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鉄労から見た当局の生産性運動

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生産性運動当時の組合の相関図を... 生産性運動当時の組合の相関図を模式的に書いてみました。
鉄労は結成当初から生産性運動を提唱

生産性運動は、鉄労にしてみれば組合結成当初(新国労時代)からの理念であり、
生産性運動の3原則

  1. 雇用の維持拡大

  2. 労使の協力と協議

  3. 成果の公正な分配



が、その根底にあるものであるとしていました。

食い違う組合の考え方

鉄労にしてみれば、国鉄当局が合理化を推進するために、生産性運動を導入したという考え方に立っていたの対し、国労・動労は鉄労が当局の施策に乗っかってちゃっかり組合員を増やしているという発想になったわけです。

実際は、鉄労が新国労と呼ばれた時代から生産性運動の理念を提唱しており、合理化の推進は生産性を高めることであるとして、合理化に反対であった国労・動労の反合理化闘争とは一線を画すものでした。

当局の生産性運動は、方向が間違えていると指摘

そんな中、当局の生産性運動は、粗製濫造気味で正しい生産性教育がなされていないのではないかと危惧しています

国鉄民主化への道 P494から、少し長いですが引用します。

最近特に注目されることは、国鉄当局が、管理者、職場の中堅職員に生産性運動を徹底的に行っているという事実であります。私たちは経営者が生産性教育を実施するのは当然のことだと思いますし、我が国の有識者の手によって、昭和30年から発足したこの運動を、昨今要約取り上げたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘してたところであります。
それだけに、国鉄当局が進めている生産性教育が、効果的で正しく普及することを期待するものでありますが、現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に昇華されようとしている事実が随所に現れつつあります。(中略)私たちが正しい生産性運動の理論を身につけることは、当面の重要でかつ急を要する課題だと思います。


引用終わり

と有りますように、本来に生産性運動の理念は、生産性向上による、雇用の増大であり、労働者(のみに限りませんが)への富の再配分が目的でした。
以下は、「生産性運動に関する3原則 」と呼ばれるもので、日本生産性本部が掲げている、本来の生産性運動の理念を現したものです。

(1)雇用の維持・拡大
生産性の向上は、究極において雇用を増大するものであるが、過渡的な過剰人員に対しては、国民経済的観点に立って能う限り配置転換その他により、失業を防止するよう官民協力して適切な措置を講ずるものとする。
(2)労使の協力と協議
生産性向上のための具体的な方法については、各企業の実情に即し、労使が協力してこれを研究し、協議するものとする。
(3)成果の公正配分
生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする。

国鉄当局のミスは、生産性運動の自製化

生産性運動の理念では、生産性の向上は資本家による搾取でもなく、むしろ雇用の拡大であり、富の再配分であることが明記されています。
国鉄の生産性運動も当初は、日本生産性本部の職員が、研修を行っていましたが、生産性運動の拡大を目指した当局は、生産性運動の自製化を進め、学園等で国鉄職員による研修が行われたことから、鉄労が指摘しているように、粗製濫造と言えるような間違った生産性運動が誤った形に昇華されようとしていると危惧していますが。
図らずも、この鉄労の危惧は現実となり、国労が始めたマスコミを買収してのマル生撲滅キャンペーンにより、こうした誤った生産性運動が報道されることとなり、国鉄当局は苦境に追い込まれることとなりました。

その辺は次回改めて記述してみたいと思います。


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生産性運動と国労 生産性運動中止へ 第二話

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今回参考にした、鉄労友愛会議著... 今回参考にした、鉄労友愛会議著、国鉄民主化への道、並びに国鉄労働組合四〇年史を参照しながら書いています。
国労、動労が不当労働行為の証拠を積み上げていくとしていた時期、鉄労の方はどのような状況であったのでしょうか。
鉄労の、国鉄民主化への道を参照しながらお話しをさせていただこうと思います。
ストライキか合理化か・・・揺れる国鉄と、春闘
さて、当時の国鉄はどのような状況だったのでしょうか。
国鉄を含む公労協が5月20日に24時間ストを計画しているとして公共企業体等労働委員会 以下公労委と略す)の合同調停委員会は、19日夕方から三公社五現業の賃金調停作業に入るべく準備をしていたそうです。・・・しかし、所定の時間になっても一向に国鉄労使が姿を見せなかったそうです。
公労委としては、国鉄のストライキを回避させるためのものであったにも関わらず、国鉄のこうした態度に公労委の委員もいらだちを隠せなかったと言われています。

交渉に現れなかったのは、国鉄の合理化交渉を優先したため

現れなかった理由は、国鉄当局としては合理化問題の目処が付くまでは賃金問題に入らないとして、合理化問題の交渉を続けていたそうです。
国鉄としては、機関助士廃止闘争でも、かなりの譲歩をせざるを得なかったことや、国鉄の収支改善についてすべきことはしていきたいという思惑もあったと考えます。

