“初日の出、日の入り”《襍色・/・点描‘16-1》


日の出、日の入り時の辺り天空の色合い。
昔拝んだ色を見たくて海岸を散歩してるのだが・・・。
絶妙な一瞬を再見できていない。
また来年に期待して。。。!

「鎌倉市稲村ガ崎・鵠沼海岸」



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“新年ことはじめ!?!駅伝・観戦”《襍感・/・凡声‘16-1》

東京から箱根の間、沿道は、観戦・応援者で一杯!!
初めて見た警備に携わっている白バイ隊の待機場所。
どれほどの員数が、協力しているのだろう!?!
自分との戦いだが、こんな笑顔を見れる、競技は少ない。

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正月は、駅伝観戦??で始まるのが近年の過ごし方。
元旦のニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝競走大会)は、
日本を代表する長距離選手を見れる年頭の実業団オールスター戦!!
同時に社名宣伝、看板効果も大きい。
続く2・3日には、東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)が開催される。
こちらは、関東ローカルのみの大学で競う大学駅伝、学生組織が主宰している。
駅伝は、日本で生まれた独自の競技方法、ユニークな競技ではないか。
団体競技、襷リレーという「和」的感覚。走者は、重責だが選ばれし戦士。
でも箱根駅伝って毎回と言ってよい程に悲惨なことが起こる。
今年も気温が高めだったためか、脱水症てき症状も見られたが・・・。
その度に、駅伝有害論が出てくるが事象的評論家が好き勝手を言ってほしくない。

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昨年の正月、ブログルで「駅伝」について色々と記した。
拝借画像だが、箱根駅伝の往路5区、青山学院大学の選手の追い抜き場面。
その時の追いつかれた駒沢大学の選手、抜かれただけでは無く、
ゴール間近かで低体温症になりフラフラ朦朧と、それでもゴール出来た。
この駒大の選手《馬場翔太(現4年生)君》あれから1年間、如何に過ごして来たか?
ちょっと気になっていた。大学生という前途ある若者でもある。
更に選手層が厚い駒大だ。埋没してないとよろしいが。。。!気になるところであった。
*  *  *  *  *
今年の箱根駅伝、事前出走一覧に「馬場」の名前がない。補欠登録だ。
厳格な駒大監督の目に止まらなかったか、今年は!?!  それとも作戦か??
各大学の選手層は、程々にあつい。本番選手に選ばれるのも大変な事だ。
リベンジの山上りか?と思ったのだが、今年はダメ!!選手層は厚い駒大だから。
ところが、復路の選手変更発表を見て驚いた。8区にエントリーされている。
8区は、復路の重要な区間、そこを任された。実際に観戦に行かねば、と出かけた。
沿道では、一瞬で選手は走り去って行く。テレビ観戦の方が選手の表情はわかる。
だが実観戦の臨場感は、やはりいいですね。。。!馬場君の表情すこぶる良かった。

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競走と言うことからして勝ち負け、代表に選ばれる、等々は致し方無い。
だが駅伝は、「和」団体競技だ。そして学生には、学年ということもある。
駒大の馬場君、4年生で学生最後の駅伝だ。この1年間、苦しんできたことだろう。
過去に色々とアクシデントに見舞われた競技者を傍観してきて思いは複雑だった。
今回の馬場君、快調に走ってる。その姿からは昨年のことは微塵も感じられない。
一駅伝フアンとして、よくぞ復調した、と思わず“馬場君いいぞ”と叫んでいた。
爽やかに観戦出来た。沿道の整理・警備をしている方々のご尽力には頭が下がる。
今年は、勝負どころの遊行寺坂では無く今少し戸塚中継所に近いところで観戦。
観戦場所のすぐ後ろに警備に携わ白バイ隊が待機してるところであった。
そんな光景をながめながら昔を思うと色々と。
古く運営監理車・監督伴走車が自衛隊のジープ・自衛隊員が協力してた時代がある。
我が母校は、久しく箱根駅伝に出ていない。
ライバル??W大としんがりを争っていた^^)懐かしい。防衛大学校もでていた。
今年の箱根駅伝観戦は、昔を思い出させてくれた楽しい観戦だった。

1月10日、産経ウエブサイトの【スポーツCatchUp】を見て感動した(下記全文)。
《葛藤、感謝、使命感…駒大・馬場翔大 山の「失速」から1年、挑んだ最後の箱根駅伝》
1年前の悪夢をぬぐい去ってみせた。1月2、3日に行われた第92回東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)で、
駒大の馬場翔太(4年)は8区を2位の好走でチームの総合3位に貢献した。
前回は山上りの5区で低体温症に陥って失速。首位に立っていたチームは往路4位、総合2位にとどまり、
一時は陸上競技をやめることまで考えた。「本当に山あり谷あり。すごくいろんなことを学んだ箱根だった」。
特別な思いで臨んだ大学最後の駅伝は、納得のいくレースとなった。「自分らしい走りはできたかなと思う」。
往復217.1キロの終着点となる東京・大手町。
総合3位でゴールした10区の中村佳樹(3年)をチームメートとともに出迎えた馬場は、すがすがしい表情を見せた。
 任されたのは終盤に難所の遊行寺坂が控える海沿いの8区(21.4キロ)。補欠からの当日エントリーだったが、
駒大としては予定通りの起用で、馬場は目標タイムを1時間4分50秒に設定していた。
ただアクセルを早く踏み込みすぎて失速した前回の反省と、1月とは思えない気温上昇を考慮し
「遊行寺坂が始まってからが勝負」と冷静に判断。前半はペースを抑え、最終的に1時間5分22秒で走りきった。
 区間賞の下田裕太(青学大2年)には1分1秒及ばず、チーム順位も上げられなかったが、
実力者の柳利幸(早大4年)らを抑えて堂々の区間2位。
ふらつきながら懸命に足を運び、ゴール直後に倒れ込んだ前回とは一転、9区の二岡康平(4年)に笑顔でたすきを渡した。
「欲を言えば区間賞を取りたかったし、10区に渡るときに(総合優勝した)青学大の背中が見えるくらいにはしたかった」。
それでも「沿道から『駒沢』だけじゃなく『馬場』って名前も呼んでいただいて。
すごく幸せを感じたし、この1年、支えてくれた方々にお礼を言いたい」と感謝を口にした。

 気になることがあった。昨年12月11日の練習公開日、馬場は「5区を走りたい気持ちはある。
ただ、5区でなくてもリベンジはできる」と慎重に言葉を選んでいた。
雪辱に燃える馬場の気持ちをくんだ大八木弘明監督は、走る区間の選択権まで与えていた。
「8区を走ることになった経緯を教えてください」。そう尋ねると、馬場のつぶらな瞳から涙があふれてきた。
「最後の年、もちろん5区を走りたい気持ちはあった。自分にとっては『箱根=5区』」。
2年で初めて走った際には、区間3位の1時間19分54秒をたたき出した実績もある。
だが昨年11月に行われた山道を使っての適性テストで満足な結果が残せず、
大八木監督が与えた2度目のチャンスでも記録は伸びなかった。
「5区を走りたい気持ちと、チームに迷惑をかけちゃいけない気持ちで揺れた。
最後はチームの役に立ちたいと思い、自分から『8区に』と監督に言いにいった。すごくつらい決断だった」。
苦悩と葛藤に直面した日々は、まだ鮮明な記憶として残っていた。一方で馬場はこうも言った。
「8区に回って間違いではなかったと思う。監督、コーチ、メンバー、マネジャー…。
支えてくれたすべての人にありがとうと言いたい」。重い決断を知ったチームメートは彼に寄り添った。
マラソン元日本記録保持者で、今年度からチームに加わったOBの藤田敦史コーチは、
気分転換に8区の下見へと連れ出してくれた。

