《自宅の雑庭に初花が!!22/2/21》 今年は、昨年の今頃に比べてみると寒気が続いているように感じる。 自然は、正直だ。野草的・・手入れを全くしない野放図な庭に花をみなかった。 それが突然に庭の片隅にツタバウンラン(蔦葉海蘭)が一輪・姿を見せた。 また、生け垣のカンツバキ(寒椿、園芸種の立寒椿かもしれない)が咲き始めた。 カンツバキは、ツバキとサザンカとの交雑種に由。 タチカンツバキはサザンカとカンツバキとの交雑種という説もある。 いずれにせよ花の少ないこの季節には、心癒される花々だ。 「令和肆年(皇紀2682年)2月21日、記」
《感慨・昭和・/・可愛いカメラ!!》 昭和時代・戦後の高度成長の頃、写真と山登りに夢中だった。 父親の趣味と仕事でも使っていたカメラ、初心者には余りに高みの存在!! 其れとは別に憧れの山登りの偉人が使っていた二眼レフに惹かれた。 そんな身近にあったカメラ、中でも憧れ続けた“NIKON”というブランド。 そんな銘機ブランドが、最近ちょっと沈んでいた。こだわった性能が故か?? かつてのミノルタになってしまうか??と案じていたのだが・・・!! 初心者に優しく、而してクラシカルなカメラに目を見張る。 また、対局的なプロ仕様なカメラの出現。遅まきながら魅せるデジカメ。 携帯付属のカメラではなく、かつてのカメラ愛好家をも魅了する。 単に好みの問題だが、こだわったカメラを触らせて頂けた。 NIKON Zfc(本体)、COSINA NOKTON D35mm F1.2 Zマウント付き。 単に撮るではなく、写真・撮影を楽しむ・・・これが本質ではないか。 「令和肆年(皇紀2682年)2月17日、記」
《感慨・昭和・/・熱海点描(2)!!22/1/30》 昭和時代・戦後の高度成長の頃、熱海といえば箱根と並ぶ保養・温泉地だった。 特に東海道新幹線が開通した事で熱海は、より人気が高くなったと思われる。 だが、明治時代から多くの文豪たちが居を構え、名作を執筆した場の熱海。 中でも有名なのが、 明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に、 掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)。 この小説にある「お宮の松」「貫一・お宮」像は、実在人物の様にみえる。 「貫一・お宮の像」「お宮の松」は海岸の国道沿いにあり、観光スポット。 銅像をよくよく見ると、明治時代の服装がよく分かる。 海岸線、子供自分に来た時は、広い砂浜って感じだったような??? 今は整備され、親水公園などがあって。その一角にも、銅像が建っている。 江戸時代の熱海の偉人銅像であるが、説明文を見ていて思ったことがあった。 昨日、二月十三日は、苗字布告記念日であることを思い出した。 1875年(明治8年)の2月13日、明治政府が「平民苗字必称義務令」を発布した。 太政官布告により国民はすべて姓を名乗ることが義務づけられた。 説明文にあるように、「釜鳴屋平七」の釜鳴屋は屋号、店の名である。 又、熱海は和洋の食文化もしっかりと根付いている。美味な店も多い。 路地裏グルメなどと呼ばれている。地味だが美味しい洋食屋さんもある。 何故か、いっとき斜陽だった熱海、行政の懸命な努力で訪問者も増えた。 2月13日は、旧きを思えた日、続く14日は、和的洋食材を思えた日。 僕の中でチョコレートといえば、米国製のHershey(ハーシー) 。 友達(米軍属の子供)が遊びに来るときは、必ず持参してくれた。 我が高校生の頃、2月14日のバレンタインデーは一般的に知られていた。 日本的聖バレンタインデーは、女性から男性に向かって恋を打ち明けてもよい日。 女性が愛の印にチョコレートを贈る。この習慣は、宗教的なものではない。 1958年(昭和33年)にメリーチョコレートが、販売促進を目指して宣伝を展開した。 更には、それに便乗して日本チョコレート・ココア協会もキャンペーン展開している。 高校生(我々時代)の間でも結構、行われていた。義理チョコではなく。 初めて頂いたのは、手作りのクッキーだった。チョコではないことが嬉しかった。 懐かしい。クリスマスケーキ、チョコ等の材料を売っていた店が鎌倉にあった。 鎌倉周辺の若者たちは、手作りが思いの深さ、と認識していたか!! 昨今の風潮は、ちょっと度がすぎているような・・・。 「令和肆年(皇紀2682年)2月14日、記」
