レイバー・ディの週末、オリンピック半島からシアトルに戻ってきた。
フェリーからシアトルダウンタウンの摩天楼を見上げて、ようやく一息ついた。
アウトドア生活は数日間がよい。
長く暮らすなら、私は都会が良い。
完全なCity Boyである。
これはわたしの名前そのもの。
「京」はCapital Cityで、「太」は「太郎」つまりBoyを意味する。
長男も都会派だが、家内と長女は田舎派だ。
特に長女は牧場で馬とともに暮らすのが将来の夢だと言う。
アウトドアライフも日帰りできるシアトル・ノースウエストはあらためて良いところだと思う。
オリンピック半島後半の旅は、Makahインディアン居住区にあるキャンプ場にテントを設営。そこは、20メートル幅ほどの防風林を抜けると太平洋に面するビーチとなっている。
テント設営場所に車を横付けできるので至極便利。
腰痛を抱えた私には、荷物を持って何度も車とテントの間を往復しない分だけでも助かる。
そのビーチの潮の満干の差には驚かされた。
夕刻干潮を迎えたが軽く100メートルは超える、ほぼ水平の砂浜が姿を現していた。
言うまでもなく、6時間後そこは海水で覆われる。
水が去った後の砂は硬く、足跡も残さないほど。
そこでわたし達は鬼ごっこに興じた。
我ながら、かわいい穏当なお遊びに感心する。
他の人たちがしている、カヌーでの釣りやサーフィンなども何時かしてみたいものだ。
わたし達の隣にテントを張った3人家族の30代と思しき夫は一人でカヌーを漕ぎ出だし、ザトウクジラが潮を吹いているのをすぐ近くで見たという。実際にはそれはカヌーでなく、Hobyという足を使って漕ぐ最新の優れものだった。
3.11の大震災で津波で流れ出た漂流物が米国太平洋岸に漂着しているとの報道を聞いているが、Shi Shi Beachを歩きながら探してみた。
数点見つかりました。かすんでいるが日本語が書かれたブイ。
これも黒潮に乗って1年と半年ほどかかって到着したものです。
人物が特定できるものなら持ち帰り、送り届けようなんて家内と話しながらビーチを歩く。
残念ながらそのようなものはなく、その大型のブイもナイフで二つに裂かれた後にキャンパーたちに使われた模様。それを我が子たちが格好の遊び道具にしていた。
帰宅してみると、日本政府で米国西海岸への漂着物清掃費用を負担するための懇談が始まったとの新聞記事があった。
Shi Shi Beachは、昨日訪れた太平洋に突き出た角の先端、Cape Flatteryから約10マイルほど南下した太平洋岸のビーチ。そこまで行き着くのに、2マイルほどの山道を歩かねばならず、これにより車での進入が妨げられていることから自然環境が太古のまま保全されている秘境である。
おどろおどろしい岩肌が砂浜から屹立していたり、その岩に万を越える貝が付着していたり、確かに日常お目にかかれるものでない。
そこからさらに10マイルをビーチに沿って南下すればCape Alavaがある。
その地点こそ、日本人が始めて米国大陸に足を踏み下ろした場所である。
天保3年(1832年)、江戸に向けて出航した宝順丸は途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく漂着した場所がそのCape Alavaであり、その時に生存者は音吉、岩吉、久吉の3人しかいなかった。
彼らは現地のアメリカ・インディアン(マカー族)に救助される。というよりも、奴隷としてこき使われたのが実情。
昨日訪れたマカー族博物館には音吉らの出身地である愛知県美浜町と友好親善を交わした記念碑が陳列されていたのが、少々滑稽でもあった。
後に彼らはロンドン、そしてマカオへとイギリス船の好意を得て、帰国の望みを託しながら移される。音吉はそのマカオで、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに協力して世界で最初の邦訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させるに至る。1837年年6月、薩摩からの漂流民4人を加えた合計7人の日本人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発し那覇まで来る。ここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かう。
7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき予期せぬ砲撃にさらされる。これがモリソン号事件である。当時の江戸幕府は異国船打払令を発令していて、日本沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっていた。やむなく彼らは故郷の国の地を踏むことなく、マカオに引き返すしかなかった。