 何より大きな支えになったのが家族の存在だ。3人きょうだいの末っ子。
女手一つで育てあげた母親の文子さんを過去2回の山道では見つけられなかったが、
今回は母親が沿道で掲げた「翔大」の横断幕がはっきりと目に飛び込んできた。
「1人で3人を育てるのがどれだけ大変だったか…。でもほかの子と同じように習い事もさせてくれたし、
何不自由なく生活させてくれた」。
昼間に事務の仕事をこなし、夕食をつくってからパートに出かける母親の姿に「倒れるんじゃないか」
と心配したことも1度や2度ではない。ただ姉を通じて「インターハイとか、大会の応援で、いい観光をさせてもらった」と、
母親が自分の走りを励みにしていたことも聞かされた。

前回の箱根駅伝の翌日には、駒大の最寄り駅で見送った馬場に「諦めずに走り切ったことを誇りに思うよ」
と告げて列車に乗り込む母親の姿があった。心に穴が空いた状態で実家に連れて帰れば、競技から離れてしまうかもしれない-。
地元・岡山にあえて帰省させなかった文子さんの親心を、馬場は少し時間がたってから感じ取った。

同じ22歳の男子大学生の多くがそうであるように、母親に頻繁に電話したりはしない。
それでも感謝の思いを伝えようと、数年前にはAIの名曲「ママヘ」のCDにメッセージを付けて贈ったこともある。
大学卒業後、NTT西日本に入社して競技を続けられることが決まると、
「これから親孝行していけるな」と喜びをかみしめた。
「あきらめない姿勢を後輩に伝えたかった」という最後の箱根駅伝。
子供の頃、テレビで見た箱根のランナーに憧れた記憶から
「今度は自分が小さい子に夢を与える番」という気持ちもあった。
「人生のターニングポイント」。厳しさも喜びも与えてくれた「天下の険」の思い出を胸にしまい、
実業団での新たな陸上競技人生をスタートさせる。(奥村信哉)

※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※

上記の記事を読んでいて、大学、否、学生・生徒競走者の現実が見えてくる。
指導者も選手たちも互いに学び成長するのだと感じ入る。
ただ単に、燃え尽き症候群などと、言ってほしくないほしくないのである。
今は、陸上長距離界の指導者だが、現役時代は、日本期待の星だった瀬古利彦氏。
大学生時代、恩師中村清監督が彼らを激励するのに、母校の校歌を歌って居られた。
テレビ完全生中継などなかったラジオ時代の話だ。
今は、テレビ完全生中継されることが、良くも悪くも選手に影響している。
大会当日・前日の各選手は、すこしばかりの体調不良報告などしないだろう。
心情的には理解できる。全国生中継されるのだから。
しかしながら、駅伝が、日本のマラソン界をダメにした等と暴言を履くのを許せない。
駅伝の効用は、地道だが徐々にでている。東京オリンピックには、センターポールを賑わしてほしい。

「横浜市戸塚区俣野にて」



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年頭のご挨拶m(._.)m。

日光・東照宮にて。
江ノ島中津宮から奥津宮に行く途中の群猿奉賽像庚申塔。
おおらかに思慮深く何かを思いたい気持ちになる、好きな庚申塔。

今年は申年です。
三猿=見猿・聞か猿・言わ猿、
その真逆を行こうぞ、今年は^^)。
扨、さて、ブログで何を考えよう。

昨年戦後70年を以って日本に変化を見る。
其の続きを今年は考えよう!!
花と猫とイヌとの対話の中に何かを見つけたい。
色々・・ワイワイガヤガヤ、と。
本年もよろしくお願い申し上げます。
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“憂国の志(士)”《襍感・/・凡声》

ベニバナボロギク(紅花襤褸菊・綿毛) キク科(Asteraceae)
学名:Crassocephalum crepidioedes


2015年が終わろうとしている。今年は、国政で大きな変更があった。
「戦争法案」とマスコミは騒いだが、「戦争抑止法案」と考えたい。
自衛隊に関し、現憲法の不備、改正を迫った御仁が半世紀近く前にいた。

『三島由紀夫さんが予言した「からっぽの極東の一経済大国」』
作家・三島由紀夫が、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で凄絶な事件を起こす。
自衛隊駐屯地で割腹、自決してから45年を数える。
事件の4カ月前に産経新聞に寄稿した三島由紀夫。
「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と警告した。
財務官僚に限らない。経済の指導層は政官民を問わず、三島の遺言と向き合うべきだ。
(現産経新聞特別記者・田村秀男、記事)

《今の日本経済を傍観すると当にそうである・・・と思う(私観)》。

1970(昭和45)年11月25日・・午前12時前後・・三島由紀夫さん没。
日本を代表する作家であった三島由紀夫氏、「楯の会」と称する民間防衛組織を創設。
最も信頼ある会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入、自衛隊員に喚起を迫ったのである。

あの事件から45年をもつ。現在の日本の姿を真摯に再考すべき時ではなかろうか。
今年は、日本国憲法に於いて、第9条に関連して重大、且つ重要な解釈変更があった。

三島由紀夫の暴挙とされているが、自衛隊の中では、三島の遺志を尊重してると映る。
『魂の叫び』三島の思いが自衛隊員に大きな影響を与えていると思える。
〈深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々  公威〉
「くたかけ」は暁を告げる鶏の雅語。「公威」は三島の本名、平岡公威。
(三島らが体験入隊した滝ケ原駐屯地内に、三島の揮毫を彫り込んだ歌碑が建っている)

** 以下に三島由紀夫の遺した文面を表す。真摯に読み返して、現在を思いたい。是非はともかく **

三島由紀夫の遺書全文 「夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現すること」
 楯の会会員たりし諸君へ
 諸君の中には創立当初から終始一貫行動を共にしてくれた者も、僅々九ケ月の附合の若い五期生もゐる。しかし私の気持としては、経歴の深浅にかかはらず、一身同体の同志として、年齢の差を超えて、同じ理想に邁進してきたつもりである。たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその總力を結集して事に当るべきであつた。
 このために、諸君はよく激しい訓練に文句も言はずに耐へてくれた。今時の青年で、諸君のやうに、純粋な目標を据ゑて、肉体的辛苦に耐へ抜いた者が、他にあらうとは思はれない。革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた。
 しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
 このやむかたない痛憤を、少数者の行動を以て代表しようとしたとき、犠牲を最小限に止めるためには、諸君に何も知らせぬ、といふ方法しか残されてゐなかつた。私は決して諸君を裏切つたのではない。楯の会はここに終り、解散したが、成長する諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい。
 日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
 私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。
 ふたたびここに、労苦を共にしてきた諸君の高潔な志に敬意を表し、かつ盡きぬ感謝を捧げる。
  天皇陛下万歳!
       楯の会々長 三島由紀夫
 昭和四十五年十一月
(原文のママ。三島森田事務所刊の『「楯の会」のこと』より)

