シアトルのベル・タウンを歩いていたら、懐かしいお名前を発見しました(写真)。
Dorothy先生は40歳を過ぎてから単身、米国から日本に渡った女性宣教師。
今は三重県の錦と言う場所にある墓地に葬られています。
私が神学校を卒業して遣わされた最初の任地がその錦と言う漁師町でした。
70歳を超えた女性米国人と20歳そこそこの私との共同生活が始まりました。
今思い返しても夢のような日々でした。
ドロシー先生が来日した際、横浜港のタラップを歩きながら今後大好きなアイスクリームを食べることもできないと悲壮な覚悟を決めたそうです。
ところが日本にもアイスクリームはある。
錦の近隣にある大内山村には牧場があり、そこで作られているアイスクリームは天下一品です。
7年間、毎日3食をドロシー先生とともにさせていただきましたが、夕食後には決まってそのアイスクリームとチョコレートやパイを組み合わせたサンデーをいただくのが楽しみでした。
この日の夜、妻と長男の通う小学校へ行ってきました。
年に一度の「カリキュラム・ナイト」と言われるもので、担任教師と父兄たちとのクラス懇談会に出席のためです。
教師の教育に対する姿勢や、何を重視しているのかという価値観、成績のつけ方やクラス運営の実際方法など、あらゆる点をそれぞれの教師がその教室で父兄たちに説明する40分ほどの集いでした。
いわば年度初頭の教育指針演説、といったところでしょうか。
真剣に子供と向き合うその教師の情熱を感じることができたし、理解してもらうための工夫や共同生活するうえでの互いを尊重する価値観などには共感できました。
その教師は学力を伸ばすことに熱心な点でも学校で高い評価を得ている方です。
長男にはふさわしい教師であると、うなずいた夜となりました。
人は楽をしようとすればどこまでも怠惰になれます。
子供が訓練なしにセルフコントロールを取得することなんてあり得ません。
訓練なしに育ってきた私がたどり着いた結論でもあります。
写真は、その教師がクラスに張ってある「能動的参加チェックリスト」です。
クラスで挙手や発言など積極的な参加ができた生徒をチェックするもので、生徒の答えの正誤は問題にされません。ある程度たまるとピザなどのご褒美が与えられるようです。
「若者を(子どもを)その行く道に ふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いてもそれから離れない。」(箴言22:6)
本日は私にとってセラ(休日)の日。
もう一つ特別なのは、長女が朝食を作ってくれたのです!
食パンに目玉焼きを落とす単純なものだけれど。これがとてもうまい!
子供用の料理ブックをあちこち開きながら、これならできそう、と自ら選んで台所に立ち、家族4人分を作ってくれました。
実益になる趣味を持ってもらえると私としてもうれしいです。
聖書広場からの抜粋
http://hosannamin.org/jpn/page/home
主イエスは、働きの場として主にガリラヤ地方を選ばれた。
ユダヤ国家の宗教、伝統、学問の中心地としての南部にあるユダヤ地方に対して、北の中心地・ガリラヤ。そこは農業を始め商工業が発達した場所でもあった。
ガリラヤ湖の北西にあるカペナウムはその地方第一の町で、主の働きの根拠地となったところである。そこにペテロの実家があり、マタイは通行税を徴収する役人として働いていた。主ご自身も「自分の町」(マタイ9:1)と呼ぶほどに親しまれた。
ところで主の本来のホームタウン、あるいは出身地は同じガリラヤに位置するナザレである。
洗礼を受けられ、悪魔の誘惑にも勝利された後、いまや本格的な宣教生涯をスタートさせる準備期間を終えた主は、ガリラヤヘ帰られた。そして時を移さずにナザレを訪れる。
そこでは人々が「この人は、ヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)と言って、イエスをメシアとして拒絶し、町の立っている丘のがけまで連れ出してはそこから突き落として殺害しようとする。イエスはホームタウンでは受け入れられなかった。
それがそもそもの預言者のたどる道である(ルカ4:24)と説明されるが、もうひとつの理由を付け加えたい。
それは、その町が持っている地政学的力学である。
ナザレは山間の盆地に位置する小さな寒村である。わざわざそこを通るものはなく、外の空気に接することもない人々は自然とこれまでの伝統やしきたりを墨守する傾向が強まる。
エルサレムから派遣されてくる律法学者こそ、サンヘドリン(ユダヤ最高議会)お墨付きの権威としてその教えをありがたくも頂戴することの他、選択肢がない。
一方、カペナウムは商工業で栄えている。ダマスカスとエジプトを結ぶ国際幹線道路がそこを貫いている交通の要衝地である。 多くの外国人、商人、旅人がそこを通い、異なる価値観も共存共栄している町であった。ローマ軍の百人隊長がユダヤ人のために会堂を寄進したのがその良い例(ルカ7:1~10)となる。自然、人々の気質は進取性に富むようになり、開放感あるものとなった。
