病を押して帰国を決意
7月
17日
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
第26回目は、日本に帰ったならば55歳頃には車椅子生活になるとの宣告を受けながらも帰国を決意し、宣教師としての召しを全うしようとの決意に至った箇所です。まさに宣教師の鏡ですね。
不滅の働き
予定されていた私の12月の集会はキャンセルとなり、カルフォルニアに住む私の家族のもとに帰宅する準備をしました。
カリフォルニアまでの道すがら、私にはいくつか立ち寄るところがありました。
オクラホマにいる友人達とコロラドに住む親戚たちに日本での様子をお分かちしなくてはならないと考えました。
五年間の不在後、家族とともにクリスマスを過ごした今回は特別なものでした。
クリスマス休暇が終わってから、私はホロウェルさんのところへ訪ねに行きました。
彼女の信仰はしっかりしたものでして、最も困難と思える状況にあっても彼女は忠実な働きを何年間も続けていたのです。私は医師の診断を彼女に打ち明け 、それでも私が日本に帰国する決意は変わらないこと、またたといその期間は短くなったとしても最後の歳月は宣教地で過ごすことにしている事などを伝えました。
彼女はしっかりとした確信に満ちた姿勢で私に言ってくれました。
「主は病気の宣教師を必要とはなさいません。明日この件についてご一緒に主の御旨を訪ねてみることにしましょうよ」
そして忘れることのない月曜日の朝がやってきました。
「働きが終了するまでは私たちは不滅です」
朝日の光線が私の部屋に押し寄せてきたとき、この有名な言葉が私の心の中に入ってきました。
"ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。
神のさばきはなんと知り尽くしがたく、
神の道はなんと極めがたいことでしょう。"
(ローマ人への手紙 11章33節)
ホロウェルさんには熱心な祈りと神様の癒しに対する確信があり、ついには彼女は手を叩きながら、主への賛美と喜びを表してくれました。
私はその時、なんらセンセーショナルなものを感ることは無かったのでしたが、まもなく日に日に私の健康は回復していったのに気付くようになるのでした。
40年間の良い働き
私の不在の間、日本においては全てのことがかなり早く進んでいるように見えました。
石川県津幡には教会堂が建ち上りました。山形県酒田の四住居あるアパートメント建物は改築されてチャペルに、それだけではなく分級室そして牧師館にも生まれ変わり、その他にもいろいろな部屋がありました。
私が神様の私に対する御旨がどこにあるのかと考える機会の与えられる前に、すでに私の全ての荷物を酒田に送ろう、との話がなされていたのです。
ちょっと待ってください。
ただ部屋数が多いからと言うだけで、神様が私に備えた場所とは限らないでしょう。
確かに空気が綺麗な場所を、私の働き場として選ぶ必要はありました。
私は忙しくしていてほとんど休む間もなかったのですが、私の健康状態は回復しつつあり、驚い
たことに、ついにマーテンセン医師は私の体が完全であると宣言してくれたのでした。
これで日本に帰国後も、40年間は働くことが出来そうです。
完璧な健康診断書と神様への賛美に溢れながら、私にはたったひとつの願いがありました。
日本においては神様のためにだけ時間を過ごし、すべての時間を神様に使っていただきたい、との願いです。
日本に帰国して田舎伝道
しばしば苦い盃から甘い経験が出て来ること
小出先生は元気を失い、大江町での働きを続けられなくなりました。
代わって小野寺先生が、その働きを続けるために遣わされました。
この転任を私に知らせるお手紙をいただいてから、それにお答えする十分な時間はありませんでした。私は心の中では神様の御心が何であるかを確信しており、それはその地域で彼女と共に働くというものでした。
シェルホン先生は彼女のところまで行き、彼女のその気持ちを確かめられました。
彼女はこれに賛同してくれていると知った時、私の心は躍り上がるばかりでした。
その時、私はこの御言葉の意味を知ることが出来たのです。
"イエスは彼に答えられた。
「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」"
(ヨハネの福音書 13章7節)
日本に帰国する以前から、私の心の願いは、誰も顧みないような場所、そんな田舎で働きたいというものだったのです。
