今年も巡ってきたSeptember 11。
あの悲劇から16年目を迎えた。
人の憎悪がどこまで愚かなことを仕出かしてしまうかを見せつけられた日。
あの悲劇は多くの人から夢や希望を奪い、愛しい人との関係に終止符を打った。
米国の正義の報復攻撃は世界をいよいよ混乱とテロの連鎖に追いやった。
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昨年のこの日、我が家にはキッパーというメスのゴールデンデットリバー犬がやって来た。
それ以来、我が家の裏庭は彼女に破壊され続けている。
裏庭は彼女によってボコボコの穴があちこちに出来上がり、
芝は禿げ上がりもはや息子とのサッカー場としては使用不能になった。
さらに家の外壁は木製のサイディングで覆われているが、
彼女の歯によって引き剥がされてしまった。
と言うことで、September 11は我が家にとって破壊者を家族に招き入れた日でもあるのです。
世の中には三種類の人がいる。
まず、【人の心に毒を盛る人】
彼らは人びとを落胆させ、創造性を破壊し、あなたにはムリだと言う。
次に、【自己中心的な人】
彼らは自分のことばかり考えて、他の人に力を貸そうとしない。
最後に、【人の心に明かりをともす人】
彼らは、人びとの生活を豊かにするために、励ましの言葉をかける。
私たちは、そういう人になる必要があるし、
そういう人とつきあう必要がある。
ウォルト・ディズニー
先週で8週間学び続けたEラーニングが終わったのですが、その総括・まとめをしてみました。
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キリスト教2,000年間の歴史は、キリストがご自身の体である教会を花嫁としてふさわしく装い続け、育てあげている経緯と言えないでしょうか。
黙示録が最後の啓示の書として書き上げられたのは期限1世紀末ですが、その直後から繰り返された教会会議によって27巻の正典が新約聖書として編纂されていき、
同時にアリウスやネストリウス派が異端として退けられ、正統な信仰が作り上げられ、保持されてきました。
しかし3世紀に入るとアレキサンドリア神学と呼ばれるギリシャ哲学を背景にした思想がオリゲネスを中心に流行します。
4世紀後半にこれを東方教会から西方教会に紹介したのがヒエロニムスでありアウグスチヌスでした。
以後カトリック教会はキリスト教からその母体であったはずのユダヤ的要素を全て取り除き、異邦人中心の教会形成と神学の中で「失われた」中世の暗黒時代約千年期へ進みます。
ルターが中世のカトリック教会から本来の「聖書に帰ろう」とのスローガンのもと、初代使徒時代に隆盛であった本来の教えを回復したとして私たちは宗教改革とします。
それは信仰義認と言うものが主軸でありましたが、カトリックが逸脱し、脱落してしまったキリスト教の他の側面においては手付かずのまま残されていたと言わざるを得ないと思います。
それはパウロがローマ書9-11章で特に論じているユダヤ人の救いと回復、イエスへの民族的信仰覚醒があってから後に、神の異邦人を含めた全世界を救う計画が完成するというものです。
テキストではルターが中世と近代の境目にある人物として取り上げていたようですが、彼の運動としてはそうであったとしても、彼個人は中世暗黒時代に属する人物であると私は捉えています。
ルターは教会の中でこんなことを言ったとする記録が残っています。
「ユダヤ人のシナゴーグは破壊せよ。その書物を全て焼き付くしてしまえ。ユダヤ人を見つけたら殺してしまえ!」
それは彼の特異な意見ではなく、カトリック教会一般のユダヤ人に対しての偏見でした。
その社会的偏見には神学的根拠が横たわっています。
ユダヤ人はキリスト殺しの犯人であるとし、「その血は私と私たちの上に降りかかっても良い」(マタイ27:25)と言った呪われた民族であるとしました。
旧約時代には神の選ばれた民・所有とされた聖なる国民としての立場であったが、新約時代になってそれがキリスト教会に取って代わったと教えられてきたのです。
つまり旧約のイスラエルが新約時代以後はキリスト教会に置き換わったとする「置換神学」が支配しました。
先述のアレキサンドリア学派の新神学が広まっていくのと同時にカトリック世界に広がったのが、ユダヤ的要素を骨抜きとした置換神学です。
ルターもこの置換神学から本来の聖書の教理を回復できませんでした。
現在でもカトリック教会や東方教会はこのイスラエルの聖書的な立場を理解していませんし、認めようとしていません。
今日の多くの日本を含めたプロテスタント教会もまたその置換神学の長い伝統の影響の下に置かれていると言えるでしょう。
ヒトラーによるホロコーストがヨーロッパ中を席巻した時、カトリックはもちろん多くのルター派国教会は見て見ないふりをしました。
そこにはこのような彼らの聖書理解から来る長い伝統がバックボーンとしてあります。
ルターはヴォルムスの帝国議会で「我ここに立つ」と命をかけて自らの信じる教理のために戦う決意をしたことを学びました。
彼のたったその立ち位置は信仰義認と言う境地であったとしても、神の義の全世界的成就のためのイスラエルの役割と言う側面には盲目だったのです。
すなわち宗教改革は救済論においては本来あるべきところへの回復運動であったに違いはありませんが、終末論においてはまだ改革を始めてすらいなかったと私は理解しています。
第8回目の学びで戦中に統合された日本キリスト教団が軍国主義政府に「屈服」したのではなく「主体的信従」であったことを知って衝撃を受けました。
しかしその誤った世間的常識に陥らず捕縛され投獄されていった多くの牧師たちはホーリネス系であったのはなぜか?