この日の交渉では、21時を回っても国鉄から連絡が無く、公労委から電話をかけても差大あり要領を得ないとして、時間は流れ、国鉄常務理事、職員局長の真鍋が公労委に現れたのは、23時であったそうです。
真鍋としては、生産性運動をじっししているなかで、生産性運動と合理化はセットであり、国鉄再生のためには合理化が先決と考えていた節もありますし、むしろストに突入させたいという政治的意図なのか・・・その辺は判らないままに交渉は開始されたそうです。
労働者側の主張は1万円、使用者側は8621円【前年並み】を主張して、交渉は難航、20日になり国労・動労はストライキに突入、明けての20日午前9時30分、合同調停委員会が開催されて、「調停委員長共同談話」の形で発表されました。
調停委員会の提示した最終案は、8%プラス2,300円で、国鉄の場合は引き上げ額は7,785円で、これに定期昇給の1,995円をプラスして、9,780円で妥結することとなったそうです。
これにより、国労・動労を除くストライキに入っていたたの公労協の組合はストライキを中止しましたが、国労と動労は「生産性運動と不当労働行為を直ちに中止すること」を掲げて午後7時までストライキを行ったと書かれています。

この辺を改めて、国鉄労働組合四〇年史を参照しながらお話しを進めたいと思います。
以下は、国鉄労働組合四〇年史 「マル生」攻撃に抗してと言う記事から引用します。
(71春闘5・20決戦スト)

71年春闘は、5月の中旬以降の最大のヤマ場を迎えることになった。すなわち、13、14日の強力順法闘争、団交の決裂、調停作業の難航という情勢の中で、ついに20日、春闘の決着を付けるべく公労協の統一ストライキが実施された。公労協の他の組合がストを中止した後も、国労・動労は完全共闘の姿勢を崩さず19時間にわたるストを打ち抜いた。


引用終わり

この時期は、反合理化、生産性運動反対と言うことでその方針は一致していますので、動労とは共同歩調を取っていました。
こうした生産性運動が行われていた、昭和46年にはストでも電車が動くという不思議な事例があったようです。
それは、鉄労を中心とした組合員や、自発的にストに参加しなかった職員が居たからに他なりませんでした。
その辺を再び引用させていただこうと思います。

国労・動労は激しいストライキに対する妨害等があったと主張

もちろん、このストライキに対しては当局側による激しい妨害が行われた。例えば、スト不参加を求める大々的な署名運動、利益誘導。家庭訪問等による国労・動労からの脱退強要、スト破りの妨害工作などが、鉄労・「マル生」グループの総掛かりで行われた。そうした攻撃にもめげず、「国労・動労完全共闘」によるストが打ち抜かれたことは。組織防衛のたたかいと同時に、「職場からの反撃運動」を構築するうえで極めて大きな効果があった。


引用終わり。

とされています。
このように、国労は動労との共同戦線として、反合理化闘争並びに生産性運動反対を掲げて共闘していくこととなりますが、鉄労による切り崩しがあったことを認めています。
次回は、鉄労側からの視点で見た、勧誘などについて改めて確認してみたいとお思います。

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生産性運動と国労 生産性運動中止へ 第一話

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記事を作成するに際して、参考に... 記事を作成するに際して、参考にしている資料
動労運動三〇年史、国鉄労働組合四〇年史、国鉄民主化への道・・・等
生産性運動に対して決め手を欠く、国労と動労
生産性運動に関しては、国労自身が組織の危機を感じて本格的な反論を開始したのが、昭和46年1月に入ってからでした。
前述の、「ウソだよ生産性運動」(初期はクタバレ生産性運動だったそうです)のような、ビラを配布したり、あの手この手で、生産性運動を批判していました。

特に、昭和46年1月以降、国労は「総力戦」の方針を固め、従業員意識(「国鉄一家」意識)の払拭、階級意識に立った労働組合運動の継続発展、簡単に言えば、職制は、資本家階級の使用人であり、労働者階級の敵であると言う意識付けであり、鉄労はこうした手段を、マルクス・レーニン主義そのものであると厳しく批判しています。

なお、この時期に国労が取った手法は、以下のような方法でした。

「確認メモ」の取り交わし
当局側の不当労働行為と思われる行為を見つけたら、その都度メモをする、いわゆる告発運動を展開する。

こうして、実際には行き過ぎた行為(助役による。加入を促す行為や、組合のよる差別的待遇等】もあったと国労では書いていますが、その辺はもう少し調べてみる必要がありますが、後に不当労働行為を促すような発言をしていたとして、これが原因で生産性運動自体が中止に追い込まれることになりました。

ここで注目しておくべき事は、生産性運動に関しては、国労・動労は階級闘争の中で反合理化闘争絡みで、生産性運動には反対せざるを得ないというか、理念とは相容れないわけです。

鉄労は、むしろ生産性を上げることで、職場環境の改善を目指しているので生産性運動を反対するものではありませんでした。

共同歩調を歩むこととした、国労と動労

さらに、国労と動労では多少とも理念が異なっていましたが、生産性運動で増加している鉄労への加入を止めるという点では、双方に利害が一致していることから、その部分だけで、昭和46年1月以降は共同歩調を歩んでく行くこととなりました。

国労・動労各々の言い分を、各組合運動史などから引用してみたいと思います。

動労:当局は職場における組合壊滅を目的に、ワッペン、バッジ、集会、デモ、掲示板など全ての職務活動に徹底した介入と規制を行うかたわら、動労組合員なるがゆえをもって、昇給・昇格・昇職・宿舎入居・勤務などに不当な差別を強行し、それを背景に職制を総動員して、動労脱退→鉄労加入の工作を公然と行い、鉄労の育成とその育成強化に躍起になっていた・・・・

