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加藤雄一のブログ

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「普通」が最も優秀だという言い聞かせ

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「普通」が最も優秀だという言い...
「普通」
 
「常識」
 
「風習」
 
「あたりまえ」
 
 
 
それは言い換えると、
 
「今まで通り」のこと
 
【しきたり】とか
 
【お決まりのこと】
 
なんだと思ってる。
 

それが『普通』。
 
誰も疑問に思わず、形式を守ることに慣れていた。  
 
疑問に思わないわけではないが、疑問を持つことの必要がなくなっているのかもしれない。
 

例に漏れず、自分もまたルールを守る
 
「優秀な一員」
 
としてその場にいた。
 
 
 

あるときふと
 
 
「この時間、ほんとうに意味あるのかな」と感じた。  
 

数字や状況は共有されるが、議論は生まれない。
 
表面をなぞるような確認だけで、何ひとつ動きがない。  
 

それを淡々とこなすだけ。  
 
(感じた違和感は、言っちゃダメなのか?)
 

空気を乱したくない
 
嫌われたくない
 
1人にされたくない。
 
 
そんな気持ちが、声を押しとどめていたように思う。
 
 
  
ある日、ちょっとしたミスで、正しい共有事項が抜けていた。  
 

咄嗟に
 
「今日は違う形で共有させてもらえませんか」と、口を出た。  
 

するとある人が
 
 
「いいよ。どうぞ」
 
 
と応じてくれた。
 
 
そこから、実際に動いた内容の背景や、学び、次回につなげたい問いを共有したところ
 
コミュニティの空気が一変した。
 
 

そこからは、ただ共有すればよいのではなく、
 
「どんな価値が生まれるか」
 
「何に気づいたか」
 
「どんなことなら一緒にできるか」
 
を言葉にすることを意識した。  
 

同時に、他のメンバーにも“問い”を向けた。  
 

最初は戸惑っていたが、少しずつ「納得できるストーリー」が語られるようになった。  
 

「当たり前」に飲まれず『到達したいゴール』に目を向ける姿勢がコミュニティに伝播しているのを実感した。
 
  
 
「普通だからやる」
 
は、思考停止の合図かもしれない。
 
「それってあたりまえだよね」
 
って言われたら
 
「知らんがな」
 
ってつぶやけ(笑)
 
 

誰もが続けている“慣習”にも、少し違和感を持ってみる。
 
  
すると
 
 
そこに眠っていた価値や可能性が立ち上がる。  
 
 
熱を帯びた思いがそこにあるんだ。
 

疑問を持つことは、否定ではなく“問いかけ”であり、変化のはじまり。
 
 
自分の中にある
 
「これって本当に必要?」
 
という小さな声に、耳を澄ませてあげたいな。

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自分のポテンシャル

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自分のポテンシャル
何か目立った実績があるわけでもなく、何なら評価はたぶん普通以下で、自分は「ごくごくごくごく普通の人間」だと思っている。  
 

囲まれている人たちが活躍している人たちばかりなので「自分には特別な才能なんてない」と、心のどこかで線を引いている。
 
 
 
努力しても周りのように輝けない。  
 

自分の「強み」や「魅力」がわからず、何を伸ばせばいいのかも見えなかった。  
 

評価される人には、もとから才能がある。
 
そうに決まっている。
 
そう思い込むことで、自分の可能性にフタをしていた。
 

あるとき、いつも通りの何気ない無意識の行動に、仲間が言ってくれたひと言が心に刺さった。  
 

「それ、もっとみんなに見せた方がいいよ。あなたのその視点、すごく深いんだから」  
 
「角度が独特」
 
 

その言葉に、初めて「こんなことも価値になるのか」と感じた。  
 

人の「ポテンシャル」とは自分では気づかないけれど、誰かにとって光り輝いて見えたりしていて、それを伝えてもらうことで力強さが増していくものだと、そこではじめて実感した。
 
 
  
自分の思考や行動を、短くてもいいので日々記録してみる。
 
 
 
その中にある共通点や“無意識にやっていたこと”を洗い出し、言語化してみる。
 
「気配りができる」
 
「構造化するのが得意」
 
「気づいたことをそっと伝えるのが自然にできる」  

そういった経験に基づいた自然にできる行動を言葉にしてみた時、はじめて自分の輪郭が見えたような気がした。
 
 
 
  
ポテンシャルは見えない才能ではなく、
 
「無意識に繰り返している自分らしさ」

それに気づくには、まず自分の日常に目を向けること。
 
特別である必要はない。
 
ただ「これ、なんか自然にできてるな」という行動こそ、誰かにとっての価値になりうるのだと思う。  
 

そして、自分自身が「それでいい」と認めた瞬間、ポテンシャルは“力”を発揮していくのだと、そんな気がしている。

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「つまらない」は余白

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「つまらない」は余白
何だかとても停滞している気分。
 
 
いや、間違いなく停滞しているんだ。 
 

自分自身も惰性で過ごしているはわかっている。
 
 
「またいつもの繰り返しか~…」と心の中でため息をついている自分がいるのも、わかっている。
 
 

「何も面白くない」
 
「刺激がない」
 
「やっている意味が感じられない」  

そんな感情に支配されると、集中力も発言の意欲も、取り掛かりのテンションさえも下がり続ける。  

本当は、何かが嫌なのではなく「自分が何も生み出していないこと」に退屈していたんだと思う。
 
 
ある日、資料の隅に書かれた誰かの手描きのイラストに、ふと笑ってしまった。  
 
 
素人にしてはうまい。
 
ボクの10000倍はうまい。
 
話しも面白い。
 
 
そうやって誰かが何かをやっているのを見て

「自分も何かを仕掛けてみようかな」
 
 
思ったその瞬間、目の前の退屈をどうやって埋めてやろうか、退屈がまっさらなまだ埋まっていないでかいキャンバスに思えた。
 
 
思いつく工夫を少しだけ日々に加えてみる。
  

初めは気づかれなくても、やがて笑い声や「こういうのいいね」が聞こえるようになった。  
 

さらに、個人的に「自分なりの工夫ポイント」を1日ひとつ、手帳に書き留めるようにした。  
 

すると、どんなことに対しても「工夫の入り口」が見えてくるようになった。
 
 
  
「つまらない」とは、物事の問題ではなく、「関わり方の余白」のことかもしれない。
 

与えられたままの状態に飽きたのなら、自分で「引っかかり」をつくって、「とっかかり」を楽しんでみる。  
 
 

遊び心や問いかけ、誰かを観察したことから得たの気づきなど「面白くする力」は、外にはなく自分の中にあることを実感する。  
 
 

そしてその視点は、一度持つと日常のすべてに、どこか遊び場があるような感覚にもなれるような、そんな気がする。

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