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高度経済成長と輸送力増強 第4話 三河島事故

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https://www.you... https://www.youtube.com/watch?v=_vvI4-zunRs
昭和37年のニュース「三河島事故」④(終)
三河島事故 Wikipedia... 三河島事故 Wikipediaから
昭和36年からの第二次長期計画は、車両の増備を中心に輸送力増強に努めたのであるがそれでも経済の発展に追いつけず、慢性的な輸送力不足を呈しており、複線化が急がれていたのですが、昭和37年5月に、国鉄にとっては悪夢のような事故が起こりました。
死者160人、重軽傷者296人を出す大惨事、三河島事故でした。
当時の概要は、既に多くの記事等でご覧の方も多いかと思いますので、詳細な解説は省略しますが、貨物列車の乗務員が信号を見落として本線に進入、安全側線に突入したが止まりきれずにそのまま本線を支障、そこに上野発、取手行き電車(2117H)が接触 1.2両目が脱線して、今度は対向線を支障、乗客はドアを開けて線路沿いに歩きかけたところ、今度は、事故を知らされていない上野行き電車(2000H)が進入、徒歩で避難していた乗客を刎ねながら、上野行き電車先頭車と衝突、1.2両目を破壊しながら200H電車は4両が脱線、大破 1両目は原形をとどめず、2,3両目も築堤下に転落。
この事故で、2000Hの乗務員が死亡しています。

国鉄では、常磐穂三河島駅列車衝突事故特別監査報告書を6月14日に提出
それによりますと、 事故の原因として、貨物列車乗務員の信号見落とし並びに、駅および車掌などが後方業務の停止措置を怠ったことが原因であったとしています。

以下、本文から抜粋

事故の直接原因については、細部に不明な点もありますが、国鉄の調査に基づいて検討した結果、次のごとく推定される。
(1) 事故の直接の原因は、下り第287貨物列車の機関車乗務員が三河島駅の出発信号機の停止信号を確認せず、そのため列車が安全側線に突入脱線したことによる 。
この事故の結果を悲惨なものとした原因は、第1の衝突により 、下り第2117H 電車が上り本線を支障したが、約6分後進入してきた上り第2000H電車に対して、防護処置をなすべき関係乗務員および関係駅職員の行動に遺憾の点があったためと思われる。

当時の世論などは、どうだったでしょうか。
当時の部内誌の記事を参照しますと、当時の世論では、機関士の信号見落としは、業務に対する士気の低下では無いのかと言う精神論を討論調が大半を占める中、人間はミスをするものであるから、ミスを未然に防ぐための仕組みを作る必要と言う意見もあったと紹介されています。

昭和37年8月号の国鉄線の記事から引用させていただきますと。
 三河島事故直後の世論は「職貝の士気の弛緩と訓練不足」と「保安施設の不備」を指摘するものがもっとも多く、そこから「国鉄に対する不信感」をかもし出したのであるが、東京・社説(六・一六)は「保安設備を改善せよ、といっているのも当然である。いかに安全運転を心がけても、施設が不十分では事故をなくすわけにはいかない。現状をみると、自動停止装置をとりつけているところは、東海道、中央、山手の各線ぐらいのもので、他の殆んどは相も変らず人間の手で行なわれている。人間の眼とカンに頼っていたのでは、いかに注意深い人間でも時として錯誤はまぬかれず、しばしば大きな事故の原因となっている。」と物心両面の安全確保を主張している。

結果的には、国鉄にしてみればATSなどの非常停止装置の措置は喫緊の課題となり、輸送力増強の投資に併せて、安全運行のための措置にも大きく予算を配分する必要に迫られるのでした。
なお、常磐線にあっては、ATS整備の他、常磐線用防護無線が整備されることになったのはご存じの通りです。
余談ですが、「ある機関助士」は三河島事故を受けて安全確保に尽力していることをアピールするための映像として依頼したのですが、国鉄の意向とは異なり一般公開されないままお蔵入りになった映像でした。