動労三〇年史 下巻

と書かれており、当局の人間が不当労働行為を行っていると書かれていました。

国労も似たような感じであり、旭川地本が当局に対して下記のような申し入れを行ったという記述が見られます。

旭川地本は、当局との間で不当労働行為の中止・労使関係正常化をはじめるにあたって、つぎの事項についての意思統一を行った。

  1. 一連の不当労働行為に抗議するため「団交」を停止し、当局がその不当性を認め、それに対する措置と今後やらないという確認、実証が示されるまで団交は再開しない。「団交再開」の場合は、組合の基本要求の選考解決を前提条件とする。

  2. それらの問題が競りされるまで、三六協定の締結はしない。

  3. 労使関係の正常化を図るための折衝【交渉】は。委員長と局長会見の結果で決める。



以上の事項について、現場の了解を得、「不当労働行為、不当処分、差別取り扱い」などの問題につき当局との会見が行われた。その結果、当局との間で次のような「確認」がなされた。(71.6.3)


  1. 不当労働行為と疑いを持たれるようなことは、今後やらないよう十分指導・徹底する。

  2. 局の課員に対し、組合所属の相違によって差別的な扱いはしない。

  3. 鉄労への加入招へいなどは組織介入であり、やれるものでもないし、やらない。

  4. 処分については十分慎重に取り扱う。




【国鉄労働組合四〇年史 第二章 マル生攻撃に対して P182から引用】

といった内容であり、国労も動労も、当局が不当労働行為を働いているという点では一致していますので、どのようなものであったのか。
資料を探すか、証言を得るしかないですが、逆に急がないと全てが闇となってしまいそうです。

このように、国労も、動労も不当労働行為があるという証拠を積み上げていくことで、国鉄当局を追い詰めていくことで生産性運動を追い詰めていこうとしますが、未だ決定打と言えるところには到達しているとは言えませんでした。
その後、マスコミを味方に付けるため、当時としては破格の宣伝費を投入して、反マル生運動キャンペーンを張っていくこととなり、この頃から風の向きが変わり始めていくのでした。

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山陽新幹線 岡山開業 番外編

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長らく労働運動の話ばかりが続いていますが、その辺は特化したblogに任せて、国有鉄道史に戻りたいと思います。

新幹線岡山開業前後の話
昭和47年3月には、山陽新幹線の延長区間として、新大阪~岡山間が開業することとなりました。
この開業はあくまでも暫定的であり、昭和50年に博多開業が予定されているため、改正自体は小規模なものとなり。
大阪始発の九州特急も数多く残る結果となりました。

山陽新幹線と遣い同新幹線の建設基準>
以下の通り簡単にまとめてみましたが、曲線半径が4000mと広くなり、最急勾配も15‰以下となっています。
また、レールは60kgレール(より正確には60.8kgレール)が採用され、東海道新幹線の50T(53.3kg)レールよりも重軌条化が進んでいました。
スラブ軌道が多用された、山陽新幹線
スラブ軌道が多用されたのも、山陽新幹線の特徴でした。
スラブ軌道は、保守の省力化を目的とした直結軌道の一種で、昭和45年頃から、東海道新幹線名古屋駅および岐阜羽島駅構内等で試験的に施工され、その成果を踏まえて、山陽新幹線 新大阪~岡山間の帆坂・神戸トンネル、その他高架橋の一部スラブ軌道が採用されたほか、山陽新幹線の岡山から博多間もスラブ軌道が採用されました。
スラブ軌道
スラブ軌道は、長さ約5m、幅2~2.4mの鉄筋コンクリートスラプ(ブロックを高架橋上あるいはトンネル内に連続して敷設し、基礎とスラプの間、およひどスラプとスラプの間には緩衝材を設けて支持するもので、緩衝材部分と締結装置部分でスラプ位置の調整、狂いの整正を行なうものです。
工場で精度の高いコンクリートスラブを製造できる反面、路盤とレールの間に減衰効果を生む隙間がなく、列車走行時の騒音や振動が大きくなる傾向があり、近年は騒音問題の観点から、他に軌道敷設方法(弾性まくら木直結軌道)などが採用されています。
建設基準
岡山開業で変化する列車パターン
それまでは、超特急が「ひかり」特急が「こだま」となっていましたが、新幹線岡山開業では、そのパターンが崩れ、岡山まで乗り入れるのは基本的に「ひかり」のみとなり、「こだま」は東京~新大阪間の列車および、早朝・深夜の区間列車のみとなり、ひかりは下記のように3種類の列車としました。
    Aひかり 新神戸・姫路に停車するパターン

    Bひかり 岡山までの各駅に停車するパターン

    Wひかり 岡山まで無停車

Wひかりとは、「西行き(West)の意味」で、九州・四国・伯備線方面のスピードアップを目的とした列車としています。
当時の時刻表で確認すると
Wひかり・・・・ひかり 1~8号
Aひかり・・・・ひかり21~44号
Bひかり・・・・ひかり51~78号
であり、下図のようなパターンで運転されています。
新幹線岡山開業

この改正は、暫定開業であり3年後の昭和50年3月には、博多開業が予定されているため、「つばめ・はと」が岡山発着になりましたが、その他長距離特急はそのまま温存され、大阪発西鹿児島行きの特急「なは・日向」や「かもめ」「みどり」と言った長距離列車は大阪発で残りました。(「かもめ」は、京都発着)

