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大統領選挙たけなわです

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大統領選挙たけなわです 大統領選挙たけなわです 大統領選挙たけなわです 大統領選挙たけなわです


いよいよ大統領選挙が来週に近づいてきました。
日本の選挙と異なるのは投票日が1日ではないことです。
既に先週前から各有権者には投票用紙が郵送され、いつでも投票ポストに投函できるます。すでに7千万人の方が投票終えたようです。
ここ1週間でバイデン候補のスキャンダルが明るみになりつつあります。息子とともにウクライナや中国との闇の関係が指摘されるようになりました。

運転しているとハイウェイ上の橋で選挙応援をしている方々が見えます。ここでクラクションを鳴らすと、抗議ではなく賛同を現す意思表示となります。


#社会

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「良い羊飼いなる主」

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「良い羊飼いなる主」


ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。


「良い羊飼いなる主」


ヨハネの福音書 10章7~15節



"そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。"


(1)個別理解を持つ方


①個人名を呼ばれた(3)
福音のメッセージを聞いて反応できた理由。
主に名前を呼んでいただいたから。

②なぜなら私を知っておいでになられるゆえに(14-15)
父とイエスの関係レベル程に私たちをご存知であられる。
さらに私たちもまたそのレベル程に主を知り得るようになる。


(2)命を捨てられた方(11)


①雇い人との違い〜命を捨てる覚悟があるかないか。
便益のために羊を管理するのが雇い人。

② 命を捨てた羊飼い〜歴史的事実
主は言葉だけでなく実行された。


⑶羊の祝福のために存在している方(10)


①名を呼ばれ、自ら命を犠牲にされ(18)、そして復活された(18)のは、私たちが命を得るため。
その命とは神的な命、ヨハネ流には「永遠の命」。

②さらに豊かに持つため(10)
クリスチャンの成長とはすなわち命の漸進的な充実。


(結論)


"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。"
詩篇 23篇1~3節

主はご自身の命を捨ててまで私どもを生かし、緑の牧場と憩いの水のほとりにまで導かれる方である。この真の羊飼いになる方の声を聞け分けよう。

#メッセージ

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始まっていたシアトルの秋

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始まっていたシアトルの秋 始まっていたシアトルの秋 始まっていたシアトルの秋 始まっていたシアトルの秋 始まっていたシアトルの秋 始まっていたシアトルの秋


カリフォルニア・ベイエリアは抜けるような青空の天候で初夏を思わせるような陽気でした。
日中は半袖じゃないと暑くてやっていけません。

こちらノースウエストに帰ると、すでに典型的な秋冬の気圧配置が始まってました。

それは分厚い雲に覆われて、一日のうちに断続的に雨が何回となく降り続けることです。
この時期になると気候型ウツになられる方が多いのは納得です。特に自宅自粛で外出できない場合はその傾向が強まります。

うつ予防のために雨が止んだのを見計らって散歩に出かけます。スキを突くのです。スキあり!

今日は夕日が見れないんだろうと思いながらも高台に登ってみると、雲の切れ間からきれいな夕焼け空。

日の入りは夏至の頃と比べてすでに3時間以上も早り午後6時頃。

写真はパラアルトの中心街にある歩行者天国。
コロナ禍で飲食店は店内営業が機能していないので路上での営業となっています。
イスラエル料理店でのランチ。

#コミュニティ #社会

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サンフランシスコの様子

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サンフランシスコの様子 サンフランシスコの様子 サンフランシスコの様子 サンフランシスコの様子 サンフランシスコの様子


コロナ禍中のサンフランシスコ。
変わり果てた街街の様子。
今年2月以来7カ月ぶりの訪問となりました。

ダウンタウンでは小売店の多くが閉鎖したまま、1階のガラス窓は防壁の木材が貼られています。

中心街に近づくほど人々の出足は鈍く、ビジネスはより大きなダメージを受けているのが見て取れます。
特に西海岸の心臓部、この街の金融街には日中全く人気がありません。ホワイトカラーの労働者はみんな自宅でオンラインで仕事してるのだそうです。