《感慨・昭和・/・熱海点描!!22/1/30》 二月十一日は、建国記念の日。国民の祝日に関する法律というのがある。 祝日法、昭和23年7月20日法律第178号の第2条に建国記念の日の趣旨として、 「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。 1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、 翌1967年(昭和42年)2月11日から適用された。 二月十一日は、かつて紀元節として奉祝されてきたが、戦後廃止。 建国の日を改め“建国を記念する日”としたは紀元節概念に??? 紀元節は、1873(明治6)年から1948(昭和23)年まで祝日とされ、 四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)の一つとされていた。 日本書紀による神武天皇即位の日・紀元前660年1月1日。 それを新暦(グレゴリオ暦)に換算した2月11日を祝日と定めた。 戦後の日本国憲法の精神にそぐわないと安易に廃止した、と感じる。 それでも昭和41年に「建国記念の日」として復活させた。日本の独自性。 紀元前660年を元年とし「皇紀○年」という年の数え方、日本そのものだ。 戦前・戦中・戦後、こんな表現も一般的には使われなくなりつつあるやに感じる。 歴史的・環境的に戦前・戦中・戦後を感じ取れる場、伊豆半島は好みの地だ。 とりわけ“熱海市”は、幼少期から連れていって貰った懐かしい保養地。 そんな地でありながら、見る機会がなかった、糸川の寒桜(熱海桜)。 感慨深く、今年は訪ねることが出来た。美味しいランチもとれたし。。。! 「令和肆年(皇紀2682年)2月11日、記」
《熱海の早咲き桜・/・22/1/30》 アタミザクラ(熱海桜、寒桜)は、熱海市を中心に栽培されている早咲き桜の一種。 1871年(明治4年)に、イタリア人によってレモン等と共に入ってきたとされている。 が、インド原産品種ではないらしい。花粉の分析などによって検証された結果、 カンヒザクラ(寒緋桜)とヤマザクラ(山桜)の雑種と推定されている《ウィキペディア(Wikipedia)》。 学名としては、Cerasus × kanzakura ‘Praecox’(寒緋桜と山桜の自然交雜種) 熱海市内では、市街地の糸川沿い遊歩道、親水公園周辺、熱海梅園周辺、 南熱海(上多賀)の「桜の名所散策路」(四季の道)の4箇所を中心に植栽されている。 熱海桜は、伊豆下田の御用邸(昭和47年)や伊勢神宮(昭和48年)、 東宮御所(昭和51年)に献上され植栽された事で、広く知られる様になった。 熱海市では、市制施行40周年の昭和52年4月10日に熱海市の「木」に指定。 熱海桜は、開花期が1月と沖縄の寒緋桜と並んで日本列島で最も早咲きの桜。 早咲き桜として知られる「河津桜」より約1カ月早く咲くのが特徴。 而して、一般的な桜の開花期間は2週間程度だが、熱海桜の開花期間は1カ月以上。 開花期間が長いのは、花のつき方に特徴があるとされる。 ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に開花する花芽の二段構えになっている。 * * * * * 未だ一度も花を見たことがない、熱海桜。時間を得て日帰り花見に出掛けた。 電車を使って行ってみると、とっても身近に熱海を感じた。こんなに近いか??? 熱海に近づくと、先般の土砂崩れ場所が眼下に見えた(爪あとが見えた)。 久し振りにおりたった熱海駅、綺麗になった。日曜とあって結構の人出。 目的の糸川に向かって寄り道をしながら到着すると、熱海桜が。。。 本数はそれほど多くはないが、瀟洒に咲いていた。 驚いたのは、糸川添いにブーゲンビリア咲き始めていた!?! <ブーゲンビリア>南米産のオシロイバナ科(Nyctaginaceae)の熱帯性植物。 彼の地では一年中咲いているようだが、日本では5月頃から咲きはじめる。 が、熱海は温かいのか、、、??蕾が沢山みられた。 花のように見えるのは、実際に苞(ほう)と呼ばれるもの。 苞が3枚集まったその中心に咲く小さな白いものが花だ。 苞には、葉脈があり葉の形をしている。苞は海からの風に揺れてヒラヒラと。 別名(和名)は、イカダカズラ(筏葛)という。。。! 「令和肆年(皇紀2682年)2月8日、記」
