マタイ4章1~11節「主イエスの誘惑」
マタイ福音書連続講解説教⑨からの抜粋
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Ⅰ.誘惑の正体を知る
誘惑と試練とは、コインの裏表である。
「誘惑」に対する聖書原文のギリシャ語は「ペイラスモス」であるが、これは「試練」とも訳せる二つの概念が同居している言葉である。
「誘惑」は悪魔がもたらすも(ヤコブ1:13~15)で、ここで主イエスを誘惑している者は悪魔(サタン)という人格を持った実存のモノだ。一方、その困難な状況は神がお許しになされた「試練」(ヤコブ1:2~4、12)という見方ができる。主イエスは「御霊に導かれて荒野に上り」、そこが誘惑の場所とあった。
大震災と言う悲劇に直面して、二つの見方がありそこから二つの結果が表れた。神が愛ならどうしてこんなことが起ったのか、と不信と憎悪を掻き立てられた人々がいる一方で、与えられた命と残されている家族の尊さにあらためて気づき神の恵みを知った人々。同じ一つの出来事は、神から私たちを引き離す誘惑とも成るし、同時に神に近づく試練とも成り得るものなのだ。
Ⅱ.誘惑の連帯性を知る
ここで主は3度の誘惑に会っておられるが、その3種類のものは私たちすべての人間が遭遇する種類のものであり、またこの3種類以外に受ける誘惑はない。
最初の人間、アダム&エバもこの3つの誘惑に陥り罪に落ちてしまった。
「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」(創世記3:6)木の実をサタンにそそのかされて食べてしまった。彼らが堕罪したがゆえにその罪が世界と私たちの中にも侵入してきて(原罪)、私たちは欲と罪、誘惑には勝てない者と堕落した。
世にある欲とは「肉体の欲、眼の欲、勢いより起る高ぶり」(Ⅰヨハネ2:16・元訳)の3つであると教えれているが、その欲に対して無力なのは、アダムの失敗がその子孫である私たち人間全体に連帯されているからなのだ。
そこで第二のアダムである主イエスが新しい人間の代表選手となって誘惑に勝利してくださるところに、望みがある。アダムとの連帯性ゆえに連戦連敗だった私たちに、主イエスと連帯すること(信仰による一体化)で勝利への予感がもたらされた。
Ⅲ.誘惑の勝利者があなたの側に立つ
主は、3回の誘惑とも「~と書いてある」と旧約聖書の言葉を引用されて誘惑を撃退された。神の言葉は生きていて人を変える力がある。私達も聖句を暗唱するほどに親しむことで必要なときに聖句を思い出し、その力を引き出すのだ。
2回目のときには悪魔も聖句を引用したが、それは自己流の間違った解釈によるもの。聖書を正しく理解・解釈するために学び続けなくてはならない理由がここにある。
本日午後に、双子の姪の誕生パーティがあって義弟の新居に行ってきた。
そこはシアトルから遠い郊外にあり、数エーカーの広い敷地を持つ。
先日、裏庭に野生の母ウサギと5羽の子ウサギが散歩しているのを4歳になる姪たちが窓越しに見ていたが、そこへ無情にも鷲が飛来して来て、子供の1羽をまさに鷲づかみにして飛んで行ってしまったという。姪たちにはトラウマとなった悲劇であった。その時、もしウサギ達の側に弟が羊飼いが使うような丈夫な杖を持って守っていたらどうであろう。さすがの鷲も簡単には近づけないはずだ。
私たちは、一人孤独に誘惑に立ち向かうのではない。
勝利者(黙示録5:5)なる主イエスが私の側に、あなたの側にいてくださり、この方が戦ってくださることを知ろうではないか。
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)
本日午前から長男のサッカー観戦。
かつては見ているこちらがやきもきしてストレスが溜まるばかりであった。
なぜあんなボールを受け止めないんだ、どこにけってるんだ、オープンスペースに走るんだ、、、とばかりに。
今期初めての試合。
4年生ともなり、数年間プレーを続けた成果か、試合らしく見える。
子供は成長する。
大人は衰えるばかり。
かつて観戦に来てくれていたグランパアやグランマアは、こう今期から来れない。
グランパアの認知力がスポーツを理解できないところまで進み、グランマアは人口の膝を移植して椅子から立ち上がるのも難儀している。
試合結果は2-1で長男のチームの勝利。
その2得点は長男がゲットした。
毎日のように私とサッカーしている成果か。
彼はドリブルがすこぶるうまい。
多少かっこよく言えば、あの2点をグランパアとグランマアの二人にそれぞれ捧げたい。
先ほどサッカーフィールドのライン引きを終えて帰ってきました。
家内が今期、長女のサッカーコーチを引き受け、毎週二日間、十数名の女の子たちにサッカーをコーチするようになりました。その役割の一つに、試合会場にラインを引く仕事があります。
わたしの帰宅が今夜は遅くなりましたので、夕食が済むと家族で急ぎ出立。ライン引きやチョークの納められた倉庫まで車を走らせ、それらを載せてサッカー場へ。
ぎっしりと詰め込まれた袋は米袋ほどの大きさですが、重さはその何倍もあり、女性では車に搬入できないのです。
ライン引きは日没との競争となりましたが、残照が残る中、真っ暗になる直前に完成しました。