その後は、名作としての誉れが高いのは皆様ご存じの通りかと思います。」

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第3話 慢性的な輸送力不足

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高崎発上野行き普通列車 724... 高崎発上野行き普通列車 724列車
動画は下記をご覧ください。
https://youtu.be/q46dgvSsUhM
高崎線724列車時刻表 高崎線724列車時刻表
第二次長期計画は、主に車両の増備等がメインであったと昨日は書かせていただきました。
特に電車や気動車の投資効率が高かったため、国鉄は積極的にそうした車両を投入していったわけですが、YouTubeを検索してみますと昭和35年の高崎線の列車通勤風景が写った動画がありました。
調べてみますと、高崎6:05発上野行きで、上野着は8:25で休日運休の客車列車だったようです。
その5分前並びに11分後にも上野行きの列車が走っていますが連日このような混雑だったのでしょうか。
少し興味はあります、併せて当時の時刻表を貼らせていただきましたので併せてご覧ください。
少なくとも、高崎線に限らず、中央線などでもその問題は大きくクローズアップされ、101系電車などが優先的に投入されたことからもその混雑が大きかったことがうかがえるのですが、当時の昭和35年の国鉄監査報告書を参照しますと、昭和36年度も35年度の引き続き毎年旅客で6%の伸張、貨物輸送にあっても昭和35年度8%、昭和36年度7%と毎年増加し続け、貨物輸送も活発化していた時期でもありました。
特に吹田操車場などでは、ヤードに到着する貨車を捌いても捌いても次から次へ貨車が到着して向こうが見えなかったと言われるほど貨車の到着が多かったと言われています。

また、旅客の嗜好にも変化が見られ、より速い列車を選択する傾向が高くなったことから積極的な優等列車の増発がはかられる反面、投資のための費用を自ら生み出すことを目的として運賃値上げが昭和32年と36年6月運賃が改定されていますが、多少の運賃値上げによる旅客収入の伸びに鈍化が見られましたが、概ね右肩上がりの順調さを示していましたが、それでも高崎線の上記列車に見られるような痛勤も有ったようですし、程度の差こそあれ多くの列車が満員で、年末などの繁忙期では、列車に乗るために前日から駅の待合で過ごし、ダフ屋【今で言う転売屋】が跋扈する、そんな時代でした。
年末やお盆の時期には上野駅や大阪駅ではテント村なる待合施設が出現し、季節の風物詩として話題になったものです。
しかし、国鉄の輸送力増強施策は、国の経済成長にはなかなか追いつけず、特に自動車の発達による踏切事故の多発は、鉄道事業者にとっても頭の痛い問題でした。
当時の運輸省の考え方は、鉄道は地域独占の事業であり踏切の整備等はすべて鉄道事業者の責任とされており、そうした対策への費用も振り向けざるを得なかったのですが、さらに昭和37年には、三河島事件という大きな事故を国鉄は起こすことになるのですがこの辺は、明日またお話しさせていただきます。

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第2話 動力近代化よもやま話

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動力近代化として、気動車の増備... 動力近代化として、気動車の増備が続けられました。
昭和36年度を初年度とする第2次5カ年計画は、当初の投資総額が9,750億円という巨額であり、その概要は下記の通りとなっていました。

第2次5箇年計画の内容は,次のとおりです。
 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行い,これを電車化すること。
 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。

特に、この時期に国鉄が一番力を入れたのは、気動車や電車でした。
特に気動車に力を入れたようですが、これは、蒸気機関車を電気機関車やデイーゼル機関車で取り替えるよりも、気動車や電車による取り替えの方が、資金効率が高かったからだと言われています。【資金効率とは、年間経費の節減額を投資額で割った比率】
実際にどのくらい変わるのかといいますと、蒸気機関車→電気・ディーゼル機関車の置き換えが8~15%、電車・気動車に置き換えた場合、50%~80%と極めて高いため、旅客車は極力電車や気動車を採用する方向になっていったと言われています。
特に、昭和25年の湘南電車の成功はその後長距離電車の可能性を生み、昭和33年には「特急こだま」を誕生させており、その後準急用として153系、さらに急行用設備を153系に付加したサロ152やサハシ153を誕生させていきましたし。
気動車列車も、特急はつかりに代表される特急車両や、急行用気動車キハ28・58を誕生させるなど多数の動力分散列車が誕生することになりました。

特に、電化の場合変電所の設置など固定設備の費用もかかるのに対し、気動車列車の場合は車両の投入だけということもあり、その投資効果は極めて高く、かつ無煙化による旅客サービスの向上を同時に図ることが出来るためその効果は極めて大きかったと言われています。
また、こうして無煙化された線区で使われていた蒸気機関車は玉突きで。老朽化した機関車の置き換えに使われましたが、C59のように重幹線線用機関車はC53同様比較的早い時期に淘汰されてしまいました。
結局、大正時代のに製造された8620や9600が最後まで残り、昭和になって誕生したC59が昭和40年代前半には消えてしまうことになるのですが。

