神戸国際会館の前で、偶然見かけました<石焼き芋屋さん>です。
町中の住宅地では、防災上たき火もできなくなり、落ち葉を集めての焼き芋作りは、昨今では夢のまた夢です。
じっくりと時間をかけて焼いた焼き芋は、ほっこりとして味わい深いものですが、都会では諦めなければいけない味になりつつあります。
この手の<石焼き芋>は結構な値段で、もはや庶民のおやつとも言えず、落ち葉を集めて焼いた<焼き芋>の味を知らない世代が多くなりつつあるようです。
マイクから「いしや~き~いも~、いも」の声が流れているのですが、誰も近寄ることもなく、なんだか寂しげなお昼の景色でした。
(神戸の台所、東山市場にて)
本日28日は、瀬戸内海を中心として、いかなご・しんこ漁の解禁日です。
いかなごを「くぎ煮」にするために、朝早くから、魚屋さんに列を作っての買い出しとなります。
春3月の初旬の、明石から神戸にかけて、この時期の風物詩といっていいでしょう。
それぞれの家庭で、味付けが違うのも、また面白いと思います。
「くぎ煮(佃煮)」と呼ばれるのは、出来上がりが「さびた釘」に似ているところから言われ出されたようですが、言いえて妙な形ですね。
昨年は不漁で、随分高額でした。今年は冬の強い季節風のおかげで、稚魚が大阪湾まで分散し、プランクトンも広がっていたために、生育状態はいいとか。
それぞれの台所から、煮しめた甘ガライ匂いが立ちのぼりますと、本当に春はもうすぐだという感じがいたします。
結婚を決めた<工藤泉>は結婚相手のかたわらで昔の恋人のことを思い出し回想していた。高校卒業式の日、演劇部顧問の<葉山貴司>先生とのある出来事が起きて以来、<泉>の気持ちはずっと同じ場所にあった。大学二年生の春、泉は母校の演劇部の練習にOBとして参加することになり、<葉山>先生と久々に再会する。
高校生だった<泉>は、<葉山>先生のことが好きで、少しでも力になりたいと思っていた。また、<葉山>先生は<泉>を必要としていた。再会した二人が、互いに惹かれ合う気持ちを再認識すると、静かに抑制していたはずの感情が、再び熱くうずき始める。
「お願いだから私を壊して、帰れないところまで連れていって見捨てて、あなたにはそうする義務がある」「無理だ、僕にはできない」
<葉山>先生はある事情を抱えていて、どれだけ互いに求め合っても、決して結ばれることはない。それでも、一度蘇った情熱は、許される限り近くにいたい、力になりたい、触れたい、愛したい、と二人を突き動かすのだが。
「ナラタージュ」とは、映画の回想シーンで多く用いられる、語りによって物語が展開していく手法のことをいみします。登場人物のキャラクターや心情、情景が丁寧に描写されていて、本書の世界に深くはまり、自分の中にある熱いものが呼び覚まされていきます。
高速神戸駅と新開地駅は、地下街でつながっています。歩いて500メートルばかりでしょうか、その地下街の通りに面して、古書店が3軒ならんで営業されています。
神戸に出ました時には、必ず寄る場所です。
一般書籍をはじめとして、漫画本やアダルトビデオなんかも多くありますが、なんといっても100円均一、200円均一といった低価格なのがありがたいです。
新開地・福原と大衆娯楽が背景にある場所柄ですので、何千円もする専門書が100円均一に入っていたりするので、わたしなどは嬉々として購入させて頂いております。
反面、司馬遼太郎や山本周五郎、柴田錬三郎といった歴史物の文庫本が200円均一といった具合で、売れ筋は高価格(それでも安い?)です。
書籍自身の定価とは関係なく、売れるものは高く、売れないものは安くという法則が生きているのがうれしいですね。
店を構えて販売している多くの古書店は、売れなくても定価を基準とした値段設定が多いように思えますから。
神戸で一番の繁華街は、「三宮センター街」でしょう。
その中に、1918(大正7)年創業の「神戸センター」があります。残念ながら、本日をもって90年の営業に幕を閉じます。
創立当初は、家具屋さんでした。その後、時代の流れでしょうか、インドネシアやバリといった民芸品や雑貨のお店として営業形態が変わり、小さな木製の「神戸人形」の販売も手掛けられていました。
阪神・淡路大震災でビルが全壊、1998(平成10)年にビルを再建され、かばん専門店として再出発されていました。
子供の頃の建物は、隣接するビルと一体のような構造で、自由に行き来でき、所狭しと並べられた世界の珍しい雑貨品を、眺めていた記憶があります。
