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鉄労から見た当局の生産性運動 第四話

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昭和32年に設置された支社制度... 昭和32年に設置された支社制度は昭和46年8月20日、廃止されることに。
制度としては悪いものではなく、生産性運動と対でさらなる発展を起こしていれば国鉄分割民営化の問題は避けられたかも知れない。
長らく更新できていませんでしたが、ひさびさに更新させていただきます。
今回も鉄労からみた生産性運動と言うことを中心にお話をさせていただこうと思います。

労使協調宣言を前面に打ち出す鉄労


国鉄という組織の中で鉄労という組合は、国労内の民同右派から派生した(同盟に所属するグループ)であり、当初から労使協調を方針として掲げていたのが特徴で、同じく公務員組合である郵便局の全郵政同様、国労からは「第二組合」とか「御用組合」(いずれも当該組合からすれば蔑称)などと呼ばれていました。

しかし、生産性運動のさなかで、鉄労はその構成員を大幅に増やすことに成功しました。

一時期は10万人に手が届くとして積極的にオルグが行われたと記録されています。



その辺を、鉄労の運動史、国鉄民主化への道から引用してみたいと思います。


組合発表によれば、10月1日現在で、組合員数は、79,672人だとのことだった。「来年までに10万人突破」が合い言葉になっていた。

と有るように当時の鉄労は、組織拡大に躍起となっていたのですが。




生産性運動の盛り上がりと支社制度の廃止

話は前後しますが、鉄労大会が行われる前の8月20日には、昭和32年11月に発足し14年間続いた支社制度が廃止となっています。

支社制度とは国鉄分割民営化を検討した際に再建監理委員会が参考にしたという制度ですが、生産性運動を進めていたこの時期に、このタイミングで廃止したのは、あまりにも後付けの知恵で考えれば愚策であったように思えます。

支社制度の本来の目的は、本社の権限を支社に下ろすことで、国鉄本社の肥大化を防ぐ事が目的だったのですが、本社が痩せ細ることを嫌って権限を委譲しなかったことで、結果的にはその制度自体が制度疲労を起こしてしまいました。
石田禮介氏が働きかけて実現した支社制度ですが、国鉄官僚が組織を潰したとも言えましょうか。
その辺の事情は、国鉄民主化の道、P485 分権化に失敗、支社制度廃止では以下のように書かれています。
支社制度がなぜ成功しなかったのか。一番の理由は、支社幹部の人事権を、本社の系統別の親分が握っていたことだ。支社の幹部が2.3年すれば本社勤務になる。と言うようなことでは、支社制度のうまみは発揮できない。

このように書かれています。
本社の幹部が人事権を持っているため、支社長は本社の顔色を使って伺うこととなり。結果的に、支社制度事態が上手く機能しなかったとされていますが、実際に本社からの権限委譲も中々進まなかったようです。



歴史に、IFはありませんが、むしろここで本社の思い切った権限委譲を更に進めていたならば、生産性運動と相まって国鉄の方向も変わってきたと思うのですが・・・・エリートであった磯崎氏にしてみれば、本社の組織を切り刻むと言うことはしたくなかったのでしょうが、つくづくこの辺は国鉄の失政であったと言わざるを得ません。



支社制度とはどのようなものであったのか

さて、支社制度とはどのようなものであったのか、改めて簡単に説明したいと思います。
十河総裁が就任してから設置されたもので、その働きかけをしたのが石田禮介氏初代監査委員長であったと言われています。
そもそも支社制度とは、国鉄組織を6支社(北海道・東北・関東・中部・関西・西部)に分割したもので、西部支社は、広島以西・及び九州 関西支社は、関西圏・岡山・鳥取・島根及び四国、関東支社は、新潟を含む関東とした、本社からの権限を委譲するものとされていました。
更に昭和34年には気候の一部が改正され、さらなる大幅な権限委譲がと、新潟支社・四国支社・中国支社(広島・山口)の分離が行われています。
(中国支社はその規模からしても中途半端な感は免れないのですが、広島・新潟とも組合問題で要注意の職場を抱えていたことも、分割を促したのではないかと個人的には考えてしまいます。(新潟は、新潟闘争で有名になったし、広島は宇部が同じく革同の拠点でもあった)。
昭和34年には以下のように更に権限を拡大するなどの措置が取られました。
総務関係

  1. 駅の設廃及びその営業範囲の変更(別に定める主要な線区の駅を除く。)

  2. 列車乗務員のうちニ支社以上にまたがる長距離特殊乗務員を除く乗務員の乗務行路の指定

  3. その他 主要線区以外の駅の設廃を支社長に委ねたにもかかわらず、駅名や営業キロは本社に権限を残した



営業関係
基本方針
一、権限委譲の方針
今回の権限委設にあたっては、 「本社の仕事は全国一貫運営の利点を発揮するために必要かつ十分な事がらに限定し、その他は経営単位としての支社にまかせる」というのが大きな方針となっている。要員面でも、 工事経費や列車設定権限についてもこの方針で権限が委譲された
以下にいくつかの例を上げてみます。

  1. 輸送計画及び輸送手配

  2. 支社設定列車の編成

  3. 支社設定列車の客車運用

  4. 荷物の支社管内輸送経路

  5. 荷物の支社管内中継方

  6. 途中給水駅とその給水両数

  7. 飲料水と氷の積込箇所

  8. 団体及び多客輸送計画




余談ですが、支社制度は十河総裁の時に導入されたのですが、この辺の事情を説明しますと。

支社制度の原案を作ったのは、外部委員として監査委員に任命された、西野嘉一郎氏であり、委員長の石田氏に提案したとされています。



支社制度の話しが長くなってしまいましたが、先ほども記述したとおり、この時期に支社制度自体を廃止し本社に権限を戻してしまったことは組織としては後退することとなってしまいました。

私も郵政局時代に経験がありますが、支社(郵政の場合は郵政局)に権限を下ろすことで意思決定が早くなり、地域独自の施策を打ちやすくなります。
その反面、組織としての防衛反応が働くので、権限を下ろしたくない(権力を掌握したい)という意識も郵政局でもそうでしたが、郵便局への権限を下ろすと言うことはあまりしない。

その結果、組織としては硬直してしまうわけですが。

仮に、この時期に国鉄本社が思い切って権限を委譲して、支社単位の制度に移行すると共に生産性運動を本社が長期的視点で見ることが出来たならば、また違った側面も見えてきたと思うのですが、当時の本社では省庁以上に官僚であったとも言われる国鉄本社ですので、本社職員にしてみれば地方への分権などは考えられなかったのだと思われます。

その結果、次回に書かせていただきますが、国労によるマスコミを巻き込んだ反撃キャンペーン以降、磯崎総裁は窮地に立たされることとなり、最後は中止を宣言(実質的な廃止)をせざるを得なくなりました。


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