私の関係者も2割から3割ほどが撤退しています。

ただお会いした人々にはさほど悲壮感はなく、これからも生きていくぞと言うたくましさか、なるようにしかならないと言う諦観のようなところから来る底力を感じました。

お互いの近況を報告し合いながら、尚も神が最善へと導いてくださることを確認し合うことができました。

週末の夕方ともなれば常にごった返しているサンフランシスコ空港がガラガラな点は得した感じです。
セキュリティーチェックですら周囲には誰もなくいなくて、持ち時間は0。
飛行機も遅延なくスケジュール通りに運行です。
3列席の真ん中席をソーシャルディスタンスとして空席にしてくれています。
ストレスフリーで移動ができるのはコロナの恩恵でした。



"この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと主は彼らを苦悩から導き出された。
主が嵐を鎮められると波は穏やかになった。
波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。
主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。"
詩篇 107篇28~31節




San Francisco in the midst of the corona crisis.
The changing face of the city streets.
It's been seven months since February of this year.

Many of the retail stores downtown remain closed, and the ground floor glass windows are covered with bulletproof wood.

The closer you get to the center of the city, the slower people turn out, and you can see that business is taking a greater toll.
The financial district of the city, the heart of the West Coast, is not popular at all during the day.All the white collar workers are working online from home.

About 20% to 30% of the people I work with have left the city.

However, the people I met were not so sad, and I felt their resilience, which comes from either a resignation that they will continue to live, or a resignation that there is nothing but what will be.

We were able to report back to each other on what we were doing, and yet we were able to confirm that God was leading us to the best.

It was a blessing that the San Francisco airport, which is always crowded on weekend evenings, was not so busy.
Even the security check point was empty and there was no one around me and I had zero time to spare.

The flight was on schedule with no delays.
They have left the middle seat in the middle of row 3 empty as social distance.
It was a blessing to have a stress-free trip due to Corona.

“Then they cried out to the LORD in their trouble,
and he brought them out of their distress.
He stilled the storm to a whisper;
the waves of the sea were hushed.
They were glad when it grew calm,
and he guided them to their desired haven.
Let them give thanks to the LORD for his unfailing love
and his wonderful deeds for mankind.“
Psalm 107:28-30
#社会

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Central theme of the Bible

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Central theme of the Bible



As we grasp the whole picture of the Bible as we interpret and peruse it in its literal sense, we come to realize that the entire vast volume of the Bible is also a single unified and harmonious book.

There are two main theological systems by which evangelicals organize the entire Bible volumes.

* Covenant Theology - This is the mainstream and is adopted by most denominations.
* Dispensational - It is in the minority and, as you may have noticed, is the author's position.

❶ Central themes of the Bible as understood by covenant theology.

It is the salvation of man.
It is the only way for the glory of God to be manifested in man's salvation.
And he understands the spread of the Kingdom of God as the spread of the Church Christian power.Augustine's "Kingdom of God" was written at that point in time about the struggle against secular power.Therefore, the plan of redemption is the principle that harmonizes and unifies the entire Bible.

* Its hermeneutics
They try to read the Old Testament around the cross of Christ who completed the atonement because human salvation must be the center of it.
It is right to use the New Testament to understand the Old Testament.But it is wrong to impose the New Testament on the Old Testament.The effect is to take the revelation of the New Testament and apply it to the Old Testament and read it into the Old Testament.
As a result, the Bible is interpreted figuratively, and its meaning is determined by the figurative interpreters.

*The Church Theory of it
Some say that the church began with Adam and others say that the church began with Abraham.This is an unreasonable interpretation of the result of adopting the "one God's people theory" that the people of God are the church.Thus, Israel today is already excluded from the "chosen people".In the transition from the Old to the New Testament era, it adopts a replacement theology, which says that the people of God have been replaced by the church from Israel.

* That theory of salvation
He states that the faith is one and the same.
That is, they assume that the saints of Old Testament times were also saved by the cross and resurrection of Christ.In some divine way they are deemed to have known.
He explains, "The saints of Old Testament times waited for the cross, and the saints of New Testament times looked back to the cross for salvation.”

❷ The central theme of the Bible as understood by Dispensations.

*That it is the glory of God.
Human salvation is certainly a central theme as well, but it is not the only one.The created world was already complete before man was created on the sixth day of creation.Adam's fall brought the negative effects of sin and death upon the whole creation, but the redemption of the whole creation, and the glory of God shining in it, is the theme of the Bible.
"Even the creation itself is freed from the bondage of destruction and is set free in the freedom of the glory of God's children.
We know.All of creation is groaning together and suffering in childbearing together until now."
Romans 8:21-22

*The benefits of recognizing "the glory of God" as a Bible-centric theme
There will be continuity and harmony between the Old and New Testaments.
There will be no need to read into the Old Testament at all for the full atonement of Christ and its revelation.

