《 “伝統の自転車ロードレース(襍・_・囈)》
世界最大の自転車ロードレース第107回ツール・ド・フランスが始まった。
例年7月に開催されているが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で、
8月29日に南仏ニースで開幕。初日は、天候不良で落車が続出で波乱の開幕。
21日間、全長3470kmの長き戦い。今年は、どんなドラマが繰り広げられる!?!
1980年代から90年代に、現地・各所で幾度と無く観戦させてもらった。
平地では、選手の姿など、一瞬しか見れない。だが観客は、7時間も前から待って。
世界中から集まったファンどうしの交流も面白いものがあり、懐かしく思い出す。
最後に観戦した場所は、死の山・モン・ヴァントゥ“Mont Ventoux”と呼ばれている所。
フランス南部、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏にある独立峰。
標高1912m。「プロヴァンスの巨人」という異名を持つ強風で知られている山。
ツール・ド・フランス2016年大会では山頂フィニッシュが短縮された程の所である。
この山は、珍しい植物も見られる事でも知られる。頂上周辺は非常に気温が低い!
それ故か、北欧より北に見える植物、スピッツベルゲン・ムラサキユキノシタもみれる。
昆虫記で有名なファーブルはこの山に生涯30回も登って植物や昆虫を観察している。
だが、有名な伝説が生まれた場所としても記憶に残る霊峰でもある。
標高1912mと、それほどの高い山ではない。上りのきつさもそれほどではない。
それが、一度この山岳に足を踏み入れると、立ち込める霊気に驚くに違いない。
セミ時雨が聞こえるプロバンス地方にあって特異な景観と異様な雰囲気に満ち溢れている。
森林限界でもないのに草木もなく白い瓦礫が白骨のように敷き詰められる光景。
頂上より2kmほど下ったところに1つの墓石があった。
「トム・シンプソン。オリンピックメダリスト、1967ツール・ド・フランス、7月13日、ここに死す」。
かつてレース中に昏睡したイギリス選手が命を落とした故人の記念碑だった。
シンプソンは、1962年のツールではイギリス選手として初めてマイヨジョーヌを着た。
1967年、春先のパリ〜ニースで総合優勝したシンプソンは、ツールのメンバーに選ばれた。
しかし彼を取り巻く環境は、よくなかったと記録にある。英国という国家の威信を背負って。
更には、モンバントゥーに登る前日、次年度契約を更改しない最後通告を受けた!?!
翌日のモンバントゥーは気温40度を超える猛暑に見舞われていた。
諸々のプレシャー故か、体調を崩し、ヘリコプターで搬送された先で息を引き取った。
この山岳地、悲惨な過去の上にあるが、魔物がいると言われるのを実感した。
2000/7/13、ツーの12ステージ、ここで凄絶なレースが繰り広げられた。
そんな場を実際に目にできた事は、最高のことだった(一ファンのことだが)。
感心あったマルコ・パンターニ(Marco Pantani)、「海賊 (il Pirata)」「走る哲学者」、
といった愛称で呼ばれていたイタリア人の山岳スペシャリスト。
当時、イタリアのメディアはパンターニを「ドーピング」問題で責め立てていた。
この過酷なモン・バントゥー第12ステージでのランス・アームストロングとの死闘、
それに勝利はしたが、その後に怪我で最終ステージまで行けず途中棄権した。
その後も彼へのバッシングは続き、2004年2月14日に他界した。
死因や彼を取り巻く周辺、マスコミを含めて今でも何か嫌な空気を感じる。
イタリアの伝説的巨人と讃えられている“マルコ・パンターニ”
精神的に追い込んだのは、報道者。当時の司法関係者にも疑問を持つ。
以後毎年2月14日は、僕にとってはマルコ・パンターニを思い出す日である。
2011年、イタリア統一150周年記念祭が全土で盛大に行われた。
その時、イタリア統一後もっとも影響を与えた人物たちにスポットが当てられた。
イタリア全国紙のコリエーレ・デッラ・セーラや、ラ・レプッブリカなどには、
イタリア統一の父カヴール男爵やイタリア統一を進めたジュゼッペ・ガリバルディ、
そこに並んでパンターニの名前が、記載されている。
伝説のファウスト・コッピとジノ・バルタリ、そしてマルコ・パンターニが加えられた。
モン・バントゥーでの死闘は、パンターニの最高の結果として残るだろう。
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今年もツールは開催され激闘が繰り広げられている。
あのパンターニを思い出すと、偶然かと思うが今の日本の政局も似通っている。
総理の揚げ足だけをとって、報道陣も野党も本質を真摯に追求しない。