日本一公園での祈り
7月
10日
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
第23回目は長野県や山形県へ伝道旅行を繰り返され、やがて田舎伝道が生涯の中心に据える働きとして確信するように至った経緯です。
繰り返されるクリスマス集会
クリスマスと新年期は、実に栄光に富んだ時期です。
私たちはクリスマス祝会を何度も多くこなしました。教会だけではなくて各日曜学校支部や家庭集会などです。
ホームシックにかかる暇なんてありません。もっとも聖書学院の神学生たちといった拡大家族も与えられている私が、どうしてそんなことを感じる余裕があるしょうか。
そこには七面鳥とそれに付随する米国流定番料理こそありませんでしたが、私たちには溢れるばかりのご馳走と多くの喜びとがありました。
お正月のご馳走には、一つを除いて何も問題はありません。
その一つとは、お餅のことです。私はその餅つきの現場にお招きいただいたことがあります。
ツキタテの熱くて柔らかいお餅は、醤油やきなこをまぶして食べると大変良く合います。
私は五つもお餅をいただいたのですが、一つの切り餅サイズがお茶碗いっぱい分のご飯量に相当するだなんてその時なまだ知らなかったのです。
お餅は体全体を温めてくれるし、その後は何食も要らないと感じるほど腹持ちが良いものです。
私は多くの男子生徒を多摩高等学校で教えました。
そして長い期間を経て、ついに英語を熱心に学ぼうとしているとても将来が楽しみな幾人かの女子学生にも会うことになりました。彼女らには英語を聖書から、そして音楽を賛美歌から教えました。
私はその頃、私と共に働いてくれる助手となるような女子生徒を探していました。でもそれは叶えられない高望みだったようです。それでも、私がこれらの若い生徒さん方と過ごした多くの時間は決して無駄とはならないことでしょう。
日本に来るずっと前から、私は田舎で働くことを望んでいました。
私の最初の“宣教旅行”は、ただ私が無能であることを思い知らされただけだったことは、先にお話しした通りです。
やがて将来のいつの日かに、主のために働くため再び長野県に帰ることは私には許されるのでしょうか?
福音を携えて九州へ
美智子先生のお母様を伴った九州への旅は、私にとって願ってもないことでした。
それは短い期間だったのですが、聖書物語を紹介したり、本やトラクトをお渡ししたりして、私は熱心に務めました。
そのような中でのある日曜日朝のことでした。子供さん方はなんと朝食前にやって来て、そしてお昼ごろまで帰らないのです。再び彼らは午後になって来ると、今度は夕方まで居座ります。
豆腐屋さんは、私が彼にたくさん渡したトラクトをその販売ルートで会うすべての人に配ってくれました。「ここには素晴らしいことが書いてあるよ」と、彼のお客さんたちに話して廻ったのです。
私はその場所に帰って、私の残りの人生をそこで過ごしたかった程でした。
しかしその願いが叶えられることはありませんでした。
福音を携えて山形へ
三人の若くて有能な献身した神学生たちが聖書学院を卒業して各地で働きを始めた時に、シェルホン先生の夢は実現したと言えましょう。
小出先生は、ご自身の故郷に帰ることが御旨であると示されました。そこが山形県左沢です。シェルホン先生はその可能性を探りに視察に行かれました。小出先生は開拓伝道に着手して、勇敢にも数々の困難に立ち向かっていったのです。
ある時の日曜学校では、多くの若い人々の出席を得て賑わいを見せました。何軒かの家々でも家庭集会が始まりました。彼はまた結核療養所にいる病の方々や、学校で問題を抱えている子供たちの為にも働く機会を得て行ったのでした。
そんな多忙の中にあっても、ある時の日曜礼拝にはだれも出席者がいない、と言う時もありました。
それでも勇敢な彼は、誰もいない座布団だけに向かって説教したのです。
働きは祝されて多くの実が結ばれるように見えましたが、やがてしばらくすると、誰もいない座布団状態に戻るのです。そんな時に彼ができた事は涙を流すことだけでした。
主は私たちの将来の働きのために、女性を備えて下さる時もありました。二名の献身した女性が聖書学院に入学して、その授業のない休日や長期休暇、また週末は私の助手として働いてくれました。
その一人であった小野寺美江(ヨシエ)先生と私は、大江町での初期の開拓伝道を担うこととなったのです。私たちはあらゆる準備を完了しました。
町にはポスターが至るところに貼られました。伝道伝道集会の直前には私どもは町中を練り歩きます。私がアコーディオンを弾いて、男性たちが集会のアナウンスをするのです。三つの小さな部屋しかなかったその家には、入り切れないほどの人たちで溢れました。
初日には82名の来会者です。日曜朝の早天祈祷会の時には、近くの山の頂まで行きました。そこからは広大な景色が開かれていて、美しい村の全体風景、実った稲が見渡されました。
美江先生と私は、このところで何年間かを共に過ごせないだろうか、と夢見たのです。この伝道旅行以前にも私たちは共に賛美し、神の言葉を分かち合い、共に祈り合う祝された時を持って来ました。私は続けてそのまま共に助け合いながら働くことを心から望むようになっていたのです。
次の夏も、私は大江町での夏季特別伝道集会をお手伝いすることが許されました。
今回の私の助け手は青木先生です。今回の旅を通じてもまた、私は田舎で働くことを強く願う結果となりました。
私の心は二つの願いで引き裂かれました。しばしば主のために二つの体が欲しいと思った程です。都会には大学受験を控え、熱心に勉強する高等学校の生徒さんたちがいます。
でも、感謝なことに私の道を選んでくださるのは、神様ご自身です。その結果についての責任も、その過去でも現在であっても、主がとってくださり私ではありません。
長い年月の葛藤や失望があり、遅いスタートの後でしたが(時に私は43歳)、私は神様の御心の真ん中にあることを確信できて、心満たされるのを真に体得出来たように思います。
私には故郷や家族を慕って失望するようなことはありませんでした。
同じ太陽がすべての私たちを照らしているわけですから、私はそんなにも遠いところにいるわけではないはずです。