「ヨナタンは父が民に誓わせていることを聞いていなかった。 それで手にあった杖の先を伸ばして、それをミツバチの巣に浸し、それを手につけて口に入れた。すると彼の目が輝いた」(Ⅰサムエル14章27節) イスラエルの国は、「乳と蜜の流れる」と表現される豊かな国です。 この時、王サウルは戦いが終結するまでどんな食物を口にしてはならないと言う掟を戦陣に敷いています。それを知らない王子ヨナタンが蜂蜜を食すと彼の力は回復して、さらに活躍することができました。 疲労回復したヨナタンの姿は、律法主義と信仰の違い、肉(人間のガンバリズム)と霊(創造主の働き)の世界の違いを明らかに教えています。 サウルは身長も高くハンサムで、また謙虚な上に勇気を奮い起こすことができる国のヒーローであり、初代イスラエルの王として選ばれました。 神のための祭壇を築いて祭司たちに祈ってもらってから戦いを始め、宗教の儀式には熱心であった彼でしたが、一つ足りないものがあったようです。 それはデボーション(神への敬虔・傾倒)が真実どれほどあったか、と言う点です。 今後サウルは転落していくのですが、その原因にはこのディボーションの希薄さが原因していたのではないでしょうか。 翻って若き王子ヨナタンは、素直で実直、ひたむきさや純粋さを兼ね備えているナイスガイです。 戦陣の中で彼がミツバチから蜜を食して元気100倍となった故事からいくつかの教訓を拾い上げることができます。 ⑴蜜の甘さのような聖書(み言葉)の味わい 森のここかしこにミツバチの巣が広がっていたように、聖書は私たちのすぐ身近にあります。 しかし人がある種のバイアスを抱えていると、それが目に入らないのです。 律法主義とは、人が作り上げたフレーム(型枠)中で善悪や損得を計算し、そこに束縛される生き方のことです。 ⑵信仰の杖を伸ばせよ 蜜蜂の巣から蜜を取り出すには杖が必要でした。 直接手を伸ばしたら蜂に刺されてしまったかもしれません。 多くの方にとって聖書は分厚くとっつきにくい本であり、たとえ開いて読んだとしても何がなんだか意味がわからず、無味乾燥なものに見えてしまうでしょう。 聖書は創造主からの啓示の書あるから、創造主との生きたパイプがつながってない限りその言葉の意味を汲み取ることが出来ないのです。 私たちは創造主が存在することと、創造主に語りかける者には応えてくださる方である事とを信じなくてはならないのです。 ⑶生気を取り戻した目の輝き 聖書の御言葉を汲み出したとして、それを味わうところの私たちの霊的素養はどうでしょうか。 宗教的な形式や儀式、ルーティーンを持っていたとしてもディボーションが欠落していたとしたならばその蜜の味を楽しむことはできません。 ヨナタンの言葉にあやかり、ヨナタンの持っていた純粋な心持ちで天の創造主を仰ごうではありませんか。 「父はこの国を悩ませている。ご覧。私の目はこんなに輝いている。この蜜を少し味見しただけで」(Ⅰサムエル14章29節)