米国人宣教師の回想録③
4月
25日
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。
まるで宝物を探し当てたような感覚を持ちながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第三回目では、ドロシー先生のご両親を回顧しています。
母親と父親の思い出
「愚か者はそれが口にする多くの愚かな言葉によって知られる」
「多くの無駄話は罪を逃れることは出来ない」
「ムチを控えるなら子供を甘やかすことになる」
これらと他の幾つかの箴言は、二人の兄弟に挟まれたサンドウイッチであったおしゃべり好きな少女に記憶されました。賢く優れものの長男と可愛くてお利口さんの次男に挟まれた私には子供時代の初期から決して忘れない教訓として学んだのでした。
母親も父親も正邪を判断する事柄の境界線において、当時の時代特有のクリスチャン改心者でした。
人生とは極論すれば「地獄かきよめか」のどちらかだったんです。
このテキスト・メッセージはまた私が初めて参加した天幕集会で横断幕に書かれていたものでもありました。
父親が農場の動物を外に出すときは、よく通るまた短気な声のために遠くからでもよく聞こえました。何て大きな違いでしょうか! 農場と教会での声。そのよく通る声で溢れるように賛美したものです。
母親からは喜びの泉が常に溢れています。彼女の妹とその家族もまた、間も無くその喜びを見出すようになりました。
初期の訓練
突然私たちの生活に目的と希望が満ちるようになりました。
いつも日曜学校と礼拝とに出席するだけではなく、毎週の小屋での祈祷会にも参加するようになってからのことです。そこは大人も子供も一緒に賛美する集会で、今日の今までその歌声が私の心の中に残っています。
それは馬と馬車の日々であったとも言えます。人生の早い段階で私は主の日を守ること、そして時間を守る事の大切さを学びました。
私たちの日常の過ごし方は変わりました。
混雑した町へ夕食のために出かけていくことに変わり、家族でのオルガンコンサートや交わり、また他のアクティビティーを楽しむようになったのです。
主にある新しい家族を発見することの他にも、こんなに楽しいことがいろいろとありました。
日曜日は主のための日です。
聖なる日として保たれるべきものです。週には他に6日もあるのですから、その時に楽しんだり遊んだりできるはず。この一日だけは主のためのものです。その日が退屈だったことを一度も思い出すことはできません。
当時の我々村人たちは買い物するのではなくて物々交換でした。
町の方々は私たちのミルク、バター、クリーム、卵等を必要としていましたし、私たちは農場では生産できないものを必要としていました。
通常のお店では土曜日の夜が物々交換の会場となり、私たちは隣人とおしゃべりを楽しみながらまたときにはいくつかの贅沢品を許されたりしながら交換しました。
ある春の土曜日の夜のことでした。
私たちの贅沢品とは欲しかった凧を買うことでした。母はそれを月曜までしまっておいたのです。
日曜の午後となり、父も母も昼寝をしてる時でした。
私たち三人は凧のところまで行き、心の痛みを感じながらも静かに家を抜け出すと、その宝物を取り出して木々が密集しているところの池の近くまで降って行きました。
そこは家からいくらか距離のあるところで視界の外にあった場所でして、私たちはうまく凧を風に乗せ空高く上げたのです。
凧は高い梢の中へと入っていき、それがあまりにも高かったので枝に引っかかった凧を回収できなくなってしまいました。
これは私たちの不従順に対する神からの突然の裁きと感じて辛い経験となりました。
私たちはスパンクされることも叱られることも罰を与えられることも必要なかったのです。
ただ安息日を守るべき学科となりました。
このような“凧”経験は私の人生に他にもあったはずですが、思い出せるのはこのことだけです。