続く

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鉄労から見た生産性運動

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マル生闘争資料集から、マル生調... マル生闘争資料集から、マル生調査団を歓迎する張り紙を貼る組合員
生産性運動は、鉄労の結成当初からの基本理念
生産性運動は、鉄労の結成当初からの基本理念であったことから、国鉄が生産性運動を導入したことは、遅すぎると批判することになります。

その辺を、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」からみていきたいと思います。

国鉄当局が生産性運動にとり組んだ背景は

最初に国鉄が生産性運動に取り組んでいく背景には、もちろん厳しい労使関係がありました。、
昭和41年には累積積立金を食い潰し、昭和46年には償却前で赤字を計上するなど、国鉄の財政再建は急務となっていました。
そうした意味では、国鉄が緊急に立て直すために生産性運動に取り組むことは喫緊の課題でした。

生産性運動自体は、国鉄職員の中に浸透し、使命感に燃えて「俺がやらねば誰がやる」的な雰囲気を醸していく事になりました。
これにより、国労・動労の脱退者が相次ぎ、その対応に追われることになりました。

青年組合員の対応に悩む国労・動労

そんな国労・動労にあってもう一つの厄介な問題が青年組合員の先鋭化でした。
若手(1970年代ですから、団塊の世代と呼ばれる戦後教育を受けた世代)の一部活動家が反戦青年委員会(革マル派の影響を受けている)の指導の下、先鋭化していくのでした。
そこで、国労は排除する方向に動くのですが、動労はむしろ育成する方向に動いたため、松崎明を強くすることとなり、鬼の動労という異名を持つほどに先鋭化していく事になりました。

これは、国有鉄道1970年9月号 P19には、その辺の事情が書かれていますので引用してみたいと思います。

国労の大会運営で特に注目されたのは、一般経過報告に対する質問では、ほとんど青年層を指名し、青年の意見を何とか汲みあげ,組合の老化現象を無くそう,と努力していたことである。

動労のほうは,青年対策というより,反戦青年委をどう、育成強化するかに苦慮している様子でもあった。


とあります、

誤解の無いようにお話をすれば、動労自体は元々、比較的穏健な職人肌の組合だったのですが、上記の反戦青年委員会の青年組合員らを動労本体が育てて行ったことから、組合は先鋭化していったわけです。

さて、こうしたことを知っていただいた上で、鉄労の視点から見た国労のお話をしていこうと思います。

国労が当局の生産性運動を真似た演出で大会開催?
鉄労編纂、国鉄民主化への道では、昭和46年の国労大会の様子を以下のように記しています。

国鉄民主化への道 P482から引用させていただきます。
どこの組合でも大会や闘争の時、皆の気持ちを一つにまとめて昂揚させるため、いろいろ演出する。生産性運動の場合も組合大会も似たり寄ったりだ

長崎大会の幕あき----収容人員1200人の公会堂は消灯され、闇の中に白いワイシャツ・鉢巻き姿の60人の青年が、薄青の明かりに浮かび上がり、原爆許すまじ」を合唱し・・・中略・・・大会準備委員長がスポットライトを浴びて演壇に立つと同時に緞帳が上がり、執行部の並ぶ舞台が現われ、正面に大きく「職場に労働運動強化を」というスローガン---と言うわけである。


と言った演出が行われているのですが、これは国鉄の生産性運動とほぼ同じような演出であり、国労も当局と同じような演出をしていながら、当局の演出には神がかり的ないわゆる洗脳的儀式であると笑っている事への矛盾を批判しています。

なお、国労自身がこのような演出を行った背景には、反戦青年委員会を中心とする若手の台頭があったからと言われています。
前述のように、国労の大会運営は、一般経過報告に対する質問で、ほとんど青年層を指名し、青年の意見を何とか汲みあげようとしていたというところにも現れており、如何に青年層と執行部の意思疎通を図れるかと言うことに配慮していたことが伺えます。

労働運動・生産性運動に関する記述はこちらも、参考にご参照ください。

日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

日本国有鉄道 労働運動史(別館)
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マル生運動 国労の反発 第2話

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生産性運動で組合員減少に悩む国労
国労では、当初は傍観してたものの、国労を脱退して、鉄労に加盟する組合員が増えてきたこともあり、その対策に本腰を入れることとなるのですが、中々決定打が見つかりません。
国労は、広告会社などを使って、下記のようなチラシを作成して、組合員に配布するのでした。
一に洗脳、二に盲従、三,四で搾られ、五で追われ
最初に作られた、嘘だよ生産性運動のチラシ
大きなパイは誰のもの
その後作成された、同じく、嘘だよ生産性運動のチラシ

国労としては、生産性運動の不当性を訴えるための方策として、当局の生産性ニュースに対抗する目的で発行するのですが、国鉄当局は、第一号こそ立派な装丁ですが、その後は手書きの記事で良いとして、毎日発行することを目的として、発行が続けられました。
生産性ニュース

国鉄当局、職員局能力開発室が発行していた生産性ニュース

しかし、この程度のチラシなどでは、組合員の減少に歯止めがかからず、国労は有効な手段が無いという状況に追い込まれていくのでした。

国労視点から見た、生産性運動
ここで、国鉄労働組合40年史から、「マル生運動の浸透」と言うところから、当時の様子などを抜粋していきたいと思います。
そもそも国労からすれば、
国労から見た、生産性運動は

