自分が生きたい世界観
6月
21日
「自分が生きたい世界観で生きる」
たぶん、自分を含め多くの人は無意識にその方向に向かっているんだと思う。
社会の常識や他人の期待に流されず、自分の信じる価値観を軸に人生を築いていきたい。
そう思っているんじゃないかな。
それは単なる理想の追求ではなく、自分の中にある「こうありたい」という想いに、忠実に生きたいという表れなような気もする。
突き詰めて言えば、主体的に人生をデザインしていくためには、この「世界観の明確化」は「日々の選択との接続」と密接に関係しているんだろうと思う。
世界観とは、外側ではなく内側から始まっているものだと思う。
生きるうえでの、ものの見方や感じ方。
たとえば
「人の可能性を信じたい」
「優しさの循環をつくりたい」
「不条理に対して声を上げる勇気を持ちたい」
それらは決して「正解」ではなく、「自分にとっての真実」であり、「願い」なんだろう。
世界観は、社会に合わせることで磨かれるものではなく、自分の内側に問いを立て続けることで、研ぎ澄まされて、育まれていくものなのかもしれない。
いくら素敵な世界観を言語化できても、それが「日常の行動」に結びついていなければ、ただの空想にとどまってしまう。
「対話を大切にしたい」
という世界観を持っているなら、意見が対立したときに相手を否定せずにまず聴く、「分かりあえないこと」も含めて関係を続ける覚悟を持つ、そうした行動に落とし込むことこそが重要になる。
これはもしかしたら「言語化」よりも「翻訳力」の方が近い表現な気がして、世界観と現実世界との橋渡しをしているようにも思う。
周りを見ると、自分の言葉と行動が一致している人は、周囲からも信頼されている。
それはたぶん外から見て、世界観がブレていないからだと思う。
そして、この信頼は人間関係だけでなく、自分自身への「自己信頼」にもつながっているんだろうと。
小さな選択を丁寧に積み重ねているからこそが、自分の世界観を現実にできているんだろう、一貫できている人を羨ましく思う。
長く福祉の現場にいると様々な人と出会いがあるが、その中でも「人の尊厳を守る関わりを大事にしたい」という世界観を持っている方がいる。
その方は仕事の現場で、業務的に扱われがちな瞬間にも、できる限り人としての礼儀を大切に接することを欠かさない。
その姿勢は派手ではないが、本人にとっては「世界観を生きている」確かな実感であり、その誠実さが周囲にも優しい空気を届けているように感じる。
「自分が生きたい世界観で生きる」ことは、派手な自己主張や夢の実現とは異なる気がする。
それはむしろ、日々の何気ない選択の中で、自分の大切にしたい価値観に一歩ずつ忠実であろうとする、静かで力強い生き方なのかもしれない。
そう在りたいと思うが、それがとても難しいんだなー(笑)
自分の思いが周囲の音にかき消されないように、まずは自分自身が自分の味方であり続けること、その積み重ねが、やがて周囲の世界と自分の世界に優しく波紋を広げていくのだと思う。
世界観を生きることは、「静かで力強い選択の積み重ね」なんだろうな。