緒になって実現しました。
クリスマス節季
"「主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、
主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」"
(サムエル記 第一 14章6節」
主はヨナタンと彼の盾持ちを通して偉大なる勝利をもたらされました。
主はクリスマス節季の特別集会を目前にしている私たちにどんなことをしてくださるでしょうか。
私たちは、人としての働きの全てを否定するべきでしょうか。
全てを主にお任せして?
神様だけにご栄光を独り占めさせるような、怠惰な人間の働きに主は反対されるに違いありません。
クリスマスの当日、目が覚めるとそこは「ホワイトクリスマス」となっていました。
神様は私たちをがっかりさせなさいませんでした。私たちの小さな家は、礼拝のための人々で溢れ、午後のフェローシップも人でいっぱいとなりました。
午後2時30分から午後9時30分ごろまで証しと賛美とが続いて、私たちの家は喜びの若い人々の声が響き続けたのです。
この日の事は決して忘れられません。
その年は素晴らしい年となりました。
淵深い水や熱い炉のような試練があったことは確かです。
しかしその水が深すぎたり、炉が熱すぎたりではなかったのです。
重荷は祝福へと変えられました。キリストを通して私たちは勝利者以上の勝利者とされました。
寒河江市の公民館では、私は一年間ほど毎週月曜日の朝7時から9時まで英語を教えて来ました。それは私たちの生活の必要を満たすために祈った答えでもあったのです。
また主を証する機会でもあり、そこから導かれて信仰に至った方々もおられます。
「主のために労した働きは、無駄とはならない」
確かに私たちの人生には、自分たちが説明できないような暗くて悲しい出来事が起こるものです。
私の生徒の中の一人に、将来を嘱望された賜物豊かな若い男性がいました。
ある時、彼はとても確固とした信仰の告白をしました。彼のその証しには真実の響きがありました。
大学卒業間近となったとき、私を左沢まで訪ねに来てくれました。
外資系の貿易会社で働く内定も、その時既に得ていたのです。
流暢な英語力ゆえに、外人の要人をもてなすこともしばしば任されていました。
しかしながら、以前バイブルクラスに出席していた生徒の一人が、彼と同じ会社勤めの内定を得たと知った時、だいぶがっかりしたようなのです。
彼が行方不明になったとの電報を受けたときは、大変なショックでした。
それから二週間以上も経って、彼は私たちが以前、共にハイキングをした山の中で死体となって発見されました。それは6月5日、側には彼の遺書と空の睡眠薬のビンとが、ともに置かれていました。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