三島由紀夫の命令書
 小賀正義君
 君は予の慫慂(しょうよう)により死を決して今回の行動に参加し、参加に際しては予の命令に絶対服従を誓つた。よつてここに命令する。君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。
 今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭(な)かしむる凛烈(りんれつ)の行為である。
 三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。
 しかし、ひとたび同志たる上はたとひ生死相隔たるともその志に於いて変りはない。むしろ死は易く生は難い。敢(あ)へて命じて君を難苦の生に残すは予としても忍び難いが、今や楯の会の精神が正しく伝はるか否かは君らの双肩にある。あらゆる苦難に耐へ、忍び難きを忍び、決して挫(くじ)けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進(まいしん)せよ。
           楯の会隊長 三島由紀夫
  昭和四十五年十一月
  小賀正義君
(三島由紀夫全集より)

三島由紀夫と行動を共にした楯の会会員の証言集(裁判での発言や上申書) 「日本人の魂を取り戻す」
 ■小賀正義
 「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。先生からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。憲法は占領軍が英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。戦後の泰平が生んだ矛盾点である自衛隊に生命をぶつけることによって、戦後体制を終わらせ、日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死にがいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。われわれは軍国主義者ではない。永遠に続くべき日本の天皇の地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」
 「(略)行政権の主体はそれのみでは存在し得ず、常に祭祀国家の長としての天皇に支えられて存在し、天皇より統治を委譲されるという形をとってきたのであります。それは、皇統連綿として続いてきた天皇が民族と文化の原資に関わり、日本を真に代表し得るものであり、天皇においてのみ歴史と文化と伝統の連続性、統一性を保障し、吾々の根源をそこに見出すことができるからであります。このように天皇は歴史によって共に証明され、また歴史、文化、伝統は天皇によって断絶することなく伝えられ、継承されてきたのであります。日本を守るとは、最終的に天皇を守らねばならないのだと考えるのです。(中略)一般に戦争は悪であるから自衛隊のない日本にしようとする考えがありますが、武力で紛争を解決しようとするのは決して上策とはいえないし、だれも好んで戦争を欲する者はいないでしょうけれど、欲すると欲せざるとにかかわらず、現実に戦争が起こっているのです。これを無視して、戦争がないのが理想だからといって、これに備えないのは自己放棄以外のなにものでもないと思います。(中略)最後に、吾々5人は全て栄辱を共にすることを誓ったのでありますから、罪についてはどんな罪でも、三島先生や森田大兄の分も責任をとりたいと考えていますし、介錯は武士道の「形」でありますが、古賀大兄についても罪だとされるのなら、当然分かちたいと考えています」
 「ぼくらの言うクーデターは、一般のと違う。一般のは武力で政権を奪取することだが、ぼくらのは、政権を奪取してもあとは自衛隊に任せる。ただ責任はとる。ぼくらの行動は最終的な行動で生命をかけることだった」

 小川正洋
 「日本が、日本を否定している現憲法を否定することが、日本が日本を取返すことだと思う。われわれは三島先生についていけばよいと考えた。みずからの手で国を守るのは当然であり、決して軍国主義ではない。気違い扱いされることもわかっていたが、日本の文化、伝統を守るためには、こうしなければならないと信じ、国を守ることができる喜びで、今回の行動に出た」
 「体験入隊で自衛隊が戦力であり、隊員はガラス鉢の金魚のように隊にいると元気ですばらしいが、外に出ると小さくなってしまうのがわかった。これは口で言わなくても、憲法が保障していないからだと思った」
 「(三島に生きよと言われたとき)生きのびたくない、できることなら一緒に死にたいと思った。だから思いとどまったというより、命令どおり動いたということです」
 「(略)三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました。(中略)天皇を文化概念の象徴としてとらえ、侵されてゆく日本を守るためには、後に続く者を信じて行動しなければならなかったのです。自分がいまここで、日本を守らねば駄目だという使命感。それが日本人としての信義であり、誠であり、真心だと信じました。私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです。天皇に対する恋は永遠の片恋です。それを承知で恋するのが忠義と信じました。私を行動させたものが何であるかを一言で説明するなら、天皇への恋心と申上げる以外にありません」

 古賀(現荒地)浩靖
 「戦後、日本は経済大国になり、物質的には繁栄した反面、精神的には退廃しているのではないかと思う。思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。(中略)このような状態から日本の文化、伝統、歴史を守るために、肉体と行動、言葉と観念の一致を進めなければならないという信念から今度の行為に出た。この状況をつくりだしている悪の根源は、憲法であると思う。現憲法はマッカーサーのサーベルの下でつくられたもので、サンフランシスコ条約で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった。戦後二十五年たった日本人の精神と魂を目ざめさせようと思い、生命をかけることが楯の会の任務であると信じ、今度の行動に出た」
 「防衛は基本的な国の問題であり、国土を保障しているのは軍事力しかない。国家、領土といったものは外国の軍事力を借りても守れるかもしれないが、その国の歴史、伝統、文化は、外国の軍事力では守ることができない。建軍の本義をふまえた国軍でなければならない自衛隊が、憲法九条を守っているうちは、これはできない。日本人の魂が失われつつあるので…」
 「自分はあの現場で、物質的なものは何ひとつ要求していない。日本人として持つべき魂の復活を訴えたかったのだ。外国のクーデターや革命ではない。そんな権力的な私心は持っていなかった。責任は死であがなおうとした」
 「われわれは一心同体だから、だれが介錯してもいいと、あの当時は思っていた。森田さんは『生き残っても死んでも、あの世で魂はひとつになるんだ』と言っていた。武士の儀式である切腹を手伝い、介錯するのは武士であり、礼儀だと思った。人間が自分の考えを通すため、死に赴こうとするとき、苦しみもなく介錯するのが武士だ」
 「総監、けがをされたかた、ご家族には終生の責任を感じている。申しわけないと思っている。おたずねしてお詫びしたいとは思うが、判決が終わってからにしたい。なぜなら裁判中にお詫びをするということは、刑の減軽や弁解にとられることもあるだろうから」
 「決して保守的なものを要求したのではなく、魂の回復を求めたものである。(中略)いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いていまできることはこれなんだ』と言った。最後に話合ったとき、いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立上がることができないだろう。社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない。われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう-と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった。決して犬死にではなかったと自分は思っています」
 「自分としては極刑にされても、やむにやまれぬ気持ちでやったので、後悔はしていない」
 「(略)国の統治権や国民の自由意思の欠落した占領中に制定された憲法は、無効あるいは取り消されるのが法の建前ではないかと考えられる。(中略)日本の国を愛し、世を憂い、日本の健全な発展をおもんばかるものとっては、日本の国を自縄自縛している現憲法の荒縄をとき、真の主体性と権威と実力を備えた日本に回復させるためにも、憲法の改正を願わざるを得ないのである。(中略)国の存立の根本問題である国防問題が、安保論議、憲法九条の解釈論議にすりかえられて、多くの疑問を内包し、なんら解決されないままに放置されている。多くの日本人が欺瞞と虚偽とのうわぬりを繰り返してきたことに憤りをおぼえたわけです。(中略)日本にとって非常にむずかしい、重要な時期が、曖昧な、呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に日本中は、どっぷりとつかって、これが、将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかったことは確かです」
 (『裁判記録「三島由紀夫事件」』(伊達宗克著)より)

三島由紀夫の檄文 「敢てこの挙に出たのは自衛隊を愛するが故」
 檄
   楯の会隊長 三島由紀夫
 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
  (三島森田事務所刊『「楯の会」のこと』より)

