日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。 私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。 卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。 そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。 教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。 本の題名は「人生は80歳から始まる」。 確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。 私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。 今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。 まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。 皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。 第22回目は「小さな侍」であるShelhorn先生のご子息、Samel Shelhornくんと仲良しになった甘美な日々についてです。 小さな侍と共に成長して サムエル・シェルホン君は可愛らしい赤ちゃんですが、彼の誕生は両親だけでなく私の毎日も明るいものにしてくれました。みんな彼のことが好きになりましたが、彼もまた大きくなるにつれて愛することや、私たちの中の若きからお年寄りまで、全ての人と付き合うことを学んで行きました。 私もまたこの社会では初心者でしたので、私たちはともに成長したと言って良いと思います。 一緒に皿洗いをしたり、遊んだり、彼が大きくなるまでレスリングもしました。 彼は私が壊れたおもちゃを直せるはずだと信じて疑わなかったのです。ある時彼が壊れたおもちゃを持ってきて言いました。「ドロシーおばさん、これを直してくれる?」 彼は私がメカニックでないことを私の表情からたちまちにして悟り、それを直ぐに引っ込めたのです。 彼のお父さんが説教をし、お母さんが通訳をしているとき、私たちは共に座ったものです。ある時、私たちはささやきあってしまったのでしたが、その後、最前列のベンチに座るようにと言われてしまいました。そのささやきとは、とっても短い時間だったのです。 ただSamちゃんはおかしな顔を作って、「ドロシーおばさん、これできる?」と私に聞いただけの事なのでしたが。 「もちろんできませんよ。特に教会の中では」と私は答えていました。 葉山修養会での彼とのボール遊びでは、窓ガラスを割ってしまいました。私たちは修理代を分担し合ったのでした。 また、Samちゃんの哲学はたいしたものでした。 彼が出席していた幼稚園は横浜にありました。時々私はそこまで行って彼と会い、一緒に横浜の本町を通って帰ってきたものです。その本町にはホットドッグとアイスクリーム売店がありました。 夏になると彼はホットドッグを注文し、冬ではアイスクリームを注文していました。それはほんとに納得出来るものです。彼は長蛇の列には並びたくはなかったからです。 子供の国での一日は忘れられないものとなりました。そこでは「してはならない」ことから全く自由となれた日だったのです。乗り物は乗り放題、芝生の上を歩いても許され、プールでも遊び 、木にも登ったり、そして丘を駆けて登ったり降りたりもしました。 それはとても楽しい一日となったのです。自由に遊んだその日、すべてのエネルギーを出し切った彼は疲れ切っていました。 私たちが外食するのはめったにないことです。 私自身は公の場所で何か注目を浴びてしまうかのような取り柄のない人間です。 あるレストランでのことですが、私は自分の氷水の入ったグラスをこぼしてしまい、サムちゃんを大変喜ばせることとなったのです。 彼は「ドロシーおばさんが、氷水をこぼしたよ!」と、とってもはっきりと大きな声でアナウンスしてくれたものですから、ウェイターさんだけでなくそこにいた全てのお客さんの注意を引きつけてくれました。 そのウエイターは特に面白がって、「普通は小さな子供の方がこんなことするんだけどねぇ」なんて言ってくれたりしたものです。 Samちゃんは大きくなった時、家から離れることになりました。高校を卒業した後、彼にあるアメリカ人としての資質が彼をアメリカに行くようにと呼んだのでしょう。そこで彼は落ち着き、結婚して子供も与えられ、堅固なクリスチャン・ホームを築いて行きました。 繰り返されるクリスマス集会 クリスマスと新年期は、実に栄光に富んだ時期です。 私たちはクリスマス祝会を何度も多くこなしました。教会だけではなくて各日曜学校支部や家庭集会などです。 ホームシックにかかる暇なんてありません。もっとも聖書学院の神学生たちといった拡大された家族も与えられている私が、どうしてそんなことを感じるでしょうか。 そこには七面鳥とそれに付随する料理はありませんでしたが、私たちには溢れるばかりのご馳走と多くの楽しみとがありました。 お正月のご馳走には一つを除いて何も問題はありませんでした。 その一つとは、お餅のことです。私はその餅つきの現場にお招きいただいたことがありました。 ツキタテの熱くて柔らかいお餅は、醤油やきなこをまぶして食べるのが大変良く合います。 私は五つもお餅をいただいたのですが、一つの切り餅サイズがお茶碗いっぱい分のご飯の量に相当するだなんてその時知らなかったのです。 お餅は体全体を温めてくれるし、その後は何食も要らないぐらいに感じるほど腹持ちが良いものです。 私は多くの男子生徒を多摩高等学校で教えました。 そして長い期間を経てついに、英語を熱心に学ぼうとしているとても将来が楽しみな幾人かの女子学生が与えられました。彼女らには英語を聖書から、そして音楽を賛美歌から教えました。 私はそれまでに私と共に働いてくれる助手となる女子生徒を探していました。でもそれは叶えられない高望みだったようです。それにもかかわらず、私がこれらの若い生徒さん方と過ごした多くの時間は決して無駄とはならないでしょう。 日本に来るずっと前から、私は田舎で働くことを望んでいました。 私の最初の“宣教旅行”は、ただ私が無能であることを思い知らされたものとなったことは、先にお話しした通りです。 やがて将来のいつか、主のために働くため再び長野県に帰ることが私には許されるのでしょうか?