大型蒸気は、地方管理局では固定資産としての費用が増え、場合によっては出力過剰による石炭の浪費などであまり好かれなかったという記事もあります。

久保田 博氏が、国鉄部内誌、交通技術【昭和37年1月号】の下記記事

「蒸気機関車のゆくえ、修正された蒸気機関車の転用廃車計画」で下記のように書かれていました。

この転用計画で、D52,C60の大形形式を受け入れた地方管理局は、資産単価増に伴う償却費の増加や、不適応小単位列車牽引による動力費の増のため、とかく非協力的であって、36
年度以降の実行に相当の困難を覚悟させられた。

と書かれています。

第2次5カ年計画で気動車や電車列車が増発された背景には投資効率が高かったと言う点も見逃してはいけないのではないでしょうか。
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高度経済成長と第2次5カ年計画 第1話

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高度経済成長と第2次5カ年計画...
本日から、国有鉄私見として第2次5カ年計画についてお話をさせていただこうともいます。

高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄 
http://jp.bloguru.com/jnrerablackcat/311526/5 
も併せて参照していただければ幸いです。

昭和32年から始まった5カ年計画は、主に老朽資産の取り替えなどを中心に行われましたが、人件費の高騰などで計画予算が枯渇したこともあって、計画自体を変更せざるを得なくなりました。【これに関しては国鉄だけに帰属する問題では無く、国民経済成長に国鉄の輸送力が追いつかなかったという側面もありました。】

一般に資料などを見ていますと、資金不足で頓挫したと書かれている文献が多いのですが、実際はどうだったのかという点を国鉄線昭和35年4月号を参照しますと、古川審議室調査役の発言がありますので、要約させていただきますと、下記の通りとなります。

昭和35年度の第1次5カ年計画の進捗率は、【昭和31年度を初年度として4年目ですので】計画値80%となるのですが、実際には67%しか進んでいない状況であり、その原因は下記の通りだと報告しています。
それは、当初計画には無かった通信の近代化、おそらく(鉄道電話用交換機の交換で、当時の最新式であったクロスバー式交換機の更改】だと思われます。他にも貨物輸送の近代化も積極的に行おうとして、全般的に資金不足のために予定がずれたと弁明しています。
第1次5カ年計画における3本柱であった、老朽施設の取り替えは順調に進んだ反面、輸送力の増強と動力近代化は40%程度しか達成できなかったと発言しています。

そこで、国鉄では、国の長期経済展望に対応するために昭和36年度を初年度とする新5カ年計画が再び制定されることになりました。
第2次5カ年計画の特徴は、老朽車両の取り替えと線路増設が大きな柱であり、輸送力を増強して、輸送力の増強と輸送方式の近代化を行うことを主眼にしており、ちょうど、第2次5カ年計画とサンロクトウと呼ばれました。白紙ダイヤ改正の時期とも重なることとなりました。

新5カ年計画の投資内容は上記の字を参照していただければわかりますが、車両費にも2610億円【全体計画の25%弱を占めているのがご理解いただけると思います。

また、この計画では新幹線建設計画も盛り込まれており、新幹線以外では主要幹線1000 kmの線増を行うほか1800 kmの電化、電車かを行うことが計画に盛り込まれています。
【国鉄監査報告書昭和35年から引用】