《三島事件のあらまし》

 1970(昭和45).11.25日午前11時前、三島らは玄関に着いた。事前に東部方面総監・益田(ましだ)兼利陸将(57歳)に午前11時の面会を申し込んでいた。名目は「優秀な楯の会隊員の表彰紹介」であった。沢本三佐に出迎えられ、正面階段を昇り、原一佐に案内され総監室に通された。三島は真剣の日本刀の関孫六を携帯していた。応接セットにいざなわれた三島は益田総監に、森田ら4名を一人一人名前を呼んで紹介する。ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・関孫六に関してのものになった。

 総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねている。これに対し三島がどのように答えたのかは分からないが話題を転じて次のようなやり取りに向かっている。「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、関兼元と記された鑑定書を見せている。この時、刀を抜き、油を拭うため「小賀、ハンカチ」と言って同人にハンカチを要求している。その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら立ち上がり執務机の方に向かった為、見合わせざるを得なかった。小賀はハンカチでなく日本手拭を三島に渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。

 午前11時5分頃、三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずいた後、刀を三島に返した。三島は使った手拭を小賀に渡し、鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀がすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。続いて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わりながら短刀をつきつけた。こうして益田総監を人質に取った。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。

 沢本三佐が異変に気づいて指揮系統に報告した。業務室長・原勇一佐が正面ドアを開けようと体当たりする。室内から「来るな、来るな」と叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊と警視庁に通報する。第一報から12分後、警視庁機動隊一個中隊が総監室に到着した。

 午前11時20分頃、三島は、両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを関孫六で応戦し追い出した。さらに新たな7名の幕僚らが次々と総監室に突入して来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが逆に短刀をもぎ取られてしまう。三島が加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた。灰皿や地球儀が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した。退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下に差し出したそれと同内容の要求書を破れた窓ガラスから廊下に投げた。

 午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松副長が三島に対応した。要求書には「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。檄の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。自衛隊は午後1時10分までの約2時間、一切の攻撃を行わないこと。当方よりも攻撃しない。この条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」なる趣旨のことが書かれていた。三島らが本気であることを知った責任者は総監の生命を気遣って要求を受け入れた。

 午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。なおこの日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などの「三島の想定した『武士』ではない」隊員達であった。自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、「楯の会残余会員を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること」については、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は既に警察の監視下に置かれており現場に召集されなかった。

 午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する。檄文の内容については別サイトで考察する。三島は定刻になるのを待って歩き回っていた。

 正午直前、三島は、カーキ色の楯の会の制服を着て「七生報国」と書かれた日の丸のハチマキをしめ、日本刀・関孫六の抜身を持って二階の総監室外のバルコニーに立った。森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。

 正午、三島はマイクなしの肉声で拳を振り上げながら演説を始めた。演説の内容については別サイトで考察する。事件を知った報道機関のヘリコプターが飛来し旋回していた。その騒音でマイクをもたない三島の声はかき消された。隊員たちは野次をとばし続け三島の訴えに嘲笑で応えている。三島は「静聴せい!」と再三叫んだものの野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消された。後に、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は「三島さんにマイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。現場に居合わせたテレビ関係者などは演説はほとんど聞こえなかったと証言している。録音でも野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。

 その場にいたK陸曹は後に次のように反芻している。

 「バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。(中略)やるせなかった。無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。三島がんばれ!…心の中でそう叫んだ」。

 徳岡は、この時の演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙、写真と共に銀行の貸金庫に保管していると云う。この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけであった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとなった。

 30分ほどを予定していた演説を7分間で終え、三島と森田は型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し総監室に姿を消した。
【三島由紀夫のクーデター時の「演説」文】
 「私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して、日本人の………。しかるにだ、我々は自衛隊というものに心から………。(三島・静聴せよ、静聴。静聴せい) 自衛隊が日本の………の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。

 以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みを気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衞隊、それが………。(三島・静聴せい。静聴せい) それだけに、我々は自衛隊を支援したんだ。(三島 静聴せいと言ったら分からんのか。静聴せい) それでだ、去年の十月の二十一日だ。何が起こったか。去年の十月二十一日に何が起こったか。去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは憲法が改正されないと感じたんだ。

 なぜか。その日をなぜか。それはだ、自民党というものはだ、自民党というものはだ、警察権力をもっていかなるデモも鎮圧できるという自信をもったからだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動がいらなくなったのが、すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が………。諸君は、去年の一〇・二一からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。

 去年の一〇・二一から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない!自衛隊が国軍になる日はない!建軍の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。(野次、怒号) 日本を守ること。日本を守るとはなんだ。(野次、怒号) 日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。(野次、怒号)(三島・おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ! 男一匹が命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか) それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。(野次、怒号) 諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(野次、怒号) 諸君と日本の………アメリカからしかこないんだ。シビリアン・コントロール………シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。(野次、怒号)………そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。(野次、怒号)………そうした自衛隊の………最後の三十分に、最後の三十分に………待ってるんだよ。(野次、怒号)

 諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。(野次、怒号) 自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。(野次、怒号) 憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!(野次、怒号) 俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。(野次、怒号) 諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。(野次、怒号 そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ) 抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきたということを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。(野次、怒号) 一人もいないんだな。よし!(野次、怒号) 武というものはだ、刀というものはなんだ。(野次、怒号) 自分の使命………。(野次、怒号) それでも武士かぁ!それでも武士かぁ! まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。(野次、怒号) これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(野次、怒号) それではここで、俺は天皇陛下万歳を叫ぶ。(野次、怒号) 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!

 三島由紀夫遺言状「楯の会会員たりし諸君へ」
 「日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかった。もっともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかったのである。 (中略) 日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。 諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ」。

 三島由紀夫「割腹」事件等は色々推測されているが、色々と、謎が覆う。
しかしながら、国を思い、あれまでの事件を起こしたことに驚愕するが、現代の罵声的反対論者には失望する。
事の是非は別として、過去の出来事を真摯に見つめ、個人的思いを持つべきではなかろうか。

以上は、産経ウエブサイトよりの抜粋が殆どであり、転載させて頂いた。お許しを願いたい(主観なし)。
纏め方が雑なこともお許し願いたい。

来たるべく2016年、良い年になることを願う。皆さん良い年をお迎えください。


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“ショウジョウボク!?!”《襍_赤色・/・拈華微笑57》

ショウジョウボク(猩々木) トウダイグサ科(Euphorbiaceae)
学名:Euphorbia pulcherrima
別名:ポインセチア
英名:poinsettia,Christmas flower
ポインセチアの花。
吹き抜けの「グリーンスクエア」で迎えてくれた季節模様。
鉢植えポインセチアで構成されたクリスマスツリー
サカタのタネグリーンハウスは、県立相模原公園内にある大温室。
フランス庭園からのグリーンハウス建物。
後ろの塔は、麻溝公園の展望台タワー。

※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
ショウジョウボク(猩々木)と聞いてすぐにポインセチア(poinsettia)、
と分かる人は、樹々をよく知っている人だろう。
ポインセチアは、メキシコ~中南米に自生する常緑低木。
アステカ文明時代から赤い苞葉(ほうば)で染料を取るなど利用されてきた。
植物学者でもあった米国の初代メキシコ駐在公使ポインセット氏が発見した樹。
今では色々と品種改良されている園芸種でシクラメンと並び冬の鉢植の代表。
猩々とは能楽で使う能装束の空想上の「猩々」??に由来するとか。。。!
花には雄しべと雌しべだけで花びらがなく、これを包んでいた苞が花びらに見える。
茎の先の黄色い小さな花が、日照時間が短くなると開花。冬花の代表的存在。
(知らなかった和名、和名の命名って何とも可笑しい^^)
※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※

先日、散策した相模原公園の中にある“グリーンハウス”
園芸の世界では有名な「タネ屋」さんが管理・運営してる大温室。
そのエントランスに大きなクリスマスツリーが飾られていた。
さすが「タネ屋」さんが組み創作したツリー!! 見入ってしまった。
今年は諸々あって、のんびりと花散策できなかった。
そんな年末に赤く萌えた鉢植え猩々木のアレンジは、お見事。
来年に向かっての思いを彷彿とさせてくれた。
今年は、静かにクリスマスを送った。
若い頃のクリスマスイブは、町中は賑わいクリスマスケーキの販売はすごかった。
昨今のハロウイーンのように。時代は移り変わって行くんだなぁ。。。が実感!