There will be continuity and harmony between the Old and New Testaments.

The three basic pillars of dispensationalism by Riley.
(1) Consistent literal interpretation.
The important point is "consistent.Covenant theology interprets certain parts of Israel and eschatology figuratively.In dispensations, any part of the Bible is interpreted literally.

(2) The distinction between Israel and the church.
The Bible clearly distinguishes between the two.In other words, there are two kinds of people of God, Israel and the church, each with its own separate plan of salvation.

(3) The central theme of the Bible is the glory of God.
In other words, the ultimate goal of the Bible is that the whole world is affected by the Fall and destroyed, but the glory of God will be restored to the state of the Garden of Eden that it was in at the time of creation and the glory of God will fill the whole world.The salvation of man is only one part of it.Salvation (the restoration of the whole world) is completed in the second coming of Christ to sit on the throne of Jerusalem and rule the whole world, rather than the expansion of the Christian church's power to save the world.
#メッセージ

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聖書の中心テーマについて

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聖書の中心テーマについて
聖書を字義通りに解釈し熟読していく中でその全体像を把握していくと、膨大な聖書全巻も1つの統一性・調和性を持った書物であることに気がつくようになる。

福音派が聖書全巻を整理する神学体系には、主に2つのものがある。

*契約神学〜主流派であり、ほとんどの教派・教団が採用している。
*ディスペンセイション〜少数派であり、お気づきのように著者の立場である。

❶契約神学の理解する聖書の中心テーマ

*それは人間の救いであるとする。
人間の救いを神の栄光が現れる唯一の方法だとする。
そして神の国の広がりを教会キリスト教会勢力の広がりであると理解する。アウグスティヌスの「神の国」はその時点で世俗権力との抗争を書いたもの。よって贖いの計画が聖書全体を調和統合する原則としている。

*その解釈学
人間の救いが中心でなくてはならないので贖いを完成したキリストの十字架を中心に旧約聖書を読み込もうとする。
旧約聖書を理解するために新約聖書を用いるのが正しいことである。しかし新約聖書を旧約聖書に押し付けるのは間違っている。新約聖書の啓示を持って旧約聖書に当てはめ、読み込もうと言う作用が働いている。
結果、聖書の比喩的解釈が行われ、その意味するところは比喩的解釈者によって決定させられている。

*その教会論
ある人はアダムから教会が始まり、またある人はアブラハムから教会が始まったとされている。神の民とは教会であると言う「1つの神の民論」を採用した結果の無理な解釈である。よって、現在のイスラエルは「選ばれた民族」から既に除外されていることになっている。旧約から新約時代の変遷において、神の民がイスラエルから教会に置き換わったと言う置換神学を採用している。

*その救済論
信仰の内容は1つで同じだとしている。
つまり旧約時代の聖徒たちもキリストの十字架と復活によって救われたのだとする。何らかの神的な方法で彼らは知っていたとみなす。
「旧約時代の聖徒たちは十字架を待ち望み、新約時代の聖徒たちは十字架を振り返って救いを得ている」と説明している。

❷ディスペンセイションの理解する聖書の中心テーマ。

*それは神の栄光であるとする。
人間の救いも確かに中心的なテーマではあるが、そればかりではない。人間が創造の6日目につくられる前にすでに創造世界は完成していた。アダムの堕落によって罪と死の悪影響が全被造物に及んだが、その全被造物の贖い、そこに輝く神の栄光が聖書のテーマである。
"被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。"
ローマ人への手紙 8章21~22節

*「神の栄光」を聖書中心テーマであると認識する利点
旧約聖書と新約聖書の継続性と調和が生まれる。
キリストによる十全な贖いとその啓示を、旧約聖書に読み込む必要は全くなくなる。

緒契約の間の継続性と調和が生まれる。

*ライリーによるディスペンセイショナリズムの3大基本柱。
①一貫した字義通りの解釈
「一貫した」が大切な点。契約神学ではイスラエルや終末論のある部分を比喩的に解釈する。ディスペセイションでは聖書のどの部分も字義通りに解釈する。

