バンクーバーに来てお世話になる日本食レストランに、
Shizen-Yaがある。
オーガニック食品を扱っているのをアピールしていて、ヘルシー感満載のメニュー。
甘さ控えめのキャラメルプリンデザートの名前は「しあわせ」
これもホームメイド限定商品で毎回堪能させてもらい
ああ、幸せ気分
あなたはあなたで良い。
人が幼少の頃から教育され訓練される。
つまり、しつけられて行く。
家庭や学校ときには国家が理想とする型枠に人を当てはめるのだ。
もちろんそこには宗教と言う型枠もある。
その型枠に押し込まれて形成された人間は、
誰も同じような顔をしている。
家長や教師、聖職者や独裁者にとって都合の良い人間ではあろう。
だがそれと同時に笑顔は失なわれ、生気も吸い取られ生きた屍が完成する。
「いいえ、レールの上を走ってきた者たちにも生き甲斐や喜び、笑顔がありますよ」
そう反論してくる人もいる。
しかしその時の笑顔がまた、他者と同一のものであったりする。
生きることと自由とは、本来どちらも尊いもので、
どちらも同じような価値を持っているものではないか。
「真理はあなたを自由にする」
主イエスはそのように言われた。
人が真の自由に生きる時
その人の本来の持ち味が発揮されて
顔にもにじみ出てくるようである。
「イエスとともにいたのだ」
使徒の働き4章5節〜18節
「5,翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。
6,大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。
7,彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。
8,そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
9,私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、
10,皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。
11,『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。
12,この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
13,彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。
14,そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。
15,彼らは二人に議場の外に出るように命じ、協議して言った。
16,「あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、われわれはそれを否定しようもない。
17,しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう。」
18,そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。」
(序論)
私たちクリスチャンは外部の人達にどのような印象与えているか。
イエスと共にいたということをわからせるものだろうか。
⑴人に依拠するものでは無い
①無学な普通な人であったペテロとヨハネ(12)〜他者の彼らに対する認識
ラビ専門教育を受けたものでもないのに神殿において群衆を教え男の数で5,000人もの人々が信仰に入った。
彼らは誰特別な才能があるのではないガリラヤ出身の漁師である。
②自分の力とか信仰深さによるものではない(3:12)〜自らの認識
生まれつきの男を歩かせたと言う偉大な奇跡は、イエスの第一弟子として偉大な信仰があったからだと言う自負はなかった。
⑵単純、占有的な福音理解
①イエスの御名が男を立たせた(4:10、7)
それはイエスご自身がした御業であるとの宣唱だった。
「家を建てる者たちに捨てられた石が礎の石となった」
詩篇118:22にあるこの予言がイエスにおいて成就した。
②「この方以外には誰にあっても救いはない」とする占有された世界観。
それはこの世的には受け入れられなくても聖書的なものである。
⑶イエスの霊(聖霊)に満たされていた
①弟子たちに「大胆さ」(4:13)が与えられたのは2章冒頭にあるペンテコステの経験を経た後である。
その時にイエスと一体化し
そのからだなる教会に連なり
イエスの霊に満たされるものとされた。
②聖霊の満たしを継続するために
継続したメソジカルな宗教的営みがあった。
「ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上っていった」(3:1)
新しく誕生した教会の群れは、
弟子たちからの教えを受け
交友をし
聖餐式を重んじ
祈りを共にしていた(2:42)
先月から介護施設で一人暮らしを始めるようになった義母のところへ行ってきました。
その施設が毎週開催している豪華な夕食会に招かれたというのが本筋のところです。
前菜から始まってメインメニューからデザートに至るまでフルコースの料理。
フォークやナイフ類等は見たところ10ほどが並んでいます。
この日はたまたま誕生会でした。
たとえどれだけ歳をとったとしても、