余熱利用の循環装置;
グリーンハウスの温室植物を育てるための装置。
暖房のために隣の南清掃工場から余熱を送ってもらっている。
清掃工場でゴミ消却で出来た熱湯が温室内の熱交換機に送られて、
そこで70℃のお湯をつくり、ユニット・ヒーターでグリーンハウスの冷暖房。
そして、その水は再度、清掃工場へもどされ再利用されている。
*     *     *
のんびりと自分の撮った画像を見ていて、イマイチって苦笑する^^)。
デジカメの凄さは、わかってきた。
交換レンズの使い方の難しさをも痛感した一年でもあった。
花の写真を撮っているが、使ったカメラ(1機種に絞って)ではダメだと判断。
写り、高解像力、描写の線の細さ、繊細さ、ボケさ加減、総て表現不足。
デジカメ仕様のレンズ特性を引き出せない。又、液晶の精度が良くなかった。

若いプロカメラマンの機材を使って撮った写真の描写具合を見て驚愕する。
倍率色収差、ピント位置前後の輪郭にマゼンタや緑色っぽい縁取りがつくような描写、
これらがまったくない。ピュアーそのもの、かぎりなく自然に写る。
プロは言う。
「ただし、この高価なレンズを使って困ってしまったことがひとつある。
ボケ味の美しさから、絞り開放で写したくなる欲求を抑えきれなくなるレンズなのだが、
その場合のピント位置は本当にシビア。一眼レフカメラでは内部のミラー、
ファインダースクリーンなどの微妙な調整のズレで完璧なピントが得られない。
色々と画像比較を見せてもらうとはっきりと分かった。
微細なズレがある。ファインダー撮影では満足な撮影ができず、
液晶モニターと拡大表示を使ったライブビュー撮影で初めて満足のいく結果が得られたという。
これからの高解像、高画質カメラは、物理的に考えてもファインダーを使った一眼レフではなく、
電子的に拡大表示できるミラーレス構造になっていくのだと予測していた。」
プロ機材的な繊細な機材を使うハイアマチュアカメラマンが多くなってきたが、
使いこなすのは、大変。。!爺では重たすぎるし高価すぎる等とのたまわっている。
最近、ミラーレスで素晴らしいデジカメが出現している。
1機種にこだわって撮った2年間だが、次のステップに進めそう、が来年だ。
かつて4X5を担いで、登攀では6X6で撮ったのが懐かしく思い出される。
今のデジカメ、画質ではあの4X5に引けをとらない。
「カメラ屋」とか「機材屋」とか・・・!?!日本経済を支えている人々が沢山増えた。
「写真屋」を自認し、画像表現、画質にこだわり愛用機を完璧に使いこなしている仲間たち。
マニアックな機材で見事な表現を見せてくれた若いカメラマン。
我が子世代、一世代前の人、更には年長者の仲間が特異な機材でお互い切磋琢磨しよう、と。
銀塩写真で育った人間が、デジカメ・レンズの特性になれるのに随分と時間を要したが。
爺の挑戦が、始まる。ボケ防止にもなるか・・・・!  2016年が楽しみだ。


「相模原市・相模原公園」
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“化石の樹!!”《襍驚・/・拈華微笑56》

アケボノスギ(曙杉) ヒノキ科(Cupressaceae)
Metasequoia glyptostroboides H.H. Hu & Cheng
別名: メタセコイア
(相模原公園・フランス庭園)
カイノキ(楷の樹) ウルシ科(Anacardiaceae)
Pistacia chinensis Bunge
別名:トネリバハゼノキ(舎人葉櫨の木)、カイ(楷)、ランシンボク(爛心木)
(フランス庭園奥の径沿いで見た。左上の樹・枝)
林床に敷き詰められてる枝葉、先日の強風で落ちたのか。
地中の奥底から燃え上がって来たように映る色合い。
心休まる光景だったが、戦後70年目の年に似合ってる。
来年は、新たな芽吹きがあるように。
林床の緑の葉が暗示してくれてるよう。。。


*  *  *  *  *  *
ラクウショウにそっくりな樹木。紅葉も同様な落葉針葉樹。
アケボノスギなる和名より「メタセコイア」の方が通りが良いかもしれない。
公園や街路樹、ゴルフ場などに植栽され、よく見かける。
原産地の中国では、高さ35m、直径2.5mになるものがあると言われる。
葉は十字に対生し、秋にはレンガ色になって落ちる。
樹皮は赤褐色で縦に裂ける。雄花序は黄褐色で長く垂れ下がる。雌花は緑色。
球果は長さ2-2.5cmの卵状球形で、10月ごろに成熟して褐色になる。
『研究者ノート』(筑波大・加藤雅啓、矢部淳)
メタセコイアは、最初に日本で化石として発見され(発表は昭和16年)、
その後、昭和23年に中国で生きた個体が発見されたことから「生きた化石」といわれています。
セコイアと似ていますが、メタセコイアが落葉樹、セコイアが常緑樹といった大きな違いがあります。
化石の発見でわかるように、かつて日本にもメタセコイアが自生していました。
しかし、自然に起こった気候変化(寒冷化)によって日本から絶滅してしまいました。
現在、人間活動による地球温暖化の問題が取り上げられていますが、
メタセコイアの絶滅は環境変動と絶滅危惧植物の関係を考える一助になることでしょう。(加藤雅啓)
ヒノキ科に属するメタセコイア、セコイア、ヌマスギ(ラクウショウ)は“生きている化石”の代表格です。
どれも日本には自然の状態では生えていない植物ですが、実は日本でも化石が見つかっています。
これらが生きている化石と呼ばれるのは古くから化石記録があるためで、
メタセコイア属はおよそ1億年前、ヌマスギ属やセコイア属はそれよりも少しあと、
いずれも中生代から化石種が見つかっていて、ある時期に現生種が現れ入れ替わりました。
ただし、これらの現生種がいつ現れたかという問いにはまだ統一した見解は出ていません。
“生きている化石”とよばれるメタセコイア・セコイア・ヌマスギですが、
これら3属の歴史は互いに少しずつ違っています。
メタセコイア属は白亜紀後期以降アジアとアメリカに分布していました。
新生代を通じて分布を縮小する中で最後まで残ったのが東アジアで、
日本からはおよそ80万年前に絶滅します。
一方のセコイア属とヌマスギ属は北半球の広い範囲に分布していましたが、
ヌマスギ属が東アジアで早くに衰退し、
新第三紀(2300万年前以降)に入ると化石が見つからなくなるのです。
彼らがなぜ違う歴史を歩んだのか、解決にはさらなる研究が必要です。(矢部淳)
*  *  *  *  *  *