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気動車の発展と開発 気動車急行の誕生 第10話

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準急列車として昭和37年から運... 準急列車として昭和37年から運転を開始した「はまゆう」ですが、キハ28・58が連結されていた例としてアップしておきます。
キハ55の成功は、無煙化と高速化を同時に達成する手段として各管理局からの配置要望も多かったそうです。
準急気動車が気動車化されても、急行は客車列車の場合も多く、気動車化は喫緊の課題でした。
ただ、キハ55は気動車としては優秀でも、車内設備は貧弱であったことから、特急列車並みの車体幅とした、旧高揚期同社の開発が進められることになりました。
実は、製造に関しては北海道向けの車両に開発が先行したため形式的にはキハ56【北海道用】キハ57【信越線】キハ58の順で製作されました。
昭和36年1月に先行試作車が完成しました。
キハ55と基本的なスタイルは同じですが、車体幅は2900 mm となり、車体幅を絞る形となった他、ドアの幅が740 mmから850 mmに拡大されています。
特に先行して誕生した、キハ56はキハ22に準じた車体であり、1等車は153系サロ152と同様にリクライニング装備のシートが取り付けられましたが、下降式窓は見送られました。
その後本州向けに開発された車両は、サロ152同様の下降式窓が採用されましたが、下降式窓の保守を十分に行えず昭和50年代にはユニットサッシの窓に取り替える工事が行われ、優雅な下降窓は無粋な上段下降下段上昇の緊急時に窓から脱出できない車両が誕生しました。
ただ、1等車に関しては、サロ152等が特急形に準じた蛍光灯カバーがありましたが、気動車では省略されるなど、微妙に簡素化されていたりしました。
なお、エンジンはキハ80系で採用されたDMH17H【横型エンジン】が採用され、排気筒が出入り口両端に移設され、キハ20までの車両にあったように車体中心に排気筒が無くなり車内がすっきりしたものです。
また、洗面所も客車同様のものが設置され、急行列車にふさわしいものとなりました。
実際には、準急気動車でもキハ28・58が使用され、その逆でキハ55・26が急行列車に使用される場合もありました。
もっとも、北海道ではキハ22が急行列車として走るなんてことも一般的でした。
今から考えればおおらかな時代であったと思います。

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気動車の発展と開発 一般用気動車と通勤用気動車 第9話

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出発式 奈良駅 昭和36年12... 出発式 奈良駅 昭和36年12月10日
気動車の発展と開発 一般用気動...
今回から、新しい取り組みと思ったのですが、新年から新しい話題にするのが良いかと思いましたのでもうしばらく続けさせていただきます。
液体式気動車の系譜
戦後の液体式気動車(昭和35年頃までは液圧式)は、キハ44500(称号改正後はキハ15)からスタートした液体式気動車は、昭和29年に製造が開始されるキハ45000(後のキハ17)、さらに派生して2エンジン車とした仕様のキハ44600(後のキハ50試作車を経て)キハ44700(後のキハ51)が誕生、その後準急用としてキハ44800(後のキハ55)が誕生します。
ここで初めて、優等列車用気動車が誕生し、キハ17は、一般気動車という分類になりました。
一般型気動車の誕生
その後昭和32年にキハ55の成果を活かして、キハ17のボディサイズを一般客車並みに拡張したキハ25(両運転台はキハ20、北海道仕様はキハ20の北海道仕様で、窓は二重になりましたものの、後に量産されるキハ22のようにデッキがなく極めて不評でした)形が量産されることになりました。
初期のキハ20系列は、キハ55の初期型と同様、窓上部がHゴムの明かり取り窓としたタイプでしたが、翌昭和33年(1958)の増備車からは、2段上昇式窓に変更されました。
なお、初期のキハ20は、キハ17と同じエンジン・並びに台車でした、なおキハ20の初期車もその後台車をDT22A・TR51(国鉄形気動車の標準台車)に交換されています。
また、蛍光灯がまだ発展途上の時期であり、本格的な蛍光灯を採用したのは、昭和38年増備車からであり、それまではキハ17と同様の白熱灯でしたが、その後サークライン式の蛍光灯に変更されています。
キハ20形は昭和41年まで製造されることになり、国鉄における標準型の普通気動車列車として最近まで活躍したのはご存じの通りです。その後はキハ45→キハ47と変遷していきました。
なお、直噴エンジンを搭載したキハ37(DMF13)系エンジンへと続きますが、昭和40年代以降の気動車発展史を語らせていただきます。
通勤形気動車の誕生の背景
なお、今回は一般気動車の中では異色のキハ35・36形気動車のお話をさせていただこうと思います。
キハ35系気動車は、関西線は東海道本線比べて近代化が遅れており、昭和32年当時でも一部に旅客列車が気動車化され、準急「かすが」がキハ51で運転されていた他はほとんどが蒸気機関車牽引による客車列車でした。
特に、昭和34年の監査委員会で関西線の近代化が遅れていることが指摘され、それを受けて「湊町~奈良間」の線増と気動車化による抜本的な改善を図ることとなり、新たな通勤用気動車を開発することになり、昭和36年にキハ35形が誕生しました。
キハ35形の特徴
この車両は、気動車初の通勤形として位置づけられ車内はロングシートが設けられていましたが、電車と異なり3ドアでステップ付きという車両と相成りました。
特に車体中央部はエンジンが搭載されており、ステップを戸袋窓付きで作ると車体強度上問題があるため、ドアは外吊り式とされましたが、プラグドアのように閉ドア時に車体とドアが密着すればよい良いのですが、そのような構造ではなく簡易な構造であったため、戸袋を設けることで強度が不足することは避けられた反面、隙間風対策は十分とはいえない車両となりました。
また、車体の外側をドアがスライドするため、ドアすぐ隣の窓は下段が特にほとんど開かないようになっており、腕などをだして、ドアに挟まれる事故が起こらないように配慮されていました。

