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加藤雄一のブログ

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自分が生きたい世界観

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自分が生きたい世界観
「自分が生きたい世界観で生きる」
 
たぶん、自分を含め多くの人は無意識にその方向に向かっているんだと思う。
 
社会の常識や他人の期待に流されず、自分の信じる価値観を軸に人生を築いていきたい。
 
 
そう思っているんじゃないかな。
 
 
それは単なる理想の追求ではなく、自分の中にある「こうありたい」という想いに、忠実に生きたいという表れなような気もする。
 
 
突き詰めて言えば、主体的に人生をデザインしていくためには、この「世界観の明確化」は「日々の選択との接続」と密接に関係しているんだろうと思う。
 
 
 
 
世界観とは、外側ではなく内側から始まっているものだと思う。
 

生きるうえでの、ものの見方や感じ方。
 
 
たとえば
 
「人の可能性を信じたい」
 
「優しさの循環をつくりたい」
 
「不条理に対して声を上げる勇気を持ちたい」
 
それらは決して「正解」ではなく、「自分にとっての真実」であり、「願い」なんだろう。
 
 
世界観は、社会に合わせることで磨かれるものではなく、自分の内側に問いを立て続けることで、研ぎ澄まされて、育まれていくものなのかもしれない。
 

いくら素敵な世界観を言語化できても、それが「日常の行動」に結びついていなければ、ただの空想にとどまってしまう。
 
 
「対話を大切にしたい」
 
という世界観を持っているなら、意見が対立したときに相手を否定せずにまず聴く、「分かりあえないこと」も含めて関係を続ける覚悟を持つ、そうした行動に落とし込むことこそが重要になる。  
 

これはもしかしたら「言語化」よりも「翻訳力」の方が近い表現な気がして、世界観と現実世界との橋渡しをしているようにも思う。
 

周りを見ると、自分の言葉と行動が一致している人は、周囲からも信頼されている。
 
それはたぶん外から見て、世界観がブレていないからだと思う。
 
そして、この信頼は人間関係だけでなく、自分自身への「自己信頼」にもつながっているんだろうと。
 
 
小さな選択を丁寧に積み重ねているからこそが、自分の世界観を現実にできているんだろう、一貫できている人を羨ましく思う。
 

長く福祉の現場にいると様々な人と出会いがあるが、その中でも「人の尊厳を守る関わりを大事にしたい」という世界観を持っている方がいる。
 
 
その方は仕事の現場で、業務的に扱われがちな瞬間にも、できる限り人としての礼儀を大切に接することを欠かさない。
 
 
その姿勢は派手ではないが、本人にとっては「世界観を生きている」確かな実感であり、その誠実さが周囲にも優しい空気を届けているように感じる。
 

「自分が生きたい世界観で生きる」ことは、派手な自己主張や夢の実現とは異なる気がする。
 
 
 
それはむしろ、日々の何気ない選択の中で、自分の大切にしたい価値観に一歩ずつ忠実であろうとする、静かで力強い生き方なのかもしれない。
 
そう在りたいと思うが、それがとても難しいんだなー(笑)
 
 
自分の思いが周囲の音にかき消されないように、まずは自分自身が自分の味方であり続けること、その積み重ねが、やがて周囲の世界と自分の世界に優しく波紋を広げていくのだと思う。
 
 
世界観を生きることは、「静かで力強い選択の積み重ね」なんだろうな。

ワオ!と言っているユーザー

もしもテトリスの一本棒が、いつまでも落ちてこないとしたら

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もしもテトリスの一本棒が、いつ...
少し上向きになると、なんとなく期待がふくらみ、そしてついつい期待をふくらませ過ぎて、落ち込む。
 
 
いくつになってもそんな自分がいる(笑)
 
 
もどかしさはいつしか無くなるけど、期待していた通りの楽しい時間を作りたいという欲望は、いつしかテトリスみたいに積み上がり、どこかで一本棒が落ちてくるような別の期待が湧いている。
 
そんな自分を面白がりながら、必死に悪あがきをしている自分にちょっとした失望もして、そしてそんな自分が幼子みたいにかわいく思ったりもして。
 
そんなに可愛いくはないんだけど(笑)
 
 

期待は
 
「こうあるべき」
 
「こうあった方がいい」
 
という結果への執着を含むけど
 
 
信頼は
 
「今の自分を認め、育てていく」
 
そんな姿勢のように思う。
 
たとえば、「うまく話さなければならない」ではなく、「今できる範囲で心を込めて話そう」と自分を信じることと励ましみたいな 、そんな感覚。
 
もしかしたら、「期待」は自分に対する「信頼」の裏返しのような気もしたりして。
 
 
 
期待しすぎず、今のベストを尽くすことがまた次への成長の鍵になる、なんて言われたりしても、ついつい焦る自分もいる。
 
 
そうやって自分に対する「無意識の重圧」を押し付けてしまっている自分がいることもまた、覚知しているんだけど。
 
 
「無意識の重圧」は目には見えないけれど、日々の判断や行動に静かに影響を与えている「心の空気」のようなもののような気がしていて、時に穏やかに時に荒ぶって、なかなか自分にはコントロールが難しい。
 
そこには
 
「常に役に立たなければいけない」という思い込みや、「失敗してはいけない」という自分が身を置く環境の文化的プレッシャーを、勝手に自分が作り上げている決めつけなんかがあるんだろうね。
 
 
たぶんだけど。
 
 
特にケアや教育の現場では、自分が誰かの役に立っていないと存在価値がないように感じてしまうことがある。
 
 
思うままに動いてみたり顔色をうかがったりするから、それが過度な自己犠牲や疲弊につながったりして。
 

表には出さなくても、「ミス=能力不足」という価値観が心の内にあって、失敗を極端に恐れてしまう。
 
それこそが失敗を招いたり。
 
結果として、挑戦を避けたり、自分を責めたりしてしまう傾向があるのかな。
 
 
 
あとは
 
 
 
 「期待されている自分像」に応えようとする無意識の緊張だったり、「まだ足りない」と感じ続けるから、自己基準のハードルがどんどん上がったり。
 
 
たとえば
 
「あの人に頼めば何とかなる」
 
とか
 
「頼れる存在だよね」と言われ続けていると、それを裏切ってはいけないように感じになって、感情を抑え込むことがあったり。
 
それがさらに「もっとできるはず」と内面で自分に対するハードルを上げたりしているんだろうさ。
 
 
こうした無意識の重圧に気づくことが、「自分に期待しすぎない」ための第一歩なんだと思うけど、期待しないのもまた、いつも頑張っている自分に失礼なような気もして。
 
 
それはたぶんこれからもなかなか手放すことはできなくて、手放すというよりも、「そのプレッシャーは、どこから来ているのか?」と問い直すとか、いろんな方法を試みながら、「期待」から優しく距離を置く感覚で付き合っていくんだと思う。
 
 
いつかテトリスの一本棒みたいなものが落ちてきますように。
 
そんな感覚は、たぶんこれからも無くなることは無いかもしれないけど(笑)
 
 
自分への「期待」との付き合い方。
 
 
優しくしてるんだか、辛くしてるんだか、ちょっとよくわからないけどね(笑)

ワオ!と言っているユーザー

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