《泉の森・/・22/2/3》 フクジュソウ(福寿草); いわゆる、「スプリング・エフェメラル」を代表する花と映る花。 雪解けと同時に初春一番で咲く事から「元日草」の名もある。 一面の枯落ち葉の中に鮮やかな黄色の花がみられるようになった。 園芸種として江戸時代から品種改良が盛んで紅花の「秩父紅」は有名。 キンポウゲ科、有毒で新芽の季節に誤食事故も起きている要注意。 従来、日本のフクジュソウは、種としては1種類と考えられていたのだが?? 近年の研究によって分類が見直され、日本の福寿草は4種と判明した。 「フクジュソウ」(Adonis ramosa)、「ミチノクフクジュソウ」(Adonis multiflola)、 「キタミフクジュソウ」(Adonis amurensis)、「シコクフクジュソウ」(Adonis shikokuensis)。 学名から判るように、品種や変種ではなく、別種として扱われている。 「キタミ」「シコク」は地域限定だが、「ミチノク」は、本州全域と九州に分布。 目の前の花が、どの種に属するものかは、分からない。 「令和肆年(皇紀2682年)2月5日、記」
《叛逆のろれつ、節分・・って。。。!》 二月三日の節分、って現代社会では何を行っているだろうか?? 節分、各季節の始まり(立春、立夏、立秋、立冬)その前日を云う。 そんな風に教えられてきた。我が子達にも伝えているが。。。! 新暦・・旧暦、面倒で説明せずに、立春の前日を節分と云っている。 旧暦では春(立春)の節分は大晦日に当たる大事な日であった由。 又、季節の分かれ目(年の分かれ目)には邪気が入りやすい、と。 邪気が入りやすい節分に厄払いの行事が行われる(豆まき!)。 豆まきのしかた、我が家では家長(父親)が各部屋に落花生を捲いていた。 母が北海道育ちだったからなのか??両親から聞き漏らした、残念。 我が家の節分、夕飯には厄払いを以って、“けんちん汁”を頂いていた。 “けんちん汁”は、建長寺汁が語源とされる精進料理のひとつ。 特徴は、残り物の根菜、季節野菜等、ありあわせのものを使う。 鰹節や煮干しのダシは使わない、昆布・シイタケのみを使う。 ごま油で炒める。豆腐はもみつぶす。炒めながら醤油で下味をつける。 水を入れて煮たあとに仕上げの醤油で味付けをする。 複数の具材を一度に入れ煮るのではなく、丁寧に作り上げていく。 豆腐をもみつぶすところが建長寺汁のはじまりであり特徴と言われている。 なにゆえ、豆腐をもみつぶすのか? 寺に言い伝えがのこっている。 * * * * * ある日、寺近くの住人が大覚禅師(建長寺開祖)に一丁の豆腐を寄進した。 禅師は、「一人で食すことは仏祖に申しわけがない」と、 膝下の修行僧と共に頂く為、食事係(典座、てんぞ)に一丁の豆腐を渡した。 典座は、700人ほどもの修行僧にどうすればいきわたるかを思案したあげく、 汁に豆腐をもみつぶして入れることに。 皆に広く公平に行き渡る様にする、仏教訓「食平等(じきびょうどう)」。 建長寺汁の豆腐は、食平等。精進料理の野菜に禅の教えが込められている。 皮まで残さず使う。食材はなるべく薄く、細かく切る。 殺生をしてはいけないという教えから肉や魚を使わない精進料理。 植物である野菜に対しても「他の者の命を頂く」、その気持ちを大事にする。 このひとつの椀の中に、人の思いや尊さがこめられている。 「建長寺では年に2回、修行僧たちが檀家さんを招いて精進料理を振る舞っている」 禅に云う『食材を活かしきる』という教え、それが伝承・建長汁(けんちん汁)。 * * * * * 能書きが・・・先になってしまったが、地域文化ってなんだろうと改めて思う。 身近な人々をみると、神奈川人でありながら節分に“恵方巻き”を頂いている!?! “恵方巻き”って関西特有の食文化(節分)でなかったか!! 何も全国区にする必要があるのかって思う。豆まき用の豆(大豆)と落花生。 それぞれに歴史があるだろう。流行りとか好みもあるだろうが、、、。 何か??商売が・・・。僕からすると、恵方巻きは地方文化であって欲しい。 文化的行事、節分祭とか鬼追式と言った奈良の寺、行事を思い出す。 「和敬静寂」、そんな雰囲気をおもうのである。コロナ終焉をも希する所。 「令和肆年(皇紀2682年)2月3~4日、記」
