濡れ衣を着せられて
5月
16日
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第11回目は、ドロシー先生の大学時代、その挫折と戦争が始まったことについてです。
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無理が重なった大学時代
雇用主は私のためにスケジュールを調整してくれたため、大学に通いながらもパートタイムで働き続けることができました。大学も二年目となり、期末試験のちょうど直前でした。
私はあまりの多くの働きに耐え切れずに疲れ果ててしまったのです。
それはまるで私の世界が終わってしまったかのように感じました。
学業を望むところまで続けることができなくて、適性な資格証明書がなければどこのミッション団体も私を宣教師として受け入れる事はないでしょう。
それは私の人生でも特に暗く、失望の期間でした。
それから突然、全ての世界は戦争一色となりました。
第二次世界大戦が始まったのでした。
それは私ばかりでなく、世界中の人々の人生に介入していったのです。
それは実に問題と苦悩とに溢れた激流の時代でした。
そんな中にあって、時間とともに私は健康を回復し再び働き場に戻っていきました。
一日の苦労はその日にて足れり、といった世界です。
あらゆる困難を一度に背負い込むことはできません。
その日に与えられた荷物だけを主と共に生きていけば良かったのです。
第二次世界大戦の影響
多くの若い人たちが戦争に関わる産業で働き始めました。
私はそのような機会には恵まれませんでした。
ある町立病院は、人手が全く足りていませんでした。そこで菓子料理のために働かないか、と尋ねられたのです。
その仕事が私で間に合うとはとても思えませんでした。けれども最終的に同意しました。
その初日にこと、私は病院にいる数百人の人々のためにケーキやフルーツデザートを作ったのですがさすがに疲れて果ててしまい、一体なぜこの仕事を同意してしまったのだろうか、と後悔するほどでした。
私は上司のところに行き、辞任することを申し出ました。
すると彼女は、「それはできません。あなたには一ヵ月間は働いていただきます。それから好きなようになさったら良いでしょう」と言ってくれました。
私はそこで結局二年間働くことになったのです。
また、シカゴ・ベーキングスクール校料理科へ入学したところ、町がそののための学費を支払ってくれることになりました。
卒業に至っては、パン屋を開業するための資格証明書をいただくことが出来ました。
私はその仕事が好きになり、また多くの異なる人々と共に作業していくことを学んだのでした。
冷たい心で赦したこと
私たちがどこの世界に行っても、そのままの貴方を受け入れてくれる人々もいるし、また一方で貴方を変えようとしてくる人々もいるものです。
私が赦しについての貴重なレッスンを受けた場所は、その後者の所でした。
私の働くシフトは早朝でした。夜勤明けの看護婦の監督官とは、いつも彼女が退出するときにおしゃべりしたものです。
ある朝、彼女は大変疲れたように見えた上に、心配事を抱えているようでした。
その時、多くの入院患者と幾人かの看護婦が下痢や嘔吐を伴うひどい病にかかっていたのです。
先ず最初に食物からの感染経路が疑われました。
彼女には大変厳しい夜勤仕事であったのです。
ある若いインターン生が間も無く私のところにやって来て、どれほど緊迫した状況となっているかを知らせてくれました。しかも彼は大変厚かましい態度でベイクショップを非難したのです。
今日となっても私がその日に調理したデザートを覚えています。
それはレモンソースを詰めたスポンジロールでした。
一度だけではなく、その日の内に何度も彼は私に対して不快な態度を見せました。
あのような非礼極まる態度を私はかつて見たことがありません。
街の衛生局の役人が食物サンプルを採っていきました。
言うまでもなく、その日は散々な日だったのです。
次の日、私は仕事を休みました。上司が心配して電話をかけて来ました。
状況が沈静化するまで、私は仕事には復帰する気がないことを伝えました。
再度彼女が電話をくれた時には、街の衛生局による検査報告を知らせてくれました。
病原菌は私のレモンロールからではなかったのです。
大学の寮に住んでいた何人かの学生もまた同様の症状に苦しんでいました。それは水道からのものだったのです。
彼女はまた私が職場に戻ったなら、あのインターン生が私にお詫びすると知らせてくれました。彼は本当にそのようにしました。私の心はまだスッカリと冷え切ったままでしたが、とにかく彼の謝罪を受け入れることにしました。
後日、私が怪我をして緊急治療室に行かねばならなくなった時、あのインターン生とバッタリと顔合わせとなったのです。今度は彼が私を痛く大切に、また暖かな配慮を持って扱ってくれました。
ついに私は心から彼を赦すことができて、感謝できるようになりました。
ただ、彼の非礼を認めると言うことでないのは言うまでもありません。
非礼自体は決して認められるものではありません。