この縁石のところで事故が起こった
「誰か、助けてくださーい」
夫人の声がする方に振り向くと、白髪の男性が歩道の縁石と車の間に挟まれる形でうつぶせに倒れていた。
駆けつけて頭を打っていないことを確かめてから彼を起こそうとする。
が、満身の力を込めても起き上がらない。
その巨体は悠に100キロを超えていたであろう。
彼の背中に私の胸を密着させて、両足を彼の胸あたりの位置に踏ん張りながら何とか起き上がってもらう。
無事に彼を車に乗せ、その後目的地で1時間ほど経ってから胸ポケットに入れていたスマホがないのに気づいた。
すぐにその場所に向かってみたが見つからない。
友人らは警察にも連絡してくれる。
「もう一度行って、その付近を探すべきだ」
その友人の勧めに従って再度訪問してみる。
すると縁石のすぐ側に黒いスマホがこれまたうつぶせで寝ているではないか。
この時の喜びは宙にも舞い上がってしまうほどだった。
ただしスクリーンがひび割れていて、文字を判読するのも苦労するほど。
このスマホの上を車が乗り上げように感じている。
スクリーンにめっちゃヒビが広がっているだけで、どんな機能も損傷していないのがまた嬉しかった
ベルビュースクエアのモールは、すっかりとクリスマスムード
iPhoneのスクリーンを取り替えるためにアップルストアへ。
うーん、確かこんな時のために保険に入っていたはずだけど、と思いながら店員のお兄さんにそのことを聞いてみた。
手元のiPadを器用に操作すると私のアカウントが表示される。
どうやら1年間の保険に入っていたようで、それが失効となるのがあと6日と出ている。
Portlandから帰宅する1週間後にしようかどうかと迷っていたのでしたが、この日に持参して大正解‼️
ときにはこんな嬉しいことも起こるのですね。
マルチンルターがヴッテンベルク城教会に95箇条の質問状を掲示してから500年。
ローマカトリック教会のヨーロッパ支配に楔を打ち込む事となりました。
ただしルター自身にはそのようなつもりは全くなく、新しく台頭してきた時代勢力が彼をして革命の旗手に仕立て上げたのでしたが。
それから17年、イエズス会が誕生しました。
いわばローマカトリックのプロテスタントに対する反宗教改革と言う流れの中での結成です。
ローマ教皇権力を世界に広めるために世界宣教が行われたとの解釈があります。
同時代に日本にやってきたフランシスコザビエルの働きも、日本を政治的に支配しようとするヨーロッパ勢力の先兵となったという見方です。
私は当時のポルトガルやスペインの宣教師たちをそのような野望と営利目的でやってきた輩とは見ていません。
十人十色ですので中にはそのような特徴を持った宣教師もいたでしょうが。
どんな情報も鵜呑みにせず、1つの情報・見解・解釈として学んでいきましょう。
「キリストイエスの立派な奉仕者」
「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリストイエスの立派な奉仕者になります。信仰の言葉とあなたが従ってきた教えのことばとによって養われているからです。俗悪な年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今の命と未来の命が約束されている敬虔はすべてに有益です」(第1テモテ4章6ー8節)
大先輩のパウロが若い伝道者テモテに牧師としてのあり方をアドバイスしたのがこの書簡でした。
⑴養われ続けよ
「信仰の言葉」は、the truth of the faith と英語訳ではなっています。
つまり聖書に啓示されてある真理を学び続け、それによって世界や自己、時代についての知恵や洞察力を得よ。
⑵避けるべきものがある
Worldly and old women legends を避けよ、とあります。
年老いた女性だけをターゲットにするのは差別だなって突っ込まれるかもしれませんが、どうでも良い意味のない話をぐだぐだと繰り返すことが時に見られます。噂ウワサ話や愚痴、または空想や占いの話等に関わって時をしなうことからの警戒です。
⑶自らを鍛錬せよ
肉体の健康を保持するためには、食事の節制や規則正しい生活習慣が欠かせません。さらに敬虔の修行が有益であると説きます。
神を愛し従うためには、自らの行いを省みてその思考や時間、金銭の使い方に至るまで注意深さと適格性が必要なのです。
友人が住むことになると言うアパートを見せてもらいました。
我が家から15分ほどにある新しいものだけど、「アパート」のイメージが崩れるような広々とした充実のアメニティー。
毎週末、娘は8人ほどの友人を呼んで狭い我が家でわいわいしてるのですが、こんな広いところでハングアウトできたら理想でしょうね。
もちろんレントは非理想
この日も息子のサッカー観戦。
対戦相手は、オーク・ハーバーと言うここから2時間ほど北にあるところからはるばるやってきた。
フェリーで行くような隔絶された僻地ゆえか、かなり我が子らの押し気味ゲーム。
彼らにハンデを与えるため選手を1人減らしての8人。
それでも開始3分で3ゴールをゲットするほどに勢いは止まらない。
なんと後半戦は我が子がゴールキーパーをしていた!