コチコチに固まったユダヤ教保守派のパリサイ人の教えを主イエスが論破したとき、そこの民衆はどちらに軍配を上げればよいかの判断力や洞察力を培養していた。
商業という、物事の価値を数値で測ることに慣れている乾いた思考方法に負うところが大きかったと言える。
カペナウムを震源として、主イエスの新しい神の国運動は全国的な広がりを見せるようになる。そこには主の戦略的な狙いがあったことは確かである。
ここで日本史と比較すれば、織田信長が建設した安土にセミナリオ(司祭養成のための初等教育機関)が置かれたのも戦略として頷ける。イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、信長に願い出てその建設を安土城のすぐそばの一等地に許可される。当時、楽市楽座政策により安土には全国から商人や職人が集まり活況を呈していた。
琵琶湖を渡れば京にも近く、交通の要衝地として見込んでの、天下統一を睨んだ信長の新しい城下町建設直後のことであった。
さて、私たちの内なるものとは、どちらのタイプに属しているのだろうか。
私たちの心、感情、考え、意思などはどのような傾向性を持っているのか。ナザレ的であろうか、カペナウム的であろうか。
ここはサンフランシスコの中心部、Market st. とPowelが交差している、ケーブルカー乗り場から1ブロック入ったところ。
私の知人がこの写真のビルでビジネスをしているのだが、彼の顧客が何とかさん(覚えにくい英語名でした)で、このビルのコンドに住んでいるのだそうだ。
私がSquareを使用していたとき、その知人が「それとTwitterの発明者が私の顧客でね、この下の部屋に住んでいるんだ」と話してくれたことから判明。
「へぇ~」とひたすら感心する私。
サインを求めるような追っかけでないが、どういう仕組みでそれらの道具を作り出したのか、そのアイデアなりを聞いてみたいものだ。
かつてTwitterのアカウントを作ったことがあるが、使い切ることなくたった二日ほどでお蔵行き。私にはその価値がわからない。人様の呟きを聞いて何になる?
だが、Squareには重宝している。
これはクレジットカード決済のための指先ほどの道具で、iphoneに接続すれば電話アクセスができるところならどこでもコードレスにて決済ができる。その決済の費用も2.9%だから、たいていのマーチャント会社よりも良いレイト。
これだけでもお礼の言葉を伝える理由になる。
サンフランシスコ最終日の夕食は、Pad Taiとなった。
これもシアトルに引っ越してから始めて口にしたタイ料理で、お気に入りのひとつ。
うれしいことにこの店(写真)はWiFiが利用できる。
キャッホー!!
それなら食事後にコーヒーショップによらずに済む。
今回の安ホテルにはWifiサービスがないため、メール連絡がたくさんたまっている。
にもかかわらず、
まず着手した作業はFacebookや当ブログの更新であった。
これは優先順位の弁えがないってことだろうか?
たった今、店員から閉店時間を聞いた。
10時だと言う。これまでのコーヒーショップは9時までだから多少、余裕がある。
これから家族とビデオ電話をしよう。
今回も、近藤MASAKOさんとお会いする。
60代前半の彼女とはすでに7年来の知人であるが、今回始めてその苗字の由来を教えていただいた。
父方が新撰組の近藤勇の親戚と言う。母方は会津若松の松平容保を補佐した要人であることは以前から聞かされていた。
明治維新後、特権を失った士族は新天地を求めて多く渡米したらしい。特に敗軍とされた会津若松藩は土地を取り上げられて、青森の荒涼とした八戸に移住させられるが、その中からMASAMOさんの4代目のご先祖はまずハワイに移民したと言う。
彼女のご両親はもちろん戦時中、強制収容所に入れられる。
その中から志願兵が徴収されるが、そのほとんどは士族出身の人々だと言う。
ただしこの点は機関銃のような早口で巻くしたてた、先祖を誇りとしている彼女の言葉でであり史実であるかどうか、私は確かめたことはない。
彼女の家族・親戚たちもすべて志願し、有名な442部隊で参戦し、そのうち二人の叔父さんが命を落としたのだと言う。
「侍は己が主人のために命を捨てるのよ。今や米国が彼らの主人となり、このことを他の人にわかってもらう為には“当たって砕けろ’で戦うしかなかったのよ。」
とにかくすごい勢いで話される。彼女が当時生きていたら女性ながらも戦地に赴くであろう。次の訪問が会って時間が気になったが、その機関銃早口に私から口を挟むことすら難しい。およそ30分間は射撃を続けられた。
サンフランシスコ・ダウンタウンの博物館に父親が寄贈したと言う、先祖からの家宝の日本刀をいつか見に行ってみたいと思っている。
サンマテオの日本人教会で牧師をされているN先生と会食。
半年振りにお会いする先生はだいぶお痩せになった。
