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組合に、本社幹部の人事権を握られる国鉄本社

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国鉄マル生闘争資料集... 国鉄マル生闘争資料集
生産性運動は、昭和46年10月には正式に中止(国鉄の公式発表では、研修資料の再検討)され、昭和45年から本格的に始まった生産性運動は、わずか1年半ほどで終焉を迎えることとなりました。
真鍋職員局長は、ローカル線担当の閑職に追いやられ、実質的な責任者であった、能力開発課長の大野氏も貨物局調査役に左遷されることとなりました。
このときに、副総裁と国労幹部との間で、組合の推薦で職員局長を決定するという、およそあってはならないことが行なわれました。

有ってはならないことですが、組合の意向で次の職員局長を決定してしまったことは、その後の国鉄の混乱を招く元となりました。

その辺りの事情を、「国鉄を売った官僚たち」 大野光基氏の著書を参考にしたいと思います。

氏の本の、第六章 崩壊の原点・魚は頭から腐る、磯崎の豹変と山田の反逆 P274~276に下記のように書かれています。
少し長いですが、全文引用したいと思います。

私はこの本でもたびたび引用した、国労編集の『国鉄マル生闘争資料集』という部厚い本をめくっていたが、突然次のような一ページに釘づけになった。
 活字を目で追いながら、私は怒りのあまり体の震えが止まらなくなった。
 それは「マル生闘争の歴史と教訓」という、三日間にわたって行われた座談会の記事であった。
 座談会の出席者は富塚三夫、谷合勝正、細井宗一、武藤久などの国労を代表するそうそうたるメンバーであった。
 その座談会記録の中の細井宗一がしゃべった次の一節を読んで、私はがく然としたのだった。
 「いや、あのときにわれわれの要求で、不当労働行為をやった直接の職制を処分しろというと、副総裁の山田明吉さんは『します』と約束したんですよ。
 ところが、いま谷合さんがいっておった管理局長会議を二日に分けて総裁公館でやったときに、管理局長から
 『私どもの部下を処分するなどということは絶対にやめてくれ、……』
 という意見が出て、処分できなくなったんですよ。
 そういう状況のもとで、ちょうど、一〇・二一のデモがあって、中川新一委員長が『デモに行こうや』って来て、『行くか』って四階で話をしているときに、副総裁から中川さんに、すぐ来てくれと電話がかかってきて、すぐ行ったんです。
 『何か用があるみたいだから、待っておってくれよ』というので、富塚さんと私と待っておったわけです。
 そうしたら、中川さんが帰ってきて、『処分は勘弁してくれっていうんだよ』っていうから、『だめだよ、そんなことを請け合ってきたのか』『いやア、もう山田明吉はどうしても頼むっていうんだよ。そのかわり真鍋をやめさせたあとの職員局長については、きみらの推薦する者にするから、処分は勘弁してくれというんだよ』
というんですよ。
 それで、さア、職員局長を推薦するったって、だれがいいのかってわけで、今度は学士名簿を出していろいろと当たったんですよ。(笑声)
 初め、加賀谷徳治氏(昭和44年には大阪鉄道管理局長)と思ったわけよ。そうしたらすぐ情報が入って、ある人からオレのところに電話がかかってきて
 『加賀谷さんがいまここで職員局長になったら殺されてしまうから、加賀谷さんだけは何とか勘弁してくれ』
 という。そんならいっそのこと、何にも知らんのがいい、マル生をまとめる段階なんだからというので、原田種達氏を推薦した。
 そうして中川さんが行って『原田種達』といったら、山田副総裁が念を押して『それでいいのか』というから『それでいい』と。
 それで、原田種達氏が何にも知らないで家へ帰って玄関の戸をあけたら、奥さんが
 『本社から電話があって、副総裁がすぐ来いってお呼びです』
 っていわれて、いまごろと思いながら行ったら、職員局長になったということです。(笑声)」