② Israelと教会の区別。
聖書は明確にこの両者を区別している。つまり神の民にはイスラエルと教会の2つがあり、それぞれに別個の神の救いの計画がある。

③聖書の中心テーマは神の栄光である。
つまり全世界が堕罪の影響受け滅び行くものとなっているが、創造当初のエデンの園の状態に回復されて神の栄光が全世界に満ちることが聖書の最終ゴールであるとする。人間の救いはその中の1部に過ぎない。キリスト教会の勢力拡大が世界を救うのではなく、キリストが再臨してエルサレムの王座に座し、全世界を統治することにおいて救い(自然界の回復)が完成する。
#メッセージ

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ベイエリアの様子

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ベイエリアの様子 ベイエリアの様子 ベイエリアの様子 ベイエリアの様子



ベイエリアの多くの商業地域では車両通行止めとなっているところが多いです。
パンデミックが続いて交通量が極端に少なくなっているため可能となったのでしょう。レストランは路上にテーブルを設置して営業し続けることができます。

夕食を探してぶらぶらしているとイタリア系らしいレストランの前にきたので一応どこの国のレストランですかと聞いてみた。

「Israelです」とウエーターの答え。

待ってましたとばかりに路上に出されているテーブルを確保。

デザートには必ずどこのイスラエルレストランでも見かける蜂蜜味の例のものがありました。


Many commercial areas in the Bay Area are closed to vehicle traffic.
This is probably made possible because of the extremely low traffic levels following the pandemic.Restaurants are able to set up tables on the street and stay open.

When I was wandering around looking for dinner, I came to a restaurant that seemed to be Italian, so asked a waiter what ethnic food?

The waiter replied, "Israel," and I got a table on the street.

For dessert, there was a honey-flavored dessert that you can see in every Israeli restaurant.
#社会

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聖書の漸進的啓示

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聖書の漸進的啓示
  


漸進/累積的啓示を認めるか否かが契約神学とディスペンセイション神学との違いをもたらしている。


❶ディスペンセイションの解釈法

*旧約聖書には新約聖書においては未だ啓示されていないことも啓示されていて、いわばその原形であり胎動期であった。

*旧約聖書はそれ自体で解釈されるべきである。なぜならその時代の啓示の分量にはその時代の限界が存在するからである。

*旧約聖書にある完全な光に照らして旧約聖書を再解釈してはならない。


❷非ディスペンセーション(主に契約神学者)の解釈法


*漸進的啓示を受け入れていない
聖書全巻を貫く契約概念を3つの契約に集約してしまうので時代的進展とともに啓示が増加わってきたと言う自然な理解を齟齬してしまうことに繋がる。3つの契約とは、行いの契約、購いの契約、恵の契約。

*例えば契約神学者の巨頭とも言うべきHODGE氏は、「恵の契約」を次のようにまとめている。

「新約聖書と旧約聖書合わせて考えると救いの計画は常に1つしかない。その計画には同じ約束、同じ救い主、同じ条件そして同じ救いが内包されている。-----以上のことから教会は常に存在していたと言える。キリスト以前の神の民は教会を形成していたと言うことである。その教会はすべてのディスペンセイションおいて1つであり同一のものである。
教会は常に同じ約束、同じ贖い主そして同じメンバーになるための条件を有していた。その条件とは神の御子を世の救い主と信じる信仰である。」

これらのこの彼の著作から単純に湧き上がる疑問は、旧約時代の人物例えばアブラハムやモーセがどうしてキリストの贖いとその明確な約束の言葉を知り得ることができて、信じることができたのか。

彼は続けて次のように説明している。
「私たちの場合は旧約聖書から恵の契約に関する情報を発見する能力は限定されている。当時の人たちが預言者を通しあるいは神の啓明によってどの程度付加的情報得ていたかは私たちには知る由もない。」

このようにHODGE氏は、明らかに旧約時代には啓示されていないような事柄でも、彼らはなんらかの神的方法により知り得ていたと言う前提に立っている。

これは先に神学的前提を持って聖句を読み込む(eisegetical)営みであり、意味を汲み取る(exegetical)作業ではない。

*彼らの特徴は、啓示が完成している新約聖書を中心/優先にして旧約を含めた神学体系を構築しようとするところにある。そこで救いもその条件も教会もあらゆることをたった1つのことの中に集約しようと努める。


