ドロシー師回顧録 人生は80歳から始まる
1988年、神学院卒業直後の23歳の私と73歳のドロシー先生
錦キリスト教会旧会堂での英会話クラスにて。
「人生は80歳から始まる」
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで1人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名によると、「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力に満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出した背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。
まるで宝物を探し当てたような感覚を持ちながらページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
まず最初の第一回目は、ドロシー先生の誕生ストーリーからです。
第1章
宣教師の養成遺産
それは実に膨大な時間、問題、訓練を要するプロセスです。
私の場合、43年間かかりました。
私には実に素晴らしい遺産があったことも覚えねばならないでしょう。私の先祖はフランスのユグノーまで遡ります。
それは信仰ゆえに迫害を受けた人々で、農場、財産、富を背後に棄てて国から逃れてきた人たちでした。自由を求めて定かでない旅を始めたのです。
ある人たちはオランダを経由し、他の人たちはイギリスを経由してアメリカまで渡ったのでした。
農場での誕生と幼少時代
私は1915年11月11日にアイオワ州にて誕生しました。
二人の兄弟に挟まれるサンドウイッチの具のように真ん中でした。
家族全体から「お姉ちゃん」というように呼ばれたものですから、自分の名前の持つ高貴な意味については長く無知のままでした。
ずっと後になって次のような意味があることを知りました。
「ドロシー」
それは、人気ある名前の意味で「神の賜物」
起源ーギリシア語
強調点ー「この女性は決してあなたを引き下げない」
「彼女の行く手には挑戦が待っている」
「彼女には想像力がある」
「彼女は成熟した配慮ある行動をする」
これら上記の意味には私の実際からして手が届きそうになく、単純に「お姉ちゃん」が最もふさわしいものだったでしょう。
私の二人の兄弟と私は農場で誕生したのです。私たちにはご自慢の動物園や木の枝に結ばれたブランコ、それに忍耐深い子馬がいました。
その子馬は人嫌いなのですが私たちは別格で、三人一緒に乗っては滑り台のようにして遊んだものです。それに乗って尻尾へ滑り落ちるのですが、何ら抵抗しませんでした。
ある時、私はそれに乗ったまま眠り落ちてしまったこともあります。子馬はそれに気づくと、上手に完璧でゆっくりとした早さでしか動こうとはしません。お陰で私はそのまま午後の昼寝を楽しめました。
また私たちには専用の特別牛乳配送装置がありました。直接ミルクの供給源を「モミモミ」して自分たちのカップに注ぐのです。
電話は地方新聞の役割を果たしていました。
1本の電話線に多数の人がつないでいるものですからご近所さんの愚痴などこぼさないように気をつけねばなりません。緊急時には皆が協力して電話を切りその人に優先権を与えたものです。
私の子供の頃はテレビはまだ無く、漫画本さえ見たことありません。従兄弟で集まる時にはそれはそれは楽しかったですよ。自分たちで即興の笑い話や劇を作ってしまうですから。
(つづく)
巨人ゴリアテに青年ダビデはどのようにして立ち向かったでしょうか。
〜ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージ・ノートです。
(序論)
286センチの身長と鎧の重さで57キロもある巨人ゴリアテに青年ダビデがほとんど素手で戦うのは常識を超えたところのものであった。ダビデが勝利できたのは肉(身体の強靭さ・優れた武器・戦士としてのスキル.......)によるものではなく、霊よる勝利であった。
その霊(スピリット)の法則を自らにも適用しよう。
⑴あなた自身であれ(39)〜日頃使い慣れた道具を手にせよ
①羊飼いとしての日常道具(40)〜ありのままのあなたで行け。戦士としてではなく羊飼いとして戦え。
②自分自身を見失ってはならない
*皮肉と悪意のある中で(28)〜エリアブの嫉妬
*善意と好意のある中で(38-39)〜サウル王の気遣い
⑵ストレスを乗り越えよ〜本番に強くあるために
①信仰による戦い〜「万軍の主の御名によって」(45)
中近東における古代の戦争はその民族の神々の戦いであると考えられていた。
②すでに勝利を確信していた
5つの石から1つだけの石で決着(49)
⑶平素の営みに心せよ〜危機にあっての最大の準備
①羊飼いとしての命を張った日常生活(34-35)
戦士としての訓練はなかったが羊飼いとしての忠実な毎日がそれと代わるものとなっていた。
②羊飼いとしての大自然の中での信仰生活(36-37)
野原や岩場がダビデにとっての神殿であり神学校でもあった(詩篇23)
(結論)
手に負えない大問題に接するとき、しかもそれが主の栄光に関わる事であったとしても心配には及ばない。私たちのうちにお住まいになっておられる御霊に信頼をおこう。信頼を置くために平素からの信仰生活に心しよう。
"しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。
それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。
ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。
あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。"
ルカの福音書 21章12~15節
シアトルを南北に貫いている高速99号線が開通して初めてドライブしてきました。
今までの99号線は海辺に沿って2階建ての構造物だったのですが、老朽化が進み次回の地震ではおそらく崩壊するとの専門家の意見。
新しい道路は海にせり出して作るか、地下に埋めるか、かなりの議論となったですが結局ダウンタウンの真下を通るトンネルを掘ることになりました。
この道路が完成したと聞き、今なら無料で通れると言うことで行ってみたく思っていたのですが、
どこが入り口なのか分からないまま日時が過ぎて行きました。
この日は99号線を北から利用してダウンタウンに入るとトンネルが見えました。
どうもそれが新しいトンネルらしい。
そのままトンネルを抜けるとセイフコ・フィールドの真横に出て、高速90号線のジャンクションが目の前に見えます。
「案ずるより産むがやすし」とはよく言ったもので、何も問題なく迷うこともなく以前の出口と入口が新しいトンネルとつながっていたのです。
Google マップは既にアップデートされていて、この新しいトンネルの位置情報を正しくナビしてくれていました。
今まで99号線利用は気が引けていたのですが、思い切ってしてみるといとも簡単に利用できてしまいました。
「ハウルの動く城」をベルビュー・リンカンシアターで観てきました。
宮崎駿監督のジブリ映画が毎月1本ぐらいのペースでここベルビューで公開されているのです。
幼少期に隣のトトロを見て以来、子供たちもジブリ作品の大ファン。
英語の吹き替えでしたので彼らにも充分楽しんでもらいました。
反面私は映画のテンポの速い英語にはなかなかついていけずに苦労しました。
英語吹き替えの日と、英語字幕スーパーで原語の日本語で上映する日とがあるようなのです。
これからも10ほどのジブリの作品の上映がありますので、次回からは日本語放映の日を選ぼうと切に決めました。
ベルビューのど真ん中で日本語世界が再現されるだなんて拍手喝采ものです。
今日の観客は1割にも満たないほど、劇場がスカスカでした。
ジブリ作品のストーリー展開はものすごく早くてついていくのに大変です。
ありえない奇術や魔法のような展開。
それでもアニメーションの各シーンがとてもきれいに撮られていて飽きません。
優れた日本のアニメから日本語や日本文化に関心を持ってくれる外国人も多いのです。
我が子たちもそのようにいつか釣られるかも?と言う下心もあるんですよね〜
ジブリ作品の上映予定日一覧を写真に収めておきました。
関心のある方々のために。
長女がサーバーをしているレストランに息子と行ってきました。
リンカンスクエアと言うベルビューのど真ん中にあるレストランで、その階上は昨日のジブリ映画の映画館となっています。
マネージャーが私どものテーブルに来て、娘のテキパキとした働き振りを褒めてくれました。
娘は朝の7時半からある事務所で8時間の正規労働の上、高校の未消化クラスを取り、そして夜からこのレストランでの働いています。
こんばんは疲れを感じる、とボヤいていました。
しっかりと食べしっかりと休むようにと、親バカながら繰り返しアドバイスしました。
無理が出来るのも若い者の特権ですね。
四国在住の友人が花見に行った様子をFacebookで紹介してくれました。
繚乱の言葉を思い出す見事な満開に桜。
日本の風土と景色によく溶け合っているピンクの花柄。
ここシアトルにも日本から移植されたソメイヨシノの見事な花見の場所があります。
そのワシントン大学のキャンパスに今週は行ってこようかと思います。
桜には私たち日本人の心を愛でさせ、上に向けさせる何かがあるようです。
ところで聖書の世界には、
何となく「何かが」といったあやふやさを超え、
聖書には確かな約束が記されています。
そうです。
恵みをいただくために、大胆に神が御臨在されるその場に侍ることができるのです。
"ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 4章16節
Zion Williamson
ザイオン・ウイリアムソン
息子が夢中になっているバスケットボール界の新星。
先日高校を卒業したばかりの若干18才。
彼のプレイを見ろ、と言うことで強制されて息子の隣に座って何度かビデオ観戦。
確かに他の選手を寄せ付けない飛び抜けた身体能力とシュートの正確さ。
280ポンドもある筋肉で鎧われた巨体で40インチの垂直飛びが出来る。
相手選手のシュートボールをゴールより高くジャンプして自ら手の手でボールを弾く。
プロリーグのNBAには大学に1年間通わなくてはならないと言うルールがあるとのこと。
そこでつい先ごろ、彼はまもなく終える大学1年の後、NBAへ行くことを表明した。