 職員局長を組合に推薦させるという驚くべきことが陰で、こっそりと行われていたのだ。

国鉄を売った官僚たち
以上少し長文になってしまったのですが、経緯を知っていただくためにすこし、長くなってしまいましたが。

ここから、さらに、本格的に敗戦処理ならぬ、生産性運動の後処理が始まるのですが、これらは、組合主導と言いますか、組合の言いなりになってしまうところがありました。
国鉄当局としては、職員局長を決めるのに、国労の言いなりになってしまったわけですから、それ以外の部分でも大胆に妥協というか、言いなりと言ってよい状態となりました。

その後の、組合の要求も殆どがそのまま通ってしまう、そんな状況となり。
困ってしまったのは、むしろ組合の方でした。
何でもかんでも、当局が認めてしまうことから、示しが付かなくなり。
国労などは、当局が当方の要求を受け入れているのは、当局側の罠であり、あくまでも資本階級である、当局は粉砕されなくてはならない、特に現場の職制は、資本家の手先であるとして、プロレタリアートの我々は団結して、資本家階級を打破しなくてはいけないと教宣しながら、自らは本社幹部と甘い汁を分け合っていたのですから、呆れたものです。

スト権ストの話まで持って行きたかったのですが、長くなりそうなので、その辺の話は次回改めて書かせていただこうと思います。
ただ、少しだけさわりを書かせていただくと、国鉄のスト権付与に関しては、当時の内閣総理大臣三木武雄が、「条件付きで現業公務員などにスト権を付与してもよい」という発言した頃からであり、この頃の職員局などの様子を見ていますと、なんとも弱腰と言いますか、労使関係は悪くない、むしろよくなっているの一点張りなところが目立ちます。
その辺は、当時の公企業レポートなどを参照しながら、解説を加えさせていただければと考えております。

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生産性運動の終焉と国鉄、荒廃する職場

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国労・動労による反生産性運動は、潤沢な資金を使ってマスコミ等に情報を流すという手法が取られました。
特にどのような方法で録音したのか明確ではありませんが、現場管理者【助役】が、国労組合員を鉄労に加入させるのが生産性運動だと勘違いした?もしくは誘導尋問をされたのかも知れませんが、そうした発言をしたという言質を取られて、それがマスコミに報道されたことで大きな問題に発展、磯崎総裁が国会で陳謝【謝るとともに、生産性運動の見直し、実質的に中止】することとなり、生産性運動を推進していた「大野能力開発課長」他の幹部を更迭【左遷】することで収拾を図ることとなりました。

生産性運動終了後は、敗戦処理よろしく、国労・動労との間で紛争対策委員会が開催され、国鉄当局は、両組合に対して大幅な譲歩をすることとなりました。
特に、人事権すらも組合側に渡してしまうと言う一般の会社では考えられないような痛恨のミスを犯してしまい、国鉄幹部の人事にさえ国労幹部などの意向を伺うと言ったことをしています。

これにより、国鉄は当事者能力を失ってしまうこととなり、その後のスト権ストなどに対しても弱腰の対応しかできないという失態を出すこととなり、このような状況が昭和57年のブルトレ闇手当問題でマスコミが問題視するまで続くこととなりました。

国鉄の現場では、助役や駅長で決定できないような事項が職場での現場協議の議題となったりしたと言われていますし、こうした現場協議が延々と続き、仕事をしない状況が続くこととなりました。
ここに、当時の国鉄の現場について告発した、本があります。
昭和51年10月1日発行、鷹書房刊 「拝啓動労・国労殿」
と言う本ですが、当時の国鉄の現場が赤裸々に綴られています。
ここから、当時の現場の様子をご覧いただこうと思います。
鷹書房刊 「拝啓動労・国労殿」鷹書房刊 「拝啓動労・国労殿」


保線をしない保線区



飯山保線区を見てみよう
「実働は2,3時間というところですかね」と、Qさんはこともなげに言ってのけた。

飯山線というのは、長野県と新潟県をつなぐ線で、豪雪地帯を通る線として名をはせている。

ところが、国労の保線区員は、ここでも冬のはじめは雪かきをしないという。雪をかくのも保線うちではないのだろうか。冬の協約が″現協″で決まるまで、雪かきはならんということで、雪降っても出動しない。しかも、この現協は、十一月のはじめから延々と続けられ、協約ができるが、毎年、暮れもおしせまったクリスマスーイプのころだというからあきれかえってしまう。