この国で最も大切な行事が誕生会と言えるのではないでしょうか。
子供ばかりでなく大人も盛大に誕生日を祝ってくれます。
施設の職員の方々10名以上が列を作り、
バースデーソングを歌いながら入場。
私たちは手拍子で彼らを迎えます。
その月、誕生日を迎える方々の名前を読み上げては皆で称えるというもの。
義母はまだ健常者と言えますが
中には歩行困難な方、言語障害の方といろいろです。
誕生日を祝うと言うのは聖書的な世界観から習慣付けられた文化だろうと思います。
人が家事ができて家族の役に立つから
会社で働き賃金を稼ぐことができるから
社会の中での役割があり人の役に立つ仕事ができるから
価値があると言うのではありません。
何かをすることで存在の価値を自他共に認めてもらうとしたならば
このような施設に暮らす人々の意味や
誕生を祝うことはたちまち消え失せてしまうでしょう。
聖書は、あなたの存在そのものが尊いと教えます。
なぜならあなたが神によって造られ
神の形に似せて造られ
今も神によって生かされているからです。
そのような真理を空気のように吸っている文化の中では
肩肘を貼らないでゆっくりとくつろぐことができます。
とても楽しい誕生夕食会を持つことができました。
サンフランシスコ・マーケットストリートにて
「見ないで信じるものに」
ヨハネ福音書20章24〜29節
「24,十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25,そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26,八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27,それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28,トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
29,イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
⑴実証主義者トマス
①懐疑主義者とレッテルするよりも実証主義者であった。
興奮して話す他の弟子らの証言、
主の復活を目撃した体験談を聞いたとしても
自ら経験しなくては気がすまなかった。
②一途に真摯に真理を追求する学者タイプ。
殉教死を覚悟する一途さ(ヨハネ11:16)
真理を突き詰めるまでは休まない真剣さ(ヨハネ14:5)
⑵求道探検者トマス
①弟子たちの群れにとどまり続けた。
他の弟子たちのような信仰体験はなく
引け目を感じたとしても群に留まり続ける幸い。
②求める者には応えられる。
デドモと言う別名の意味は双子。
片方の兄弟に関しての聖書の言及がない。
信仰継承は地縁や血縁によらず神からの応答のみによる
⑶礼拝者トマス
①主イエスの圧倒的な顕現に触れて
不信仰の言葉の一語一句はすべて聞かれていた(25節と27節を比較)
目前の主を神ご自身と認めた礼拝の行為
②「見ずに信じるものは幸い」
感覚やご利益を土台とする信仰は常に不安定
御言葉に啓示されている主の人格と御業に信頼しよう
【腹が立っても敬語。どうぞお忘れなく。美輪明宏の言葉】
(1)
昔から「類は友を呼ぶ」という言葉があるように、頑張るレベルの人間には、同じくしっかりしたレベルの相手と自然に一緒になれますが、努力もしない人間に良い相手が来ることは絶対にありません。
(2)
最近はやたらと転職を繰り返す若者が増えていますが、“貴方の為に用意された仕事”などこの世にはありません。
ただ文句をいうのではなく、与えられた仕事の中で何か得になる部分を見つけ身につけ楽しむよう頑張れるかです。
職や職場を変えたところで思考次第は何も変わりません。
辛く厳しい環境の中でも、何か発想の転換と努力で楽しみを見つけて踏ん張ることで意外な未来が切り開け、それが自信につながります。
(3)
人間関係は腹六分、恋人同士でも家族であっても適度な距離は必要です。
仕事場でも家庭内でも相手の人格、尊厳を人間として守ることが付き合っていくコツです。
心の修行の一環として「家庭内でも相手を別な人だと思う」ことを実践してください。
そうすると、“感謝”の気持ちも湧いてきます。
(4)
自分が弱いと嘆く人や、ついついマイナス思考に陥ってしまう方、それは貴方が真面目な人だという素晴らしい証拠です。
真面目で几帳面で責任感が強い、だからこそ自分を責め、落ち込むのです。
仕事なり対人関係なり、悩みの原因の問題に対して人生の新入生だから、経験値が浅く少ないだけです。
ただ、それだけのこと。 嘆く必要などさらさらありませんよ。
(5)
恋が成就しないことは良くあることです。
しかし、最初から無理だとわかっている高根の花を採ろうとして落ちて転んで大ケガして泣きわめき怒り絶望している人、これはどうかしています。
「君子危うきに近寄らず」と申します。だから実らないものを好きにならない、これも恋愛のテクニックです。
結果はいい事なんて一つもないに決まっているんですから。
(6)
本当のナルシストとは、“自分には厳しく、他人に優しい、尊敬すべき人間である自分が大好き、そのために努力を惜しまない人”であって、恥と誇りと優しさを兼ね備えた“人間力”ある人のことを言います。
あなたも素敵なナルシストになってみてはいかが?