《懐かしの海辺、秋谷・森戸・鐙摺・披露山・材木座・稲村ヶ崎》 横須賀市・葉山町・逗子市・鎌倉市、こんな辺りで育った。 青春・青年時代は、このあたりが生活・遊び場であり友達も多くいる。 前の東京オリンピック頃が、當に我が青春真っ盛りの頃だった。 若者の間でIVYスタイルが流行りだした頃。アメリカ・アメリカだった。 でも、僕は米東部のカレッジファッションではなくブルックスブラザーズ!?! 幼少期、横須賀米軍基地内の教会属の日曜学校に参加させてもらえていた。 そこで知り合った人々、牧師さんや軍属の人々の中にBB愛好家がいて。 鎌倉材木座の家には、米軍関係者が週末に良く遊びに来ていた。 そんな人々が、衣服を持参してくれていた(いわゆるお古)。。!! 何も知らずに、アメリカントラディショナルファッションにどっぷり浸かってた。 横須賀は、独特な雰囲気があった所だ。ローカルだが。 僕らより上世代は、“太陽族”とかいう若者の社会現象があった由。 新進気鋭の石原慎太郎作品『太陽の季節』が第1回文學界新人賞を受賞。 而して 『太陽の季節』は、第34回芥川賞を史上最年少で受賞した。 又、『太陽の季節』は映画化され、弟・裕次郎が俳優としてデビューした。 慎太郎自らも映画に初出演、「太陽族」、「慎太郎刈り」が大流行した由。 だが、映画『太陽の季節』が反社会的とかで映画倫理委員会が出来る契機となった。 ヨットマンだった石原慎太郎・裕次郎兄弟。葉山周辺は、ヨットの聖地でも在る。 皇室の御用邸がある葉山だが、若者たちにとっても葉山は人気があった。 葉山の森戸海岸には我が大学の海の家(キャンスト)があったりで良く行った。 海上には森戸神社の鳥居がみえ、鳥居の立っている小さな島を名島という。 往古は、岩場で陸とつながっていたと言われてもいる。 今、名島の隣にかわいい灯台がある。この灯台は、裕次郎灯台と呼ばれている。 ヨットマンだった故石原裕次郎の三周忌を記念して兄慎太郎が基金を募り建てた。 葉山・森戸海岸沖の岩礁に建つ灯台、3秒に1度閃光し海の安全を守っている。 僕らにとって青春時代のシンボリック的存在な石原慎太郎さん。 政治家としてより、作家として而してヨットマンとしての存在の方が親近感が在る。 僕にとって小説家石原慎太郎作品は、『青年の樹』が最も印象に残っている。 昭和の偉人が、又一人、天星された。深く哀悼の意を表したい。 石原慎太郎さん、政治家としてももっと評価されて然るべきと思って止まない。 「令和肆年(皇紀2682年)2月1日、記」
《泉の森・/・22/1/21》 ヒメリュウキンカ(姫立金花); ヒメリュウキンカは、イギリス原産と言われている帰化植物。 草丈は5~20㎝。葉は心形で艶あり浅い鋸歯がある。 花茎2~3㎝、春に黄色い花を付け、スプリングエフェメラルと言われる。 花弁(花に見える萼片)5枚。花は一重咲きで比較的大きい。 この花は萼花弁と呼ばれるもので本当の花は退化している。 夏に地上部がない夏眠性の植物で、地下に塊根がタコ足状に数本ある。 秋に芽を出し始め、冬の間も少しずつ芽を伸ばして葉をひろげる。 晩冬から早春に株はロゼット状に広がり、中心に蕾を抱き始める。 春に次々と咲く黄色の6~8枚の萼花弁、キラキラと輝く。 基本は黄色の一重咲きだが、多様な園芸種があり、愛好家に好まれている。 「令和肆年(皇紀2682年)1月30日、記」
《泉の森・/・22/1/21》 ヒメウズ(姫烏頭); ウズとは鳥の頭と書き、トリカブトのこと。 ヤマトリカブト などの葉と似ているが、 ヤマオダマキ と同属。 花は、小さく全体に細い。根茎は長さ約1㎝の塊状。茎は、紫褐色で軟毛が生える。 根生葉には長い柄があり、3出複葉。小葉は丸く2~3裂し、裂片は更に浅く2~3裂。 花は下向きに咲き、直径4~5㎜。花弁は筒状に5個つき、淡黄色。 雄蕊9~14個、内側の雄蕊は仮雄蕊。雌蕊2~4個。萼片5個、白色~淡紅紫色の花弁状。 今年初めて見つけた小さな花。 「令和肆年(皇紀2682年)1月27日、記」