車内は、3ドアロングシートですが、運転台の反対側車端にはトイレが設けられ【キハ36はトイレなし)、トイレ横のシートは枕木方向に設けられていました。
これはトイレを開けたときに、乗客と直接目が合わないようにする配慮からでした。
また、電車は通勤形電車は禁煙でしたが、気動車の場合さほど混雑もしないと言うこともあって、出入り口付近の柱に灰皿が設けられており、車内で喫煙可能でした。

さらに、キハ20形一般気動車と異なり、キハ35はキハ80系やキハ28・58と同じ横型エンジンを積んでいたことも特色でした。
なお、キハ35が配置されたことで、港町~奈良間は頻発運転が行われることとなりましたが、それでも近鉄が優位であることに変わりはなく、関西線の湊町から奈良間の電化は昭和48(1973)年まで待たねばなりませんでした。


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気動車の発展と開発 特急用気動車の開発 第8話

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交通技術昭和35年11月号から... 交通技術昭和35年11月号から引用
アジア鉄道首脳者会議 がきっかけで始まった特急気動車開発
特急気動車の開発は、昭和34年から開発がスタートしました。
昭和31年キハ55により、2エンジン車体と軽量車体により高速の優等列車の可能性が高まったことから、以前から構想はあったようです。当時、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で始まった、アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference)、(昭和33(1958)年に第1回が開催)が再び昭和35年に開催することが決定したこともあり、客車特急はつかり号を気動車に置き換えることで接客サービスの向上を図ることが正式に決定されたのでした。
エンジンは従来のエンジンを設計変更して対応
エンジンは、実績があるDMH17エンジンを2個使うこととされましたが、従来の縦型だと室内にエンジン点検用の蓋を設けねばならず、防音などで問題があると言うことで、横型に設計変更しれたDMH17Hエンジンが新たに開発されたのですが、単純にエンジンを縦から横にしたというだけで上手くいくはずがなく、従来の垂直シリンダーに比べ潤滑不均一など多くの弱点を持っていた他、排気系の過熱による発火事故が発生したのですが、それはもう少し先の話。
キハ81の製造が急がれた理由
キハ81は設計がスタートしたのが昭和34年秋であり落成はほぼ1年後の9月15日に第1編成が落成しています。
これほど急がせた理由は昭和35年に再びARC第2回会議が再び東京で開催されることになったからでした。
このときはキハ81意外にも157系(クロ157)も展示されたようです。
内外に、日本国有鉄道の現在を知ってもらうことで外国への車両輸出の目的もあったわけです。
当時の鉄道資料から
そこで、今回は、鉄道技術と言う部内誌に掲載された記事を参考に、キハ81形を中心としたはつかり形の特徴を記したいと思います。
まず最初に先頭車について語らせていただきます。
こだま形に似せたボンネットですが151系電車と比べると運転台が少し低くなっています、これには理由がありました。
当時は東北本線でも単線区間が多く、タブレットの交換を行いながら走行していました。
そこで、タブレットの交換が容易に行えるように、また、信号機が見やすいように運転台を少し低くして【階段の段数を減らした】いました。
また、電源用として発電エンジンを前頭部(ボンネット内)に設置していました。
内装等は若干異なっていたようで、こだま【151系】の内装がメラミン化粧板でしたが、キハ81では、ポリエステル化粧板を使用したと記録されています。
また、151系電車と異なり、浮き床構造にしたと言う記述があるのですが、これは誤記なのか否かを今後資料を探して見たいと思いますので、キハ81に採用された浮き床構造の話は後日にしたいと思いますが。初期の151系は浮き床構造でなかったのかもしれません。