(以下、産経新聞webサイトより)
昭和天皇が愛した木“生きた化石”メタセコイア…
元大阪市立大教授の発見から来年で75周年、記念イベント計画

太陽の塔の周りに植えられ、紅葉の見頃を迎えたメタセコイア=吹田市
針葉樹なのに落葉する珍しい植物「メタセコイア」が
吹田市の万博記念公園などで紅葉の見頃を迎えている。
道路の並木や学校、公園などでよく見かける木だが、日本人が化石をもとに発見し、
大阪から全国に広まったことは、ほとんど知られていない。その歴史的発見から来年で75年。
昭和天皇もこよなく愛された木の知られざる歴史を知ってもらおうと、
関係者が観察会などを計画している。(上岡由美)

戦後復興と姿重ね
「わが国のたちなほり来し年々にあけぼのすぎの木はのびにけり」
昭和62年、昭和天皇が歌会始でお詠みになった御製(ぎょせい)。
「あけぼのすぎ」はメタセコイアの和名で、戦後の荒廃から立ち直り、
高度経済成長を遂げた日本を、あけぼのすぎに例えてうたわれた。
この木を「発見」したのは、元大阪市立大学教授の三木茂博士(1901~74年)。
昭和16年、岐阜県土岐(とき)市の粘土層から、
欧米の研究者がセコイアやヌマスギとしていた植物の化石を見つけ、
葉の付き方や「球果(きゅうか)」のウロコの並び方の違いから、
未知のものであることを見抜いて「メタセコイア」(「メタ」は「後の」という意味)と名付け、発表した。

「生きた化石」発見
 大阪平野では約100万年前に絶滅したと考えられていたが、
発表から4年後の昭和20年、その植物が中国・四川省で実際に生きているのが見つかった。
当時、日本は戦後の復興が始まったばかりで、
「日本人が化石で発見した植物が生きていた」と世界を驚かせたという。
 現地を調査した米国の古生物学者・チェイニー博士が種子を採集。
「生きた化石」を保存するため、中国と気候が似ている日本で育成しようと、
三木博士が大阪市立大に設置した保存会に苗木100本が贈られた。
日本各地の大学や研究所に配布された後、挿し木で苗木を増やし希望者に配布。
成長が早い上、新緑、紅葉とともに円錐(えんすい)形の樹形が美しく街路樹などとして全国に広まっていった。

皇居吹上御苑にも
 皇居吹上御苑にはチェイニー博士から昭和天皇に献上されたメタセコイアが植えられている。
大阪市立大学理学部付属植物園(交野市)には、100本のうちの1本である「導入木」が残るほか、
大阪市立長居植物園(同市東住吉区)や万博記念公園などでも見られる。
植物の化石に詳しい市立自然史博物館(同区)の主任学芸員、塚腰実さん(56)は
「絶滅したはずのメタセコイアが発見されたのは戦争直後だったにもかかわらず、
日・米・中の研究者が協力して保護に取り組んだおかげで世界各国に広まっている。
『人類の進歩と調和』のシンボルである万博記念公園の太陽の塔の周りに
メタセコイアが植えられているのは象徴的」と話している。
来秋、75周年を記念して市立自然史博物館と付属植物園で講演会や観察会、標本展示が予定されている。


*  *  *  *  *  *
カイノキ(楷の樹);
後ろのメタセコイアにもまして濃い朱色が美しい紅葉。
ハゼノキ、ヤマハゼの仲間で中国原産。
中国の孔子廟に植栽されていた木の種から育成、
大正時代に日本各地の儒学に関係ある学校等に配られた。
孔子の弟子がカイノキの杖を孔子の墓前にさし杖し
芽吹き成長したとの言い伝えで「学問の木」と呼ばれる。
和名は、葉が揃っていることを楷書にみたてた。

※   ※   ※   ※   ※   ※
今年は、法律を学んだものには感慨深い歴史的変遷の年となったように思う。
法哲理にもとづき、法とは・・・とりわけ「憲法」とはなんぞや・・・と再考する年になった。
世人は、違憲・・違憲と、いとも簡単に言っているが、法とは何のためにあるか。
而して、今ある法は、現実的に・・現状的に適しておるか、真摯に深刻に考えるべきが今である。
学識者も「違憲」と簡単に言ってほしくない。現法典・日本国憲法条文からすれば正しく違憲だろう。
何回ものたもうてきたとおり、違憲故に現状に見合った自主憲法的修正是非を国民投票すべきである。
戦後70年の歳月を以って、日本の立ち位置、隣国との問題、更には国際情勢。
極論を言えば、米国軍隊の傘に護られてる日本国土がある。
米国に従属するのではあるまい“安保関連法は。今ある日本国をいかに守るかであるはずだ。
“60年安保”“70年安保”と時代背景、国際関係は、違うではないか。
今在る隣国の思想背景、教育の歴史は、流れ方として日本と同じと映る(方向は違うが)。
日本の戦後義務教育が、一貫してある方向を向いて流れてきたのと同じように。
保守・革新と言った思想的問題で対立させているマスメディアのあり方にも疑問がある。
{立憲主義に立って今を真摯に考えたい」2016年は、憲法を考えてみよう!!
日本と隣国との違いは、「表現の自由」の有無ではなかろうか。
日本には、「表現の自由」「思想信条の自由」は、完璧に保証され思想統制はない。
だが、政治の世界では、体制、反体制的二極化になり下がりつつある。
「戦後70年談話」を表明した安倍総理の内容は、敗戦国からの脱却表明と受け止めたい。
此の70年間に経済成長と軍事国家への反省・懺悔行脚を真摯に処してきたと思うのだ。
歴史的経緯の中で現日本国憲法は、時代背景・国際関係に乖離すると考える。
「化石」であってはならない。ましてや敗戦国的自虐史観は、もういいだろう。

目の前のメタセコイア並木を眺めていると、樹々の成長と日本の成長が重なる。
幸なるかな今の日本国内・・・のんきに「戦争法案反対!!」などと言っていられる。
国土を守る・・・防衛ってどういうことか???もっと真摯に考えるべきだ。
現実を如何にすべきか? 我が身に火の粉が及ばないと分からないのだろうか!?!
隣国から脅威を受けてる石垣・八重山諸島の現実を!!!
なぜに沖縄の首長は、県民の現状に手を差し伸べないのか?
沖縄本島だけが平和に向かえば良いと言ってるにしか見えない。
戦後70年を以って、憲法改正の期は熟したと思って止まない。
離島の小笠原周辺での隣国の暴挙。日本海・東シナ海にして然りではないか。

岸信介元首相が死去した時、かつての全学連委員長が・・・!
弔辞的に述べた「岸さん、貴方は・・・正しかった」この言葉が思い出される。
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「相模原市・相模原公園」




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“初見・紫陽花!?!”《襍驚・/・拈華微笑55》

ヤマアジサイ(サワアジサイ) アジサイ科(Hydrangeaceae)
学名:Hydrangea “sakura”
ヤマアジサイ系交配品種の「SAKURA」
アスペラ・ストリゴサ(ヒマラヤタマアジサイ系・園芸種)
学名:Hydrangea aspera(H.strigosa)
生き残った萼片
ヨウラクタマアジサイ(瓔珞玉紫陽花。ラセイタタマアジサイ系)
学名:Hydrangea involucrata v. multiplex(nakai)
ヨウラクタマアジサイ・・拡大画像
ヨウラクタマアジサイの葉・・大きいたて30センチはゆうにある。

