宗教は人を束縛するものか、自由を与えるものか
9月
6日
マタイ福音書連続講解説教⑧からの抜粋
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主が洗礼を受けられて水から上がられたとき、天から声があった。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3章17節)
父なる神がいわば主イエスのミニストリー着手を認められた宣言となり、福音書には他にも2回、それぞれ異なる機会に同様な天からの声が記録されてある。
この声は、主イエスに大切な二つの自己認識を与えた。
1) 王としての立場。
前半の「わたしの愛する子」は詩篇2篇7節からの引用で、そこの文脈では王としてのメシア預言がなされている箇所。イエスは、やがて全世界を治める平和の王として来臨する確信を深めた。
2) 僕としての立場。
後半の「わたしはこれを喜ぶ」はイザヤ書42章1節からの引用で、そこの文脈では僕としてのメシア預言がなされている箇所。この言葉により、人に仕えられた後に命をささげる従順な僕として世に来られたとの確信を抱いた。
この主イエスが理解され受け入れられた立場は、主イエスのバプテスマを受け、主と一体化する私たち信者にも演繹される。そう、私達も王として、また僕としてこの世に派遣されている者たちなのだ。
先日オリンピア半島にキャンプしたとき、我が子たちはテント設営場所にあった大木の枝からぶら下がるブランコに夢中となった。私が車からの荷物搬入を手伝うよう命じるまで、わき目も振らずに遊んでいる。
彼らは仕事はしたくない。ただ遊んでいたいだけだ。それでも良い。それも許される立場にある。なぜなら彼らは私たちからして生徒でもなく、従業員や兵隊でもなく、我が子であるのだから。オーナーの子供であるなら、王のように振舞うことも許される。
だが親としては、彼らに喜びを経験させたい。それは好き勝手に遊んでいることからは生まれて来ない。プロジェクトに共同参与して、それを達成することから得られる自信や誇りを経験してほしいのだ。それゆえ荷物の運搬から始まり、テント設営、夕食準備など諸々の仕事に協力してもらうことになる。
彼らはしぶしぶブランコから降りて、僕としての働きをはじめることになる。やがてキャンプファイヤーに火がともり、その隣のテーブルには夕食がセットされ、組み上げられたテントの内部には4人分の寝床が整えられたのを見て満足する。家族としての共同作業が、自分たちの野外での一夜の生活を支えたことを身を持って体験したのだ。
私たち主に購われた者は神の家族に加えられ、キリストとの共同相続人であり、つまり「王」としての立場を持つものである。ゆえにどんな種類のミニストリー(働き)であれ拒む自由がある。同時に参与する自由もある。「僕」として働きに専念するなら、やがて完成したその働きを見て、主とともに喜ぶ者とされるのだ。
王である私たちは、僕としての働きに召されていることを覚えようではないか。それが主イエスの辿られた道であった。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」(ピリピ2章6~9節)