なお、エンジンは既に 書かせていただきましたが、DMH17H系エンジンで先頭車は1台、食堂車は発電エンジンのみ、中間車は2エンジン車とした仕様で、燃料タンクは走行用に550リットル、発電用880リットルの容量があり、寒冷地対策として、機関予熱装置や停泊中の冷却水凍結防止などの措置が取れるように配慮されていました。

新製時の車輪直径860 mmで最高速度110 km/h、交換直前の車輪直径、最小780 mmの時で100 km/hを少し超える程度とされました。キハ80系の最高速度が100 km/hと記述されているのは、最小時の速度に合わせたものであることが理解できると思います。

なお、運転台に設けられた赤色の装置は非常点滅灯で、車両無線等がない時代の防護措置として緊急停車時に点滅させるもので、キハ82系にもこの装置は継承されました。
これも、気動車特急独特の装備として特筆されるといえましょう。

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気動車の発展と開発 高出力気動車の試作 第7話

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キハ60 試作車 鉄道技術昭和... キハ60 試作車 鉄道技術昭和35年3月号から引用
今回は、キハ55の後に試作された高出力気動車、キハ60のお話をさせていただきます。
昭和31年、キハ55形気動車が試作されましたが、昭和34年には、DD13形機関車に使われているエンジン(500 PS)を横型にした上で出力を低下させ400 PSとした気動車が3両試作されました。
形式はキハ60とキロ60で、昭和35年1月29日に落成しています。
ちなみに、キハ60-1は東急車輛製造、2は帝國車輛工業で製造されています。
また、キロ60は新潟鉄工が製作に携わりました。
なお、製造後すぐに
外観は量産型のキハ55に準じた軽量車体であり、浮き床構造を採用したほか、キロ60は騒音防止の観点から固定窓になっていました。
結論から言いますと、大排気量エンジンと直結2段変速機をスムーズかつ緻密に同調させることができず、乗り心地はかなり悪かったといわれています。

エンジンの振動や騒音が大きくて実用にならず、エンジンを換装してキハ55に編入されることになりますが、これはもう少し先の話になります。

ただ、エンジン以外で採用された技術はその後の車両のに反映されることになりました。
その一つが、ディスクブレーキで、キハ60で使用されたディスクブレーキはその後80系気動車で採用されました。
1台車2軸に出力が伝わる方式は、その後キハ65の開発の際に活かされることになりました。
そういった意味では、キハ60で開発された技術の一部は十分活かされたといえます。

弊ブログ、こちらも併せてご覧ください。
挫折した試作車・・・キハ60
http://blackcatk.exblog.jp/237662473/

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気動車の発展と開発 キハ55系気動車の誕生 第6話

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キハ55側面図 交友社 回想の... キハ55側面図 交友社 回想の旅客車(下)から引用 妻面にカーブが設けられた車体 ... 妻面にカーブが設けられた車体 交友社 回想の旅客車(下)から引用
少し間が開いてしまいました。
本日も、国鉄時代の内燃気動車の発達史をアップさせていただきます。
今回は、キハ55のお話をさせていただこうと思います。

国鉄では、戦後石油事情が好転したことから、戦後はディーゼル機関搭載の車両が試作され、電気式キハ44000に始まる戦後気動車が幕を開けたことは既に書きましたが、DMH17系エンジンの出力は150 PSその後はエンジンに予燃焼室設けて160 PS、その後180 PSまで引き上げられました、しかし、勾配線区では力不足を露呈してしまい。25‰勾配がある線区には配置しない等の措置が講じられていました。
さて、そんな中でキハ50が試作され、22mの長さは問題があるとして、その後車体長を20.6mに抑えたキハ51が開発されますが、ここまでは車体幅は2.6mの小さな車体に甘んじるしかありませんでした。
昭和30年に開発された、10系客車の手法を活かし、気動車の軽量化と居住性の改善を図ることが計画されました。
モノコック構造を採用しながら車体幅や車体長を拡大した準急用気動車は、車体が大きくなっても、重量は従来のキハ51とほぼ変わらなかったそうです。こうして、開発された気動車がキハ55でした。

