《泉の森❖’22/03/20》 遅れ気味の野草の開花、それでも足は森に向いてしまう。 毎年、顔を見せてくれる野の花々。森の今、桜が主だろうが。 地表近くで健気に魅せる花々、今年も出会えたって、ほっとする。 「令和肆年(皇紀2682年)3月28日、記」
《横浜・新治市民の森❖’22/03/12》 気分転換に散策に出掛けた。今年の樹々、開花は遅い。 分かっていても散策したくなって、となり町まで行ってみた。 思った通り里山全体で、草木は漸く眼を覚ました状態。 だが樹々は、着実に芽をつけ訪問者をワクワクさせてくれた。 このところ、憔悴感を日に日に募らせるも如何ともし難い、異国の戦禍。 国家間の争いだが、今年の二月~三月は、公私に渡りバタバタ続き。 ブログなど綴る感覚を持てないできた。遠出も桜行脚もままならない。 思い切って近間の森へ。見慣れた光景だが、心新たで気分が良かった。 葉芽は、未だ姿をみせていなかったが、春の息吹を感じとれ満足。。! 「令和肆年(皇紀2682年)3月25日、記」
《泉の森❖’22/03/06》 今年の二月~三月は、公私に渡りバタバタ続き。 ブログなど綴っている暇など持ち合わせなかった。 遠出が中々出来ず桜行脚もままならなかった。 そんな中で近間の森へ出掛けた。漸く河津桜が。。。! 見慣れた光景だが、心新たで気分が良かった。 野の花は、未だ地中から茎を出したばかり。。。! 辺り周辺、散歩にはもってこいの場所だ。 「令和肆年(皇紀2682年)3月22日、記」
《伊東の桜と椿❖’22/02/17》 二月の綺麗な伊豆大島を眺めることが出来、ラッキーだった。 大島の三原山に冠雪が・・・中々出会えない光景と宿の人に聞いた。 気分よく宿を後にして紫陽花の自生地、伊豆大川に寄ったのだが?? 路が狭く、車での探索は無理と判断。桜探訪に伊豆高原に向かった。 今年は、桜の開花が遅い、伊豆高原の“さくらの里”も素通りした。 伊豆高原の伊東寄りに小室山があり、椿が咲いてるか?と向かった。 そんな小室山の椿も開花は未だ。樹木の開花は、気温に左右されるのか。 単に気温の変化では無いような気がする。気温の一定・安定度が重要。 毎日の高低の激しさより、気温の安定が何日続くか、が重要なのだろう。 今年の桜開花は、2週間ほど遅く開花したと感じている。 久し振りの小室山、駐車場の場所を忘れており迷ってしまった?? 椿園脇の駐車場に車を停め、ちらほら、と少し咲く椿もおつなものだった。 せっかくだからと山頂へのリフト乗り場まで歩いた。前に来た時は??? 自然公園的な所を歩いていると、幸運にも“伊東小室桜”の花に出会えた。 今回は、植物掲載がメイン・・・花のみをアップ!?! イトウコムロザクラ(伊東小室桜)は、1988年に伊東市小室山で発見された桜。 寒緋桜(カンヒザクラ)と大島桜(オオシマザクラ)の交雑種と紹介されている。 花は径4㎝ほどの淡紅紫色。花弁5枚、花の形は一重咲きで中輪。 特徴的にカンヒザクラの形質が見て取れる。 開花初めの頃、イトウコムロザクラは、カワヅザクラに比べやや色が薄い。 花弁がとても大きいのが特徴。発見者は、萩原直義氏。 今回の桜行脚で得た最大の収穫は、この伊東小室桜に出会えたことだった。 つばきを見たくて訪れた小室山だが、桜の野生種が確認された場所。 野生種を思うと色々と浮かぶ、河津桜にして然り。椿に関してもだ。 椿といえば、伊豆大島。椿油にしても伊豆大島が第一に出てくる。 だが、椿油の良質な生産地である“利島”は余り知られていない。 それでも地道に利島産椿油が、伊東市内で販売されている。 南伊豆で桜並木が注目されている。同様に利島を宣伝できないか?? いろんなことを思えた桜行脚だったが、最後、帰宅についた路が最悪。 伊東辺りで昼食をッて思ったが、休日等で道すがらで探そうと・・・。 ところが135号線で大渋滞に巻き込まれ、昼食無し、疲れて帰宅した。 「令和肆年(皇紀2682年)3月19日、記」