  • 鉄労組合員の育成

  • ストライキを行わせない組織の構築

  • 分会組織の分断、並びに弱体化


であると考えていました。
この辺を、国鉄労働組合40年史から引用してみようと思います。

・鉄労組合員の育成
鉄労は、「生産コストに見合った運賃を求めていくという企業経営の原則に基づいた経営システムを探るべきこと」を主張し、したがって、「ローカル線の切り捨て」、「生産性運動の向上に見合った運賃の値上げ」などに賛成した。・・・中略・・・磯崎総裁の労務管理の強化・慣行破棄の政策に諸手を挙げて賛成した。・・・中略・・・当局ー鉄労ー「マル生グループ」の一体化国労・動労という対抗関係の中で、不当労働行為が蔓延する様相が日増しに強まっていった。


・ストライキを行わせない組織の構築
鉄労は、「マル生運動」を推進する現場管理者や「マル生グループ」は国労・動労に対して労働組合の運動姿勢そのものの軌道修正と、ストライキ実施の回避を迫る攻撃を加えた。とりわけ70年に入ると、「ストはいっさいおこなわなせない」という組合対策が強引にすすめられるに至った。
中略・・・。国労・動労のストライキ計画に対しては、地本別・拠点箇所別に闘争内容及び戦術の整理がなされ、本部・地本・支部などの派遣役員、さらには動員数などが事前にチェックされた・・中略・・・当局の対応策としては、・・中略・・場合によっては50人をこえる公安官が配置された


・分会組織の分断、並びに弱体化
一方、職場での日常の組合対策では、企業意識=モラールの徹底的養成をはかること、また、組合分会や班組織の影響を職場から排除することがねらいとされた。


と書かれていますが、国労からしてみれば生産性運動の推進は、国労・動労の運動そのものを徹底的に破壊するものとして捉えていたわけですが、国鉄が赤字体質になっていった時点であり、生産性運動による一人あたりの生産性向上は喫緊の課題であったと思うのですが、当時の国鉄には労使共々そこまでの悲壮感はなく、従来の延長上での階級闘争(当局は、資本家階級であり、われわれ労働者(プロレタリアート)は搾取階級であるから、資本階級を打破しなくてはいけないとして運動していくのでした。
政策的に安く設定されていた石炭や石油類の輸送などは、卸売物価の転嫁を避けるためにできるだけ低い価格で設定されていたのは、資本家階級を利する為だといった論理だったのです。

さて、ここで素朴な疑問に気づいて欲しいのですが、スト権は民間会社に認められており、実際私鉄などでも結構きついストライキなどを実施していました。
しかし、国鉄は当時スト権があったのでしょうか?
答えは、否ですよね。
国鉄は、昭和24年6月の「日本国有鉄道」発足の際にはスト権が剥奪されていたわけですから、それ以後のストは全て違法状態の中で行われているストライキと言うことになります。
違法状態のストライキに対して、ストライキ回避の攻撃を当局が加えたとか、鉄労が漁夫の利を得るために、当局とマル生グループが協力しているといった、こうした組合員に対する洗脳?はその後の強烈な鉄労組合員に対する嫌がらせなどに続くことになるのですが、国鉄内で組合によるこうした差別的言動や、暴力があったのは重ね重ね残念です。

個人的には、磯崎氏が生産性運動を途中で投げ出してしまったことが、その後の国鉄解体までに一直線の線を引いてしまったように思えてなりません。

前述しましたが、政府は、石田氏同様、民間からの起用に拘ったわけですが、なり手がなくて止むなく、磯崎氏を総裁候補にすることになったのです。
しかし、「磯崎氏は社会党に近しい」ということで、自民党の一部から物言いが付いて、磯崎氏の総裁昇格が遅れたとも言われています。
このような経緯もあり、政府に認められたいとした焦りが、拙速な生産性運動の導入と、国会答弁で、中止を申し出るのも、結果的には本人の保身からであったと考えてしまうのです。
磯崎氏は、1973年9月21日に辞任、その後早稲田大学の教授を経て新都市開発センター(後のサンシャインシティ)社長に就任、1988年相談役で引退とされてなっています。

個人的な見解であることをお断りすれば、国鉄を民営化に向かわせる原因の一つを作ったのが、生産性運動であり、その責任者であった、磯崎氏の責任はこれまた重いと言わざるを得ないと思われます。

次回は、鉄労の視点から見た生産性運動について言及したいと思います。

続く

日本国有鉄道 労働運動史(別館)
日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

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マル生運動 国労の反発 第1話

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マル生運動に関しては国労は、一貫して反対の立場
マル生運動は、国労・動労は一貫して反対の立場を貫いていたことはご存じの通りですが。
国鉄当局のマル生運動に対して、国労は、「ここが変だよ生産性運動」という冊子を作成して、職場などで配布するのですが、中々実効的な効果は得られませんでした。

国労はマル生運動を、管理者による組合分断だと判断していた
国労はマル生運動を、管理者による組合分断だと判断していた
国鉄労働組合40年史を参照しますと、
「マル生」運動の浸透と言う項目で以下のように書かれています。
少し長いですが、引用したいと思います。
国鉄の職場で、「マル生」運動が公然と行われるようになったのは、1970年の秋に入ってからである。
この段階で、「職場管理」「労務政策」という言葉に名を借りた不当労働行為が全国いたるところでおこなわれるようになり、そうしたなかで「国鉄を守る会」、「国鉄を明るくする会」などの親睦団体の活動が全国各地に広まっていった。すなわち、「マル生教育」をみっちりたたき込まれた現場管理者が、「俺がやらねば誰がやる」と言った意気に燃えて具体的な行動を開始しし、それに賛同する「マル生」活動家たちが全国の職場で一斉に推進運動を展開し始めたのである。