キハ55は東武が1700系(後の1720系DRCとは異なる)を投入したことに対する対抗措置という側面もありました。
車体幅は、2.9mまで拡幅され、車体長は電車よりも長い21.3mとなりました。
長さは、その後国鉄気動車の標準長となり、JR移行後もそのまま引き継がれています。
初期のキハ55は車端で車両の角が干渉する恐れがあるとして妻板の両端がカーブしていました。
また、デッキは設置されたものの、床上にトイレ用の水タンクを設置したため、キハ58などに見られる本格的な洗面所は設けられていませんでした。
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気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩2 第5話

スレッド
気動車では最大級の長さを誇った... 気動車では最大級の長さを誇ったキハ50
軽量化された。キハ45000 概要
液体式気動車として、キハ44500形に試作車をベースにして、前面を貫通構造にしたキハ45000形が、昭和28年10月上旬から随時完成したと記録が残っています。
当初の車両は客車をそのまま気動車に置き換えたような配置でドアのすぐ横まで4人ボックスが並ぶ全クロスシートでした。
非力なエンジンをカバーするために、車体幅はキハ44000に準じた大きさで、車体幅は2600 mmにするなど従来に客車などと比べると一回り小さな車体となっていました。
また、車内も軽量化されており、ひじ掛けも省略し、座席の高さも低くするなど徹底的な軽量化がなされました、ただし、台車はその設計に難があり特にビビり振動が多くて乗り心地はよくありませんでした。
ちなみに、10系気動車に使われたDT19(動力伝達用)とTR49(付随車)の重量はいずれも4.5t、4.4tであり、同時期に使われていた客車の6t(TR50と思われる)と比べても軽い台車が使われていました。
これが原因で、車体にアコモデーション改良もままならなかったと言われています。
私も子供の頃何度か乗りましたが、あまり乗り心地は良いとは言えず、低い座席と相まって、キハ20とキハ17が連結されていた場合は、20は満員でも17は少ないということで、乗客もみなよく知っていました。
全国から配置要望があったキハ17
昭和29年5月の交通技術を参照しますと、昭和28年度末までに220両が落成し全国で気動車の数は458両となり、房総東線、奈良・桜井線・越後線・筑肥線など31線の各線に投入したと記録されています。
具体的な線区等は今後調べてみたいと思いますが、選定にあたっては。
1)機関車と客車を全面的に置き換えできる線区
2)蒸気列車を一部置き換えて運転経費の節減を出来る線区
3)液体式気動車として、キハ44500形に試作車をベースにして、前面を貫通構造にしたキハ
4)列車増発を必要とし、気動車によることが最も有利な線区
を基準にされたと言いますが、地方管理局からは、配置の要望が多かったのですが、極端に管理局ごとに偏ると、気動車不配置地区との格差は出るので、積極的に気動車を投入したくないと言う意見もあったことは事実です。
キハ44500(キハ15)とキハ45000(キハ17)の相違を中心として
キハ44500は外観が湘南形であり、ドアも3か所(両端並びに真ん中)であり、運転台は全室方式でした。
キハ45000(キハ17)は半室運転台で、私の記憶では、運転だの仕切りも貧弱なものでバスのようなイメージであり、横から運転士の操作を覗ける仕様でした。
後ろも壁など無かったように記憶しています。
キハ50の試作とその背景
キハ17の問題点はエンジン出力にあり、実は25‰以上の勾配では入線できず、選定に際しては実はそうした問題点をクリアしなくてはなりませんでした。
そこで、DMH17エンジンを2台積んだキハ44600(後のキハ50)が誕生しました。
この車両は、期間を2台積むために車体長を22mとしてボギー中心距離(ボギー車の台車間の距離)も15.7mとしたのですが、これが後に転轍機の轍叉桿(Detector Bar)と呼ばれる、誤転換を防止する保安装置を跨いでしまう危険性があったため、当初配置された関西線などでは轍叉桿の改修を行ったそうで運転線区が限定されることとなりました。
その後、改良型として、キハ44700(その後キハ51)が誕生しました。
こちらは、車体長を20.6mに短縮した車両で、キハ50で問題となった、轍叉桿の問題はクリアされました。
キハ51は結局20両ほど製造されるのですが、その後は更なる優等列車の開発ということでキハ55が試作され、さらに急行型気動車・特急形気動車と発展していくことになります。

続きます
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