その前に降った雪はどうするかというと、全施労と管理者、それに地元の除雪協力会が行なうとう話だ(この区には鉄労がいない)。もちろん、たくさん降って、災害適用(三十三条)となると、国も出るそうだが、これとて、毎日、降った雪をすこしでもかいておくなら、災害適用-つまり車がとまることにもならなかったのにと、地元の人も恨んでいるそうである。

それに何よりも協力会の人たちを驚かせたことは、国労の連中は、メシを食べに帰るといって早と現地を引きあげて、そこから何キロと離れた詰所に帰ってしまうこと、全施労の人たちは、現・近くの休憩所で休息をとって午後になるとすぐに仕事につくのだが、国労はなかなか戻ってこない。″列車を動かすつもりがあるのか″といわれているそうである。


引用ここまで

こうしたことが、全国の国鉄で行われていたという事実があります。
実際、当時の国鉄では残念ながら現場は現場協議という名のサポタージュで実質的に仕事をせず、さらに合理化反対闘争ということで、合理化することを極端に嫌う、もしくは、合理化して機械を入れても要員を減らさない(例えば一人でできる仕事を引き続き3人で行わせるなど)と言ったことが続くわけです。

こうした状況の中、国鉄の財政は急速に悪化し、国鉄と言う不沈選戦艦に40万人の職員が乗船していたことになります。
そして、過激な組合運動はやがて、組合の悲願であるスト権奪還に向けて動き出すことになるのでした。

労働運動・生産性運動に関する記述はこちらも、参考にご参照ください。
日本国有鉄道 労働運動史(別館)
日本国有鉄道労働運動史【鉄労視点】

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組織改変論議と国鉄 第8話 第三次長期計画と輸送力増強

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Econmy Coupon 略... Econmy Coupon 略称エック
旅館の手配と乗車券類が一体となったもので、いわゆるパック旅行のさきがけのようなものでした。
昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画は、輸送量の増加が当初予想を上回り、計画がこれをカバーしきれないことが確実となったほか、資材・用地・賃金等の高騰が当初予想の資金では不足をきたす結果となったうえ、三河島事故の発生で、安全面の投資不足が大きくクローズアップされるなど、昭和37年7月には第2次5ヵ年計画はまたまた修正を余儀なくされました。