『古書店が消えてゆく』 (2007年12月16日)に書かせていただきき、この1月14日に創業98年の歴史に幕を閉じた「後藤書店」は、この店の2軒西隣りです。
メイン通りの「三宮センター街」の老舗として続けての閉店ですが、また違った店舗が登場し、歴史を積み重ねてゆくことでしょう。
階段を上ろうとして、ふと足元を見やると、かわいい野菊が一輪。
階段の真ん中あたりだと、上る人に踏まれて育たなかったでしょう。
運よく端っこの隅の部分に根付いて、難を逃れて幸いでした。
わたしも、この野菊のような立場で人生を過ごしてみたいなーと感じてしまいました。
可憐に咲き続けてもらいたいものです。
JR神戸駅の近くで、オート三輪を見かけました。
1930年代から1950年代に製造された車です。
映画「三丁目の夕日」では、ミゼツトが活躍しておりました。
まぎれもなく、1950年代に製造された車です。
少しばかりガタがきていましたが、子供時代を思い出してしまいました。
はや製造されて、50年以上。現在どれくらいのオート三輪が現存しているのでしょうね。
時期はずれになりますが、神戸での初詣は、生田神社・湊川神社・長田神社と三社詣でが一般的です。
その長田神社の西側の入り口に、この石垣があります。
本来の参道は、こちらの西側が正門なんですが、現在は、広い道路側が正門として、利用されているようです。
訪れるたびに、この石垣で、足が止まります。
一般的なけんち積みではなく、石職人の心意気が感じられる、組み方をしています。
名もなき石職人だったと思います。功名心を求めていたわけでもないでしょう。丈夫な石垣と、組み方の遊び心。
社史などに、石職人の名前など、記載などされてません。
粋な職人魂を、いつも感じさせてくれる、わたしの好きな場所のひとつです。
1929(昭和4)年から1979(昭和51)年にかけて、新開地本通に「神戸松竹座」があり、演芸娯楽の殿堂でした。
<桂春団治>・<蝶々・ゆうじ>・<横山ホットブラザース>などの出演が記憶に残り、閉館最後の舞台を飾ったのは、<かしまし娘>でした。
娯楽の殿堂跡も、今はパチンコ店になってしまっています。
松竹座の向かい側には、「春陽軒」という中華料理屋さんがあり、親父とよく「ホーコ鍋」を食べたものです。店内には、松竹座に出ている、芸人さんの色紙や写真が飾られていました。
その松竹座の山側に、【松竹小路】と呼ばれる呑み屋街がありますが、今はこの通りの名前を言っても、わかる人は少ないとおもいます。
ちいさな居酒屋が並んでいますが、きれいになりました。
賑やかな頃には、ガタガタとした小路でした。
昔の面影を残しているのが、溝の形です。
足元を見て歩く人はあまりいないと思いますが、人通りで賑やかな当時を知っている世代としては、懐かしい記憶を呼び起させてくれる溝の蛇行です。
1936年(昭和11年)2月、淀川長治は大阪のユナイテッド・アーティスツ社に勤めていましたが、チャップリンが3人目の奥さんボーレット・ゴダードと共に、お忍びで香港から神戸港に寄るとの情報を聞き、神戸港までいさんでやって来ました。
二人が神戸観光から帰船するのを待ち、身振り手振りでチャップリンと無事に歓談できた逸話は有名なことです。
ご存知のように、淀川さんは神戸市出身。子供の頃から、新開地の映画館に入り浸りでした。
当時の新開地は、映画館全盛時代ですが、今は3軒ばかりが残るだけで、そこではロードショウーを観ることは出来ません。
全盛時代名残りの新開地ですから、チャップリンが新開地に来たなどという噂が飛び交っても仕方ないかもしれません。
そんな歴史と噂が合体して、新開地通りの入口に『ビッグマン』と称するゲートが平成14年にできています。左右二本組みのゲートですが、形を見て何か思い付きませんか?
そう、チャップリンの帽子姿を表現しています。
淀川さんとチャップリンが、2月のいつ頃に対談したのかは分かりません。船外は寒い風の吹いていた神戸港でしたでしょうが、情熱をもって大フアンだという淀川さんのパントマイムは、きっとチャップリンの心を熱くさせたことでしょう。
淀川26歳、チャップリン46歳の2月の出来事でした。
- ブログルメンバーの方は下記のページからログインをお願いいたします。
ログイン
- まだブログルのメンバーでない方は下記のページから登録をお願いいたします。
新規ユーザー登録へ