聖書広場からの抜粋
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主イエスは、働きの場として主にガリラヤ地方を選ばれた。
ユダヤ国家の宗教、伝統、学問の中心地としての南部にあるユダヤ地方に対して、北の中心地・ガリラヤ。そこは農業を始め商工業が発達した場所でもあった。
ガリラヤ湖の北西にあるカペナウムはその地方第一の町で、主の働きの根拠地となったところである。そこにペテロの実家があり、マタイは通行税を徴収する役人として働いていた。主ご自身も「自分の町」(マタイ9:1)と呼ぶほどに親しまれた。
ところで主の本来のホームタウン、あるいは出身地は同じガリラヤに位置するナザレである。
洗礼を受けられ、悪魔の誘惑にも勝利された後、いまや本格的な宣教生涯をスタートさせる準備期間を終えた主は、ガリラヤヘ帰られた。そして時を移さずにナザレを訪れる。
そこでは人々が「この人は、ヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)と言って、イエスをメシアとして拒絶し、町の立っている丘のがけまで連れ出してはそこから突き落として殺害しようとする。イエスはホームタウンでは受け入れられなかった。
それがそもそもの預言者のたどる道である(ルカ4:24)と説明されるが、もうひとつの理由を付け加えたい。
それは、その町が持っている地政学的力学である。
ナザレは山間の盆地に位置する小さな寒村である。わざわざそこを通るものはなく、外の空気に接することもない人々は自然とこれまでの伝統やしきたりを墨守する傾向が強まる。
エルサレムから派遣されてくる律法学者こそ、サンヘドリン(ユダヤ最高議会)お墨付きの権威としてその教えをありがたくも頂戴することの他、選択肢がない。
一方、カペナウムは商工業で栄えている。ダマスカスとエジプトを結ぶ国際幹線道路がそこを貫いている交通の要衝地である。 多くの外国人、商人、旅人がそこを通い、異なる価値観も共存共栄している町であった。ローマ軍の百人隊長がユダヤ人のために会堂を寄進したのがその良い例(ルカ7:1~10)となる。自然、人々の気質は進取性に富むようになり、開放感あるものとなった。
コチコチに固まったユダヤ教保守派のパリサイ人の教えを主イエスが論破したとき、そこの民衆はどちらに軍配を上げればよいかの判断力や洞察力を培養していた。
商業という、物事の価値を数値で測ることに慣れている乾いた思考方法に負うところが大きかったと言える。
カペナウムを震源として、主イエスの新しい神の国運動は全国的な広がりを見せるようになる。そこには主の戦略的な狙いがあったことは確かである。
ここで日本史と比較すれば、織田信長が建設した安土にセミナリオ(司祭養成のための初等教育機関)が置かれたのも戦略として頷ける。イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、信長に願い出てその建設を安土城のすぐそばの一等地に許可される。当時、楽市楽座政策により安土には全国から商人や職人が集まり活況を呈していた。
琵琶湖を渡れば京にも近く、交通の要衝地として見込んでの、天下統一を睨んだ信長の新しい城下町建設直後のことであった。
さて、私たちの内なるものとは、どちらのタイプに属しているのだろうか。
私たちの心、感情、考え、意思などはどのような傾向性を持っているのか。ナザレ的であろうか、カペナウム的であろうか。
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