8日のフィギュアスケートグランプリシリーズ中国杯で
公開練習中に中国のエン・カン選手と激突し
頭に包帯、あごには絆創膏という姿になっても
フリー演技に出場した羽生結弦選手
羽生結弦選手は頭にテーピングを巻きながらも
フリー演技に出場し、見事2位を獲得した。
シアトルは今日も雨。
長女のサッカー練習は屋根のある場所を選んだ。
地面はコンクリート。
それが思わぬ事故を招いてしまう。
バランスを崩して横転した際に
頭部をしたたかに強打してしまった。
練習後も頭痛が収まらないというので病院へ。
中程度の脳しんとうとの診断であった。
するとドクターは今後三日間の登校を禁じ、自宅療養を命じたという。
その上、読書もTVも、考え事もご法度とのこと。
そこまで徹底する必要あるのだろうか?
一日様子を見て、頭痛さえ治まれば学校くらい行けるだろう、
そんな風に嫁に言ってみた。
私も脳しんとうくらいの経験は何度かあって、そんな風に対処したんだ、と。
嫁に言わせると、
十数年ほど前から脳しんとうの療法が見直されて、たとい頭痛がなくとも絶対安静が数日間は必要なのだという。
そうでないと、後遺症を後日に引きずるらしい。
「やはりねェ、、それで分かったわ〜」と意味ありげのスマイルの嫁(⌒▽⌒)
私の物忘れのことを思い浮かべているのだろう。
元オリンピック陸上選手の為末大(ためすえ ・だい)さんが、
「選手を命の危険から守るべきだ」と競技会の対応を批判している記事。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/11/08/yuzuru-hanyu-crach_n_6127758.html
お気に入りの日本レストランでランチ。
30代前後と思しき白人女性がサーヴして下さった。
彼女が書いた日本語が楽しい(^○^)
サクラメントは快晴の上に暖かい。
強風と雨の止まないシアトルとは別世界。
厚手のコートを二つも持って来たが、明らかに不要だった。
だが、セントルイスでは寒いかもしれないなぁ。
出発のBゲートを歩いているとスタバを2回も通り過ぎる。
いつも2軒目で捕まり、暖かい飲み物をいただく。
フライトは大抵のばあい、深夜の最終便を利用する。
料金が最安値であるのが最大の理由。
さらに、空いていてどこも長い行列とならないのが良い。
この日は早い時間帯に空港まで嫁と長女に送ってもらう。
嫁が長女のサッカーのコーチをせねばならないためだ。
そこで搭乗までの間、約2時間も自由に過ごせる時が持てた。
シアトル空港の中央コンコースには、
天井高くが高い上に、滑走路に面した壁一面はガラス張り作りの快適な空間がある。
頑丈な木製の椅子と机を書斎にさせてもらう。
その前には夕食テーブルに利用(^O^)
いつもは日本食のテイクアウトか、Ivar's というシーフード唐揚げのどちらかを選ぶ。
この日は日本食を悩んだ末選んだが、これが失敗。
焼きそばヌードルはふやけていて食べれたものではない。
やはり、日本人がシェフしていないものは曲がりものに過ぎないということか?
今後はIvar's 一本道で行くことを硬く決意。
フライトは大抵のばあい、深夜の最終便を利用する。
料金が最安値であるのが最大の理由。
さらに、空いていてどこも長い行列とならないのが良い。
この日は早い時間帯に空港まで嫁と長女に送ってもらう。
嫁が長女のサッカーのコーチをせねばならないためだ。
そこで搭乗までの間、約2時間も自由に過ごせる時が持てた。
シアトル空港の中央コンコースには、
天井高くが高い上に、滑走路に面した壁一面はガラス張り作りの快適な空間がある。
頑丈な木製の椅子と机を書斎にさせてもらう。
その前には夕食テーブルに利用(^O^)
いつもは日本食のテイクアウトか、Iverというシーフード唐揚げのどちらかを選ぶ。
この日は日本食を悩んだ末選んだが、これが失敗。
焼きそばヌードルはふやけていて食べれたものではない。
やはり、日本人がシェフしていないものは曲がりものに過ぎないということか?