とあるように、国労からしてみれば、生産性運動がどんどん大きくなっていく事への焦りがありましたが、既に大きな炎となりつつあった生産性運動の火は中々消すことが出来ずにいました。
いささか、国労の言い分だけをみていると本質を見誤りそうなのですが、当局がおこなっている労務管理は不当労働行為であるとして攻撃し、最終的には不当労働行為があったと認定されていくことになるなど、当局側の不備も目立っていきました。
当時の国労は、これを当局による分断闘争であるとして下記のように書いていました。
再び、国鉄労働組合40年史から引用したいと思います。
現場向けの具体的な労務管理の指針としては、全国的に概ね次のような内容の指導がおこなわれた。すなわち、「中間管理者(助役・指導・教導・営業・検査長など)の範囲を更に拡大し」、特に「助役を増やすことにより準管理者層を広げ」て管理体制の強化をはかりたい。・・・中略・・・「現場長を通じ調査。系統別部長の個別面接」をおこない、「要注意者」を洗い出し、それに対する「日常行動の監視」を実施し、他方で「良識派職員を中心にした懇談会」を開催しながら組合の質的変化を図るものである。
引用終わり

国労的視点から見ると以下のように集約できると言えます。


  1. 国鉄の赤字は、国が本来対応すべき線増計画とかを国家事業としておこなわず、国鉄という組織に独立採算制の元におこなわせた

  2. その結果、工事費等を市中の銀行などから高い金利で借りることとなった。

  3. そのツケは、合理化と運賃値上げに求めることにより実現しようとしている

  4. 国民の負担と合理化による、労働強化により、実行されようとしている

  5. それ故に、国民の足である国鉄は、この方針に対して断固反対しなくてはならない


と言う論調であったようです、実際には、昭和40年以降は、組合内の新左翼諸党派を中心とする、反戦青年委員会を中心とする青年組合員による政治ストなどが目立ち始めており、本来の組合運動が変質していくのもこの時期でした。


国鉄経営をどう捉えているか


ローカル線経営をどう捉えているか
国鉄マル生闘争資料集から抜粋したものですが、当時の国労の間崖方が良くわかるかと思います。

話があちこちと行ってしまいましたが、国労としては、合理化も生産性運動も資本家階級による搾取で有り、プロレタリアートである、労働者は団結して資本家階級を打破しなくてはいけないという、階級闘争を前面に打ち出す労働運動に足を踏み入れており、それに対抗するのが、生産性運動で有り、合理化であったわけです。

こうした基本的な打開策が見いだせないまま、国労はここが変だよ生産性運動というビラを作成して配布するようになりますが、この辺は次回にお話をさせていただこうと思います。

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組合に、本社幹部の人事権を握られる国鉄本社

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国鉄マル生闘争資料集... 国鉄マル生闘争資料集
生産性運動は、昭和46年10月には正式に中止(国鉄の公式発表では、研修資料の再検討)され、昭和45年から本格的に始まった生産性運動は、わずか1年半ほどで終焉を迎えることとなりました。
真鍋職員局長は、ローカル線担当の閑職に追いやられ、実質的な責任者であった、能力開発課長の大野氏も貨物局調査役に左遷されることとなりました。
このときに、副総裁と国労幹部との間で、組合の推薦で職員局長を決定するという、およそあってはならないことが行なわれました。