3袋のチョークをすべて使用したところで終わり、ここでもギリギリとなりました。
これで明日、子供たちの歓声が聞けそうです。
マタイ3章13~17節「主イエスの洗礼」
マタイ福音書連続講解説教⑧からの抜粋
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主が洗礼を受けられて水から上がられたとき、天から声があった。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3章17節)
父なる神がいわば主イエスのミニストリー着手を認められた宣言となり、福音書には他にも2回、それぞれ異なる機会に同様な天からの声が記録されてある。
この声は、主イエスに大切な二つの自己認識を与えた。
1) 王としての立場。
前半の「わたしの愛する子」は詩篇2篇7節からの引用で、そこの文脈では王としてのメシア預言がなされている箇所。イエスは、やがて全世界を治める平和の王として来臨する確信を深めた。
2) 僕としての立場。
後半の「わたしはこれを喜ぶ」はイザヤ書42章1節からの引用で、そこの文脈では僕としてのメシア預言がなされている箇所。この言葉により、人に仕えられた後に命をささげる従順な僕として世に来られたとの確信を抱いた。
この主イエスが理解され受け入れられた立場は、主イエスのバプテスマを受け、主と一体化する私たち信者にも演繹される。そう、私達も王として、また僕としてこの世に派遣されている者たちなのだ。
先日オリンピア半島にキャンプしたとき、我が子たちはテント設営場所にあった大木の枝からぶら下がるブランコに夢中となった。私が車からの荷物搬入を手伝うよう命じるまで、わき目も振らずに遊んでいる。
彼らは仕事はしたくない。ただ遊んでいたいだけだ。それでも良い。それも許される立場にある。なぜなら彼らは私たちからして生徒でもなく、従業員や兵隊でもなく、我が子であるのだから。オーナーの子供であるなら、王のように振舞うことも許される。
だが親としては、彼らに喜びを経験させたい。それは好き勝手に遊んでいることからは生まれて来ない。プロジェクトに共同参与して、それを達成することから得られる自信や誇りを経験してほしいのだ。それゆえ荷物の運搬から始まり、テント設営、夕食準備など諸々の仕事に協力してもらうことになる。
彼らはしぶしぶブランコから降りて、僕としての働きをはじめることになる。やがてキャンプファイヤーに火がともり、その隣のテーブルには夕食がセットされ、組み上げられたテントの内部には4人分の寝床が整えられたのを見て満足する。家族としての共同作業が、自分たちの野外での一夜の生活を支えたことを身を持って体験したのだ。
私たち主に購われた者は神の家族に加えられ、キリストとの共同相続人であり、つまり「王」としての立場を持つものである。ゆえにどんな種類のミニストリー(働き)であれ拒む自由がある。同時に参与する自由もある。「僕」として働きに専念するなら、やがて完成したその働きを見て、主とともに喜ぶ者とされるのだ。
王である私たちは、僕としての働きに召されていることを覚えようではないか。それが主イエスの辿られた道であった。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」(ピリピ2章6~9節)
今週から新学期が始まった。
小学4年生となった長男は、学校が好きになれない。
毎朝、重たい気持ちで起きてきて「学校へいかないと行けないの~」と聞く。
彼は米国で流行のNinjyagoの大ファン。
漢字で「忍者」の意味を説いた。「忍耐する者なのだ」と。
するとNigagoに出てくる忍者KAIはどれほど忍耐がないかを説明しだした。
そのエピソードの物語をとうとうとまくし立てる。
忍耐なくても忍者になれる妥当性を説得しているようだ。
ヤレヤレ。
FBの友人が、「忍」とは、「心」の上に「刀」を乗せた緊張状態とコメントしてくれた。
それも彼に説いてみると、
「それじゃ、死んじゃうジャン」
なんとも諦めが早いことよ。
レイバー・ディの週末、オリンピック半島からシアトルに戻ってきた。
フェリーからシアトルダウンタウンの摩天楼を見上げて、ようやく一息ついた。
アウトドア生活は数日間がよい。
長く暮らすなら、私は都会が良い。
完全なCity Boyである。
これはわたしの名前そのもの。
「京」はCapital Cityで、「太」は「太郎」つまりBoyを意味する。
長男も都会派だが、家内と長女は田舎派だ。
特に長女は牧場で馬とともに暮らすのが将来の夢だと言う。
アウトドアライフも日帰りできるシアトル・ノースウエストはあらためて良いところだと思う。
オリンピック半島後半の旅は、Makahインディアン居住区にあるキャンプ場にテントを設営。そこは、20メートル幅ほどの防風林を抜けると太平洋に面するビーチとなっている。
テント設営場所に車を横付けできるので至極便利。
腰痛を抱えた私には、荷物を持って何度も車とテントの間を往復しない分だけでも助かる。
そのビーチの潮の満干の差には驚かされた。
夕刻干潮を迎えたが軽く100メートルは超える、ほぼ水平の砂浜が姿を現していた。
言うまでもなく、6時間後そこは海水で覆われる。
