受難週の霊想 "しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。 それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。 ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。 あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。" ルカの福音書 21章12~15節 "こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。 人々はみな朝早く、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとにやって来た。" ルカの福音書 21章37~38節 "さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。" ルカの福音書 22章1節 受難週の木曜日を迎えました。 今年はキリスト教暦のイースターとユダヤ暦の種無しパンの祝い(過越の祭り週)の日が同日に重なった珍しい年となりました。 神殿の丘の東側にそびえているオリーブ山の麓に広がるオリーブの園。 そこで主は夜になると時を過ごされていたとありますが、主は祈っておられました。 そしてその祈りのクライマックスが、木曜日の夜、翌日に十字架刑を控えた時のものです。 それでは主は、一体何を祈っておられたのか。 ご自身が父なる神の御心を違うことなく歩んで、最期まで忠実に使命を全う出来るようにというものではなかったでしょうか。 早くから神殿で民衆を教えられたその教えの結語が36節にあります。 "しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」" ルカの福音書 21章36節 やがて私たちは皆、人の子なるイエスの前に立たされます。 その裁きの座で使命を全うしたかどうかが問われるのでしょう。そのためにいつも「油断せずに祈っていなさい」と教えられたのです。 人に教えておいて自ら実践しなければ偽善者です。 主は人に教えられたことを先ず自らが率先して実践されて来られました。 ゲッセマネの園での主の祈りを想うとき、 私自身の快楽願望計画が成るようにではなく、 主の御心が成されて、 主の道を歩むことができるようにとの 祈りに導かれざるを得ないのです。