「アジサイ・アスペラ・ストリゴサ」(ヒマヤラタマアジサイ)
装飾花は白、両性花は藤桃。ガク咲き。中国ヒマラヤ産。
英米仏等の分類では、葉が大きく広いフェルト状のものを単にアスペラとし、
ストリーゴーザを葉の細い秋咲き種としている。
*  *  *  *  *  *
「タマアジサイ」
山アジサイ同様日本各地の山で見られるアジサイ。
その名の通り、開花前の花が苞とよばれるもので覆われ、
シャクヤクのような玉状の蕾を見せる。葉は大きく、ざらつきがある。
急激な環境変化に弱い。日陰から日向へ移植したりするとすぐに葉焼けする。
花期は他のアジサイより遅く、気候・環境にもよるが8月くらいに咲く。
自生しているものは白花で一重咲きが普通だが、
八重咲きや緑花のものなども発見され、それらは園芸品種になっている。
タマアジサイは福岡県から岐阜県辺りと伊豆七島に自生分布している。
蕾が球形をしているのでタマアジサイと命名された由。
蕾が、卵形の苞葉に包まれ苞葉が大きくなると苞葉が脱落、中から花が出てくる。
*  *  *  *  *  *
ヨウラクタマアジサイ(瓔珞玉紫陽花)、ラセイタタマアジサイ系。
半てまり咲きで7月~11月頃まで咲き、色の変化が美しい。東京都伊豆大島産。
両性花を欠き全てが萼を重弁状に付けた白い装飾花、散房(又は密穂状)花序に咲く。
葉の表面は硬い毛が密集し、特に裏側は猫の舌のようにざらざらしている。
瓔珞(ようらく)とは、仏像の装身具や寺の天井からぶら下がっている装飾品を言う。
それに見立てた命名のようだ。
種小名のインボルクラタは「総苞のある」という意味。
球状の蕾をもつ植物によくつけられる名前。
変種名ムルチプレクスは「多重の」という意味で、
萼(花びら)が何重にも重なっていることを指す。
このヨウラクタマアジサイは、パカッ!と割れた感じで開花が始まる。
それ故、クスダマノキとも呼ばれる。アナベル、ピラミッドアジサイの近縁種。
蕾から開花まで時間がかかるアジサイ。耐寒性もやや低め。
咲き進むと花弁が垂れ下がり、一般的なガクアジサイとも違う雰囲気を醸し出す。
花弁は数か月で白色からライムグリーン、と変化に富むアジサイ。

※   ※   ※   ※   ※   ※
12月6日、麻溝公園を散策し始めると、ヤマアジサイ系交配種らしい「SAKURA」を見かけた。
玉紫陽花系なら未だ咲いているだろうが!?!でも時々、息の長いのが居るから楽しめる。
少し先に行くと、玉紫陽花園芸種(アスペラ・ストリゴサ)が一輪だけ顔を見せてくれた。
花探しは、此のくらいにして、と展望塔に上がってみると黄葉・紅葉の樹々が眼下に広がる。
此の周辺は、旧陸軍の練兵場だった由。戦後米軍も使用していた、それ故に緑が濃い。
この日は、晴れていたが訪れた時は薄っすらと雲がかかっていて樹々の色は映えなかった。
麻溝公園(市立)と隣り合わせに相模原公園(県立)があるが散策者には一つの公園と感じる。
大きな歩道橋で隣接されている相模原公園、雑木林を整備してるといった趣がある。
そんな林の中を歩いていて、初見の植物に出会った。どことなくアジサイ!?!
だが葉がでかい!!30センチ位。帰宅して、花の形状等で調べたが手持ちの資料では???
再度、12日に訪ねてみた。公園管理事務所で聞こうと。
仔細・名称は、専門家不在でわからなかったが、見当は付いた。やっぱりアジサイ!!
隣の麻溝公園は、紫陽花畑を整備している。こちらも散策路に紫陽花を植裁したのか。
崖地のような場所に・・・植裁するならタマアジサイが似合うか。。。?
昨夜、父が撮った古いモノクロ写真に同じような花が箱根山中での記録としてノートされていた。
花の形状からすると「ヨウラクタマアジサイ」のようだ。
花の形状が、徐々に変化していくのだ!! 一般的には開花初期の形状しか載っていない。
数年前から、自生紫陽花を追いかけているが、春から初冬まで観察しないと・・・反省。
此の花のことが頭の中で??? 綺麗な景観を楽しむどころか・・・脳裏にも甦らない。
漸く落ち着けた。それにしてももう師走だ。気候異変なのか? 植物の生態は奥が深い。

相模原市には、今一か所、相模原北公園がある。
やはり雑木林を利用した植物園のような雰囲気を持つ県立公園で紫陽花植裁が素晴らしい。

久しぶりに我が家にある資料をつぶさに見て漸く花名を特定できたが、、、。
麻溝公園発刊の紫陽花資料集の中に画像と同じような花が写っていた。
懸命に調べて漸く。。。!?!紫陽花に力を入れてる麻溝公園資料に出ていた。。。!
勉強不足、思慮が足りないことを痛感した。
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「相模原市麻溝公園・相模原公園」
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“姫柿!!”《襍観・/・拈華微笑54》

(画像1)
ロウヤガキ (老鴉柿) カキノキ科(Ebenaceae)
学名:Diospyros rhombifolia
日本名:姫柿(1991年に中国から渡来した折、命名)別名・ツクバネガキ
英名:PrincessPersimmon
果実拡大。


姫柿(正式には老鴉柿ロウヤカキ)、中国原産。
実の大きさは2~3cmほどと小さく盆栽に用いられている。
果実は渋くて食べられない由。
姫柿は雌雄異株(希に同株が出現)で播種した内の6割が雄株になる由。
雌花、萼片が特徴で正月の羽根付きの羽根に似ているので別名ツクバネ柿と言われる。
雄花には萼片がない。

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相模原市内には、特長ある都市緑地公園が3ヶ所ある。
其のうちの一か所、相模原市立麻溝公園を12/6に散策した。
今の季節、開花してる野生種の花は、ほとんど見れず。
だが紅葉・黄葉した樹々は、見応えがあった。
時折訪れる公園だが、見過ごしていた植物に出会った。
盆栽で多用されている“ロウヤガキ (老鴉柿)”の果実(画像1)。
盆栽でしか観たことがなく、地植えされた実物は、何とも立派だ。
2メートル以上の高さがある。
盆栽のイメージからすると雑然と実がなってるといった感じだった。
※   ※   ※   ※   ※   ※

「相模原市麻溝公園」
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“季節感(紅色)!!”《襍色・/・拈華微笑53》

ヤマモミジ(山紅葉) ムクロジ科(Sapindaceae)
学名:Acer palmatum Thunb. var. matsumurae (Koidz.) Makino
ノムラモミジ(野村紅葉)ムクロジ科(Sapindaceae)カエデ属
学名:Acer palmatum var. amoenum cv. Sanguineum
別名:野村楓、武蔵野