 そこで、政府は総理府に「日本国有鉄道基本問題懇談会」を設置し、審議の上意見書として5ヵ年計画の見直しを提言しました。
 この提言に基づき、国鉄は第2次5ヵ年計画を39年度までで打ち切り、新たに昭和40年度から第2次計画の2.2倍に当たる、総額2兆9,720億円を投入する第三次長期計画が昭和46年までの7年間の計画でスタートしました。
 おりしも、昭和39年には、国鉄は赤字を計上したにもかかわらず、その無謀とも言える計画はスタートしたのです。
 この計画では、通勤通学輸送の改善に関する投資額が大幅に増えたことで、第2次5ヵ年計画では5.8%、777億円だったものが、17.5%、5,190億円と大幅に増えました。
この背景には、線路増強を行なわなかったために過密なダイヤとなり結果的に三河島事故や鶴見事故と言った重大事故を起こしたという事実がありました。
 この通勤路線増強計画の主体は、東京に放射状に集中する5路線、すなわち東海道・中央・総武・常磐・東北の各線を指し、一般的には「東京(通勤)5方面作戦」などと呼ばれました、なおこの詳細は別に機会に譲りたいと思います。
 ただ、これらの資金は、独立採算制を建前とする国鉄ですので基本的には運賃収入及び借入金で賄う必要が生じたのです。
 やがて、国鉄の第三次長期計画も、収入に対して過大な投資を強いられていたので、黒字経営に転換することもなく、昭和43年には積立金も食い潰してしまう、破産状態となってしまいます。
 この頃を境として、国鉄は政府からの出資を受け入れることになるのですが、既に高速道路などは、道路公団時代は、自動車重量税などに代表される特定財源で補てんされていたのに対し、国鉄の場合はその額は、他の港湾整備や空港整備と比べても少なく、かつ、運賃は引続き法令改正によることとされていたため、時には意図的に値上げ率を引き下げられたリ、場合によっては改定時期をずらすと言ったことも行われ、結果的に建設費用の不足をきたすこととなり、臨時で国鉄に貸し付けると言った法案を別途審議するといった無駄なこともありました。
 その反面、石田総裁時代には営業面で積極的な増収策もい打ち出されたことは注目に値すると思います。
 例えば、エック(旅行会社に委託したエコノミークーポンの愛称)の販売がありました。また、「Discover Japan 美しい日本と私」は、国鉄時代の最大のヒット企画だったと言えますが、こうしたキャンペーンの導入などを含めて国鉄は輸送力の増強とともに、積極的に旅客を誘致する方向に変わっていきました。
 しかし、第3次長期計画も国鉄に対して政府が積極的に補助を行うことはなく、もっぱら郵便貯金を中心とする大蔵省資金運用部資金を借り入れた他、鉄道債券(政府保証付)等で調達されました。
その後、鉄道債券の償還期間が10年程度と短く、かつ金利も7%近くあったため、建設が終わるころには最初の償還期限を迎えることとなり、財政的には償還金を返すために更に鉄道債券を発行すると言った悪循環となり、例えは悪いが高利の金融機関で借りた元金を返すために更に別の金融機関で借りる状況になっていました。
事実、国鉄の負債は昭和50年頃から急激に増大していくのでした。
 その結果、国鉄に対して政府からの補助金、利子の棚上げなど、つじつま合わせのような施策が行われますが、事態は改善せず。
 公共企業体国鉄は、運輸省、国会議員や政府の顔色を伺う状態となっていくことになっていきました。
 歴史にIFはないのですが、昭和40年代の第三次長期計画が、政府主導で資金助成などが行われていたならば財政悪化も抑えられたのではないでしょうか。
 ただ、国鉄の問題は、単純にここに原因があった・・・と言えるほど単純ではなく、複数の要素が絡み合っているだけに。建設補助を出したら国鉄は赤字にならなかったとか、労使関係が良好であれば赤字にならなかったとか。分割民営化は無かったとは言い切れないと言えます。
 
NEVERまとめサイトで解説を加えていますので併せてご覧ください。
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組織改変論議と国鉄 第1話 公社化以前に話題となった民営化

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組織改変論議と国鉄 第1話 公...
  国鉄の誕生というと、皆さんよくご存知とおもいますが、昭和23年7月22日に発表された、マッカーサー書簡が、その発端であるということを理解しておられると思います。
 この書簡によると、鉄道・塩・アルコール・たばこ等の専売業務は政府事業から公共企業体に組織変更すべしと明記されていました。
 当時は、GHQの命令は絶対であり、それにより当時運輸省の現業機関であった国鉄は、昭和24年6月1日、たばこ・塩・アルコール専売と供に公社化されました。
 ただ、当時日本には、公社という概念(public corporation)が理解されず、国鉄を昔ながらの鉄道省のような組織として残したい政府との間で綱引きが行われたようです。
 政府は鉄道省の改組という意識ですし、GHQ側は完全な権力からの分離を狙ったのですが、結果的に大幅に政府が関与する形の組織となってしまい、当時の運輸省のエース級も殆どが国鉄に移籍してしまったため、長らく国鉄>運輸省の構図がありました。
なお、戦後合併していた運輸省と逓信省は、郵政省・電気通信省に再分離しています。電気通信省は後の電電公社(現在のNTT)であり、余談ですがKDDIも元は電電公社から分離したKDDと京セラ系のDDIが合併したものであることは皆様ご存じの方も多いかと思います。
なお、電電公社誕生は、電気通信省では増加する固定電話網の整備に追いつけないとして、昭和27年に電電公社に組織換えされていますがこれは、国鉄問題とは異なる話ですので割愛させていただきます。

公社化以前に話題となった民営化
 公共企業体として再出発をした国鉄ですが、実は第2次世界大戦終戦直後の昭和20年9月頃から、三菱経済研究所など民間の研究機関から民営論が叫ばれ、また財界からも戦後の公債を処理するために鉄道などの政府事業を払い下げる声があったようですが、経済界への影響の大きさを考慮しその話はいつかうやむやとなりました。

