生産性運動(マルセイ運動)と国鉄 第二話
7月
7日
マル生運動は一定の成果を上げる事に成功し、職員の中にはマル生運動後積極的に改善活動に参加したり、職場環境改善のための整備を始めるなどの一定の成果が見られました。
この辺は、動労の松崎委員長も、「国鉄動力車」松崎明・谷恭介共著で下記のように書かれています。
国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒業して国鉄に就職している、
実際、国鉄の場合は本社採用のごく一部のキャリアと呼ばれる人以外は管理局採用で有り、試験によらず臨時雇用員等で採用され、そのまま本採用になる人も多く、これは現業機関で有る郵便局でも同じようなものでした。
特に小さな郵便局(郵政省時代は特定郵便局と呼ばれた)局員や、郵便配達の職員などは各々局長権限で採用されることが多かったと言われています。
話を本題に戻しましょう。
国鉄の現場職員(助役)等も学校を卒業後は国鉄という職場しか知りませんし、国鉄という職場はそれこそ、病院も、買物も国鉄の中で終わってしまうため、外部との接触もなく自ずと国鉄以外の常識を得ることがなくなり、国鉄での世界が全てと思えるようになってしまう部分があるわけです。
再び、「国鉄動力車」の記事から引用しますと。
国鉄以外に生きる場を持たない中・高年齢者が、国鉄の赤字、経営の危機を吹き込まれ、生活の基盤が今にも消滅してしまうような不安感を最初に受け付けられて、・・・中略・・・
窓も出口もないコンクリートの部屋に"マル生の"ドアだけを付けておく、その部屋から出る方法はだだ一つ。"マル生の"ドアをくぐるよりないのである。
もっとも、動労視点の話なので、割り引いて考える必要があるとしても、国鉄職員の多くが国鉄以外の社会と接触しないことから世間に疎くなる傾向はあるわけで、良く言えば非常に純粋人々で有ったと言うことです。
それ故に、マル生運動の研修後、国労や動労の組合員が鉄労に移籍することが後を絶たなかったわけです。
その辺は、国鉄を売った官僚たち、大野光基氏の、4 章生産性運動の急速な拡大で下記のような記述が見られます。
引用してたいと思います。
私の演題はいつも「生産性運動を広めよう」と言うことだった。
そして、次の話で何時も私の講演の結びとした。
「今年の4月か5月のことです、4泊5日の生産性研修が終わった時点で懇談会をやりました。
この席上であ、有る動力車区の指導機関士がこう言いました。『私はなんの気なしに研修にやってきました。ところがだんだん聞いていくうちに大変なことになったと思ってしまいました。そして最後に自分自身にぶつかったのです。生産性運動というのは、俺がやらねば誰がやる、これだと思いました』と、彼は語ったのです。
と言うところで全てを語っていると思いますが、動労や国労の視点からすると、組合員が当局に洗脳されてしまったという解釈をするわけですから、組合は当局に対してマル生反対運動を実施していきます。
その辺は長くなりそうなので次の機会にさせていただきます。
国鉄労働組合史詳細解説 33
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