その理由は彼らが再臨信仰に生きていた群れであったことと関連しないでしょうか。
つまりキリストが再臨し、エルサレムにおいて「ダビデの座」に着座され1,000年間の王国支配を全世界に広め統治すると言う明確な終末論が確立されているのなら、
どんなに小さな日本国内で強烈な天皇現人神の軍国主義に染まっていたとしても、そんなものは一時の茶番でしかないことをわきまえ知ることができたのです。
警察当局も再臨信仰ゆえに見過ごし出来ないキリスト教会として目をつけたとされています。
「改革派教会は改革し続ける教会」であるとの彼らの告白を学びました。
人の一生の中で人はどこまでも完成へと向けて成長し続けるように、キリスト教会もまたその長い歴史の中で完成へと向かい、改革し続けているのではないでしょうか。
その改革が進みいよいよ完成した時、整えられた花嫁としてキリストが迎えに来て下さると私は信じています。
その改革に自らも参与するために聖書を偏見なく学び、それに生きるものとさせていただきたいと願いを新たにできた学びとなりました。
教会の伝統よりも聖書に最終的な権威を認める者として。
テキストの帯に記されていた「宗教改革はルター、カルヴァンでは終わらない!」の言葉は、その意味で的を得ていると思いました。
今朝起きて外を見てみると雲が空全体を覆っています。
昨日の予報では快晴であったのに。。
さらに太陽を見ると真っ赤に燃えているんです。
聞いてみるとワシントン州やオレゴン州で大規模な山火事が起こりそのスモックが空を塞いでいるとの事。
おかげで灰があちこちに積もり、外に出ると呼吸も苦しくなって来るほどです。
今晩の長男のサッカーの練習は中止。
オレゴン州では今週ずっと中止になるようです。
バンクーバーから帰ってきました。
そのダウンタウンからシアトル郊外の我が家までは3時間ほどのドライブ。
途中面倒な国境を越えねばなりませんが、今回は10分ほどの待ち時間ですんなりとオーケー。
米国側に入るとアットホームに感じほっとできるのはなぜでしょう。
同じような道路を続けて走っているはずなのになんとなく車幅が広くかったり空気が変わったように感じます。
確かにこれといった明確な要素を言い当てることはできませんが、文化が違うように感じています。
人々の様子の違うし、街の成り立ちも違うし、そこに息づく雰囲気も違う。
そしてすでに20年間も暮らしている米国シアトルの方が私には落ち着くようです。
カナダのバンクーバーはバンクーバー島と呼ばれる入江に挟まれた小さな面積に位置しています。
その小さな島の上に多くの高層ビルが林のようにひしめき合っています。
水面に反射する光線と、高層ビルの窓から反射する光が合わさって街全体がとても輝いて見えます。
まるで人々が真珠の中で生活してるかのようです。
金曜日の午前中だと言うのに若者たちはウオーターフロントの芝生でサッカーに興じていました。
余裕がありますよね。
都会の中にありながら誰もシャキシャキと歩いていません。
ゆったりとしています。
カナダ・バンクーバーにも中華街があります。
かつては日本人街であったのですが、戦争中ここの日本人街もカナダ人から迫害を受けて後、人々が他のところに移っていった悲しい歴史があります。
そんなことがあってからすでに72年。
そんなことまるでなかったかのようにして人々は白人もアジア人も融和しながらに暮らしています。
今週でEラーニングが終わります。
これまで8週間の間、宗教改革後のプロテスタント教会の歩みを学んできました。
8週目の講座で紹介された文章は衝撃的でした。
第二次大戦中の日本のキリスト教会は天皇国家主義の国策に飲み込まれ、礼拝式の最初に国民儀礼として宮城遥拝や国歌斉唱が行われたのです。
これは天皇を神とする国粋主義者からの圧力に屈したもので明らかにモーセ十戒の第1戒を破るものであり、創造主以外のものを神とする偶像礼拝に他なりません。
人はだれでも時代の制約の下に置かれているのであるから、
自由と平和が保障されている今の時代の私が見下げるようにしてその時の教会人を断罪する権利はありません。
その権利があるのはホーリネス教団やブラザレンなどの1部の牧師がこれを拒絶、治安維持法違反で逮捕され投獄拷問殉教に至ったわずかの人たちでしょう。