※   ※   ※   ※   ※   ※
『ヤマモミジ(山紅葉)』
雄性同株。低山の林内に生える落葉小高木または高木。高さ15mに及ぶ。
枝には早落性の軟毛がある。葉の裂片はふつう9個で重鋸歯がある。
不揃いの花序は複散房状で、有花枝に頂生して軟毛をまばらにつける。

『ノムラモミジ(野村紅葉)』
ノムラモミジは、葉が新しく出たときから赤色、夏場は緑、紅葉期に再び度赤になる。
イロハモミジの赤葉品種とかオオモミジ系と諸説ある、古くからの園芸種。
特に赤葉の際立った品種に「出猩猩(でしょうじょう)」がある。
春がもっとも味わいのある葉色かも知れない。
春の芽出しは紫紅色で白毛に覆われ、上面は濃い紫紅色で下面はやや緑色味の紫紅色。
夏場、陽のあたる部分は紫紅色のままのもあるが、日陰の部分では緑色が強くなる。
秋の紅葉は、紫と言うより真っ赤になり、「七変化」と称される所以である。
※   ※   ※   ※   ※   ※

高校時代から始めた~登攀(登山)、週末は山で過ごすことが多々あった。
10月下旬に谷川岳一ノ倉沢の初冠雪、その光景が彷彿と脳裏をよぎる。
岩壁上部の白、赤、緑、黄の葉色(四段紅葉)の中を登り始め、
連続登攀でビバーク、翌朝、眼下の光景に活力を貰ったものだ。

学部時代(大学の)から時折、東京・銀座の服飾店で売り子をさせて貰っていた。
小遣い稼ぎ・更なるは、服飾の勉強も兼ねて!!
当時、11月半ばといえばしっかりとコートを羽織っていたのを覚えている。
バイト先の店、常連さんに三木武夫第66代内閣総理大臣が居られた。
総理大臣になる前のことだが。。。
お一人で店に入ってこられ品選びをする、おしゃれな方だった。
時折のバイト、其れを思うと数ヶ月に1度は来店されていたようだ。

大学で研究課程に入った年の11月半ばから年末までは、連日バイトだった。
昭和45年11月25日の昼ごろ「三島由紀夫さんと楯の会」事件が勃発!!
三島由紀夫さんと楯の会会員4人が、東京の自衛隊東部方面総監部に乱入した。
昼食に外に出たとたん、銀座界隈は、どことなく騒然としていた。

身近な公園で見ゆる樹々、眺めていると昨日のように思い出される。


「藤沢・長久保公園11/28」



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“晩秋の感じ(黄色)!!”《襍色・/・拈華微笑52》

ハウチワカエデ(葉団扇楓) ムクロジ科(Sapindaceae)
学名:Acer japonicum Thunb. ex Murray
別名:メイゲツカエデ, アカバナハウチワカエデ
クヌギ(橡) ブナ科(Fagaceae)
学名:Quercus acutissima Carruth.
別名:ツルバミ


『葉団扇楓』(筑波大・中野好基)
低山帯にはえる、高さ10-15mの落葉高木。
葉は、カエデ類の中では大きく長さ10-13 cmで9-11裂する。若枝は紅紫色を帯びている。
若い葉や柄、花序の柄に白い軟毛がある。若葉と同時に暗紅紫色の花をつける。
民家や公園にある個体の葉裏には、毒針を持った黄緑色のイラガの幼虫がよく見られます。
この毛虫は別名「電気ムシ」と呼ばれており刺された瞬間にビリッ!とした強い痛みが走ります。
その後10分ほど何かが刺さっているようなイライラした感じが続きます。
また、枝の又などに直径1cm程度のまるで鳥の卵のような質感をもった土色の繭がみつかります。
(二階堂)=春の新葉、秋の黄葉はハウチワカエデが最も美しい季節です。
しかし新葉が展開したとき何やら真っ黒いものが葉全体に付いていることがよくある。
正体はアブラムシの集団。
新葉が展開する前にカエデの幹を見て、アリがいるようなら薬剤散布をしておきましょう。
せっかくの新葉と少し後に花を愛でる気持ちもなくなりますから。
若葉が開くと、葉の形、大きさからハウチワカエデの花であることがわかる
緑から黄色、黄色から赤へと変わるカエデ類の最も美しい時期。
紅葉の始まる時期にこのような色あいが見られるが、
紅葉情報のいわゆるモミジとカエデの仲間の中では最も葉が大きい。
なお形がそっくりで葉が小さいものは コハウチワカエデ 。
若葉と同時に出る花の大きさは、イロハモミジなどと比べ、葉も大きいだけに、一回り大きい。
カエデの仲間は雄花と雌花が別。
なお、良く似たコハウチワカエデの花は薄黄色で、色で区別ができる。
同じ種類でも気候条件、地理的条件などにより、紅葉になったり黄葉になったりします。
ハウチワカエデは紅葉が多いのですが、木によっては全てが黄色のものもある。
葉の形が天狗の羽団扇(はうちわ)に似ているのが名前の由来。日本固有種。
また、メイゲツカエデは秋の名月の光で美しい紅葉のおちるのも見られるという意味。

※  ※  ※  ※  ※  ※
クヌギは、葉よりも先に花を付ける。雌花は、その上の葉腋にあるので小さく目立たない。
クヌギの紅葉は褐色になる、色づきは黄色から始まり、だんだんと褐色に変わっていく。
大きく真ん丸いドングリの実をつける。
また樹液が甘く豊富なので、クワガタ、カブトムシ、コガネムシなど多くの昆虫が集まる木。
子供の頃はクヌギ木のある場所を覚えていることが宝物であったが。。。!

『橡』(筑波大・奥山雄大)
山地に生え、高さ15mほどになる落葉高木。樹皮は粗く、不規則に深く割れる。
葉は互生し、クリの葉に似て長楕円形で鋸歯があるが、鋸歯の先が緑色でない。
雌雄同株で、葉より先に今年枝に花をつける。
果実は一般的にドングリと呼ばれものの1つで、径2cmほどの球形で、
ドングリの帽子にあたる殻斗には長い鱗片がつく。翌年の秋に熟す。
【研究者ノート】
暖温帯落葉広葉樹林区に、幹が途中で切られたクヌギの樹があります。
これは、新しい芽(ひこばえ)をたくさん出させるためにわざとそうしたものです。
このようなひこばえの若い葉はとても美味しいらしく、
ここに様々な昆虫が集まってくるのです。
黄色い地に黒い波模様の小さなチョウ、ウラナミアカシジミもそのひとつ。
このチョウは、かつてはそれほど珍しいものではありませんでしたが、
最近大きく数を減らしています。
これは、炭焼き用に手入れされていたクヌギ林が減ったためです。
筑波実験植物園では、このような里山の昆虫も観察できるように、
小さな生態系のバランスも考えて植物の管理に注意しています。
以前は、薪炭として用いたが近年ではシイタケのほだ木として用いられる。
また器具材や造船材、染料、薬用としても用いられる。
名前の由来は、クリニギ(栗によく似た木)という意味で、
栗によく似た葉を付けることに由来。

※  ※  ※  ※  ※  ※

2015年は、黄葉が僕の目に焼き付いた。
都市緑化公園で見る黄葉樹は、紅葉樹よりしっくりと似合う気がする!!

山間部の黄葉・紅葉、織り交ぜた景観は、雄大だ。
そんな光景を今年は見に行けなかった。
湘南の海岸沿いの黄葉・紅葉は、今時期が盛り。


「藤沢・長久保公園11/28」

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