来年の東京オリンピックには米国代表の1人の選手として来る事はほぼ間違いないでしょう。
大相撲でもやっていけそうな体躯を持ちながら、トカゲのような素早さで相手選手をすり抜け、高く舞い上がってのダンクシュート。
子供たちが夢中になるのも無理は無い。
やがて日本でも注目されるでしょう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージノートです。
「大胆に恵みの御座に近づこう」
ヘブル人への手紙 4章14~16節
"さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
⑴主イエスを知ろう(14)〜その職能を把握せよ
①「もろもろの天を通られて偉大な大祭司となられた」
かつて大祭司アロンは贖罪の日に会衆の面前でさまざまな仕切りを通り至聖所にまで至った(レビ16:15、17)
②本書が論述している「優れた方」
預言者より
天使より
モーセより
ヨシュアより
アロンより
⑵主イエスとともに(15)〜その方は低いところに降って来られた
①人との自己同一性を開拓された主
完全な人間として肉体、感情を備えられ喜怒哀楽を経験して来られた
②自己同一性が成立して始めて「同情」が可能となる
*イチロー選手の引退。
「アメリカに来て、外国人になったことで、人の心をおもんぱかったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れた」「孤独を感じて苦しんだことは多々ありましたが、その体験は未来の自分にとって大きな支えになると、いまは思います」。
国民栄誉賞授与を3回目にして拒否〜「人生の幕を降ろす時に」
⑶主イエスに近づこう
*新しい元号「令和」時代の華やぎと希望
『初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、〜』(万葉集)との文言から引用。
「この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい」(安倍首相談話)
新しい時代を感じさせる、希望を見据えた元号改元である。
春という季節や日本古典からの典拠と言う雰囲気に依拠するのではなく、
私たちが希望を失わずに済む確固とした土台があることを知ろう。
①あわれみと恵みとをいただくために
②折にかなった助けを受けるために
③恵みの御座に近づこう
(結論)
私たちの側には俊敏なユダヤ人弁護士(イエス)が常時ついていることを知ろう。この方は、大祭司として私たちのために執り成しをしておられる。
半日間失っていた財布。
数百ドルの現金やクレジットカード数枚、それにドライバーズライセンスや教会堂アクセスの鍵まで入っている。
机の周りや部屋中探しても、またあらゆるポケットを探しても出てこなかった。
息子に打ち明けてみると、
「車の中を探したか」
「助手席に置いてないか」
とのたもう。
そんなとこに置くわけないよ、と言いながらも行ってみると車の窓越しにちゃっかりと財布が助手席に座ってるのが見えた。
その時の喜び、開放感、満たされた思い(^^)
昨夜息子に運転させて自らが助手席に座った時どうやら財布を持ち出したのを忘れていたらしい。
聖書の次の言葉を思い出しました。
"また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」"
ルカの福音書 15章8~10節
財布が見つかるまでは食事をしても美味しくなかったし、息子とバスケットボールをしても気にかかって楽しめなかった。
財布がどれだけ貴重かと言えば、百ドル少々の現金と後は時間と手間をかければ回収できるものばかりのはず。
もしも悪用された場合カード会社は補填してくれるし、運転免許証だって再発行すれば良い。
考えてみれば全て取り返しの効くものばかり。
それでもあの半日間は空虚な気持ちでそわそわして生きた心地がしなかった。
「生きるって辛いな〜。こんなことも耐えねばならないなら死んだ方が楽か?」
少々大げさだけど、そんなふうにも思った。
失われた私たちに対して神がどんな思いでいらっしゃるかを主イエスが例えにして教えられた。
上記にある女性が銀貨を失った際の慌てぶりと発見の際の喜びの例え話。
銀貨も財布も取り返しのきくものである。
ところが私たちの命には取り返しがきかない。
そこで神は自らの命を差し出すことを決意された。
私たちが神によって発見されるために、
主イエスが十字架でその命を差し出さねばならなかったのだ。
神の目から見て私たち一人ひとりの命はそれほど重い。
「人の命は地球よりも思い」
ある政治家の言った言葉らしいが確かにその通り。
神のひとり子を犠牲にする程の重さだったのだから。
サンフランシスコのミッション通りは思いっきり異国情緒あふれる界隈です。
アミーゴ!
中南米の移民の方々が多く集まり、どのお店に入ってもスペイン語が行き交ってます。
英語を全く解してない人が多く、私が英語で挨拶しても挨拶は帰ってこないで数少ない店内にいる英語の話せる人と話すことになります。
かなりの巨大なスペイン語圏が形成されていますので、端から英語を話そうだなんて思わないんでしょう。
どのようなことを中国人街に行っても感じました。
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