私の卒業した神学校の創設者、蔦田二雄先生は2年半ほど獄中生活を強いられています。
さらに驚いたことがありました。
多くの者たちは国粋主義者に屈服して信仰を曲げたのではなく自ら主体となって軍部の進める天皇崇拝、国家のアジア太平洋地域への進出に賛同していたと言うものです。
彼らは、いわゆるボーンアゲインした真摯な信仰者たちです。
その牧師・指導者たちは熱心に伝道し、祈りと奉仕に励んでいた彼らがそのように国家神道に積極的に飲み込まれていったと言う驚愕すべき事実。
人間は、自ら正しいと信じて進んでいる道がいかに自己免許にすぎないものか。
神の前に正しいこととは何かを常に聖書の言葉によって自己吟味し、聖霊のサーチライトに照らされ、謙遜になって客観視するのがいかに困難な存在であるかを驚きとともに再発見しました。
最終回の8週目は明治維新以後の日本プロテスタント教会についてでしたが、その動向を追うばかりではなく、白黒つけがたい微妙な題材を取り上げては、「あなたならどうしますか」と問うてくるのが本講座の特徴で、第1週目からのスタンスでした。
教科書を理解しては習ったことを陳述するだけの受験教育を受けてきた私には何ともとっつきにくい高度な講座となりました。
考える材料をふんだんに盛り込んでは「分かち合いましょう」と言って自ら考える思考訓練を与えて下さった講師の藤本先生、重厚な講義を補佐してビデオ編集に工夫を凝らしくださった大津姉の奉仕に心より感謝します。
65名と言う参加者それぞれのお考えを拝聴することができたのも宝です。
思えばテキストを講師自身に送付していただいて訪問先の山形の教会で受け取ったことから始まった本講座。
金曜の夜10時過ぎに教会に到着してから早速テキストを拝読。
翌土曜日はクーラーの効いた真新しい教会の事務室を借り切って3本のビデオを拝聴しリスポンス投稿し、締め切りギリギリに間に合ったのです。
本講座で始まった夏が、その終了をもって過ぎていくようでなんとも名残惜しいです。卒業式をしていただきたいような。。
「仰げば尊し 我が師の恩」(^^)
インマヌエル総合伝道団によるEラーニング。
藤本満先生を講師に先生の上梓された「歴史」(私たちと宗教改革)をテキストにしている全8回講座ももいよいよ佳境に入ってきました。
第7回目の今週はテキスト第6章「プロテスタントの新ブランド、アメリカ」からです。
16世紀の宗教改革後の欧州に雨後のタケノコのようにして設立されていったプロテスタント各教派がどのように新大陸米国に移植されていったのか、
新大陸と欧州教会の違いなど手に取るようにして分かりやすく開陳されています。
日本のプロテスタント教会が最も影響を受け続けているのが米国のプロテスタント教会であることは間違いなく、
今日の私たちの教会が形成されていったからくりやルーツを探り当て発見する驚きの連続です。
いやぁ大した本ですよー、この本は‼️
通常の歴史書は主な事件が時系列的に並べられているの対して、この本のスゴイところが宗教界、経済界、政治界、思想界、文芸面、
あらゆる人間活動が網羅され相互にどのように関与しあっているかを明らかにした上でその2,000年間の歴史の流れをひもといているところです。
藤本先生、この本を半分ぐらいに縮小編集せざるを得なかったとの事ですが、どうぞ削除しないままの全文をどこかで公表してください。
もしかして受講生特典として公表するっていうのはどうでしょう?
今回は5回のビデオ講義があって盛りたくさんの内容。
1本につき15分ほどのビデオ講義ですが、通常の大学の1時間半ほどの講義に匹敵するものが含まれています。
よって何度も聞き直さないと貴重なところが漏れてしまいます。
このビデオ作成のために字幕やポイントのポップアップ、写真や動画などを取り入れてくださった大津さんのご奉仕に感謝します。
高橋秀典先生の翻訳による賛美歌もとても良かったです。
何よりも超ご多忙の中、ときには自家用車の中でビデオ撮影をされた藤本先生に感謝します。
今回のビデオはオレゴン州からの帰り道を利用して視聴しました。
そこでは皆既日食出の異次元世界の感動に浸りましたが、
今回のビデオでも新しい世界が開かれていく感動を味わいました。
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