(7)
誰に対しても敬語、腹が立っても敬語。
どうぞお忘れなく。
(8)
前向きに生きていくために最も大事なことは、愚痴や悪口のようなマイナスの思いや言葉は発しないことです。思念や言葉は本当に凄い力をもっています。
いつも美しい言葉遣いで、元気で前向きなことを思い言っていれば陽のエネルギーが現象となり自分を取り巻き元気になります。
ですから、辛かったり苦しかったりでどうしても口から愚痴や悪口を言ってしまいそうな時は、カラオケで思いっきり大声で怒鳴ってわめいて唄ってください。そのうちバカバカしくて自分で笑っちゃて落ち着きますよ。
(9)
悩みは理性的に解決する習慣をつけることが、人生航路の第一歩。
どんな悩みでも、感情的にならず冷たく理性的に静かに”悩んでいること”を理論的に分析する。その事件の原因・結果・状況はどうで、どんな解決策があるのかあらゆる方法を考える。そして具体的に悩みを解決する方法を優先順位で行動する。
どんな悩みでも時を得れば何か必ず解決の糸口、突破口はあります。問題は解決します。
(10)
経験が豊かで思いやりがある人ほど、感じ良くきちんと「ありがとう」を言えます。
逆に、まともに「ありがとう」が言えない人は、感謝することをせず、頭を下げると自分の価値まで下げてしまうと勘違いしているごう慢でバカな連中です。
▼▼▼つづきはコチラ▼▼▼
http://kokoro-movie.com/2018/04/11/post-18491/
大河史上初の試み。
先週日曜の大河ドラマ西郷どんは通常のドラマでなくスペシャルとして俳優2人の対談番組となりました。
これまでのドラマの流れがぷっつり切れてしまうようで多くのファンにとってはむしろ興ざめだったのではないかと訝ってしまいます。
NHKがそんな賭けに出たのは低迷する視聴率を盛り返したいとの意図があったとか。
初回放映だったかなぁ、史上2番目の最低視聴率を記録したとか。。。。
雄大な薩摩の自然と迫りくる欧米植民地化の時代の波、、
そんな中、下級武士の家に育った西郷が自らの特質だけを武器に泳ぎ出すドラマは見応えがあって毎回見入ってしまうんです。
その特質は斉彬との出会いによってさらに育まれ、
やがて座右の銘として言語化するものと理解しています。
「敬天愛人」
長崎に来た米国人宣教師フルベッキを通じて聖書の教えに触れ
やがて自らも聖書を教える程に親しんだ記録はあまり知られていません。
斉彬と西郷の師弟関係もさることながら、
渡辺さんと鈴木さんの2人の友情と信頼関係もまたドラマを生き生きと作っていることが窺われました。
さて今晩も見ちゃおう。
受難週の金曜日。
英語でグッドフライデーと呼ばれている本日は
キリストの十字架の苦難を記念する日であった。
700年ほど前に記されたイザヤの予言の通りに
自ら進んでその命を捧げられたイエス。
ローマが生み出した最も残念な処刑方法である十字架。
その打ち傷ゆえに私たちが癒された。
それ以外にはなかった癒し。
完璧な癒しがここにある。
十字架には、
①罪から離れさせる力があるから
②神の義に生きることを得させるから
③心身をケアしてくれる優しい牧者のの元に帰れたのだから
④逸脱から守る監督者の指導の元にあるのだから
イザヤ53:5-6
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
Ⅰペテロ2:24-25
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。
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