ご自宅のPalo Altoから教会まで約1時間もかけて毎日、自転車通勤を始められたそうなのだ。毎日2時間もマウントバイクでの有酸素運動をされていたら、いやでも痩せる。
ベイエリヤは年中温暖で快晴が続き、バイカーには理想的な場所。雨の多いシアトルで真似しようとするとだいぶ根性が必要となる。
待ち合わせの夕食場所はしゃぶしゃぶレストラン。
前回はここで食べ放題だったので、私は3皿、N先生は5皿を平らげた。
「韓国料理屋が食べ放題をしているらしいけれど、そこは遠慮しました。せっかくダイエットに成功している先生を誘惑したら悪いですから。」
「そこならいいところだよ。これから行こうよ。」
すでにそのしゃぶしゃぶレストランに席についているのにもかかわらず、私たちは立ち上がった。そして15分ほどの運転で韓国BBQ食べ放題のお店へ急行
「毎日それだけ走っていたら、一夜の肉なんて何ともないってことですかね。」と私。
「日ごろ肉は食べないようにしているけれど、ここぞ、と言うときは食べますよ。
これも自分へのご褒美なんです。」とN先生。
それにしても食べた食べた。閉店時間までがんばり続け、1か月分の肉を蓄えた気分になった。
今週は運動を何もしていないことから、腹を手のひらで撫でてみると、その出っ張り具合が尋常でないように感じた。
N先生ほどストイックになれないが、翌朝、私は部屋でスクワットをした後にホテルのプールに飛び込んだ。
まだ私が寝ている間に、すでにN先生は1時間のロードワークを終えて教会に到着していたはずだ。先生のつめの垢でも、、といったところ。
屋外はまだ肌寒いが、プールの水は温められていたのがうれしかった。
本日は韓国人の知人と会話する機会がありました。
彼の6週前に生まれた子が、ZOEと言うのだそうです。
「life」と言う意味ですね、と私が言い当てたことからギリシャ語を勉強したこと、神学校に行ったこと、現在も日本語教会の牧師をしていることなどを話す機会となりました。
以前からの私の想像通り、彼もクリスチャンでした。
そこでどうしてクリスチャンとなったのかを尋ねてみました。
それは15年前に米国にやってきてしばらく経ってからのことでした。
会衆わずか8人の小さな韓国教会でのこと。
集会前、彼はベンチに静かに座っていました。
すると、その静けさの中で神の迫りを体験するのです。
彼は鮮明にある光景をビジョンの中で見ます。
それは、母親が彼の1歳のとき心臓発作で倒れて他界したときのものだったそうです。母親は坂道を歩いて登っていました。しかし突然発作を起こし、道端に倒れ、誰にも助けを求めることもできないまま息を引き取ったのです。
そのとき、1歳の彼自身を残して逝かねばならない母親の無念さをリアルに彼が味わったと言うのです。母親の自分に対する強烈な愛。体験としては覚えていないはずですが、そのとき始めて強烈な愛の迫りを受けたのだそうです。それは神の愛でもありました。
それ以後、集会中も集会が終わったあとも約2時間ほど、彼はただ涙が出て、泣けて泣けて仕方がなかったと言うのです。
牧師が感動の説教をしたわけでもないのに。
誰一人として彼に神様の話をしたわけでもないのに。
賛美の中で誰かと感動を分け合っていたわけでもなのに。
もちろん、そこに至るまで彼は教会出席のうちから聖書の話を伺っていて、いわば神様についての基礎理解がありました。
しかし聖霊(神の霊)が働くとき、人の思いや計画を越えて働かれるものであることを知りました。
サンマテオのYさんご夫妻と会食しました。
ここに来る度にこのお宅にお邪魔となり夕食をご馳走になるので、今回は私が近所の日本レストランに招待。
日系2世のご主人は16歳の時に、戦争中で日系人強制収容所に入れられた経験を持つ方。
そこで米国に忠誠を誓うかどうかの思想調査でNOと回答したため、日本へ強制送還されました。戦後は、進駐軍の通訳として青森県・八戸で仕事をします。12年間の勤務の後、熊本県出身の現在の奥様と結ばれて帰米します。
彼らには3人の娘さんたちがいて、それぞれ家庭を持ち、その合計8人のお孫さんと娘たちのために毎月ご自宅で誕生会を開いています。
末っ子の娘さんと私が同じ年のため、男の子のいなかったご夫妻には私を末息子のようにしてかわいがって貰っています。
いろいろお話させていただいた中で、奥様が以下に冷蔵・冷凍庫のお掃除が得意でいらっしゃるか、娘たちから賞賛されているかを知りました。
それも戦中戦後の欠乏時代を生き抜いたためであることも。
「困ったことは決して役に立たないことはない。」
「若いうちは苦労は勝手でもしておきなさい。」
そんなことを親の世代から聞かされて育ったそうです。
そういえば私の親もそんなことを私に盛んに言っていたときがありましたね。
私はこの米国に住む私の子供たちにこれを伝えることができるのだろうか。
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