❸聖書神学は、各書が啓示が与えられた順番に研究していく学問である。


*聖書には啓示が1度に与えられたと教えている箇所はない。










*聖書は神の啓示のプロセスを記した記録である。

*イエスご自身も漸進的啓示を前提にしながら聖書を解き明かされている。
"それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。"
ルカの福音書 24章27節

*そしてイエスご自身が漸進的啓示の頂点であると教えている。
"神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。"
ヘブル人への手紙 1章1~2節

*ヨハネ福音書の冒頭は漸進的啓示に従って記されている。
「はじめに、言葉があった」(1節)
モーセと律法の言及(17節)
預言者への言及(19ー25節)
イエスへの言及(26-27)



------聖書を解き明かすと言う営みは、どうこれを解釈するのかと言う事と同等であること。正しく解釈するためには、字義どおりの解釈が推奨されるべきこと。字義どおりの解釈とは、啓示の漸進性を認めるものであることをこれまで見てきました。これからもしばらく続きます。-------
#聖書解釈

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「エリムの憩い」

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「エリムの憩い」


ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。



「エリムの憩い」


出エジプト記 15章23~27節


"彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」
こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。"


(1)人生の旅路


①荒野への旅程
紅海横断の輝かしい勝利(1-21)
三日間のシェルの荒野への旅程
飲料水の不足

②私たちの歩みも荒野の旅路
勝利〜困難〜エリムの泉(安息)
日曜礼拝は安息の時である


(2)モーセは主に叫んだ(25)


①マラ(苦味)のただ中にあって、問題を持っていく所を知っていた
イスラエルの民の訴えに対し彼自身の内には応える資源は無い

② 主は応答をされた(25b)
「おきてと定めを授け」〜み言葉を通して主は語られる
「彼を試みられた」〜信仰的応答は机上の学びからではなく実際の試練の中から習得する


⑶エリムの憩い


①荒野の旅路でのオアシス
12の泉、70本のナツメヤシの木〜民全体を潤すに十分な資源
そこには供給と休息、霊的刷新があった

②この休息と刷新は次なる荒野への準備となる
シンの荒野へ(16:1-2)


(結論)


「わたしは主、あなたを癒すものである」(26)
安息と新しい学びに招かれる主イエス(マタイ11:28)。
イエスの十字架は、苦味を甘みに変える場であり、
安息と刷新とを与える場である。
"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。"
マタイの福音書 11章28~29節







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聖書を字義どおりに解釈する祝福

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聖書を字義どおりに解釈する祝福 聖書を字義どおりに解釈する祝福 聖書を字義どおりに解釈する祝福 聖書を字義どおりに解釈する祝福 聖書を字義どおりに解釈する祝福 聖書を字義どおりに解釈する祝福 聖書を字義どおりに解釈する祝福 聖書を字義どおりに解釈する祝福



聖書を字義どおりに解釈するべき理由


❶解釈の目的からして必要なことゆえ

神はご自身を聖書著者を通じて啓示された。
その啓示の内容は一貫している字義通りの解釈でなくては明らかとならない。
主観的解釈は解釈者を聖書の上に置くことにつながる。


❷あらゆる種類のコミニケーションに調和しているゆえ
恣意性排除して最も自然な意味に取る解釈法が字義通りの解釈。
それは文脈を重視して解釈する方法。
比喩は比喩として解釈する。
学者の間では「歴史的・文法的解釈」と呼ばれているものである。


❸それは聖書の権威、また究極の著作者である神の権威を認めることに繋がるゆえ

聖書解釈は、
意味の汲み取りであり(exegetical)
意味を読み込むこと(eisegetical)ではない。

聖書は帰納的に読むべきであり(inductive)
演繹的であってはならない(deductive)。

帰納法とは、数多くのテキストの意味を発見し、そこから調和ある神学を構築すること。
演繹法とは、まず枠組みとなる1つの神学体系があり、それに調和するために各テキストの意味を確定していくもの。

字義どおりの解釈法は、聖書の意味を汲み取ること(帰納法)で聖書の権威に伏している。
意味の読み込みや押し付けは、その解釈者が聖書よりも優位に立っていることを意味している。
#メッセージ

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