今後はIver、一本道で行くことに硬く決意。
エルサレム旧市街のダマスコ門。ヘブライ語ではシケム門と呼ばれる。聖書時代から、この門から始まる道がシケムを通り、ダマスコまで続いていた。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートと聖書本文はこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/43411688
「千年王国①」
マタイ24章34節
~マタイ福音書連続講解説教88~
「まことに、あなたがたに告げます。
これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」
(マタイ 24:34 )
この主のお言葉に千年王国の啓示がある。
「これらのこと」とは、それまで話されて来られた大艱難時代のこと、
「この時代」とは、メシアが来られていない現時代の事である。
ユダヤ人はメシア到来を境にした、二つの別れた時代認識を抱いていた。
「千年」とは、黙示録20章に至って初めて啓示されたものであるので、
それまではメシア的王国という名が示す概念を抱いていた。
そのメシア的王国、つまりメシアが地上に到来したなら、
どのような世になると聖書が教えているだろうか。
オリーブ山の教説ではこの一行のみであった。
黙示録にはその期間が千年とあるだけで、
それ以上の詳細な啓示はない。
これには理由がある。
旧約聖書の随所には、そのメシア的王国の預言で満ちている。
それで重複する必要はなく、黙示録ではそのメシア的王国の到来プログラムを
時間順に追うことを主眼としているゆえである。
数あまたある預言から、その一般的特徴を学んでみよう。
イザヤ51章1~6節
1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。 わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩、 掘り出された穴を見よ。
2 あなたがたの父アブラハムと、 あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。
わたしが彼ひとりを呼び出し、 わたしが彼を祝福し、 彼の子孫をふやしたことを。
3 まことに主はシオンを慰め、 そのすべての廃墟を慰めて、 その荒野をエデンのようにし、
その砂漠を主の園のようにする。 そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。 わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。
おしえはわたしから出、 わたしはわたしの公義を定め、 国々の民の光とする。
5 わたしの義は近い。 わたしの救いはすでに出ている。 わたしの腕は国々の民をさばく。
島々はわたしを待ち望み、 わたしの腕に拠り頼む。
6 目を天に上げよ。また下の地を見よ。 天は煙のように散りうせ、 地も衣のように古びて、
その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。 しかし、わたしの救いはとこしえに続き、
わたしの義はくじけないからだ。
1.千年王国はエデンの園の回復である
•エデンの園に人を創られた状態は「非常に良かった」
•人はそこから堕罪して、エデンの園から追放された
•それを回復して、もとの良い状態に戻そうとする神の働きかけが聖書の物語
2.アブラハムとの契約がその回復プログラム進展の機軸となる
•アブラハムの選びと契約の締結(2)
•子孫から民族を起こす約束は、ユダヤ民族の成立で成就した
•一人の子孫が祝福成就に関わっている(5)
•その一人の子孫とは、神の「腕」と呼ばれているメシアである
3.メシア世界の統治者となるときがエデンの園の回復のときである
•やがてメシアが世界の統治者、立法者としての即位する時がくる
•天と地の大きな変動(6)〜これはメシア来臨の直前の艱難時代に起こる
天変地異の黙示録預言と一致するものである
•艱難からの多くの人々の死も預言されている
•その艱難時代を通って神の「救」いと「義」とが完成する
4.メシアによる救いと義とは今日体験できる(5A)
•世界の終末的な出来事であると同時に、今日経験できる個人的な祝福でもある
•それは、私たちの意志に訴えられているものである
秀吉の後継者と見込まれていた秀次が切腹に追い込まれた。
秀吉に生まれた秀頼の行く末の邪魔だてとなるのだという…
大河ドラマでは秀吉の私心による成敗で、秀次への同情を誘われるが、
本来そのような同情心の必要のない男である。
秀次は、もっと早い段階で葬り去られた方が良かった。
ルイス・フロイスは「日本史」の中で秀次のことを、
残虐非道極まる男であり、ネロをはじめとしてどんなローマ皇帝も彼ほどではなかったと報告している。
絶命の際の声を聞きたいなどどいい、興味本位から通りがかりの町人を何度も辻切りしている。
哀れなのは秀次の家族、親類一同39名が幼児に至るまで
三条河原にてズタズタに切り裂かれて絶命したことであろう。
ところで、現在でもイスラム国を名乗るイスラム過激派が同様の蛮行を犯して誇っている。
人権意識。
人の命の尊さ。
その尊厳さに思いが至らないことゆえの悲劇。
「どうして人を殺したらいけないの?」
小学生だったか、日本である子が教師にそう質問したという。
その教師がどのように答えたかは知らない。
生命の誕生も、ヒトまでの進化も偶然と適者生存が支配している価値観を教えている学校で、
どうやって善悪の基準を説くことが出来るのか?
