「人生は80歳から始まる」
開拓当初の旧会堂。川の対岸から。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第七回目は、かなりのおてんばだったドロシー先生の子供時代と新しい学校への入学の様子です。
救世軍の路傍伝道とアイススケート
毎週土曜夜は街へ繰り出して救世軍の路傍伝道に参加しました。彼らのユニホームやその帽子等はなかったのですが。
母は主のために公の場で証をするのを愛していました。
彼女はその路傍伝道を大変楽しんでいたし、私もまた同様に楽しみに待ち望んでいたのです。
ただ私にとり勇気を振り絞ってその務めを果たすのには大変長い時間がかかったし、その後は大変疲れもしました。タンバリンのあるブラスバンドは大変良いものとなりました。
冬になると兄弟たちと一緒に私は氷の上で良く遊びました。
シティーパークは広大なスケートリンクになったのです。
私を除いて兄弟たち二人は、とても達者なスケーターでした。
私はフィギアスケートはおろか後ろ向きに滑るなんてことはできなかったし、そんな私を見ていた兄弟たちは最終的に私を教えるの諦めたほどです。
前に進むことだって兄弟が私の手を取って一緒に滑ってくれなかったらおぼつかないものだったのですから。
それから幾日かが経ち、私が大学進学のために働いていたりして忙しかった時の事です。
弟が私を午後のスケートに誘ったのです。
それはお互いにとってまるで災難となりました。彼はそれ以後、二度と私を誘うことはありません。
翌日私は働くことがほとんどできなくなったのです。スケートからではなくて、氷の上にただ倒れ続けたことからくる筋肉痛によって。
完成しなかったプロジェクト
めったには無いことでしたが、短期間の母の留守の間は私たちにとり実験の機会となりました。
弟と私はいつもチームを組んだのですが、兄は関わろうとはしません。
ある時私たちは蛇の死骸を見つけたのです。ワニの革製のカバンや靴はあります。
では、蛇の皮のベルトってどうでしょう!
その作業工程は単純なものでした。
母の洗濯機についている手動式ハンドル絞り器にその蛇を通して中身を絞り出し、それから真っ二つに切り割いて皮の両面に塩を塗り込み、天日干しにするために切り裂いた側を表にして鋲で留めたのです。
それからどうなったのか?
実は、私は思い出せないのです。
私どものプロジェクトは完成しないままだったと、かすかに記憶していますが。
母のこれらの困った子供たちに対する対処方法は、時の問題が様々であるように様々に異なったものとなっていました。
その当時、児童心理学による硬直したルールなんていうものはなかったですしね。
無駄ではなかった聖書学校
母はやがて子供たちに充実した教育をしなければならないと感じるようになりました。
パイクス山の麓にある聖書学校では、小学校から高校までの教育を提供していると聞きつけたのです。
再び私たち皆は、それぞれのカバンをTモデルのフォード車に詰め込んで学校へ通うようになりました。しかし今回はそれまでの走行距離が大したものとなっていたので、だいぶくたびれたポンコツ車になっていたのですが。
そう言う訳で上り坂の途中では、降りて皆で押さねばならないことだってあったんです。
フォード車の最後の運命は、私たちを新しい天地であるコロラド・スプリングスに連れて行く事で終わったのです。
父は母が定住後、だいぶ落ち着いてから引っ越してきました。
母がほとんどのことを取り仕切ってくれました。
一体彼女はどうやってやりくりしたのか、からっきし覚えがないのですが、土地と小さな白い家を買うだけの蓄えをしていたのです。
その後の彼女の計画は次のようなものです。
新しく夢の家を建てることができた時に、それまで住んでいたその小さな白い家を二台収容可能のガレージに改造するというもの。
そのために借金することを彼女は考えなかったようです。
「借りるものは貸すもののしもべとなる」と信じ、
また借家住まいとは、お金を捨てるようなものだと考えていました。
彼女はテントのような家を設計し建て上げると、
私たちは小さな家が立ち上がるまでそこが仮住まいとなりました。
私どものその新しい家は街のはずれにあったにも関わらず、ご近所さんたちには恵まれました。
でもヤギは諦めねばなりませんでした。
現実のところ既にヤギは必要とはしなかったのです。
私たちの主は父に健康を与えてくださり、彼はリタイヤするまで食品販売の店で働くことができました。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