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加藤雄一のブログ

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キャパを超える意識を持つ大切さ

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キャパを超える意識を持つ大切さ
以前、転職を考えていた時のこと。 
 
 
とある経営者に
 
「自分の器以上のことはしない方がいい」
 
「私は自分の器の大きさを知っている」
 
と言われたことがあった。
 
 
 
人は誰しも
 
自分の「キャパ」(容量・許容範囲)
 
というものを持っている。
 
 
ただ
 
 
その枠の内側だけで生きていると、成長や変化の機会は限られてしまうことに、ボクはずっと違和感を感じていた。
 
そんな当時のボクは
 
「キャパを超えるかもしれない」
 
と感じる領域に、あえてイタズラに踏み込んでみることに面白さを感じていたのかもしれない。
 
 
思考や行動の枠を広げようとすることに興味があったんだと思う。
 
 
一方で
 
無理や背伸びを推奨するかと言ったら、決してそうではない。
 
今の状況を踏まえて、アクセルを踏み込むタイミングをうかがうのは、得意な方だと、自分では思っている。
 
 
そこを無理して踏み込んだと思える経験が、一度だけあったな(笑)
 
 
 
「キャパを超える『意識』を持つこと」
 
は、むしろ自分の限界を丁寧に見つめ、そのギリギリに触れることで、成長を刻もうとする勇気のあらわれだとも思う。
 
 

人は、やってみて初めて「どこまでなら大丈夫で、どこから苦しくなるか」を知ることができる。
 
 
つまり
 
『少しの背伸び』
 
をしてみることではじめて、キャパの正体を自分なり言語化できる。  
 

これはたとえるなら
 
少しだけ重い荷物を持ってみることで「これ以上は腰にくるわー」とわかるのに似ていている(笑)
 
 
日常の中で自分をあまりにも守りすぎていると、逆に「自分の限界がどこなのか」が不明瞭になり、突発的なストレスに弱くなってしまうと、ボクは思っている。
 
 
自分のキャパに向き合い、時にそこをあえて越えてみようとすることで、自分にとっての『エネルギー配分』や『休息の取り方』をより的確に調整できるようになっていく。
 

そうやって
 
キャパの外に出る経験を繰り返すと、今まで「無理」「自分には向いていない」と思っていたことにも、『やってみる価値があるかも』と感じられるようになる。
 
 
 
つまり
 
 
未知=不安ではなくて「まだ慣れていないだけの領域」と捉え直す力も育ってきているような気もする。  
 

たとえば
 
これまで避けていたプレゼンや新しい人間関係をつくろうと踏み出したとき、
 
「思ったより大丈夫だった」
 
「これなら次もやれるかも」
 
と、良くも悪くも、それは小さな成功体験として積み上がっていく。
 
 
それは自己効力感やチャレンジへの充実感を通して、結果的に人生の選択肢を広げるものになっているように思う。
 
 

そして皮肉なことに
 
人は「キャパを超えたとき」に初めて、「ひとりではどうにもならない」という現実と向き合う。
 
 
そこではじめて
 
『助けを求めたい自分がいる』
 
という、誰かを頼る行為が選択肢に入ってくる。
 
 
助けを求めることは、弱さではなく「持続的に自分を扱う力」だと思っている。
 
 
それは、自分の限界と対話したことのある人にしか育たない資質でもあるとボクは思う。
 
 
キャパを超える体験は苦しさや混乱を生むようでいて、一方で実は「自分らしく成長するために何が必要か」を考えるきっかけとなっているような気がする。
 
 
失敗や後悔を積み重ねるのもまた、自分に合った仕組みや支えを設計するための力を養っているのだと、自分に言い聞かせてみる😊

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外向型か内向型か、の前に大切にしたいこと

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外向型か内向型か、の前に大切に...
私自身も様々学んできましたが
 
「〇〇タイプ」
 
「□□キャラ」
 
「~~型」
 
「外向型か内向型か」
 
のような分類は、自分や相手の性格傾向を理解する手がかりとして、とても有効なもので、学んだことでとても生きやすくなった。
 
 
それと同時に
 
それらの枠に縛られるような感覚もあって、「本来の自分」みたいな感覚や「思い込みによる可能性の制限」があるような気がするのもまた、現実。  
 
 

ボク自身が本当に大切にしたいのは
 
「どちらの型か」
 
よりも
 
「どんなふうに人と関わり、どう生きたいか」
 
という自分なりの価値のある意図と感受性。
 
 
その視点を持つことで、分類を超えた自己理解と、穏やかに受け止められるようになった他者理解が育まれているように思っている。
 
 
 
外向型・内向型という言葉はなんとなく便利な気がして、ただそれは、あくまで「傾向」であって、「定義づけるもの」ではない。
 
 
人は誰しも、外向的な要素も内向的な要素も両方持ち合わせており、それは状況や心の状態によって流動的に変化するものだと思っている。
 
 
たとえば
 
普段は内向的で静かな人が、安心できる仲間の中ではやたらとおしゃべりになったり、逆に外向的な人が、人前に立つプレッシャーで言葉に詰まることもある。  
 
 
後者はめちゃくちゃ自分に当てはまる(笑)
 

つまり、重要なのは「私は◯◯型だからこう振る舞う」ではなく、「今の私は、どんな状態にあるか」という自己観察と、「だとしたらどうする?」という選択の自由を自分なり持つことなんじゃないかと。
 
 
固定的な分類に自分を閉じ込めない方が、可能性を広げてくれる気がする。
 

また
 
「内向型だから一人でいたい」
 
「外向型だから多くの人と関わりたい」
 
などとよく聞くが、それはその人の「癖」や「心地よさ」を示しているだけで、常にそう在り続けているわけではない。
 

関係性によって常に「化学反応」が起こっていて、ある人といるときは落ち着けるのに、別の人といるときには神経が張り詰める、そんなことも日常茶飯事のこと。
 
 
自分がどの型かよりも、「この関係の中で自分はどう感じ、どんなふうに関わりたいのか」といった、「関係の質」を意識する感度の方がずっと大切なのだと思う。  
 
 
そして

ボクが性格のタイプ以上に重視したいのが
 
「自分はどんな場に身を置きたいか」
 
「どんなつながりを育みたいか」
 
という自分にとって心地の好い、「在りたい世界への意図」みたいなもの。
 
 
たとえば、人と深く関わりたいという気持ちがあっても、それをどう表現するかは人によって異なるはず。
 
 
外向的に盛り上げながら場づくりをする人もいれば、外向的であっても静かに一人ずつの対話を大切にする人もいる。  
 

つまり
 
「外向型の方が社交的で価値がある」
 
「内向型だから共感力がある」
 
といった一面的な評価ではなく、自分の在り方が「何を育もうとしているか」という意図を軸に据えることが、結果的にその人の魅力を最大限に育ててくれるような気がしている。
 
 
これはある意味、「外に出るか中にこもるか」ではなく、「どんな世界と、どう関わりたいか」という問いなんだと思う。
 

外向型か内向型か、という分類は「便利な地図」みたいなものかと思うけど、それを「目的地」にしてはいけない。
 
本当に大切にしたいのは、自分自身との正直な対話と、在りたい方向への感性。  
 

「今の私はどう感じているか」
 
「誰と、どんな場をつくっていきたいのか」
 
 
そう問い続けることで、タイプを超えた生きた関係性が育まれていく。
 
そしてその柔らかくしなやかな在り方が、自分にも他者にも心地好い居場所をつくってくれるのだと思っている。

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