後に小出先生は脳卒中で倒れられて、彼の献身的な奥様と子供たちによるケアが常時必要な障害を負ってしまうのでした。
ずっと後日となって現在の大江町教会が新会堂を完成させた時、彼は特別仕様の障害者用バンに乗って大江町にまで再び来ることとなりました。
それは2000年11月11日、麗しく完成された新しい教会堂の献堂式の時であり、大江町教会の開拓者として喜びを分かち合ってくださいました。小出先生はお体に障害をもたれたかもしれませんが、そのスピリットおいてはそうではありません。燃える心を持って福音を語ることに情熱を燃やされているのは、当時も今も変わりはありません。
同時にその日は奇しくも、私の85歳の誕生日と重なりました。
大江町教会は私のために特大のバースデーケーキを用意され、ハッピー・バースデイを皆で合唱してくれたサプライズなりました。
このような小さな者が大江町教会の開拓時に関わらせていただいた事だけで光栄ですのに、そのことを教会の皆さんが覚えていて下さったとは、なんと喜ばしいことでしょう。
かつて私どもの関係者である一女性によって思い起こされた事ですが、私たち皆で小さなアパートに住んでいた時、小野寺先生が私と共に働くことの可能性について話されたことがありました。
それは多分、本気で考えてのことではなかったでしょうが、まさに実現を見たのですから予言的なものであったと言えます。
大江町左沢に引っ越して後に、小野寺先生と私が立て続けに刈り取った実は、神様が小出先生のためにと備えられたものであったはずなのだ、としばしば感じました。
彼が据えた働きの場所を全て維持することは、生優しいものではありませんでした。
宮宿、谷地、そして寒河江市での家庭集会など多岐に渡っていたのです。
困難な働きの現実を前に、何人かの牧師たちは、神様は山形を忘れられたのだ、なんて言う人もいましたが、決してそんな事があるはずはありません。
神に選ばれし山形県人
谷地からは幾人も、その生涯を神様に捧げる働き人らが起こされました。
メキシコ宣教師となられた阿部和子先生、酒田キリスト教会牧師の高橋富三先生です。
そして宮宿からは、横浜港南キリスト教会牧師夫人の石川紀和子先生、そして左沢から松阪キリスト教会を開拓し、牧師の渡辺貞雄先生などです。(牧師任命の教会名は2000年当時のものです)
1965年10月に私は左沢に引っ越して来ました。
一週間はいっぱいいっぱいのスケジュールで、ときには日曜日だけでも五回もの集会があったものです。
一日中人々は出入りしていました。さらに定期集会を宮宿、谷地、寒河江市に設けていました。生徒さんたちのグループは人数も成長していました。日曜学校が特に伸びていたのですが、そこには双子のグループが二組も三組もいたりしました。
小野寺先生のご性格は私とはまるで違うものでした。
それはまるで昼と夜の違いです。私は早起きが得意な一方で彼女は夜型です。
彼女はどこかに出かける直前まで準備もしないままダラダラしているのですが、私は全て準備を終えてからゆっくりとしたいタイプなのです。
都会にあっては、バスでも電車でも数分後に次の便がありますが、左沢線の終着駅の町ではそのようにはいきません。
しかしながら主の働きにあたっては、私たちの心はまるで一つにされていました。
私たち二人にとって、生きるための目的はたった一つのものだからです。
私たち互いの性格の違いが、その働きの妨げとなるようなことはなかったのです。
ときに私たちは忙しい余り霊的な調子を崩してしまって、お互いにギスギスとすることもありました。そんな時こそ主が私たちを互いに向き合わせて、互いの心を溶かし繋げて下さったのでした。
異動に伴う私の立場は変わったものの、いくつかの私の義務には変更はありません。
ミッショナリーチャレンジャーの原稿や宣教師レポート、また会計報告の仕事などのため私はかなりの時間を川崎で過ごさねばなりませんでした。
米国から来られたパイプさんと言う方は、優れた説教者で、チャーチオブゴッド教会の間ではよく知られた伝道者でした。そればかりでなく、彼は自ら建設会社を所有する成功したビジネスマンでもありました。
彼は大変広い心をお持ちの人です。
彼は私どもの働きを経済的に支援したり、自らの手を使って直接会堂建設に携わってくれたりもしました。
その建設仕事のために1966年一月に川崎に到着されてから六カ月間も滞在されたのです。
会堂のあちこちが新しくなり、こちらの牧師たちも、建築修繕作業についての多くを実践作業から学び取ることとなりました。
当所一階建てだった川崎教会が二階建ての会堂に変身を遂げたのも、彼によるものです。