<グーグルロゴ>(82)「オスカー・シュレンマー生誕130周年」
9月
4日
職業芸術学校で、ドイツの風景画家<クリスチャン・ランデンベルガー>さんや<フリードリッヒ・フォン・ケラー>さんから芸術を学びます。
1912年には、同じくドイツの画家<アドルフ・ヘルツェル>の弟子となり、さらに芸術を学びました。
1920年に結婚したことを機に総合芸術の学校「バウハウス」で働くようになります。
最初は彫刻のアトリエで人間工学の授業を行っていましたが、徐々に、舞台上での芸術も追求していきます。
1922年、前衛的で奇抜なデザインの衣装を着たダンサーによるバレエ「トリアディック・バレエ」を上演。3人のダンサー、3つの幾何学基本形のデザイン(立方体、円錐、球体)、3つの場面など、「3」にこだわった舞台でした。
幾何学デザインの衣装を着たロボットのような動きの舞台は、当時としては斬新なものでした。これが話題となり、1923年からは「バウハウス」造形主任を務めることになります。
ところが、ドイツでは1930年にさしかかるころからナチスの影響が強くなり、彼のような前衛的な芸術は「退廃芸術」とされてしまい、1929年に「バウハウス」を辞めさせられてしまいます。その後は、「ブレスラウ美術工芸アカデミー」に移りますが、世界恐慌のあおりを受け学校は閉鎖となり、1932年、「ベルリンの国立美術工芸学校」に移ります。
そこで、彼の絵画の代表作である「Bauhaustreppe」。(1932年)を制作。ナチスの影響がさらに強くなってくると、スイスの国境近くへと移住。そこのアトリエで晩年は芸術活動を続けました。そこで、家事に携わっている隣人を観察しながら、「Fensterbilder(Window Pictures)」と名付けられた18の小さな絵画が描かれました。(1942年)これが彼の最後の作品とされています。