有ってはならないことですが、組合の意向で次の職員局長を決定してしまったことは、その後の国鉄の混乱を招く元となりました。

その辺りの事情を、「国鉄を売った官僚たち」 大野光基氏の著書を参考にしたいと思います。

氏の本の、第六章 崩壊の原点・魚は頭から腐る、磯崎の豹変と山田の反逆 P274~276に下記のように書かれています。
少し長いですが、全文引用したいと思います。

私はこの本でもたびたび引用した、国労編集の『国鉄マル生闘争資料集』という部厚い本をめくっていたが、突然次のような一ページに釘づけになった。
 活字を目で追いながら、私は怒りのあまり体の震えが止まらなくなった。
 それは「マル生闘争の歴史と教訓」という、三日間にわたって行われた座談会の記事であった。
 座談会の出席者は富塚三夫、谷合勝正、細井宗一、武藤久などの国労を代表するそうそうたるメンバーであった。
 その座談会記録の中の細井宗一がしゃべった次の一節を読んで、私はがく然としたのだった。
 「いや、あのときにわれわれの要求で、不当労働行為をやった直接の職制を処分しろというと、副総裁の山田明吉さんは『します』と約束したんですよ。
 ところが、いま谷合さんがいっておった管理局長会議を二日に分けて総裁公館でやったときに、管理局長から
 『私どもの部下を処分するなどということは絶対にやめてくれ、……』
 という意見が出て、処分できなくなったんですよ。
 そういう状況のもとで、ちょうど、一〇・二一のデモがあって、中川新一委員長が『デモに行こうや』って来て、『行くか』って四階で話をしているときに、副総裁から中川さんに、すぐ来てくれと電話がかかってきて、すぐ行ったんです。
 『何か用があるみたいだから、待っておってくれよ』というので、富塚さんと私と待っておったわけです。
 そうしたら、中川さんが帰ってきて、『処分は勘弁してくれっていうんだよ』っていうから、『だめだよ、そんなことを請け合ってきたのか』『いやア、もう山田明吉はどうしても頼むっていうんだよ。そのかわり真鍋をやめさせたあとの職員局長については、きみらの推薦する者にするから、処分は勘弁してくれというんだよ』
というんですよ。
 それで、さア、職員局長を推薦するったって、だれがいいのかってわけで、今度は学士名簿を出していろいろと当たったんですよ。(笑声)
 初め、加賀谷徳治氏(昭和44年には大阪鉄道管理局長)と思ったわけよ。そうしたらすぐ情報が入って、ある人からオレのところに電話がかかってきて
 『加賀谷さんがいまここで職員局長になったら殺されてしまうから、加賀谷さんだけは何とか勘弁してくれ』
 という。そんならいっそのこと、何にも知らんのがいい、マル生をまとめる段階なんだからというので、原田種達氏を推薦した。
 そうして中川さんが行って『原田種達』といったら、山田副総裁が念を押して『それでいいのか』というから『それでいい』と。
 それで、原田種達氏が何にも知らないで家へ帰って玄関の戸をあけたら、奥さんが
 『本社から電話があって、副総裁がすぐ来いってお呼びです』
 っていわれて、いまごろと思いながら行ったら、職員局長になったということです。(笑声)」

 職員局長を組合に推薦させるという驚くべきことが陰で、こっそりと行われていたのだ。

国鉄を売った官僚たち
以上少し長文になってしまったのですが、経緯を知っていただくためにすこし、長くなってしまいましたが。

ここから、さらに、本格的に敗戦処理ならぬ、生産性運動の後処理が始まるのですが、これらは、組合主導と言いますか、組合の言いなりになってしまうところがありました。
国鉄当局としては、職員局長を決めるのに、国労の言いなりになってしまったわけですから、それ以外の部分でも大胆に妥協というか、言いなりと言ってよい状態となりました。

その後の、組合の要求も殆どがそのまま通ってしまう、そんな状況となり。
困ってしまったのは、むしろ組合の方でした。
何でもかんでも、当局が認めてしまうことから、示しが付かなくなり。
国労などは、当局が当方の要求を受け入れているのは、当局側の罠であり、あくまでも資本階級である、当局は粉砕されなくてはならない、特に現場の職制は、資本家の手先であるとして、プロレタリアートの我々は団結して、資本家階級を打破しなくてはいけないと教宣しながら、自らは本社幹部と甘い汁を分け合っていたのですから、呆れたものです。

スト権ストの話まで持って行きたかったのですが、長くなりそうなので、その辺の話は次回改めて書かせていただこうと思います。
ただ、少しだけさわりを書かせていただくと、国鉄のスト権付与に関しては、当時の内閣総理大臣三木武雄が、「条件付きで現業公務員などにスト権を付与してもよい」という発言した頃からであり、この頃の職員局などの様子を見ていますと、なんとも弱腰と言いますか、労使関係は悪くない、むしろよくなっているの一点張りなところが目立ちます。
その辺は、当時の公企業レポートなどを参照しながら、解説を加えさせていただければと考えております。

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生産性運動の終焉と国鉄、荒廃する職場

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国労・動労による反生産性運動は、潤沢な資金を使ってマスコミ等に情報を流すという手法が取られました。
特にどのような方法で録音したのか明確ではありませんが、現場管理者【助役】が、国労組合員を鉄労に加入させるのが生産性運動だと勘違いした?もしくは誘導尋問をされたのかも知れませんが、そうした発言をしたという言質を取られて、それがマスコミに報道されたことで大きな問題に発展、磯崎総裁が国会で陳謝【謝るとともに、生産性運動の見直し、実質的に中止】することとなり、生産性運動を推進していた「大野能力開発課長」他の幹部を更迭【左遷】することで収拾を図ることとなりました。

生産性運動終了後は、敗戦処理よろしく、国労・動労との間で紛争対策委員会が開催され、国鉄当局は、両組合に対して大幅な譲歩をすることとなりました。
特に、人事権すらも組合側に渡してしまうと言う一般の会社では考えられないような痛恨のミスを犯してしまい、国鉄幹部の人事にさえ国労幹部などの意向を伺うと言ったことをしています。

これにより、国鉄は当事者能力を失ってしまうこととなり、その後のスト権ストなどに対しても弱腰の対応しかできないという失態を出すこととなり、このような状況が昭和57年のブルトレ闇手当問題でマスコミが問題視するまで続くこととなりました。

国鉄の現場では、助役や駅長で決定できないような事項が職場での現場協議の議題となったりしたと言われていますし、こうした現場協議が延々と続き、仕事をしない状況が続くこととなりました。
ここに、当時の国鉄の現場について告発した、本があります。
昭和51年10月1日発行、鷹書房刊 「拝啓動労・国労殿」
と言う本ですが、当時の国鉄の現場が赤裸々に綴られています。
ここから、当時の現場の様子をご覧いただこうと思います。
鷹書房刊 「拝啓動労・国労殿」鷹書房刊 「拝啓動労・国労殿」