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復旧から発展 第1話 当時の世相概略

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トリスでハワイ 当時のテレビコ... トリスでハワイ 当時のテレビコマーシャル youtubeからキャプチャ
この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。
少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。

当時の世相概略

単独講和か全面講和かでもめた講和条約は、アメリカと日本の利害と思惑が一致し、中国(中華人民共和国)及び旧ソ連(現・ロシア)とは講和条約を結ばないまま、昭和27年に講和条約は発効、日本は一応独立国としての体裁を保つこととなりました。
(アメリカとしては、早々と昭和24年頃には撤収したかったのが、朝鮮戦争の勃発で抜けられなくなったと言う経緯があります。)
ただ、日本本土も空襲による被害は甚大で、所々に焼け跡が無残な姿をさらしていたもので、昭和40年代初頭まではその片鱗を伺いうことができたものです。
現在は、コンサートなどで賑わう、大阪城ホール付近も、かつては陸軍工廠が在った所で、昭和40年頃までは、その区画だけが廃墟のようにぽつんと空いていたことを思い出すことが出来ます。

当時の為替レートは1ドル360円固定相場

また、為替レートが1$360円の固定相場に固定されていたため、輸出には有利でしたが、当時は渡航制限も撤廃されておらず、かつ外貨持ち出しも制限されていたため、現在のように誰でもが気軽に海外に遊びに行けるといったことはほとんど不可能でした。
当時壽屋(現・サントリー)が「トリスを飲んでハワイに行こう」というキャッチフレーズで、アンクルトリスのイラストとともに有名になったのも昭和30年代です、50代以上の方には懐かしい思い出ではないでしょうか。

国鉄では、東海道本線の電化が完成し、電気機関車による運転が開始されました

国鉄に目を向けてみますと、昭和27年以降、本格的に幹線の電化が実施され、昭和27年4月1日に高崎線の大宮~高崎間が完成、昭和28年には東海道線が名古屋まで電化完成、昭和30年7月に米原まで到達し、全線電化が完成したのは、昭和31年11月19日に完成、EF58形電気機関車が青大将塗装と呼ばれる淡いグリーンに塗られて走ったのもこの頃でした。また同じ時期には、現在は廃止されてしまった、「あさかぜ」号が、戦前の常識を破って、大阪通過の特急列車として運転を開始したことです。

政治の世界では、憲法改正論議が

再び、昭和30年代に話を戻してみますと、昭和30年には鳩山首相は、依然憲法改正論議に積極的であり、押し付けられた憲法を改正すべきとの持論を展開しますが、与野党の反対により消滅していきました。

https://youtu.be/dnyOQEg4Rvc
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併せてご覧ください 弊ページの解説サイトです。
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国鉄があった時代、日本国有鉄道史 復旧から発展 第1話 当時の世相概略
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輸送力増強と国鉄 第3話 貨物輸送の改善

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ワキ1000の緩急車、ワムフ1... ワキ1000の緩急車、ワムフ100形、コンテナ輸送が始まるまでの小口輸送用の急行便として活躍

画像 wikipedia
 昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留~梅田間および吹田~門司間に設定され、汐留~門司間で65時間から43時間に大幅に改善されました。
  改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。
その後、朝鮮特需で需要は伸びたが、ピークを過ぎると貨車の遊休が目立つようになったので国鉄では、サービスアップと貨車の有効活用を図るために、昭和27年9月から小口貨物の速達輸送を図るべく。
「急行小口扱」を新設、貨車にも「急行便」の文字が書かれた専用貨車が使われました。これは、後にコンテナ輸送が本格化するまでは、花形列車として活躍することとなります。
この一環輸送は翌28年には更に拡充され、自動車を活用して都市の小口扱い貨物の特定駅への集約や地方における自動車代行などが実施され、東京都内や名古屋地区、仙石線、八戸線などでは国鉄自動車局が貨車代行輸送を行ったという実績があります。

併せてご覧ください 弊ページの解説サイトです。
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日本国有鉄道史 輸送力増強と国鉄 第3話 貨物輸送の改善
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国鉄誕生と鉄道事故 第2回 混乱期の事故