《温泉宿“北川海岸”点描❖’22/02/16》 温泉浴三昧・・北川では温泉と景観(海)、シンプル・・単純が最高!! 早朝、部屋から見ゆる朝陽、地平線に浮かぶ伊豆大島は軍艦のようだ。 刻々と色変わる空“自然な文様”暗闇から明けて行く様・・・静かな麗明。 地上の変異は見て取れるが、海底は神秘そのものって思えもした。 早朝?!に温泉に浸かった事で、心地よく数時間も海を眺めていられた。 「令和肆年(皇紀2682年)3月16日、記」
《癒し&静かな温泉郷“北川”点描❖’22/02/16》 最近、お気に入りの東伊豆・北川の宿。チェックイン後のティ‐ブレイクがいい。 その後、夕暮れの海を眺めながら(屋内・露天共)の温泉浴は、癒しの極み。 温泉浴でさっぱり、夕食の創作フレンチ懐石料理に舌鼓をうつ。 今回、泊まった日の夜には部屋でムーンロードも運良く(晴天)観られた。 地形・位置的に伊豆大島の姿・景観が良く映る場所が、北川の宿。 深夜の温泉浴は、日頃の疲れを洗い流してくれる。心地よい・至福の時。 * * * * * この1ヶ月間に、異国では悲惨な争いが勃発、如何ともし難い。 又、先日、大地震が東北を襲った。こちらは、予期できない事象だ。 だが国家間の争いは、人智があって然るべきなのに??? 今の時代に平然と殺戮を繰り広げている。愚かというしか無い。 だが、こんなことを言っている僕自身、平和ぼけしているようだ。 北朝鮮に拉致された日本国民を救出できていない。 国家間戦争に疑義を持つが、日本国民の救出は、国の責務だ。 もどかしい、、、。日本国憲法は、誰のためにあるのか?? 「令和肆年(皇紀2682年)3月13日、記」
《忘備録・癒し&静かな温泉郷での問題!?!》 下賀茂温泉・青野川沿いの“みなみの桜並木”想像以上の美的空間感”、大であった。 その一方、南伊豆全体に設置されてる大型の風力発電装置の増加に不安がよぎる。 単に美観的問題ではなく環境破壊に至らなければよいが、而して地元に貢献してるか?? 今、南伊豆の沖合に大規模(高さ数百メートル)な風力発電計画が国レベルで審査されている。 仔細を承知していないので軽々に申し上げられないが、大いに疑問を持ち危惧感で一杯だ。 地元に還元されない開発???走雲峡周辺の風車設置ですら??だ。 南伊豆の自然、今以上に人工的開発整備は、止めて欲しい。 失望感を持ちながら走雲峡を走って行くと微妙な変化・悪化を見た。 そんな中で小さな花園に出会った。これ以上の桜鑑賞を望めない程!! 16号線に出て石廊崎に向かったが、山間に見る大風車は異様に見える。 石廊崎灯台前に立ってみて、目の前の大海原景観は保持すべきと思った。 経済力で己のためにのみ開発計画をしてる様に映る。 地元に還元しない開発でよろしいのだろうか。 開発計画者は、外資系企業に由。身勝手だが、この自然環境は保全されるべき。 半世紀も前の鎌倉・自然環境保全運動を思い出した。 伊豆半島南部分そして西側の西伊豆は、交通の不便さで今があるのだが。。! 如何に科学が進歩したとしても、自然界を人間が支配しているわけではない。 この自然環境は、急激に変化させてはいけないって痛感する。 「令和肆年(皇紀2682年)3月10日、記」