保線をしない保線区



飯山保線区を見てみよう
「実働は2,3時間というところですかね」と、Qさんはこともなげに言ってのけた。

飯山線というのは、長野県と新潟県をつなぐ線で、豪雪地帯を通る線として名をはせている。

ところが、国労の保線区員は、ここでも冬のはじめは雪かきをしないという。雪をかくのも保線うちではないのだろうか。冬の協約が″現協″で決まるまで、雪かきはならんということで、雪降っても出動しない。しかも、この現協は、十一月のはじめから延々と続けられ、協約ができるが、毎年、暮れもおしせまったクリスマスーイプのころだというからあきれかえってしまう。

その前に降った雪はどうするかというと、全施労と管理者、それに地元の除雪協力会が行なうとう話だ(この区には鉄労がいない)。もちろん、たくさん降って、災害適用(三十三条)となると、国も出るそうだが、これとて、毎日、降った雪をすこしでもかいておくなら、災害適用-つまり車がとまることにもならなかったのにと、地元の人も恨んでいるそうである。

それに何よりも協力会の人たちを驚かせたことは、国労の連中は、メシを食べに帰るといって早と現地を引きあげて、そこから何キロと離れた詰所に帰ってしまうこと、全施労の人たちは、現・近くの休憩所で休息をとって午後になるとすぐに仕事につくのだが、国労はなかなか戻ってこない。″列車を動かすつもりがあるのか″といわれているそうである。


引用ここまで

こうしたことが、全国の国鉄で行われていたという事実があります。
実際、当時の国鉄では残念ながら現場は現場協議という名のサポタージュで実質的に仕事をせず、さらに合理化反対闘争ということで、合理化することを極端に嫌う、もしくは、合理化して機械を入れても要員を減らさない(例えば一人でできる仕事を引き続き3人で行わせるなど)と言ったことが続くわけです。

こうした状況の中、国鉄の財政は急速に悪化し、国鉄と言う不沈選戦艦に40万人の職員が乗船していたことになります。
そして、過激な組合運動はやがて、組合の悲願であるスト権奪還に向けて動き出すことになるのでした。

労働運動・生産性運動に関する記述はこちらも、参考にご参照ください。
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修学旅行の新幹線利用一般化と、ローカル線廃止基準設定

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修学旅行の新幹線利用一般化と、...
久々に日本国有鉄道史更新させていただきます。
本日は、弊サイト国鉄があった時代から見ていこうと思います。

昭和47年4月から、修学旅行の新幹線利用が一般化して言ったと書かれています。
この理由としては、「東京地区の修学旅行は、従来専用電車「ひので号」を利用してきたが、旅行のスピード化と生徒の体位向上などから、今年度から全面的に新幹線を利用することになった」と書かれていますが。

新幹線の利用は、昭和40年から始まっているようであり、昭和47年まで修学旅行電車が残った背景には、利用債の償還が終わるまでは使い続けるといった話もありましたので、そうした大人の事情もあったようです。
それが、償還も終わったことから全面的な新幹線利用担ったものと思われます

新幹線の修学旅行、第一陣スタート 4/13

春の修学旅行第一陣が、東京駅から新幹線で関西方面へ出発
東京地区の修学旅行は、従来専用電車「ひので号」を利用してきたが、旅行のスピード化と生徒の体位向上などから、今年度から全面的に新幹線を利用することになったもので、今年度修学旅行で新幹線を利用するのは、東京地区で11万5千人、関東各地で24万5千人が見込まれている
。これ以降修学旅行の新幹線利用は一般化し、修学旅行用電車はその任を解かれ、臨時電車として運用されるようになる

更にもう一つは、昭和47年に運輸省が、国鉄地方閑散線の認定基準を発表されたという点です。
国鉄の赤字ローカル線問題は、昭和54年の国鉄再建法まで、そのような計画はなかったと思われがちであり、又国鉄であれば今でもローカル線が維持されたのではないかという幻想をもつ方も多いのですが、国鉄時代には、何度もこうした廃止計画が出されました。

地方ローカル線廃止と財政再建計画

運輸省、国鉄地方閑散線の認定基準を発表 5/9

運輸省は、地方閑散線の認定基準(案)を明らかにした。この基準により、運輸大臣は国鉄再建10ヵ年の期間中に廃止すべき路線として、3,400キロを8月ごろまでに認定することになっている
 認定基準(案)は次のとおり。

1 輸送量が少ないこと。
 (1)ランニング・コストで比較して自動車輸送の方が経済的であると認
められる輸送密度であること。
 (2)過去の輸送量が停滞又は減少していること。
2 代替輸送の確保が可能であり、廃止によって公衆の利便が著しく阻害
されるおそれがないこと。
 (1)ほぼ並行している道路が存在すること。
 (2)ラッシ。時においても自動車輸送に耐えられる程度の輸送量であること。
 (3)豪雪地帯対策特別措置法による特別豪雪地帯を通過する路線であって
冬期における自動車翰送が著しく困難であるもの以外のものであること。
3 国家的開発計画により輸送量が 増加すると想定される路線でないこと。
4 建設を継続すべき新線に接続していないこと

ただし、地元が存続を希望する場合は、同線の欠損額の1/3を地元、1/2を国が5年間に限り補助して存続する、この期間中に地元の了解を得て順次廃止の方向に持っていく方針

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