水が去った後の砂は硬く、足跡も残さないほど。
そこでわたし達は鬼ごっこに興じた。
我ながら、かわいい穏当なお遊びに感心する。
他の人たちがしている、カヌーでの釣りやサーフィンなども何時かしてみたいものだ。
わたし達の隣にテントを張った3人家族の30代と思しき夫は一人でカヌーを漕ぎ出だし、ザトウクジラが潮を吹いているのをすぐ近くで見たという。実際にはそれはカヌーでなく、Hobyという足を使って漕ぐ最新の優れものだった。
3.11の大震災で津波で流れ出た漂流物が米国太平洋岸に漂着しているとの報道を聞いているが、Shi Shi Beachを歩きながら探してみた。
数点見つかりました。かすんでいるが日本語が書かれたブイ。
これも黒潮に乗って1年と半年ほどかかって到着したものです。
人物が特定できるものなら持ち帰り、送り届けようなんて家内と話しながらビーチを歩く。
残念ながらそのようなものはなく、その大型のブイもナイフで二つに裂かれた後にキャンパーたちに使われた模様。それを我が子たちが格好の遊び道具にしていた。
帰宅してみると、日本政府で米国西海岸への漂着物清掃費用を負担するための懇談が始まったとの新聞記事があった。
Shi Shi Beachは、昨日訪れた太平洋に突き出た角の先端、Cape Flatteryから約10マイルほど南下した太平洋岸のビーチ。そこまで行き着くのに、2マイルほどの山道を歩かねばならず、これにより車での進入が妨げられていることから自然環境が太古のまま保全されている秘境である。
おどろおどろしい岩肌が砂浜から屹立していたり、その岩に万を越える貝が付着していたり、確かに日常お目にかかれるものでない。
そこからさらに10マイルをビーチに沿って南下すればCape Alavaがある。
その地点こそ、日本人が始めて米国大陸に足を踏み下ろした場所である。
天保3年(1832年)、江戸に向けて出航した宝順丸は途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく漂着した場所がそのCape Alavaであり、その時に生存者は音吉、岩吉、久吉の3人しかいなかった。
彼らは現地のアメリカ・インディアン(マカー族)に救助される。というよりも、奴隷としてこき使われたのが実情。
昨日訪れたマカー族博物館には音吉らの出身地である愛知県美浜町と友好親善を交わした記念碑が陳列されていたのが、少々滑稽でもあった。
後に彼らはロンドン、そしてマカオへとイギリス船の好意を得て、帰国の望みを託しながら移される。音吉はそのマカオで、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに協力して世界で最初の邦訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させるに至る。1837年年6月、薩摩からの漂流民4人を加えた合計7人の日本人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発し那覇まで来る。ここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かう。
7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき予期せぬ砲撃にさらされる。これがモリソン号事件である。当時の江戸幕府は異国船打払令を発令していて、日本沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっていた。やむなく彼らは故郷の国の地を踏むことなく、マカオに引き返すしかなかった。
その漂着は今からわずか180年前のことであり、当時となんら変わらない海岸線の風景を見るにつけ、3人の漂流民たちが辿った苦労が偲ばれてきた。
最後に暗記している音吉の協力によるギュツラフ訳ヨハネ福音書の1章1節を紹介して、数奇な運命の中で神に用いられた人物のよすがとしたい。
「ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクト トモニゴザル」
キャンプ3日目は今回のハイライト、Makah Indian 居住区へ。
そこはアラスカを除く合衆国の最北西の地。
先ず、Makah博物館でインディアンの生活、歴史、文化等を見学。
確かなことがわかっている年代は、少なくとも500年前には彼らはこの地に居住していた。鯨やラッコ、魚を釣って食を得、衣服もラッコや熊の毛皮を使い、住まいは杉材で移動式プレハブ家屋であったことを知る。
それだけでなく、この地とMakahインディアンはわれわれ日本人にも大きな係わり合いを持っている。宝順丸の模型と3人の救出された漁師たちの物語が日本語でも展示されていた。詳細は後日に記します。
写真は米国北西部のコーナー、Cape Flatteryに立ったところ。
少し離れたところに見える島は、Tatoosh島といって、かつてMakah族たちが夏季の間だけ捕鯨基地として利用したところ。現在は無人島となり、灯台が船舶のシアトル航路の目印となっている。
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