《桜鑑賞二日目、桜・菜の花+環境❖’22/02/16》 下賀茂温泉・青野川の桜並木全体を愛でるとなると時間を要する。 下賀茂温泉周辺の自生種も探したいが、資料不足で今回はパスした。 今年は、開花も遅れているので花まつり会場の部分をまわることに。 青野川上流部分(前原橋~銀の湯橋両岸を、イ・・・みなみの桜)、 青野川下流部分(来の宮橋~宮前橋を、ロ・・・みなみの桜)、 今回は、道の駅「下賀茂温泉 湯の花」駐車場に車を駐めたので、 概ね(ロ)の部分の桜並木を眺めながら歩いた。 下流に向かって左側土手並木は開花し始めていたが、 対岸側は、日照の加減でか未だ硬い蕾状態、右岸側だけを散策。 のんびりと歩いたので結構時間を取ってしまった。三分~五分咲き。 河津桜は、下賀茂地域の野生樹と深い関係があると聞いてもいる。 今の河津周辺の桜、元々は下賀茂域にあった木の接合樹とも聞く。 昨今のDNA資料を見ると、河津桜の歴史に思う所がある。 登録認定で河津桜と称しているが、ルーツを検証し解明して欲しい。 青野川の河津桜と河津町の河津桜、微妙に異なっていまいか!! 素人が、勝手に想像しているだけだが、史実を検証して欲しい。 青野川の下流、弓ヶ浜海岸に至る地域も面白い所だ。 オオシマザクラ、マメザクラ、カンヒザクラやシナミザクラが自生とある。 桜の遺伝資源、多様な変異系統を南伊豆地域で見ることが出来る由。 中に‘ミナトザクラ(湊桜)’があるが、南伊豆地域の固有品種と聞く。 南伊豆・下賀茂地域のサクラ個体の調査研究で個体成立系図を待ち望む。 而してみなみの桜祭りの下流部分、日野(ひんの)にある休耕田を使って、 「元気な百姓達の菜の花畑」3万平方メートルにも及ぶ黄色の絨毯が!! みなみの桜祭りと共演していた。壮大で想像以上の迫力があった。 みなみの桜並木・菜の花畑を背景にフォトウエディングをされてる人々も観た。 平日、満開前の状態ということもあってか、大した人出もなくゆっくりと散策。 開花予測・情報発信が充実してきたこともあって近間の散策者が少ないか。 伊豆半島は、標高の異なる場所が複雑に入り組んでいる。気温の影響は大きい。 花芽形成後の花蕾の発達、視覚的に鱗片葉が割れて緑色が見え始める状態。 至福の良き眺めであった。満開の景観より僕には気に入った眺めであった。 桜見物の旅だが、自生紫陽花の生育状態も観察する目的もある。 昨年チョット気になった場所、野生紫陽花の宝庫、走雲峡に入り加納側は良かった。 だが先に進むにつれて辺りが以前と環境・眺めが異なっているように思った。 事前にその周辺の航空写真を観ておけばよかったのだが驚き唖然とする!?! 走雲峡の西側は大きな風車が増え、ある部分は禿山のように整地されている。 何の目的での開発かは知らないが、只々唖然とする。植生環境は悪くなるばかりだ。 昨年、紫陽花観察に訪れた時も工事の真っ最中だった。生態系が心配だった。 その時すでに野生紫陽花が、伐採されている場所を確認している。 このまま、開発が進めば紫陽花の生きる道は、かなり狭まっていくだろう。 一方、16号線大瀬側出口手前に桜園が現れたのは驚きだった!! 近くに建物もあり以前に植栽されたのだろうか、が素晴らしかった。 時間的に先を急ぐ為、仔細に観察しなかったが来年の楽しみ(種名特定できず)。 16号線に出て、最近訪ねていない、石廊崎灯台を目指す。 新しく灯台近く迄、道路が整備されたのを確認しに行った。 便利に、年寄りには好都合だが環境開発の負をも考えないといかん。 不安を抱きながら、癒やしの温泉に向かった。 「令和肆年(皇紀2682年)3月7日、記」