その漂着は今からわずか180年前のことであり、当時となんら変わらない海岸線の風景を見るにつけ、3人の漂流民たちが辿った苦労が偲ばれてきた。
最後に暗記している音吉の協力によるギュツラフ訳ヨハネ福音書の1章1節を紹介して、数奇な運命の中で神に用いられた人物のよすがとしたい。
「ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクト トモニゴザル」
キャンプ3日目は今回のハイライト、Makah Indian 居住区へ。
そこはアラスカを除く合衆国の最北西の地。
先ず、Makah博物館でインディアンの生活、歴史、文化等を見学。
確かなことがわかっている年代は、少なくとも500年前には彼らはこの地に居住していた。鯨やラッコ、魚を釣って食を得、衣服もラッコや熊の毛皮を使い、住まいは杉材で移動式プレハブ家屋であったことを知る。
それだけでなく、この地とMakahインディアンはわれわれ日本人にも大きな係わり合いを持っている。宝順丸の模型と3人の救出された漁師たちの物語が日本語でも展示されていた。詳細は後日に記します。
写真は米国北西部のコーナー、Cape Flatteryに立ったところ。
少し離れたところに見える島は、Tatoosh島といって、かつてMakah族たちが夏季の間だけ捕鯨基地として利用したところ。現在は無人島となり、灯台が船舶のシアトル航路の目印となっている。
オリンピック半島探索の二日目は、Rialto Beachへ。
ここは太平洋に面していて、クレッセント・レイクのベースキャンプから西に約2時間ほど。海の向こうは言うまでもなく日本である。
Quileuteという名のインディアン居住区の北面に接している。
どこからやってきたのだろう、無数の大木が海岸に打ち上げられている。
その大木を利用して基地を建設するのが、毎年お決まりの長男のプロジェクト。
今回もおもい大木の運搬係りを仰せつかった。
父親としての尊敬を受けるチャンスとばかり、気張ったのがよくなかった。
身長ほどの大木を引き上げた途端、腰に電流が走る。
持病の腰痛を再発させてしまい、以後、杖なくして歩けなくなってしまった。
我が家の夏の恒例となったオリンピック半島バケイション。
初日からクレッセントレイク湖畔にキャンプ。
数千年前、氷河の侵食で形作られた深い谷間にあるこの湖は水深が200メートルほどもあり、ワシントン州でも最深の一つ。透き通るクリスタルの水はとても冷たく、長男しか泳ぐ勇気は誰も持ち合わせていない。
湖畔にテントを張るキャンパーはわたし達だけとなり、この静寂さを独占。
いつかカヌーでテントから出港して見たい。
本日日曜の朝、Worship in the Parkへ行ってきました。
シアトル&ベルビュー地区の26のキリスト教会が合同で日曜礼拝をささげるものです。
「私たちはキリストにあって一つ」
何度か司会者が繰り返していたモットーを体感。
ベルビューダウンタウン公園が数万人の人で埋め尽くされました。
また教会の使命である「隣人を愛する、仕える」を実践するため、昨日はその参加教会の多くの人々がこの地区の学校や家庭に出かけて修繕やペンキ塗りを含めたさまざまなボランティア奉仕に励みました。
{「神の愛」を人々はどのようにしてみるのですか?
それは貴方や私の行動を通じてです。}
42歳になる韓国生まれのパスターのメッセージの一節です。
普段あえない米国人教会に出席している多くの友人たちにもお会いできて感謝。
このような大胆さも米国ならでは、というものでしょうか。
日本町の地下駐車場に車を止めてから階段を上がり、地上に出るころ耳慣れない音楽が響いている。
地上では日本のポップ・カルチャーを紹介するイベントが開かれていた。
原宿から抜け出してきたような金魚ヒラヒラのコスチュームのお姉さんがいたり、顔中を白く塗ったお化けのような者が異様に踊っていたり、、、、
どうも私には馴染みないばかりか、文化的接点を見出せなかった。
今やマンガだけでなく、オタクまで市民権を得た文化なのですか?
私にはどこも異文化の世界でした。
訪問先のRさん。
「もっと頻繁に来てほしい。それと、来る前にメールを貰えないかな?私がいないときに来られて貴方に会えないと悔しくてならないんだ。」
こんな風に期待をしてもらえると、少々体調が悪かろうが、万難を排して駆けつけたくなる。
彼は大きなビルの1階全フロアーを昨年失い、今や小さな一部屋でビジネスを続けている。その時は奥さんも同じフォアーで着物の生地を扱う珍しい商売をされていた。
写真はサンフランシスコの金融街の入り口で、彼のかつてのビルはそのお迎えにあった。
$600,000の借金を背負いながらも、
「私には多くの顧客がついているので、大丈夫なんだ。これからも何とかやっていけるんだ。」と屈託なし。
私もあと40年間は彼のところに通い、ともに現役でいることを約束しあった。
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