チーム内で最も小さな最もゴーリーに向いていないはず。。
「またわたしは、あなたが私にくださった栄光を、
彼らに与えました。それはわたしたちが1つであるように、
彼らも1つであるためです」
ヨハネ福音書17章22節
この節の2回目の解説は、
②「一致」についてです。
私たちキリスト信者は1つであること、一致し統合されているのが本来の姿です。
主が与えてくださっている栄光を知り、そのかけ離れた受け継ぐべき資産の大きさに驚き圧倒される時、小さな相違で争うことの何と虚しいことか!
私たちの一致モデルは、主イエスが父なる神との一致している様、三位一体の統合性にあると教えられています。
現実のキリスト教界は、残念ながらこの基準に届いていないと言わねばならないでしょう。
ローマカトリック教会と東方正教会とが分裂したのが、シスマ(教会大分裂)と呼ばれているもので1054年のことでした。
そこにはローマとコンスタンチノープルと言う地政学的な相違、文化的背景が異なるなど多面的な理由があります。
聖書理解に関する相違としては、三位一体についてのものがありました。
私たちの人間の理解には限りがあり、その認識方法についてはそれぞれが生まれ育った文化圏に負うところが大きいのであって、世界中の人々が1つの見解を持つと言うのは困難だし、ある意味やむを得ない面があります。
そんな中で長く対立していた聖公会(元はカトリック教会でした)と東方正教会との一致した見解が発表されました。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条(381)に加筆された「フィリオクェ(Filioque)」という文言についての論争に決着がつけられたのことです。
ラテン語で「と御子」を意味するこの文言の解釈は、教会史の中で長く続けられてきました。
そして1054年、それまで1つであった教会が東西の2つに大分裂したのです。
フィリオクェを挿入した西方教会は、聖霊は父なる神「と御子(イエス・キリスト)」から発出するとし、東方教会はこれに反対して聖霊は父なる神からのみ発出するとして来ました。
16世紀にカトリック教会から分かれた聖公会は、西方教会従来の解釈を受け継いできたのでしたが、今回東方教会の理解に賛同したのです。
私の理解に関して言えば、どちらとも正しいと言えるし、少なくともその相違が分裂するほどのことではないと考えます。
本来1つであるべきはずのキリスト教会が、本来の姿に近づいた喜ばしきことと言えましょう。
「またわたしは、あなたが私にくださった栄光を、
彼らに与えました。それはわたしたちが1つであるように、
彼らも1つであるためです」
ヨハネ福音書17章22節
この節の2回目の解説は、
②「与える」についてです。
本17章には数多くのこの言葉が現れます。
父なる神が御子イエスに与えられたもの、
父なる神や御子イエスが信者に与えたもの。
この語は、実はヨハネの福音書全体にもわたって頻出するキーワードの1つであり、
実に76回も出てくるのです。
22節をもう一度注目してみましょう。
「わたしはあなたがわたしに下さった(have given)栄光を彼らに与え(gave)ました。」
「栄光」とは、十字架を極致とする奉仕と謙遜であり、同時に統治と栄誉のことでした。
御子イエスが父なる神から賜った栄光が、信者にも同様に与えられたと言うのです。
ここで「与える」の時制が、原語では完了形となっていることに注目します。
信仰ゆえに私たちは謙遜であることを学び、やがて与えられる栄誉の約束に生きているものですが、その約束はイエスが保証してくださってている故に確かであります。
よって未来に関する事であるにもかかわらず、すでに与えられているものとして完了形が使われているのです。
「もし私たちが彼(イエス)とともに死んだのなら、彼と共に生きるようになる。
もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」
第二テモテ2章11〜12節
「またわたしは、あなたが私にくださった栄光を、
彼らに与えました。それはわたしたちが1つであるように、
彼らも1つであるためです」
ヨハネ福音書17章22節
聖書は驚くべき本です。
私たち人間がどういう存在であるかを初めて明らかとする言葉です。
この17章は、弟子らのために祈り、またその弟子たちの語る使信を聞いて信者になる後の世の人々のために祈った言葉が記録されています。
いつものように短いポイントだけを簡潔に上げてみます。
①栄光について
不思議なことにイエスの受ける「栄光」とは、人間の知れる限りの最も低い屈辱と悲惨さを伴う十字架を意味していることが17章1節からわかります。
さらに謙遜を基調とする人としての働きを全うされた地上での奉仕のことをも意味します(4節)。
さらに不思議なことに人知の及ばない神々しい栄誉を意味していることも確かです。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
全地が存在する前にご一緒に持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(5節)
主イエスのおいて、奉仕と謙遜さは統治と栄誉であり、両者が同類項であり、ともに栄光であると言うのです。
主イエスのメッセージが伝えられる国では、人民を統治する王は引き下げられてきました。
大名行列を組んでは民・百姓を跪かせる大名は今日存在し得ないのです。
ミニスター(MINISTER)とは、大臣とも訳せるし、奉仕者とも訳せる言葉です。
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