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当時の鉄道事情…実際にこのよう... 当時の鉄道事情…実際にこのような実態もあったと言われています。
 終戦当時はその疲弊した設備もあいまって多くの事故が発生し、事故の無い日のほうが珍しいと言われるほど混乱していました。
詳細は、幣ページの昭和20年からを見ていただくとして、多くの事故が発生しています。
 これには、戦時中の酷使などで発生したと思われる蒸気機関車のボイラー破裂事故などもあります。
 主だった鉄道事故を拾ってみても
 肥薩線内トンネル事故 8/22
 荷重超過のため上り勾配のトンネル内で立ち往生した列車をバックさせようとしたところ、既に列車を降りて線路を歩いていた乗客と接触し49人が死亡、20人が負傷した事件であった。
 八高線 小宮~拝島間八高線で正面衝突 8/24
 買出しで満員の列車が、小宮~拝島間の多摩川鉄橋上で衝突、104人が死亡した事故
 これは、前日の台風の影響で通信が途絶えており、本来であれば指導式と呼ばれる運転方法を行うところこれを行わずに列車を発車させてしまったために起こった事故で、保安の基本が判っていない事故であった。
 ボイラ破裂で機関車転落 10/19
 醒ケ井駅構内で、D52形蒸気機関車のボイラーが爆発、機関車は近くの川に転落、この事故で乗務員2名が即死、一人も後に死亡の事故
 この種の事故は当時多発したとされており、今後調査の上まとめていければと思っています。
 東海道線の列車追突事故 11/19
 山科駅で停車中の普通列車に、貨物列車の機関士が居眠り運転で追突。6名が死亡
 津山線 車軸折損による脱線事故 11/27
 など・・・・
他にも、昭和21年6月4日には、中央線 東中野~大久保間で急行電車が走行中に木製ドアを破損、数人の乗客が転落死という事故も発生しています。当時の電車は、ガラス窓は無くて板を釘で打ち付けていたりといった車両が多く、この事故がドアの鋼製化を進めるきっかけとなりました。

画像は、youtubeのキャプチャーです。
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国鉄誕生と鉄道事故 第1話 国鉄の復興

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国鉄誕生と鉄道事故 第1話 国...
少し時代を戻して、終戦直後のお話をしたいと思います。この章は概ね昭和20年から昭和25年頃までのお話です。

戦争で交通機関等も破壊された日本において、最低限必要な旅客・貨物輸送を確保するのは喫緊の課題でした、大量輸送という点では内航海運は有利でしたが、戦争中に徴発されたこと、港の破壊などで早急な復興は無理であり、自動車輸送にあっても早急な改善は無理なことから、必然的に鉄道輸送を早急に復旧させる必要がありました。
このため、政府は終戦と同時に鉄道復興5ヵ年計画を立て、国鉄の復旧に全力を注ぐこととなりました。
 その内容としては車両の新製(1,259両)、被災車両の復旧、被災軌道の復旧、電化工事の推進などでした。
 特に電化工事は戦前は、国防上の理由から中々進展していませんでした。
 国鉄(当時は運輸省)でも、戦時中の輸送制限(切符の発行枚数の制限など)を緩和と乗車秩序の確保策をとりますが、中々思うようには復旧は進みませんでした。
といいますのも、肝心の資財を提供できる工場や施設が破壊されているわけですから思うようには進まないわけです。
 特に資財では鉄材が不足し老朽化したレールの更改などが中々進みません。

政府は、昭和23年復興計画の見直しを行い、鉄道・石炭・鉄鋼・電力を重点産業部門として位置付けることに成り、その復興が推進されることとなりました。
 これにより車両の生産及び修繕能力は戦前の水準にようやく回復することができましたが、実際の車両の生産や電化などはドッジラインの影響で中々思うように進みませんでした。
終戦直後の国鉄の輸送人員は一日平均で約700万人、戦争中に比べ15%の減少でしたが、旅行制限の緩和などで次第に輸送量は増えて戦時中を凌ぐ状況となってきました。
 昭和20年12月以降、石炭危機が発生し、列車に一部を削減せざるを得ない状況となりました。
 さらにそこに買出し客が増えるうえ、敗戦に伴う人心の荒廃から乗車秩序は乱れ、混乱状態に更に拍車をかけることとなります。
このため、輸送力を確保するため昭和21年度には急行列車廃止と2等車(現在のグリーン車)の連結中止、学生定期の使用禁止、遠距離旅客の抑制といった規制を再び設けざるを得なくなりました。
これは戦時中に、日本に徴用された朝鮮・中国人労働者の就業拒否などが原因と言われていますが詳細は、今後さらに勉強したいと思います。