聖書の教えが広まり、浸透していった社会で
「人権」という価値観が生まれてきたと言っていい。
科学技術の発展や経済の隆盛が社会に人権意識を移植させたのではなく、
聖書の教える神とその価値観が認められて、人ははじめて人らしい生き方に目覚める。
ざっくりいうなら、現在の少数民族を迫害する中国や自国民を洗脳して締め上げる北朝鮮、
そしてイスラム過激派、、、、
聖書の権威に真っ向から反する政権はどれも人権を踏みにじっている。
聖書の教えによれば、、
世界には一人だけの真実な神がおられる。
その方が天地宇宙の全てを創造された。
動植物をその種類に従ってそれぞれ創造された。
人は「ご自身の姿に似せて」創造された。
それゆえ、人は神と交流を持つことができ、また尊い存在なのである。
ところが最初の人、アダムは罪を犯したことにより神との交流が絶えてしまい(霊的な死)、
肉体的にもいつかは死ぬ運命の存在となってしまった。
憐れみ深い神は、人を何とかして回復させようとした。
その最後的な方法として愛するひとり子を世界に送られた。
それが、イエスと呼ばれる人間であると同時に神ご自身なるお方であった。
この方が人の罪を背負って十字架にて贖いの死を遂げられた。
それゆえ、罪を赦され、途絶えていた神ご自身との交流を人は回復できるのである。
つまり、神の目から見て人は、
ご自身の大切な独り子の命をささげるほどに尊いものとしての価値を置いておられる。
この聖書の教えを知って、どうして人を虫けらのように殺すことができようか、、、
PS.
昨日のドラマでは、秀次は切腹直前まで将棋をしていて、
恐怖のあまりその駒を散らかしてしまう。
司馬遼太郎の「豊臣家の人々」によれば、最後は碁を打っていたことになっている。
いつもは勝てない西堂という相手にこの期になって勝てたのが余程嬉しかったらしく
「今からワシは腹を切りにいくが、この盤面はくずすな。床の間へ、そっと運べ。
みなあとで石の具合をとくと見よ」と言ったという。
どちらが本当の話かは、無論知らない。
本日の長男のサッカーの試合はベンブリッジ島であるようです。
一つの試合、1時間のために往復4時間ほどかけてそこまで遠征。
幸いに、チームメイトのご家庭でカープールしてくれることになり
私は付き合わずに済むことになりました。
長女のサッカーの試合は近所の公園です。
公園と言っても、人工芝の専用サッカー場があるところ。
そしてあのwild catが、なんと、
なんと、、、
なんとっ、、、
勝利したのです!!
これまで勝利の味を知らない子供らでしたが、
今日だけはなぜか積極的にボールをコントロールして
納得いくゲーム運びだったようです。
監督をしている妻が気の毒でしたが、
今回だけは報いられたようでした。
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