禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。
蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる。
門の周辺が長州藩との激戦地となった。
現在でも蛤御門の門柱に命中した弾痕を確認することができる。
【禁門の変(蛤御門の変)】
京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、
京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。
御所の西辺である京都蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発。
蛤御門(はまぐりごもん)は、現在の京都御苑の外郭九門の一つ。
本来の正式名称は 「新在家御門(しんざいけごもん)」 門の形状は高麗門型の筋鉄門。
御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、
固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて
「蛤御門」 という俗称が付けられたとされる。
京都御所の南西角にあるムクの巨樹。
かってはここに清水谷家という公家の屋敷があったためにこの名が付いています。
京都御苑の中の樹木の中ではそんなに大きな木ではないが目立つ位置にあります。
幹周/約4m、樹齢/約300年。
幕末の1854年(元治元年)に起きた蛤御門の変の時には,長州藩士の来島又兵衛が
この木の下で討ち死にしたといわれています。
昨日の京都は真夏のような暑さでした。
そんな中で京都に行く用事があり時間が少しありましたので京都御所に!
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