これに伴う、関連資料はhttps://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00751.php。昭和21年度下期石炭危機突破対策 国立国会図書館の資料を参照 しています。
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講和条約と国鉄 第4話 特需景気にわく国鉄

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ソウルで行われた大韓民国の国家... ソウルで行われた大韓民国の国家成立記念式典
画像 Wikipedia
朝鮮特需は、日本の経済を急速に復活させる効果をもたらせました。
 特需によって輸出は大幅に増加し、外貨保有高も昭和24年末の2億ドルから、昭和26年には9億4200万ドルへと大幅に急増し、荒廃した日本経済は急速に立ち直りを見せました。
生産水準は、昭和25年には既に戦前のそれを上回りました、これに伴い交通機関も相当の輸送力が要求されました。
旅客輸送についても、在日アメリカ人軍の朝鮮半島への出動開始とともに大量の兵力を短期間に輸送する任務が国鉄に課せられることとなり、国鉄は全力を傾注してこれにあたりますが、これは国鉄始って以来の規模となり、太平洋戦争中の日本軍兵士の輸送量をはるかに上回るものでありました。
貨物輸送は、朝鮮戦争勃発の翌日6月26日から弾薬輸送が開始され、その後も火薬庫のある陸前山王・逗子などから瑞穂・筑前芦屋・小倉等への火薬輸送、赤羽からは戦車輸送が開始されるなど臨時貨物列車は日を追うごとに増加しました。
 第3鉄道司令部は国鉄に対し、ある程度形式を揃え指定の地区に貨車を集結させるように指令を発し、その対応に追われた他。現地部隊から直接国鉄の現業機関に対して要求が出されるなど、個々勝手に割り込んでくることとなったため国鉄の輸送は一時期大混乱となりました。
特に兵器・弾薬の出港駅であった横浜港や、物資積出の小倉・博多駅など、兵員出港駅の門司・佐世保駅などは収拾不可能なほどの混乱状態となりました。
7月下旬になるとようやく落ち着きを見せ始め混乱は次第に収まっていくのですが、朝鮮戦争は中長期戦の様相を見せ始め、軍需輸送は恒常的なものとなっていきました。
このため、国鉄では昭和25年10月1日にダイヤ改正を行い、貨物列車の輸送力増強を図るとともに「貨物輸送能率向上運動」を展開していきます。軍需輸送は、昭和27年の休戦交渉から漸次減少し昭和28年7月の休戦でようやく終了となりました。

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講和条約と国鉄 第3話 講和発効に向けて動く政府と組合運動

スレッド
三池争議 wikipediaか... 三池争議 wikipediaから引用
講和条約発効に向けて、政府は労働法規の改定や新しい治安体制を確立すべく行動に出ました。
 特に破壊活動防止法等は、その際たるものでありました。→ 公安審査委員会設置法 公安調査庁設置法 などの制定でした。
総評では、これら政府の動きに対抗すべく労働法規改悪反対闘争委員会(労闘、以下略す)が組織され、昭和27年には活発な活動が行われ、4月12日には、第一波の労闘が組織されました。
 これは最初の政治ストであり、従来の本来の労働運動としてのストとはその意味合いを異ならせるものでありました。
 その後公務員等のストには、こういったストライキが増えていきますので注目しておいてください。
4月18日にも同様の第2派のストライキが実施されました。
 その後5月にはメーデーに参加した労働者と警官隊が衝突した血のメーデー事件が起こっています。
その後政治的運動は影をひそめていき、炭労(炭鉱労働者)や、私鉄などから職場闘争が展開されて本来の労働運動の形が整えられていきました。

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