校長からの一撃
5月
13日
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第10回目は、ドロシー先生の高校生時代の様子です。
Nutshell(凝縮された)説教
私にはある日、校長室にまで呼び出された鮮明な記憶があります。
南コロラドを訪問してきた一人のクラスメイトが、黒いマツのナッツを持ってきて私たちに食べさせてくれました。
私たち皆はホームルームの時間中、それをかじってはさやを床に落としたままにしておいたのです。私たちがなぜそんなことをしたのか覚えていません。
そんな楽しい妙技とも言えるような時間を過ごしていた時、校長先生が教室に入って来ました。教室のモニター係が彼に知らせたのではないかと私は考えているんですが。
彼はほんの短い時間見渡してから、これをしたの誰だ、と床に落ちているさやを指差して聞いて来ました。その場に居合わせた女生徒は私一人だけで、私がしたことを認めざるを得ませんでした。後でもう一人の女生徒も告白しました。
私は自分の誤った行為に加えてその過ちを否定すると言う罪まで犯したくなかったのです。
幾人かの男子生徒も正直に告白しました。そして彼らは散らかしたものを掃除するようにと言い付けられたのです。そして二人の女生徒に対しては放課後に校長室まで来るようにと言われました。
私としてはむしろ掃除する仕事の方を選びたかったのですが。
校長室に入って先生の最初の言葉は私たちの恐れを取り去るに十分過ぎるものでした。
「女子生徒で貴女方二人だけがあれをしたものでないことは分かっています。お二人の正直さに感謝しています」と言ってくださったのです。
ところが彼の第二言は矢のように私を貫きました。
「これは貴女方のお母様方にもお伝えしておきます」
この言葉はまるですべての説教を一粒のナッツに詰め込んだようなインパクトのあるものでした。
言わば、Nutshell(凝縮された)説教でした。
その後彼が何かを言っていたかもしれませんが、私はからっきし覚えていないのです。
さて私どもの家族についてです。
私ども家族は想定外の境遇によって二回も経済的にはゼロのところまで追いやられたのですが、働き者の父と優れた管理者である母によって助けられてきました。
子供たちを私立の教会附属学校に通わせるのは経済的負担が大きかったでしょうが、両親は私たちがクリスチャンの環境で教育されることを望んだのでした。
その後の大学進学や専門学校への進学は、子供らそれぞれ個人の決意に関わることです。
その時代は夢に溢れている若い子達のための働き場が多く残されていました。
宣教師の影響
学校を時に訪問してくる宣教師とその彼らの働きについては深い印象を受けました。
私どもの校長はかつて外国で宣教師として仕えたこともある人です。
私どもの学校は元々、主に仕えるために有益となる若い人達に訓練を施す目的で設立されたものでした。その召しに最高度に応えるために彼ら自身が献身する機会となる幾つものプロジェクトが生徒たちには与えられていました。
私の心はやがて開かれて、世界をめぐる広い必要に応えたいと言う気持ちでいっぱいと成って行きました。
「世界にはまだ一度も福音を聞いたことのない何百万人という人々がいる一方で、福音を二度も聞く権利は誰も持っていないはずです」
こんなスローガンが学内で何度か聞かれるようにもなりました。
母はまた私があまりに多くの宣教師の報告会や説教者の影響を強く受けただけなのだと思っていたようです。しかしそれでも彼女のこの考えが私の初心をくじけさせることはなかったのでした。
卒業後、私はメイドとしての働きを始めるとクリスチャンカレッジで学ぶための費用を蓄え始めたのです。
私のメイドとしての経験は有益なものとなりました。それは学び直すという体験を与えてくれたと言っていい価値高いものです。
私のやり方でもなく、母のやり方でもなく、雇用主が好むやり方に従わなくてはならないことを学んだのでした。
私の召しはアフリカにあると感じました。私の町には多くのアフリカ系アメリカ人が住んでいたのです。短く突っ立ったブライダルヘアーを色とりどりのリボンで結び合わせたとても可愛らしい子供たちを目にしました。
私はその人たちが集う小さな教会に足しげく出席しました。
彼らの賛美スタイルが大変気に入ったのです。
私どもの大きな街にあるメソジスト教会もまたアフリカ系の方々がお集いになっています。 そこには偉大なコワイヤーがありまして、彼らはまるで燃え立つかのような力ある賛美をするのです。