《下賀茂・青野川土手周辺❖’22/02/15》 紫陽花行脚をしていて南伊豆地区の植生に関心を持ち続けている。 青野川の桜並木、景観的にも見応えあると以前より想像していた。 天気予報では、夕方は小雨がふる、と予報が出ていたのだが、 夕食前に散歩がてら下調べに歩いてみた。予想道理、3分咲程度!! おかげで散策者もおらず、犬散歩の地元人数人と会うだけだった。 春まち橋から桜並木を下流に向かい道の駅「下賀茂温泉 湯の花」まで。 桜の開花状態を観察しながら歩いた。小雨が降りだして道の駅で引き返す。 本音を云えば、桜観察よりもお腹を空かせるのが目的。宿の夕飯が豪盛!! 最近の天気予報は、的確に予報を出してくれる。それもピンポイントで。 南伊豆は、夕飯を楽しみに出掛ける。食前の散歩、小雨も楽しかった!! 慣れって恐ろしい、豪盛、あのフルコースもしっかり頂けた!! 「令和肆年(皇紀2682年)3月5日、記」
《忘備録“上巳(じょうし)の節供”!?!》 上巳(じょうし)の節供,上巳の節供は五節供の一つで桃の節供・雛祭りを指す言葉。 旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句とも呼ばれてきた。 女の子の成長を祝う桃の節供「上巳の節供」を古くより「雛祭り」と称されてきた。 また「上巳」とは、旧暦3月の上旬の「巳(み)の日」を指す言葉。 日本の「桃の節供」は、平安時代以前から始まったといわれている。 貴族子女の間で行われていたが、江戸時代に庶民の人形遊びと節供が結びついた。 人形(ひとがた)に穢れを移して、邪を祓う。それが、各地に残る「流し雛」だろうか。 紙で人の形(形代)を作り、それに穢れを移し川や海に流して災厄を祓う祭礼の形。 「流し雛」として各地に残る風習。雛人形は、江戸時代に美しい人形に発展もした!! 「桃の節句」は、楽しい。雛あられ、金平糖、手作り羊羹(我が家の習わし)も食べれた。 * * * 我が子 、孫に女子がいないのでひな祭りの祝宴をしたことがない。 昔、我が妹の雛人形を飾るのを手伝った事、懐かしく思い出す。 今は納戸で陽の目をみない雛人形だが、確か“有職雛”と聴いた。 たまには、飾らないといけないのかもしれないが、少々大変だ。 知人の孫娘の雛飾りを観ていて気づいた。言葉使いや歴史。 お内裏様とお雛様??気に止めず聞いていたのだが?? ひな祭りの歌、童謡の「うれしいひなまつり」は、広く知られている。 この曲中の雛人形を歌った内容として不正確な描写が含まれ、 而してこの曲が広まった事で、表現が誤って広まってしまったか?? 内裏(だいり)とは、天皇の私的区域のことを差し、御所(ごしょ)、 禁裏(きんり)、大内(おおうち)などとも呼ばれている。 天皇が住む宮殿を指す表現で、天皇陛下をお内裏様と呼ぶのは誤り。 歌詞の意図は、お内裏様を天皇、お雛様が皇后を表したのだろうが、 「男雛・女雛」または「お殿様・お雛様」と呼ぶのが正しい。 親王飾り、天皇皇后を模したお飾り自体を内裏雛と呼ぶ。 お内裏さまとは、天皇皇后、お二人を言う表現であった。 この内裏(場所)の中に、紫宸殿(ししんでん)と呼ばれる所があり、 天皇元服や立大使、節会などの儀式が行われる正殿を指す。 雛人形は紫宸殿で行われる、天皇と皇后の結婚式を模したお飾り。 飾り方にしても大正天皇の頃を境に二通りの飾り方が出来た。 古来からの日本伝統の立ち並び方。京都では、親王飾りと呼ぶ由。 京都が都(御所)であった故、京雛の男雛と女雛の立ち位置は伝統的。 男雛を向かって右、女雛を向かって左に飾るのが伝統的飾り方。 日本古来の風習では、陽が昇る方向が上座とされてきた。 京都御所を北に見て殿が向かって右(東側)にお座りになられていた。 全国的に男雛が向かって左という現在の形になったのは!?! 大正天皇が即位の礼で天皇が向かって左、皇后が向かって右に立たれた。 この立位地(西欧の所作)が、定着した事による。どちらが正しい、では無い。 歴史的変遷そのものだ。こうしたことは、広く庶民も知っていて然るべきと思う。 以前、ブログルでひな祭りについて記した事があった。 「令和肆年(皇紀2682年)3月3日、記」